スポーツ
-
スポーツ 2015年04月29日 12時00分
【甦るリング】第5回・日本プロレス界の歴史を変えた藤波辰爾
還暦を過ぎても、なおリングに上がり続ける藤波辰爾(61)。その藤波は3月には、世界最大のプロレス団体WWE(旧名=WWWF→WWF)から、日本人ではアントニオ猪木以来2人目となる殿堂入りを果たし、同29日(現地時間)には、米カリフォルニア州サンノゼで行われたWWE殿堂記念式典「ホール・オブ・フェーム」に出席。改めて、ワールドワイドなプロレスラーであることを再認識させられた。 藤波といえば、新日本プロレス創業者であり、絶対的なエースであった猪木の正統的な後継者であり、その座をライバル・長州力と争った。長州が遅咲きだったため、藤波がエリートで、長州は雑草とやゆされることもあった。だが、実際のところ、藤波は叩き上げから這い上がった選手であり、逆にミュンヘン五輪出場の実績を引っ提げて、新日本に入団した長州はエリートだったのだ。 大分県東国東郡武蔵町(現・国東市)出身の藤波は熱狂的なプロレス少年で、猪木に憧れていた。中学卒業後、いったんは地元の自動車整備工場に就職するも、プロレスラーになる夢をあきらめ切れず、同郷のプロレスラー・北沢幹之(魁勝司)に直談判。なかばもぐりこむような形で、1970年6月、日本プロレス入りした。 プロレスラーとしては、決して体が大きくない藤波は、現在公称しているプロフィールで身長183センチ、体重105キロ。当時まだ16歳だった藤波は体も小さく、なにかスポーツで実績があったわけでもなく、よく入門が許可されたものである。 あこがれの的だった猪木の付き人となった藤波は、71年5月9日にデビューを果たす。ところが、直後に猪木のクーデター事件がぼっ発し、同年12月に日プロを追放された。猪木は新日本を旗揚げし、藤波は行動をともにする。 メキメキと力を付けた藤波は74年12月、若手の登竜門である「第1回カール・ゴッチ杯」を制し、75年1月に海外武者修行に出発。西ドイツ遠征を皮切りに、米国に渡ってゴッチのもとで修業を積み、米国、メキシコでファイトした。そして、藤波の運命を変えたのが、78年1月23日、“WWWFの聖地”米ニューヨーク州MSG(マジソン・スクエア・ガーデン)で開催された定期戦。藤波はWWWFジュニア・ヘビー級王者のカルロス・ホセ・エストラーダに挑戦し、ドラゴン・スープレックスで見事勝利し、王座を奪取した。この実績がWWE殿堂入りに当たって、評価されたのはいうまでもない。 同年3月、勇躍凱旋帰国を果たした藤波は、ブリッジの効いたドラゴン・スープレックス、ドラゴンロケットと称された空中殺法を武器に、王座防衛を積み重ねた。ビルドアップされた見事な体は誰も見ても、カッコよく、大人の男性ファンのみならず、女性、子どものファンのハートを射止め、ドラゴンブームを巻き起こした。 それまで、日本プロレス界において、軽量級は浸透しなかった。しかし、藤波がチャボ・ゲレロ、エル・カネック、ダイナマイト・キッド、木村健吾、剛竜馬らのライバルと名勝負を繰り広げたことで、日本プロレス界に「ジュニア・ヘビー級」を確立させた。 ヘビー級にこだわったオポジションの全日本プロレスも、ジュニア・ヘビー級の導入をせざるを得なくなり、後にこの階級は日本プロレス界において、なくてはならないものになった。その意味で、藤波は日本プロレス界の歴史を変えた大功労者なのだ。 80年2月には、NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座も奪取し、ジュニア2冠王者となった藤波だが、81年10月にヘビー級転向のため、ジュニア・ヘビー級王座を返上。82年8月には、再び、MSGでジノ・ブリットを破り、WWFインターナショナル・ヘビー級王座を奪取した。同年10月には、藤波に反旗を翻した長州力との一連の抗争がスタート。2人の闘いは、このベルトを巡る闘いでもあった。 ただ、ヘビー級転向後の藤波は決して順風満帆とはいかなかった。トップに君臨する猪木の壁はなかなか切り崩せなかったが、85年12月、IWGPタッグリーグ戦決勝戦(猪木&坂口征二対藤波&木村)で、タッグながら、初めて猪木からピンフォールを奪い、世代交代の予感を感じさせたのだった。しかし、後にも先にも藤波が師・猪木をフォールしたのは、この1度だけで、シングルではついぞ、猪木超えは果たせなかった。 88年4月、控室で自ら前髪を切るパフォーマンスで猪木に現状改革をアピール、これは「飛龍革命」と称された。直後の同年5月、空位となっていたIWGPヘビー級王座決定戦でビッグバン・ベイダーを破り初戴冠。同年8月8日、神奈川・横浜文化体育館で挑戦者となった猪木と闘い、60分時間切れドローで防衛。試合後には猪木が藤波の腰にベルトを巻いてやり、両者ともに涙を流す感動の一幕があった。この伝説に残る一戦が、事実上新日本の世代交代となった試合だった。 この後、新日本は藤波エース路線を敷いたが、好事魔多し。89年6月、藤波は椎間板ヘルニアを発症し、1年3カ月にわたる長期欠場となり、長州がエースの座に就く。藤波は90年9月の復帰を機に、リングネームを本名の辰巳から辰爾に改名。同年12月にはIWGP王座を奪還するなどしたが、武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也の闘魂三銃士の台頭もあり、じょじょに影が薄くなっていく。99年6月に坂口社長が退任し、後を引き継ぐと第一線から退くようになり、引退カウントダウンが始まる。折しも、橋本がZERO−ONEを旗揚げ、長州、佐々木健介らは新団体WJプロレスに参加、武藤は全日本に転じるなど、主力選手の離脱が相次ぎ、新日本は苦境に陥る。そんななか、藤波の発言は一貫性がなく、猪木が何か言うと前言を翻すなどしたため、“風見鶏”と称されることもあった。 04年6月に社長を退任した藤波は引退カウントダウンを撤回し、06年6月に新日本を退団し、無我ワールド(現ドラディション)を旗揚げ。現在はドラディション、初代タイガーマスク(佐山聡)主宰のリアル・ジャパン・プロレス、レジェンド・ザ・プロレスリングなどでファイトしている。リングを降りたら、極めて温厚な紳士で、ファンを大事にする藤波だが、新日本という業界最大手の社長職には向いていなかったようだ。 また、「飛龍革命」もそうだったが、部屋別制度を唱えて結成した「ドラゴン・ボンバーズ」や、新日本から独立した興行「無我」など、どこか中途半端に終わることが多かった。 ジャンボ鶴田(全日本)がジャイアント馬場を倒さない形でエースの座に就いたように、藤波もまた猪木を力でねじ伏せて団体のトップに立ったわけではないだけに、ファンにとっては、いまひとつ説得力に欠ける世代交代だったかもしれない。リング上や、その発言においても人の良さが見え隠れする藤波だが、それもまたキャラクター。リングに立っただけで絵になるプロレスラーは、そうそういない。現役を続ける以上、1年でも長く、元気な姿を見せてほしいものだ。(ミカエル・コバタ=毎週水曜日に掲載)
-
スポーツ 2015年04月28日 15時00分
俺たちの熱狂バトルTheヒストリー〈ヒクソン・グレイシーvs高田延彦〉
今となっては“世紀の激突”とも称される1997年10月11日の『PRIDE1』。ヒクソン・グレイシーと高田延彦の一戦だが、当時のファンの関心は、さほど高くなかった。 主催者発表では「観衆4万6863人」とされたものの、当日の東京ドームには空席も目立つありさま。新日本プロレスの大会ならば、常に超満員が当たり前の時代である。 「プロレスや格闘技の専門誌でも、この試合を盛り上げようという気運は薄かった。主催のKRSは“元・小室哲也のスーパーバイザー”なる人物が代表を務める格闘畑とは無縁の組織で、これを宣伝することは既存団体への裏切りに当たるという考えがあったのです」(格闘技ライター) 高田の立ち位置も、どこかはっきりとしなかった。 '92年、UWFインターナショナルの旗揚げ後には北尾光司やスーパー・ベイダーを撃破して「最強」を名乗ったものの、'95年には「近い将来の引退」をリング上から宣言。その直後には参院選に出馬し、落選。新日本との対抗戦では新日勢や天龍源一郎らと勝った負けたを繰り返し、Uインター末期にはアブドーラ・ザ・ブッチャーと対戦するなど、いわば“格闘風プロレス”の色合いを濃くしていた。 Uインター解散後、所属選手らの立ち上げた新団体『キングダム』にも正式参加はせず、現役選手であるのかどうかも含めてあやふやだった。 片やヒクソンはバーリトゥードジャパン大会で連戦連勝。高田と同じUインターの安生洋二を道場で血祭りに上げるなど、その確かな実力は格闘ファンの間に浸透していた。 当時、プロレスラーのバーリトゥード挑戦においては“ケンカ最強”といわれたケンドー・ナガサキが一敗地にまみれるなど、苦戦が続いてもいた。 「それでも、まだプロレスファンの間では“一流選手なら勝てる”との思いが強く、そのため高田をプロレス代表として応援するというよりも“ヒクソンにとっての試金石”ぐらいの認識が主流でした」(同・ライター) 高田の入場曲『トレーニングモンタージュ』が場内に響き、リングに上がった高田はヒクソンに一礼。セコンドの安生と長く抱き合っていた。 後に高田はこのときの心境を「死刑台に上るようだった」と語っている。 ヒクソンの強さへの畏怖はもちろんだが、加えて主催者の都合から試合開催そのものが二転三転したために精神面でも前向きになれず、また練習中には腰を痛めるなどアクシデントもあったという。 だが、それらが皆目言い訳にならぬほど、バーリトゥードという試合形式においてのヒクソンと高田の実力差は圧倒的だった。 アップライトの構えで顎を上げ、挑発するかのように前に出した脚を踏み鳴らすヒクソンに対し、高田はその周りをグルグルと回るばかり。ときおりキックを放つようなアクションを起こすが、これにヒクソンは全く動じない。 そんな膠着状況に「耐え切れない」とばかり高田が組みかかり、両者もつれるようにマットに倒れ込むと、そこから立ち上がろうとする高田の脚をすかさず捉えたヒクソンは、一息に抱え上げてテイクダウン。 高田は下からヒクソンの頭を抱え、脚を絡めて懸命にマウントポジションを防ごうとするも、ヒクソンはその一つひとつに冷静に対処していく。 そうして高田を制圧したヒクソンはセコンドに時間を確認すると、5分間のラウンドが残り25秒となったところで腕十字固めを仕掛けた。残り時間がそれぐらいならば、万が一、技を返され不利な体勢になったとしても、しのぎ切れるという計算ずくの攻撃だった。 試合後、アントニオ猪木は「一番弱いヤツが出て行った」と高田の敗戦を斬って捨てた。これには「高田最強」とは認めていないファンですら「負け惜しみなのか業界擁護のためなのか、いずれにしても妙なことを言う」と首を傾げるしかなかった。 だが猪木からすれば、この結果によってプロレス界の危機を感じた故の言葉であり、その感性の正しさは程なく「プロレスラーの連戦連敗」という形で証明されることになった。
-
スポーツ 2015年04月28日 13時00分
「前半戦絶望」情報が流れるソフトバンク・松坂大輔「右腕の重傷度」(2)
松坂不在でも、工藤ホークスはびくともしない。先発陣は攝津正、スタンリッジ、中田賢一、大隣憲司、武田翔太らがおり、救援陣も森福允彦、飯田優也の両左腕をはじめ、サファテ、森唯斗など、バラエティーに富んだスタッフが控えている。 こうした戦力層の厚さがあったからだろうが、工藤監督は松坂の調整遅れについて質問される度に、こう答えてきた。 「時間がかかってもいい。しっかり投球ができる態勢ができるまでは…」 その方針は“右腕の異常”が報告された後も変わっていないという。工藤監督自身、左肩や肘の故障で長期離脱した経験があり、それを乗り切ったからだろうが、こんな見方もある。 「松坂と交渉に入る前の編成会議で、大半が復活に悲観的でした。それを一変させたのは王貞治会長でした。王会長は松坂獲得が可能であることを孫正義オーナーに報告し、了承を取り付けました。このまま復活できなければ、王会長に恥をかかせることになる」(在阪スポーツ紙記者) 松坂も王会長の立場はわかっている。高額年俸で入団した責任感もある。先発投手として輝きを取り戻す自分自身に、期待していた面もあっただろう。 だからこそ、開幕一軍メンバーから外されることが決まった途端に“ブルー”になり始めた。 「開幕一軍の夢が破れたショックでしょう。同時に日本球界に復帰しても、アメリカと変わらない二軍暮らしの現状に打ちのめされたようです。向こうでもマイナー暮らしが長く続いたため、精神面でもつらい思いをしていましたから」(ホークス担当記者) 不振の原因は、これまで投球フォームの乱れとされてきた。メジャーの固いマウンドと投げ込み量を減らす調整法が合わず、上半身だけで投げるフォームに落ちぶれてしまったわけだが、ホークス入り後、2つ目の不振原因も判明した。 「ストレートには往年のスピードはなく、変化球もウイニングショットにならない。カーブ、シュート、スライダーはどれも平均点。バッターに狙い球を決められたら、それでおしまい」(ライバル球団スコアー) これは、オープン戦2度目の登板(対巨人/3月10日)の際、各球団スコアラーが口にしていたもの。広島カープの黒田博樹は新兵器・ツーシームを引っ下げて帰還し、他球団の偵察部隊を悩ませた。同じメジャー帰還投手でも、松坂は相手チームに脅威を全く与えられなかったのだ。 「オープン戦での不振を首脳陣に聞かれたとき、松坂は『想定内』みたいな返事をしていました。その場では注意されませんでしたが、あんな物言いをしていたら、今の右腕の異常も自己責任ということになりますよ」(前出・球界関係者) 優勝を狙う以上、工藤監督に温情はない。松坂のことを『平成の怪物』と呼ぶ者は、もういない。
-
-
スポーツ 2015年04月28日 12時00分
【記憶に残るプロ野球選手】第2回・代打屋稼業貫いた“浪速の春団治”川藤幸三
プロ野球界で脚光を浴びるのは、必ずしもスタープレーヤーだけではない。ベンチを温める控え選手でも、“記憶”に残るプレーヤーがいるのだ。そのひとつが、“代打屋”だ。 代打屋といえば、古くは高井保弘(阪急)、大島康則(中日→日本ハム)、淡口憲治(巨人→近鉄)、川又米利(中日)、藤波行雄(中日)といった面々が頭に浮かぶ。高井はパ・リーグで指名打者制が採用されたことによりレギュラーとなり、大島は外野から三塁へのコンバートをきっかけに日本を代表する長距離砲となった。 近年では、八木裕(阪神)、桧山真次郎(阪神)、浅井樹(広島)、町田公二郎(広島→阪神)、立浪和義(中日)、前田智徳(広島)らが記憶に新しいところ。立浪や前田は通算2000安打も達成した名選手だったが、晩年は代打の切り札として活躍した。 現役では、小笠原道大(日本ハム→巨人→中日)が、その筆頭だろう。昨季は、ほぼ代打のみで3割の好打率をマーク。今季もまた、高い成功率を誇っている。小笠原もまた2000安打を達成した後、代打屋に転向した例だ。立浪や前田、小笠原のように、スタープレーヤーとして活躍した後、若手にレギュラーの座を譲って、晩年に代打専門になった選手もいるが、現役生活のほとんどを代打屋として活躍した選手もいる。そのなかで、最も記憶に残る選手が、“浪速の春団治”こと、川藤幸三(阪神)だ。 川藤が19年における現役生活で残した生涯成績は、771試合出場、895打数211安打16本塁打108打点、通算打率は.236。正直、大した成績を残していないにもかかわらず、ファンの心に深く刻み込まれた選手だったのだ。イメージ的にコテコテの関西人の印象がある川藤だが、意外にも出身は北陸の福井県出身。県立若狭高等学校時代には2度、甲子園に出場。高校時代は投手、遊撃手、外野手としてプレーした。67年にドラフト9位で指名され、阪神に入団。その指名順位が示すように、決して大きな期待を受けてのプロ入りではなかった。 入団後は外野手としてプレー。晩年では考えられないことだったが、当時は俊足、強肩を売りにした選手で、事実、2年目の69年にはウエスタン・リーグで盗塁王を獲得している。当初は守備固め、代走での起用が多かったが、73年から出場機会も増え、74年には自己最多の106試合に出場し、レギュラーへの足掛かりをつかんだ。 しかし、75年にアキレス腱断裂の大ケガを負ったことで軌道修正を余儀なくされる。それまで、川藤の売りだった足を故障したことで、活路を見出したのは代打屋稼業。もともと、1軍での打撃成績は良くなかったが、猛練習の末、78年から4年連続で打率3割をマークするまでになった。その言動やキャラクターから、人気も上昇。控え選手ながら、阪神には欠かせない存在となっていったのだ。 83年オフには球団から戦力外通告されるも、「給料はいくらでもいいから野球をやらせてくれ」と懇願。当時の最低保証年俸で契約して残留し、前年を上回る成績を収めて、球団上層部に認めさせて、85年には年俸も元の金額に戻した。 同年は阪神のセ・リーグ優勝、日本一に貢献。現役生活最後の年となった86年には、吉田義男阪神監督の粋な計らいで、監督推薦でオールスター戦に初出場。左中間に長打性の当たりを打ち、二塁を狙うも、鈍足のため楽々とアウトにされたシーンは伝説となっている。オールスター戦出場を花道にするように、同年限りで引退。残した通算代打成績は、318打数84安打11本塁打58打点、打率.264だった。 引退後は解説者となったが、技術的なことを実況アナウンサーから聞かれても、「ワシには分からん」といったような受け答えが多く、解説者としての適性に欠くシーンもしばしばあった。90年、中村勝広が監督に就任すると、外野守備コーチとして阪神に復帰。翌91年には総合コーチに昇格したが、与えられた役割は現役時代同様、ベンチのムードメーカーだった。同年を最後に阪神を退団し、その後は評論家、タレントとして活動。05年には夫人の父親が経営していた建設会社の後を継ぎ、社長としての顔ももっている。 むずかしいことはいわず、豪放らい落。関西人にこよなく愛された川藤は、阪神OB会長職も務める。レギュラーではなく、代打屋としてまっとうしたにもかかわらず、これだけのインパクトを与えた選手は、そうはいないだろう。決して、スタープレーヤーではなかったが、川藤もまた伝説に残っている選手だ。(ミカエル・コバタ=毎週火曜日に掲載)
-
スポーツ 2015年04月27日 16時00分
つまらない!? 今季のメジャーリーグ スタメン出場の機会得たイチローのプレーが一筋の光明
日本人選手の活躍を楽しみにしている野球ファンにとって、今季のメジャーリーグはつまらない状況となっている。 ダルビッシュ有投手(レンジャーズ)は右ヒジの手術を受けて、今季は絶望的。黒田博樹投手(前ヤンキース)は日本球界に復帰。さらに、岩隈久志投手(マリナーズ)は右広背筋痛で故障者リスト(DL)入りしてしまった。 川崎宗則内野手(ブルージェイズ)、藤川球児投手(レンジャーズ)、和田毅投手(カブス)はマイナー暮らし。現在、メジャーでバリバリ働いているのは田中将大投手(ヤンキース)、上原浩治投手(レッドソックス)、田澤純一投手(レッドソックス)、青木宣親外野手(ジャイアンツ)のわずか4人だけなのだ。 そんななか、一筋の光明が走った。ヤンキースからFAとなり、今季マーリンズに移籍したイチロー外野手にスタメン出場の機会が巡ってきたのだ。 マーリンズの外野陣は、左翼がクリスチャン・イエリッチ、中堅がマーセル・オズナ、右翼がジャンカルロ・スタントンと若手3人でガッチリ固定されており、イチローはあくまでも“4番手外野手”の立場。 そのため、イチローは開幕から主に代打起用で、ファンをやきもきさせていたが、ここにきて、チャンスが到来した。左翼手のイエリッチが軽度の椎間板ヘルニアを発症し離脱。15日間の故障者リスト入りした。 慣れない代打では、なかなか結果が出なかったイチローだが、4月21日(日本時間22日)のフィリーズ戦から、スタメン出場。これで調子を取り戻したイチローは26日(同27日)のナショナルズ戦では、4打数2安打のマルチヒットで、通算46打数14安打2打点0本塁打で、打率を3割台(.304)に乗せた。 イエリッチの復帰は最短で5月5日(同6日)だが、故障箇所がデリケートな部分であるため、長引く可能性もある。故障者次第ではあるが、イチローのスタメン出場が続く間は、野球ファンの溜飲を下げてくれそうだ。(落合一郎)
-
-
スポーツ 2015年04月27日 13時00分
「前半戦絶望」情報が流れるソフトバンク・松坂大輔「右腕の重傷度」(1)
「前半戦絶望」と伝えられているソフトバンクの松坂大輔(34)だが、実際はもっと深刻のようだ。前半戦はおろか、今季中の一軍登板すら危うくなってきた。 「4月5日からの4日間、リハビリの専門医師の元に通院していました。ホークスには一軍から三軍までがあり、さらに故障者だけのリハビリ組も設けられています。松坂はその組からも外れ、一人で練習する日もありました。リハビリ組の中にいても、個別のスロー調整です」(球界関係者) 松坂は『4年16億円』ともいわれる超VIP待遇で日本球界に復帰した。 「先発投手としての出場に強いこだわりがあったものの、メジャー各球団はそうは見てくれませんでした。ホークスは『先発で使う』とはっきり伝えて交渉に入りました」(担当記者) しかし、キャンプではバラバラになった投球フォームの修正だけとなり、オープン戦3試合に登板したものの、防御率は3点台後半。3月18日にインフルエンザB型と診断され、工藤公康監督の構想から外れた。 「工藤監督は万全でなくても開幕4戦目で先発させ、チャンスを与えるつもりでいました。インフルエンザでそれがかないませんでしたが、回復後、二軍で数試合投げさせてから一軍で使う予定でした」(同) インフルエンザが治った後、すぐにキャッチボールを再開させたが、その後は“ナゾのノースロー調整”に入った。 「右肩周辺の疲れが出ていると球団側は説明していましたが…」(同) 出遅れた分を取り戻そうとして焦ったのだろうか。松坂は福岡市内の病院でMRI検査を受け、さらに、リハビリ専門医にまでかかっていたのである。 しかし、松坂の右腕はMRI検査で“異常”が発見されたわけではないという。先の球界関係者がこう説明する。 「松坂が福岡市内の病院でMRI検査を受けたのは、3月31日。肩周辺、肘のあたりに炎症は見当たらないとのことで、診断書には病名、治療に関する記述はありませんでした」 チーム内には「右腕がおかくしくなるほど投げてないだろ!?」なる声も出ていた。そうは言っても、当人が「おかしい」「痛い」と訴えている以上、何か異変が起きているに違いない。どうすればいいか模索し、4月5日にリハビリ専門医の元を訪ねたというわけだ。 「松坂が今、何をやっているかって? 福岡の西戸崎練習場内でバイクマシンをこいでいますよ。インフルエンザ感染以降、ボールを握っているよりマシンをこいでいる時間の方が長いのでは」(ベテラン記者)
-
スポーツ 2015年04月26日 15時00分
五輪復活協議で苦戦の野球・ソフトボールに見えてきた逆転シナリオ
東京五輪の3競技が千葉県に“移転”することが正式決定した。その3競技とはレスリング、フェンシング、テコンドー。すでにバスケットボールも埼玉県に競技会場が移転しており、各方面から「東京オリンピックとは呼べないのではないか?」の声も出始めた。 「東京が五輪開催地に立候補した際、選手村から『半径8キロ以内』と表明していましたが、会場が狭い、準備不足などのため、いくつかの競技会場が各地に移転されました。セーリングの会場も愛知県への移転が有力視されており、その他競技も静岡、愛知、神奈川などへの移転が検討されています」(JOC職員) 今後、移転された会場整備・建設費の問題も出てくるが、移転候補地に静岡県が加わったことで、劣勢が伝えられていた野球&ソフトボールの競技復活にわずかな望みが出てきた。 「野球&ソフトが追加競技に決まった場合、東京ドームがその会場になると予想されていました。しかし、東京ドームは“私営施設”であり、球場広告などを外せないという切実な問題も抱えていました。メーン会場となる東京の臨海部に近い千葉県のQVCマリンも一応県営ですが、ロッテ球団が実質的に維持管理しているので状況はあまり変わらない。ところが、静岡には公営で、かつ国際試合の会場にもなり得る草薙球場がありますからね。ここなら競技場としての問題点がクリアになる」(同) そもそも、追加競技の決定は開催地の責任で決めることもできた。しかし、実行委員会が「IOCにお伺いを立てる」としてしまったため、五輪において大きな影響力を持つ欧州圏での競技者人口が少ない野球&ソフトは、図らずも劣勢となってしまったのである。 「人気が高い野球&ソフトを追加することで、国内スポンサーがどれだけ多く集まるかをアピールすれば、さらに状況が変わるかも。東京五輪は予算不足に陥りかけていますからね」(同) 野球&ソフトは会場変更を逆手に取るべき。国民的支持をカネに変え、逆転ホームランを狙うしかない。
-
スポーツ 2015年04月26日 13時00分
中畑監督と落合GMの浅からぬ因縁 ベテラン野手トレード浮上で中日包囲網結成か
混戦が予想された今年のセ・リーグ。前年Bクラスのヤクルトと中日が序盤から好調なところを見せている。同じく前年Bクラスの中畑DeNAは連敗で失速気味だが、前半戦の主役になりそうだという。 「DeNAも若手の成長があり好スタートを切れました。筒香がしっかりと4番の役目を果たし、梶谷、関根、さらに新人の倉本も頑張っています。バルディリス、ロペスの両外国人も好調。しかも、両外国人は率先して早出特打ちをやり、中畑監督を喜ばせています」(スポーツ紙記者) 中畑清監督(61)の表情も輪をかけて明るい。開幕カードでもあった古巣巨人との試合前には読売スタッフとの旧交を温める余裕も見せていた。 「DeNAの若手成長を受け、他球団はベテランの多村仁志(38)に注目しています。長打率は健在ですが、若手の台頭があり、二軍生活が続いています。中畑監督にその気があるのなら、交換トレードを成立させたいと思っているチームも少なくありません」(球界関係者) 中畑監督の周辺に人が耐えないのは、そんな水面下での交渉があるからかもしれない。中日、DeNA以外のセ・リーグチームは打線低迷に苦しんでいる。中畑監督はクローザータイプの投手を「あと一枚欲しい」と思っており、パ・リーグ数球団もDeNAとの緊急トレードを模索しているという。そんな中畑監督のご機嫌を伺う良策があるという。それは中日を叩くことだ。 「中畑監督は落合博満GMとの相性の悪さを痛感しています」(同) 仲が悪いわけではない。むしろ友好な間柄だが、中畑監督は現役時代から落合GMに“踏み台”にされてきた。 「中畑監督は選手会長を務めた際に、FA制度を勝ち取った大功労者です。それを行使した第一号は選手会には非協力的な立場だった落合GMでした。中畑監督は驚いていましたね」(同) 中畑監督は昭和29年生まれだが、落合GM、梨田昌孝氏、真弓明信氏らが結成した『ニッパチ会』に加わっている。昭和28年生まれの彼らが「(中畑監督は)早生まれの同級生だから」と誘ってくれたのだ。中畑監督はそのことに深く感謝し、所属チームは違っても彼らとの友情を大切にしてきた。 「落合GM、梨田昌孝氏、真弓明信氏は中畑監督よりも先に監督業を経験しました。解説者時代、中畑監督は監督就任の夢を諦めかけ、彼らがコーチとして呼んでくれないと密かに期待していましたが、誰も声を掛けてくれませんでした」(ベテラン記者) 今季、中畑監督はキャンプ中から若手野手たちの成長を実感し、優勝争いに加わる自信も深めていた。しかし、落合GMがチーム人事を握る谷繁ドラゴンズがその上をいくとは思わなかったらしく、同GMとの“因縁”を痛感したそうだ。 「今季はセ6球団全てに優勝の可能性がある。そういうときに怖いのがしたたかに戦う中日。もし中日が抜け出すようなら他の5球団はマークして抑えにかかるでしょう」(前出スポーツ紙記者) 多村を狙うセ・リーグのチームは中畑監督との共闘に成功した暁に「多村が欲しい」と正式交渉を切り出したい模様だ。DeNAはいろいろな意味で注目を集めそうだ。
-
スポーツ 2015年04月26日 10時00分
小塚桃子ゴルフ連載(32)第六部・世界のゴルフ場「ハワイ編」
GWが間近に迫ってきました。皆さん、予定は立てましたか? 私はゴルフ三昧の連休にしようと思いますが、平日と比べ、料金は割高、コースは混雑…と勝手は違いますがエンジョイしてきたいと思います。 さて、今回も前回に続き、「海外のゴルフ場」編。私が一番好きな「ハワイ」についてご紹介します。 前回も綴りましたが、海外のゴルフ場は「ハーフタイム」がありません。一気に18ホール突き進みます。疲労度は高いですが、国内のゴルフ場とは異なり、芝の色が違います。素晴らしい黄緑色です。 特にハワイは空がスッキリとした水色。芝はクッキリ黄緑色。目の前には海が広がる最高の環境です。想像出来ますか? しかも、暑いといっても湿度は低く、汗が噴き出す心配はありません。海水浴とゴルフをセットにしたハワイ旅行は最高です。 又、ハワイはタイと同じでフェアウェイの中までカートの乗り入れが可能。日本国内の様に歩かなくて良い分、体力の消耗を回避出来ます。さらにハワイのコースは比較的、スコアが出やすいと評判。難コースが少ないのです。 コースの途中にある「お茶屋さん」でトロピカルジュースを購入し、それを飲みながらプレーする−−ハワイでしか出来ない楽しみ方ですね。 かつてハワイと言えば、芸能人の方々がバカンスする場所として気高い印象がありました。それが時代と共に変化し、今ではカジュアルな場所として定着。手軽に楽しめる様になりました。 この様な絶好な環境でベストスコアが望めるハワイ。百聞は一見にしかず…是非、一度、訪れてみては如何ですか?小塚桃子オフィシャルブログ「季節はずれのももリンダ」http://ameblo.jp/koduka-momoko/
-
-
スポーツ 2015年04月25日 13時00分
チームはボロボロなのに社員はニコニコ 社長が命じた阪神の裏事情
開幕から20試合を終え、ホーム、ロードともに負け越し。打線がリーグワーストで浮上のきっかけも掴めない(4月20日時点/2割2分7厘)。阪神タイガースは、すでに片足を泥沼の中に突っ込んでいる 「今年のセ・リーグは混戦が予想されていましたが、阪神と広島の西日本にあるチームが共に5位と6位に沈んでいます。関西で野球の話をすると、パ・リーグのオリックスも最下位に沈んでいるせいか、活気が感じられません」(在阪記者) 3月31日には、ヤクルトの成瀬善久に移籍後初白星をプレゼントした。成瀬といえば、阪神も獲得を狙っていたが、ヤクルトが獲得したという経緯がある。フラれた相手をメッタ打ちにしたいところだったが、二回以降は打線が沈黙。成瀬が降板後もヤクルトの継投策に手も足も出ず、逆転負けの赤っ恥をかかされた。 しかし、なぜか球団スタッフは明るい。敗戦に関する厳しい質問にも“笑顔”で対応していた。 「南信男球団社長が年賀式でそう指示しているからです」(球界関係者) 同社長は仕事の始めでもある球団年賀式の壇上挨拶で「結束という意味でコミュニケーションを大事にしてほしい。1年間のサイクルで先をにらみ、スピード感を持って仕事をしてほしい」と伝え、次のように締め括ったそうだ。 「1年間、いいときばかりではない。常に前向きな気持ちで取り組んでほしい」 チームが不調でも、それは一時のことであり、球団スタッフが悲観的な考えを持ってはならないというわけだ。和田豊監督(52)を会社全体で支えようとする姿勢も間違っていないが、こんな声も聞かれた。 「全ての戦力補強で失敗した負い目があるのかもしれません。成瀬、金子(千尋=31/オリックス)にフラれ、オフの補強ポイントだった先発投手の増員ができないまま、シーズンを迎えてしまいました。金子のオリックス残留が決定した直後、阪神フロントはトレードによる投手補強を示唆したものの、開幕後1カ月が経ったいまもそういう話は全く聞こえてこない。交渉段階で相手チームに断られたのでしょう」(前出記者) さらには、今後の試合に関する不安材料も出てきた。 「阪神は成瀬にやられた後、巨人のポレダと高木勇、中日のバルデスなど初対戦の投手に次々と負けています。打線は彼らに苦手意識を植え付けられてしまった」(同) 同じ関西で大量補強を敢行し、優勝候補筆頭にあげられたチームではこんな噂も飛び交っている。 「森脇浩司オリックス監督(54)の途中休養説が囁かれています。阪神はメモリアルなのでそういう醜態はないと思いますが…」(同) 和田監督はメモリアルイヤーを優勝と日本一で飾ることを大いに期待されている。悲観的な考えを持ってはならないとするフロントの指針があるとしても、目標から大きくかけ離れた成績が続くようならば、何かしらの手を打たなければならない。 いまは社員もニコニコかもしれないが、トラはお家騒動の尽きない球団でもある。スタッフの笑顔はいつまで続くことやら…。
-
スポーツ
GPWAであのタッグチームが復活?
2007年03月08日 15時00分
-
スポーツ
三沢に負のスパイラル
2007年03月07日 15時00分
-
スポーツ
新日本プチシルマ争奪戦勃発
2007年03月07日 15時00分
-
スポーツ
大日本 関本が破天荒トレ
2007年03月07日 15時00分
-
スポーツ
K-1 シュルト初防衛戦に サップ浮上
2007年03月05日 15時00分
-
スポーツ
K-1新遺恨 魔裟斗vsTBS
2007年02月27日 15時00分
-
スポーツ
棚橋時代到来
2007年02月19日 15時00分
-
スポーツ
アングル 永田 新日制圧へ IWGPヘビー級タッグ王者中西、大森組への挑戦急浮上
2007年02月19日 15時00分
-
スポーツ
ポスト魔裟斗ヘ アンディ・オロゴン 帰化計画
2007年02月06日 15時00分
-
スポーツ
輪島氏 自爆テロ
2007年01月24日 15時00分
-
スポーツ
ハッスル消滅!? 小川H軍休止宣言
2006年12月27日 15時00分
-
スポーツ
大みそかボビー弟と対戦 金子賢 前田道場入り
2006年12月14日 15時00分
-
スポーツ
珍指令 KID 秒殺禁止
2006年12月12日 15時00分
-
スポーツ
生還小橋に捧ぐ 三沢 GHC奪還
2006年12月11日 15時00分
-
スポーツ
猪木 緊急提言 想定外プロレスをやれ!
2006年12月05日 15時00分
-
スポーツ
1・4東京D「レッスルキングダム」 新日本 全日本“乗っ取り”へ秘策 長州3冠戦出撃
2006年11月16日 15時00分
-
スポーツ
復活1・4東京D大会へ秘策 新日本最終兵器サイモン猪木 IWGP挑戦!?
2006年11月07日 15時00分
-
スポーツ
来春ビッグマッチ パンクラス芸能人最強決定戦 坂口憲二 今田耕司 押尾学
2006年10月31日 15時00分
-
スポーツ
大みそか参戦ほぼ決定 芸能人対決 金子賢vs押尾学
2006年10月10日 15時00分