スポーツ
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スポーツ 2015年04月15日 13時00分
球界激震スクープ! 「新神宮球場」本拠地に東京ジャイアンツ ヤクルトは新潟移転へ
ヤクルトスワローズの本拠地であり、大学野球の主要球場でもある神宮球場が、2020年東京オリンピック後、隣接する秩父宮ラグビー場と場所を交換する形で建て替えることになった。これで、噂が絶えなかったスワローズの地方移転は消滅、と安堵するのは早計。新球場の“城主”は、何と巨人という情報が…。 東京都は五輪・パラリンピックへ向け、神宮外苑地区の再整備を協議してきた。先ごろその計画がまとまり、都庁で明治神宮など地権者6団体が覚書を交わした。 それによると、2020年東京五輪後に神宮球場の取り壊しに着工し、'22年度末までにラグビー場跡地に新球場を建てる。早ければ'23年から“新”神宮球場がオープンする。 この内容に神経を尖らせていたのがヤクルトファン。当初の計画では、東京五輪に合わせて新国立競技場とともに老朽化が進む神宮球場も建て直す、とされていたからだ。そうなれば、新しい神宮球場が完成するまでの間、本拠地を失うヤクルトはかつてのロッテのようにジプシー球団にならざるを得ない。そこで検討されていたのが、地方への本拠地移転だった。 「建て替えになれば2シーズンは使えない。そこで緊急避難先を協議していたのです。候補地はプロ野球がまだ進出していない、金沢、新潟、長野、静岡、岡山、松山。しかし、どこもまとまらなかった。全面移転ならともかく、新球場ができるまでの“腰掛け”なら結構というわけです。しかし、球場の取り壊しが東京五輪後に決まったことで、事態は大きく動き出しました」(ヤクルトOBの解説者) この先5年間、スポーツ界は“五輪競技”が花盛りとなり、野球の人気低迷が進む。毎年20億円近い赤字を垂れ流すスワローズの維持には、筆頭株主の仏ダノン社が不快感を示しており、経営陣は球団売却も含めて経営改善を求められている。 そこで、球団に愛着を持つヤクルト首脳は「本拠地を地方に完全に移す」ことで生き残りを模索していた。とても東京五輪の後まで待てないのが現実なのである。 「最終的には新潟と静岡にターゲットが絞られた。しかし、静岡市は市民からサッカーの新スタジアム建設の要望が出され、プロ野球の誘致をほぼ断念。残るは新潟市。こちらは立地的に中国に近く、球団誘致は訪日中国人促進にもつながると歓迎している。日本海を挟んで新潟は極めて近距離にあり、日本との架け橋の拠点にしようとしているのです。これには賛否両論あるが、中国から富裕層のプロ野球観戦者が計算できれば新潟の経済効果は計りしれず、ヤクルトの本拠地移転に期待する動きがあるのは確かです」(地元紙記者) 中国は'10年、新潟市に総領事館を開設。市の中心部にある市立万代小学校跡地や信濃川沿いに広大な土地を手に入れるなどして、経済面から交流を深めている。'05年に北朝鮮の羅津(ラジン)港を租借したことで、中国から新潟までが一直線となり、新潟の土地所有を希望する富裕層が引きも切らないのだという。 実は、ヤクルトの新潟移転を虎視眈眈とうかがっていたのが巨人。東京ドームもまた立て直しの時期に来ており、故障者の続出で足腰に負担がかかる人工芝を見切っている。開放的な空の下、天然芝の上でプレーできる新しい神宮球場は願ったりかなったりなのだ。 チーム名も読売色を薄め『東京ジャイアンツ』にすることで、舛添要一・都知事の支援も取り付けているという。新球場完成に合わせて「松井秀喜監督」の青写真も透けて見える。 グラウンド外の巨人は、一足先に絶好調のようだ。
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スポーツ 2015年04月15日 12時00分
【甦るリング】第3回・悲運ながらファンに愛された真“デスマッチの祖”ラッシャー木村の晩年
晩年、ユーモラスなマイクパフォーマンスで人気を博したラッシャー木村(2010年5月24日没=享年68)は、とても悲運なプロレスラーだった。若いプロレスファンにとって、木村は「マイクで面白いことを言うコミックレスラー」的な印象だろうが、古くは“金網デスマッチの鬼”と呼ばれた男だ。 日本プロレス界において、“デスマッチの祖”といえば、“邪道”大仁田厚のイメージが強いだろうが、デスマッチを世に知らしめたのは紛れもなく木村だ。大相撲・宮城野部屋の幕下力士だった木村は、十両昇進まであと一歩に迫っていたが、1964年9月場所を最後に廃業。同年10月、力道山没後の日本プロレスに入門した。 ところが、66年、豊登の付き人を務めていた関係から、アントニオ猪木をエースに推した新団体・東京プロレスに移籍。ここから、木村の悲運なプロレス人生がスタートしたといえる。いかつい顔をしている木村だが、とにかく温厚で人が良く、何かを頼まれると「NO」とは言えない性格だったといわれている。 しかし、その東プロはあっけなく67年1月末に事実上崩壊。日プロに戻ることが許されなかった木村は、東プロと提携していた国際プロレス・吉原功社長に誘われるがまま、同団体に移籍。プロレス入りから、わずか約2年半で、3つ目の団体に所属するハメになる。東プロからのオファーを断っていれば、後に日プロのスター選手になっていたかもしれない。そう考えると、「NO」と言えなかった木村の悲運を感じる。 国際プロ移籍後、頭角を現した木村は69年4月、サンダー杉山とのタッグでTWWA世界タッグ王座を奪取。同年8月には米国武者修行のチャンスをつかむ。70年8月に凱旋帰国すると、同年10月、ドクター・デスを相手に日本初の金網デスマッチを敢行した。今でこそ、大日本プロレスなどのインディー団体では当たり前のように行われているデスマッチだが、当時は画期的で、全国のプロモーターから要請が殺到。以降、木村は頻繁にデスマッチを闘い、“金網デスマッチの鬼”が、その代名詞となる。 そんな木村にチャンスが巡ってきたのは、国際プロの絶対的エースだったストロング小林の離脱だった。74年2月、新日本プロレスの猪木に挑戦するため、小林が同団体から去ったのだ。エースが不在となり、吉原社長は当初、小柄なマイティ井上をエースに指名した。だが、75年4月、井上がマッドドッグ・バションに敗れて団体の至宝であるIWA世界ヘビー級王座を奪われると、木村がバションを破って同王座に初戴冠。以降、81年9月に団体が解散するまで、6年半にわたってエースとして君臨した。しかし、常に全日本プロレスのジャイアント馬場、新日本の猪木と比べられる立場になり、損な役回りとなってしまった感は否めなかった。 国際プロと全日本との交流関係から、75年12月に全日本が開催した「オープン選手権」に出場した木村は、馬場とシングルマッチで初対決。両団体のエース同士の対戦とあって、当時は大変な話題となったが、試合と関係ないアブド−ラ・ザ・ブッチャーが乱入し、木村を流血させると、そのダメージが響いて木村が敗れるという不運な結末となった。両者は78年2月に再戦したが、この際は馬場に足四の字固めを掛けられた木村がロープエスケープするも、なぜかレフェリーがブレイクを認めず、不可解なリングアウト負け。 時を経て、2人は85年6月に3度目の一騎打ちをしたが、木村の足がロープに掛かっていたにもかかわらず、レフェリーが3カウントを叩き、またしても悲運な敗退。木村は馬場戦に関しては、ほとほと運がなかったのだ。国際プロが81年9月に解散すると、吉原社長は新日本との全面対抗戦を画策。しかし、井上ら多くの選手は全日本への参戦を選択。吉原社長の意向に従ったのは木村、アニマル浜口、寺西勇の3人だけだった。 そして、同年9月23日、忘れられることはない伝説の東京・田園コロシアム大会。木村は新日本に宣戦布告するため、リングに上がったが、律儀にも「こんばんは」とあいさつし、ファンの失笑を買った。まさしく、木村の人の良さが垣間見られたシーンだったが、これは「こんばんは」事件として、後世に語り継がれることになる。木村は浜口、寺西と「国際はぐれ軍」を結成し、新日本に乗り込んだ。当時の新日本はブームの真っただ中とあって、木村は究極のヒールに仕立て上げられた。国際プロはマイナーな存在であったため、新日本で猪木と抗争を繰り広げていた期間は、木村にとってプロレスラーとしてのピークといえたが、ヒールとしての役回りは決して本意ではなかったであろう。 その国際軍団も、浜口、寺西が長州力率いる維新軍に加入したため解散。1人になった木村は84年、新日本のお家騒動のさなか、営業本部長だった新間寿に誘わるまま旧UWFの旗揚げに参加。同団体は「後から猪木が行く」との前提での設立だったが、猪木は新日本に残留。前田日明を中心とした格闘路線となり、木村は元国際プロの剛竜馬とともに離脱。新日本に戻る道もあったが、木村は自身の意思で全日本移籍を決意。後に木村は「自分の意思で動いたのは、これが初めてだった」と語っている。同年暮れの「世界最強タッグ決定リーグ戦」で馬場のパートナーとして参戦した木村は、馬場を裏切って、剛らと国際血盟軍を結成。以後、馬場らと抗争を繰り広げていくことになる。 だが、時を経て、馬場にタッグ結成のラブコールを送ると、馬場を「アニキ」と称して、義兄弟コンビを結成。百田光雄らとのファミリー軍団と、永源遙らの悪役商会との試合は全日本の前座の名物となり、アットホームでユーモラスなマイクパフォーマンスで沸かせるようになる。 馬場の死後、三沢光晴らに追随し、00年にノア旗揚げに参加。03年3月までファイトしたが、体調不良により長期欠場に入り、04年7月、ビデオレターで引退を表明した。引退後は体調を崩し、車イス生活を余儀なくされていたという。お人よしなばかりに周囲に誘われるがまま、団体を転々とした木村の流転のプロレス人生。国際時代はエースの座を張り、新日本では猪木の敵役を務めたが、木村が最も「らしさ」を発揮できたのは、ベビーフェイスに転向し、マイクパフォーマンスでファンを喜ばせていた時期かもしれない。 確かに不器用でファイトスタイルは地味なプロレスラーであったが、その実力は本物だった。プロレス界のトップを獲ることはできなかったが、ラッシャー木村という偉大なプロレスラーがいたことを忘れることはできない。(ミカエル・コバタ=毎週水曜日に掲載)
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スポーツ 2015年04月14日 13時00分
球界激震スクープ! 広島・黒田博樹「右腕に異変」(2)
こうした初登板での異変に気付いたチーム関係者は少なくない。トレーナーチェックがされ、『異常ナシ』が報告されるまで、緒方監督も生きた心地がしなかったのではないか。 「営業のことだけを考えれば黒田を日曜日に登板させ、集客数を増やす選択もある。しかし、あえて中5日での登板に踏み切ったのは、メジャー時代の中4日の登板間隔に近い状況を作ってやるためでしょう。球団は『黒田弁当』なる商品も緊急発売させ、例の復帰会見のDVDもリリースしました。経済効果はやはり絶大です」(ベテラン記者) こうした“黒田効果”は球団が当初に想像していた以上だ。しかし、こんな声も聞かれた。 「黒田とバッテリーを組む難しさを実感しているカープ選手がいます。黒田の武器は変化球・ツーシームですが、右打者の外角にボールからストライクになる“バックドア”、左打者なら内角にボールからストライクになる“フロントドア”があり、かつ、カーブ、スライダーなど、どの変化球のクオリティーも高い。従って対戦打者に打たれた場合、自動的に『捕手のリードが悪い』という図式になる」(同) 黒田は基本的に捕手のサインには首を振らない。正捕手の會澤翼は試合後、黒田に「ちょっといいですか」と自身の出したサインの是非を確認している。 「好投手が捕手を育てる」という話もあるが、変化球全てが高品質という次元の高さだ。広島捕手陣は前例のないハイレベルな学習を強いられているわけだ。 「GW突入前には、広島の逆襲が始まるはず。打線低迷がスタートダッシュに失敗した最大の原因だが、他投手も『黒田教室』で配球の妙を学んでおり、その学習効果が表れるのはこれからでしょう」(広島OBのプロ野球解説者) 一方、対戦チームは単純に黒田人気にあやかろうとしているようだ。 「パの3球団から恨み節が出ています。今季から交流戦が18試合に縮小され、『1カード3試合ずつ』となりました。昨季まではホーム&ビジター2試合ずつで対戦4試合を行ってきましたが、今季から『毎年どちらかのホームで3連戦』ということになり、2年でホーム&ビジターを完結させます。つまりパの各球団は何が何でも広島戦の主催権が欲しかったのですが、抽選によりロッテ、日本ハム、楽天が外れてしまったのです」(在京球団職員) あやかろうとしているのは、パ・リーグだけではない。40歳の黒田が『侍ジャパン』に招集される可能性も高まっている。 「侍ジャパンのテレビ視聴率が伸び悩んでいます。小久保体制になって以来、どういうわけか、視聴率が2ケタに届いていません。3月に行われた欧州代表戦は読売グループが必死にチケットを売り、かつタダ券をまいて、何とか2万人台の観客を確保させました」(前出・ベテラン記者) 観客動員の真相は定かではないが、テレビ視聴率の伸び悩みは、確かに今後のスポンサー契約にも影響しかねない。しかも、欧州戦の舞台裏では12球団がオープン戦を戦っており、全球団が開幕投手と主力バッターを派遣することができなかった。 「興行の在り方を見直す必要性もあるが、まずは黒田招集で不人気ぶりを打開したいのでしょう」(同) 黒田は勝っても負けても、表情ひとつ変えようとしない。そんな日本人が忘れている“サムライの心”を持った黒田ならジャパンのユニホームが似合わないはずがない。しかし、前述した通り、もしも右腕に広島首脳陣にも明かしていない秘密があったとしたら…。 まるで球界全体の救世主のように期待される“オトコ黒田”。何事もないことを祈らずにいられない。
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スポーツ 2015年04月13日 13時00分
球界激震スクープ! 広島・黒田博樹「右腕に異変」(1)
“オトコ黒田”は復帰第2ラウンドを白星で飾ることができなかった(4月4日)。しかし、敵地ナゴヤドームで見せた投球は7回3失点。メジャーリーグの基準で評すれば「クオリティースタートを達成」し、先発投手としての責任は十分に果たしたことになる。 クオリティースタートとは、6回以上を自責点3以下に抑えることである。 「広島打線が打てなかっただけ。開幕早々、打線は不振に陥っており、チーム打率は2割4分1厘(6日時点)。黒田の投球も、相手打者を打ち取ったと思った小飛球が野手と野手の間に落ちたり、不運な場面もありました」(スポーツ紙記者) 試合後の緒方孝市監督も淡々としていた。開幕カード3節を終え、黒星先行状態だが、黒田博樹、前田健太、大瀬良大地の3本柱の投球内容は決して悪くない。「早々に巻き返せる」と思っているのだろう。 「いや、4日の試合は“黒田の健在”を再確認する意味で、重要な一戦でもあったんです。緒方監督は安堵したのではないか…」(球界関係者) 実は、黒田の右腕に“異変”が起きていたのだ。広島ベンチが凍り付いたのは、初登板の3月29日だった。 同日、日本テレビは巨人対DeNAを放送したが、地元・広島の中国地区では独自に黒田初登板の対ヤクルト戦を中継。日曜日の昼間としては異例の平均視聴率34.9%をはじき出した。 メジャー球団の21億円オファーを蹴っての帰還、大金よりも古巣への愛を選んだ黒田の人気を再認識させられたが、渡米前を知る関係者は違う印象を抱いていた。“異変”を最初に口にしたのは、同日のテレビ解説を務めた野村謙二郎・前監督だ。 「水を差すようだが、一度、間を取った方がいい。あ、畝投手コーチがマウンドに行きましたね。良いタイミングです」 黒田は走者をためても“即、ピンチ”とはならない。むしろ、走者を背負ってからが真骨頂で、メジャー仕込みのツーシームやバックドア、フロントドアを繰り出し、内野ゴロで併殺プレーを積み重ねていく。当然、マツダスタジアムのファンやテレビ視聴者はそれをわかっており、野村氏も「水を差すようだが」と前置きしたわけだ。 「何事もなければいいんですがね…」 野村氏はさらにそう言った。畝コーチがマウンドから引き上げ、プレー再開。 「黒田がいつもと違う“間”を取り始めたんです。腕や腰を動かしたり」(前出・関係者) 野村氏が「マウンドに行った方がいい」と指摘した理由もそれだった。黒田は前イニングで打席に立っており、「腰を痛めたのではないか?」というのが、この時点での“異変”だった。 メジャー在籍の7年間、黒田は指名打者制のア・リーグに在籍していた。日本復帰後、打撃練習はキャンプに入ってからしていたが、本番とは違う。 こうした心配を払拭するように黒田はその後も投げ続けたが、広島ベンチはそうは見ていなかった。 「黒田が右腕をグルグルと回すなど、今まで見せたことのない間合いを取り始めました」(同) 畝コーチは何度もマウンドに行く。「大丈夫か?」「大丈夫です」と判で押したような会話が繰り返され、緒方監督は7回を投げ終えたところで交代を告げた。 「黒田は痛くても『痛い』とは絶対に口に出さないオトコです。無理をしていないか、広島首脳陣は慎重に確かめていました。万が一のことがあれば、チームに与える影響は計り知れないので…。黒田の性格なら、自分の右腕を代償にしてでもチームの優勝を選択しかねない」(前出・関係者)
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スポーツ 2015年04月12日 15時00分
ハリルジャパンを脅かす中国サッカー大改革の本気度
白星スタートを切った新生サッカー日本代表、ハリルホジッチ監督(62)に難敵が登場!? 日本批判を繰り返す中国政府当局が『サッカー改革全体案』を発表し、欧州強豪各国や南米も警戒を強めているという。 「中国は過去度々、サッカー強化に乗り出していますが、今回の政府の本気度は今までとは違うともっぱらです。ものすごい選手が輩出され、次回ロシアW杯で台風の目になるかもしれません」(海外特派記者) 習近平国家主席はかねてからサッカー好きで知られていた。「3つの夢がある」と公言しており、それはW杯「出場、優勝、そして開催すること」だそうだ。 「短・中・長期に分けた50項目の目標と強化計画が立てられていました。完全に日本を意識した中身もあります」(同) サッカー強化策を進める管理機関は民間になるという。中期目標として、青少年サッカー人口の大幅増加、プロリーグ組織をアジアのナンバー1水準に上げ、国内の小中学校サッカー部を現在の4倍にあたる2万校まで増やす。また、「より地域に根ざしたクラブへの改革」と明記されており、チーム名から企業名を外す方向だという。そう、これはJリーグが創設されたときの日本のスタイルだ。 「中国国内のサッカー人気は、確実に高まってきています。前回ブラジルW杯が行われたとき、自国が出ていないのにパブリックビューイングの前には大勢の国民が集まって盛り上がっていました」(専門誌記者) 中国は日本のJリーグを研究しており、近年、定期的に日本サッカー協会を訪れ、レクチャーを受けてきた。友好関係ならともかく、日本の関係者は中国を格下と見くびっていたらしく、クラブチームの経営ノウハウまで教えてしまった。 「国家政策となれば、それ相応の代表監督を招集できるはず。次回ロシアW杯に向け、あっと驚くような大物を据えるのでは」(同) サッカーは“創造性のスポーツ”といわれる。自由奔放とは縁遠い国が、国家の力で果たしてどれほど上に行くことができるのか−−。けだし見物である。
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スポーツ 2015年04月12日 13時00分
阪神・鳥谷が1番打者転向以外にもイメチェン その陰で不振にあえぐ選手が
トラのクールガイ、鳥谷敬内野手(33)がテレビCMに出演し、あまりのイメチェンぶりにファンが驚いている。 「球団側が『明るい内容にして欲しい』とお願いしたようですね。でも、鳥谷本人が引き受けてくれるとは制作スタッフも驚いていました」(TV制作プロ関係者) 鳥谷が登場したテレビCMとは、衛星放送スカイAのプロ野球中継番組の宣伝。お茶の間でプロ野球中継を見ていたら、鳥谷がテレビ画面から出てきて、カメラ目線で決めポーズをするというもの。カメラ目線を送るときの鳥谷は目を大きく見開いており、「こんな一面があったんだ…」と、意外さで視聴者を喜ばせている。クールガイのイメージは崩れたかもしれないが好評のようだ。 「阪神の選手グッズでいちばんの売上を記録しているのは鳥谷です。藤浪のルーキーイヤーだった年も、鳥谷の方が、売上が上でした」(在阪記者) 鳥谷が宣伝したプロ野球中継日は3月29日の中日戦。中日はレギュラー選手の高齢化が進み、若手選手がポジション奪い取れていない。新しいスター選手が出てこないせいか、どの放送局も「中日戦は視聴率が取りにくい」とこぼしており、主催の阪神球団としても何かしらの手を打たなければならないと思ったのだろう。 しかし、鳥谷が覆したのはクールガイのイメージだけではなかった。 「和田(豊=52)監督の構想で、鳥谷の打順を変更しました。『1番鳥谷、3番西岡』の打順が理想だというのです。鳥谷は出塁率も高く、走れる選手ではありますが、鳥谷が1番打者で活躍すればするほど、生え抜きの中堅が活かされない…」(前出記者) 1番打者鳥谷の和田構想で犠牲者になったのは、二塁の定位置を奪った上本博紀(28)だ。開幕から、鳥谷と西岡を繋ぐ2番打者で起用されているが、精彩を欠いている。4月3日の巨人戦ではチームが快勝しても、上本だけは5打数無安打。前節のヤクルト戦ではバント失敗に加え、2失策と、いいところが全くなかった。 「昨季は1番打者でチームに貢献しました。右方向にも打てるバッターなので、2番打者の適性もあると思いますが、鳥谷が出塁すると、バントやエンドラン、カウントごとにサインがめまぐるしく変わるので、戸惑いを感じているようです」(同) 上本自身も、「自由度が違う」と、1番打者時代との違いをこぼしていた。 和田監督は現役時代、2番打者で二塁手を任されていた。上本に期待し、自身と同じポジションを踏襲させたのだろうが、逆効果となってしまった。1番鳥谷が出塁する度に、上本は悩んだ表情に変わる…。 「鳥谷は昨オフに5年20億円とも言われる契約で阪神に残留し、事実上の生涯トラ宣言をしたようなもの。その後、鳥谷をCMで起用したいという企業も現れ、詳細を詰めている段階です。1社あたりのギャラが5千万円とも7千万円とも言われています」(球界関係者) 今回のスカイAのCMでのイメチェンはその一環であり、CMタレントとしてブラウン管に登場し、お茶の間を楽しませる機会はさらに増えそうだ。しかし、本職でのイメチェン、1番打者鳥谷は上本からしたら見たくないだろう。
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スポーツ 2015年04月12日 10時00分
小塚桃子ゴルフ連載(30)第六部・世界のゴルフ場「日本・お花見ゴルフ編」
4月も中旬になり、スギ花粉の飛散もようやく落ち着きました。花粉症の方々にとって、いよいよ本格的なゴルフシーズン到来です。 今回は海外のゴルフ場の「面白話」を3回綴ります。日本では考えられないエピソードがてんこ盛り。海外旅行に行かれた際は是非、お役立て下さい。とはいえ、1回目の今回は日本編。私が先日、プレーした「お花見ゴルフ」について、ご紹介しますね。 4月3日、埼玉のゴルフ場でプレーしました。目的は何と「お花見」。桜満開の時期は、ゴルフ場でお花見する事をオススメします。 プレーする方はご存じかもしれませんが、ゴルフ場にはかなりの数で桜の木があります。お花見シーズンは18ホールくまなく咲いている桜を見ながら、のんびりゴルフを楽しむプレーヤーが年々、増えてきています。私もこの時ばかりはスコアよりもエンジョイ。今回は友達が缶チューハイ片手にラウンドしていました。こんなゴルフの楽しみ方は日本だけ。公園でのお花見も楽しいですが、趣味のゴルフをしながら満開の桜を楽しむ−−これもオツです。 因みにこの日は花冷えで極寒。ヒートテックと防寒ジャケットを着込んでプレー開始。時刻は8時半でした。ところが、プレーで身体が温まったのか5ホール目には汗が大量に出てきました。気温は低いのですが、ヒートテック効果はハンパでは無い。6ホール目にはついに半袖になりました。 こうなると、お花見をしながらエンジョイプレー。私は基本、プレー中は呑まないのでハーフまではスコアの崩れがありません。この日は前半43で回りました。 スタートが8時半なので、ハーフタイムは10時半頃から。そこで、かなり早い昼食をクラブハウスで摂りましたが、そこからも満開の桜を見る事が出来ました。気分は最高。その為か、高揚した私はビールとハイボールをゴクリ。完全にお花見モード。最も、パーティーを組んだ友達3人も完全に酒三昧。後半がある事を感じさせない酒盛りでした。 そんなこんなで後半を迎えたのですが、お分かりの通り、私のスコアはズタズタ。やはり酔っているとパターにボロが出ます。僅か30センチの距離であっても見事に外しました。 で、後半のスコアは51。前半が43だったので順当にいけば80台が出たところですが、それが叶わず94…お酒のラウンドなので、それもそれでありでしょう。 だが、しかし…。皆がワイワイやっている中、一人、淡々とお酒を飲みながら、黙々とプレーしていたパートナーがいたのです。恐らく、多少は酔っているのでしょうが、彼女は真剣勝負。何と72。普段から70台なので、お酒のある無しに関わらず安定していますね。 私は「仕方がない。酔っているから」と妥協している傍で彼女は「自分に負けない」ゴルフをしていたのです。勿論、この時期のゴルフは私が主流。彼女の様なストイックなプレーヤーは珍しい。私たちの前組は80代の方でしたが、本当に楽しそう。お花見がてら…は勿論ありますが、真剣の中に相手を立てる、という気配りがありました。私たちも会話をさせて頂きましたが、気配りの術はさすが。勉強になりました。 今回はここまで。(ゴルフの)コースに出ると何キロ位歩くと思いますか? 全てカートを使わず歩いた場合、何と、1万5000歩。距離にして7〜8キロにも及びます。「これをダイエットに生かさず、何に生かすのか」−−。こちらは、この部が終わり次第、綴りますね。小塚桃子オフィシャルブログ「季節はずれのももリンダ」http://ameblo.jp/koduka-momoko/
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スポーツ 2015年04月11日 15時00分
収支改善でもモンゴル勢頼みの大相撲
孝行息子もやっぱりモンゴル勢−−。日本相撲協会は春場所終了後の3月23日、両国国技館内で評議員会を開き、公益財団法人に移行して初めてとなる平成26年度の収支決算を承認した。 それによると、昨年は年6場所の大入りが計58日間と77日間だった平成9年以来の多さになり、本場所の入場券売り上げが7億円も増えた。大相撲人気の復活が数字の上でもハッキリと証明されたことになる。 地方巡業などを含めた事業収入も7億8000万円の増。ただし、両国国技館の土地や建物など、金融資産の評価額のマイナス分や、人件費の増加などを差し引くと2年ぶりに7400万円の赤字になった。 「とはいえ、協会首脳の表情は2年前とまったく違います。2年前は3年連続の赤字で、相撲人気にも復活の気配がまったく見えなかった。しかし今年は取り巻く状況が大きく違い、来年は大幅黒字が必至。北の湖理事長も、『お客さまのおかげで手応えを感じる』と、まるで黒字会社の社長のような顔をしていました」(担当記者) そういえば、横綱白鵬の2度目の6連覇達成で幕を閉じた春場所も、初場所に引き続いて15日間オール満員。これは14年ぶりのことだが、問題はこの沸騰する相撲人気の中身だ。 「相撲人気が急激に上がってきたのは去年の秋場所あたりから。この場所は新入幕の逸ノ城が怪物旋風を巻き起こした場所です。今度の春場所も、人気者の遠藤がケガで途中休場したが、照ノ富士の大奮闘で影響が出なかった。つまり、協会の屋台骨を本当に支えているのはモンゴル勢。とても日本の国技と胸を張れる状態ではありません」(協会関係者) せっかくのブーム到来も手放しでは喜べない。
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スポーツ 2015年04月11日 13時00分
巨人の試合をノムさんが生解説 原監督に与える影響力も増幅か
巨人が主催試合で販売している『レジェンズシート』という席種とサービスがある。これは、観戦席付近で巨人OBが試合を生解説し、それに対して質問もできるというもの。東京ドームの三塁側内野席前方に配置された席で楽しむことができる。 基本的には巨人の元選手が解説者として招かれ、今季は対戦チームの大物OBを同時に招くダブル解説を行っている。その対戦球団OBに今回、野村克也氏(77)の登場が決まった。野村氏は4月11日の対東京ヤクルト戦に招かれる予定だ。一部報道では、野村氏は体調が芳しくないとも伝えられていたが、果たして。 「野村氏のプロ野球解説はテレビ視聴者のウケも良く、『野球中継よりも、ノムさんの解説をもっと聞きたい』との声も寄せられるほどです。レジェンズシートに座れば、OBに直接質問することも可能です。大きな話題になっています」(ベテラン記者) しかし、この生解説は起用される相手球団OBも巨人の系列である日本テレビで専属解説をしていた元選手が多く、いわば特権のある仕事だった。地上波でプロ野球放送が激減したいま、試合解説の仕事も激減している。そんな中で東京ドームでの生解説は貴重な収入源ともいえる。同日は巨人OBとのダブル解説になるが、野村氏と一緒に解説するとなると、相当な勉強をしなければならない。 「これまで生解説を務めた巨人OBのなかには、失礼ながら、勉強不足の人もいました。でも、同席に観戦に来る客は巨人ファンが大半なので、巨人贔屓の内容を喋れば何とかなるみたいな空気もあって…。そんな中で、解説者としても人気がある野村氏は、体調が万全なら、今後も起用がはかなり増えると思われます」(同) 野村氏と一緒に解説する巨人OBは、知性派の鹿取義隆氏に決まった。いままでに巨人OBとして起用された面々を見たら、鹿取氏か堀内恒夫氏でなければ、野村氏に話を合わせられるOBは見あたらない。 野村氏が解説として招かれたことで、こんな声も聞かれた。「野村氏が原采配に何かしらの影響を与えているのではないか」と。 「野村氏はTBS系のスポーツ番組で阿部(慎之助)の一塁手転向に異議を唱えていました。『捕手がしっかりしていれば、絶対に最下位にはならない』とし、阿部を捕手に戻すべきだとの持論も繰り広げていました」(球界関係者) 4月3日に原辰徳監督は阿部を4番捕手で起用した。前日までの中日3連戦で3連敗を喫し、さらには捕手を務めていた相川亮二が試合中に肉離れを起こすアクシデントに見舞われた。とはいえ、原監督は阿部が捕手に戻ることは「99%ない」とし、阿部を一塁も固定する考えを口にしてきた。原監督は、この阿部捕手再転向を「一時的な措置」と説明したが、突然の方向転換に巨人選手は動揺していた。野村監督の反対論が以前からあったため、意志がグラついたのではないか? との見方も広まっている。 「原監督は他球団のOBとも親しく付き合っており、日本ハムの指揮官である栗山英樹監督とは兄弟のような仲です。もちろん野村氏とも親交はあるはず。野村氏のアンチ巨人の姿勢がパフォーマンスであることは世間一般にも知れ渡っている。原監督も実は裏で野村氏からいろいろと助言をもらっているのでは」(同) 現場指揮官にアドバイスをするのもOBの仕事だ。野村氏は特定球団のOBというより、球界全体のOBと言っていい存在。巨人OBは野村氏の発言力に負けてしまっているのではないか。
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スポーツ 2015年04月10日 13時00分
俺たちの熱狂バトルTheヒストリー〈辰吉丈一郎vsグレグ・リチャードソン〉
辰吉丈一郎の次男、寿以輝(じゅいき)のプロデビュー戦が来たる4月16日、大阪・ボディメーカーコロシアムで行われる。 本格的にプロを目指す前には80キロ以上もあった身体を、短期間で20キロも絞ってみせた精神力の強さはまさに父譲り。プロテストではフック一発で相手をロープまで吹き飛ばす破壊力を披露し、“辰吉2世”の将来を期待する声は大きい。 デビュー戦を控えてのインタビューでは奔放な発言も目立ち、ビッグマウスも父譲りのようだが、そんな寿以輝が唯一言わないセリフがある。 「オヤジを超える」 2世の常套句でありながら、これに限っては「オヤジと俺は別」と口を濁す。 「幼少時から父の映像を見てきた寿以輝は誰よりもその天才ぶりを知っている。だからこそ、それを超えるなどとは言えないのでしょう」(ボクシングライター) 薬師寺保栄との試合前の舌戦や、リング上で腕をグルグル回すパフォーマンスの印象が強烈なだけに、今となっては“ショーマン”の印象を持つ向きがあるかもしれないが、それはとんでもない誤りである。辰吉丈一郎は国内、いや世界レベルで見てもトップクラスの天才ボクサーだったのだ。 まだデビュー前の16歳のとき、六車卓也との世界王座決定戦のため来日したアサエル・モランのスパーリングパートナーに抜擢された辰吉は、これをめった打ち。「大阪帝拳ジムにドえらい天才がいる」との評判は、関係者や熱心なファンの間で瞬く間に広まった。 「ソウル五輪日本代表の有力候補」「メダルも狙える」とアマチュア関係者からも絶大な期待を寄せられたが、選考試合では体調不良もあって予選敗退。このショックから1年余りホームレス同然の放浪生活を送るが、ここからの復活とともに辰吉の快進撃が始まる。 デビュー戦ではその前評判から国内に対戦相手が見つからず、韓国のランカーを招聘して2回KO勝利。4戦目には早くも日本王座を獲得。当時の王者を一方的に攻め立て、4回KOに下す完勝だった。 その後、世界ランカーとの3試合を経て迎えた1991年9月19日、WBC世界バンタム級王座戦。 対するチャンピオンのグレグ・リチャードソン(米国)はアマ275戦、プロ33戦と経験豊富なベテランテクニシャン。「フレア(=ノミ)」のニックネームはどこか貧弱にも聞こえるが、素早い動きや的確なジャブには定評があり、プロ入りから間もない辰吉が挑む相手としてはあまりに分が悪いというのが戦前の評。「功を焦った時期尚早の世界戦」と、これに批判的な声も決して少なくはなかった。 しかし試合開始のゴングと同時に、そんなネガティブな声は一掃される。 “左を制する者は世界を制す” そんな格言の通りに、辰吉は序盤から左ジャブ一本で王者を圧倒していく。 ムチのようにしならせて出足を止め、またストレートのように伸ばし顔面を打ち抜く。王者の返しのパンチも時折ヒットはするが、辰吉はこれに全く動じる様子もなく、柔らかなウィービングで前に前にと出て、決して主導権を渡さない。 しなやかな上下の動きは野生の獣さながらで、王者のパンチもこれを捉えきることができない。試合前には「プロの厳しさを知ることになる」と辰吉をたしなめた王者であったが、その右まぶたは、みるみるうちに腫れ上がっていった。 8ラウンドにはきれいなワンツーで王者をぐらつかせ、迎えた10ラウンド、左ジャブからの返しの右フックがその顔面を捉えると、辰吉はここが勝機とばかりに一気呵成のラッシュを見せる。 サンドバッグ状態となった王者はラウンド終了のゴングに救われ、ダウンこそは免れたものの、次の11ラウンド、もはやコーナーから立ち上がることはできなかった。 TKO勝利−−。スピードとテクニックを誇る王者に対し、その両方で上回ってみせた完全勝利であった。 リングに突っ伏して喜びをかみしめる辰吉。具志堅用高の9戦目よりも1試合早い8戦目の世界王座戴冠は、当時の国内最短記録となった。今現在では井上尚弥(デビュー6戦目)に抜かれはしたが、その鮮烈さは今もなお決して色褪せるものではない。
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