スポーツ
-
スポーツ 2015年05月20日 12時00分
【甦るリング】第8回・寡黙で硬派だった川田利明がエンターテイナーに大変貌した驚がく
川田利明…“全日四天王”と称され、三沢光晴、小橋建太、田上明とともに、全日本プロレスで一時代を築いた伝説のプロレスラーである。現在は、東京都世田谷区に飲食店「麺ジャラスK」を開店したこともあり、プロレス活動は休止状態となっている。 全日本時代の川田の印象は、とにかく寡黙で硬派。とはいえ、無口というわけでは決してなく、あまり試合のことを口でしゃべりたがらないタイプ。ジャイアント馬場が嫌ったこともあるが、リング上でマイクアピールをすることもほとんどない。従って、記者としては、非情に原稿が書きづらい選手であった。その反面、時として、試合後、冗舌になって、立て板に水のごとくコメントすることもあった。そんな時は、原稿を書くのもスラスラとはかどったものだ。リング上のイメージと反するが、川田は大のお笑い好きで、ダチョウ倶楽部とも親交があり、タレント活動する際は太田プロダクションの所属となっている。 そんな寡黙で硬派の川田が、エンターテインメント性を追求したプロレス団体・ハッスルに身を投じ、まさしくエンターテイナーに大変貌を遂げたのには正直驚きを隠せなかった。ハッスル参戦に至るまで、紆余曲折があった。99年1月に馬場が亡くなると、全日本では三沢が社長、川田が副社長を務めていたが、三沢と馬場元子夫人との意見が対立。三沢ら大半の選手が00年6月に離脱し、プロレスリング・ノア設立に動いた。残されたフル参戦の日本人選手は、川田とベテランの渕正信の2人だけだった。 全日本は川田らが新日本プロレスとの対抗戦などに活路を見出していたが、02年9月に元子夫人から、元新日本の武藤敬司に禅譲された。川田は参戦を続けたが、05年3月に無所属を宣言した。馬場の死後、正式な契約は交わしておらず、事実上フリーの状態だった。後に川田は当時、長期間に渡って、ギャラが支払われていなかったことを明かしている。その後、全日本への参戦も続けたが、主戦場はハッスルに移す。それは好んで、そうしたわけではなく、食っていくための選択だったようだ。ハッスルではハッスルK、モンスターKとして、エンターテインメント・プロレスにまい進する。 ふだんはガチガチのハードな試合を展開する川田だが、ハッスルではタレントのインリン様(インリン・オブ・ジョイトイ)や、大食い王のジャイアント白田を始め、タレントとの絡みも多く、歌や踊りを披露するなど、硬派な川田しか知らないファンをあ然とさせたものだ。私自身も、「何が川田をこうさせたのか?」と驚くしかなかった。 「ポリシーを変えてほしくない」と思ったりもしたものだが、今思えば、当時の川田にとっては、エンターテインメントをまっとうするのが仕事であり、生きていくためにはやむを得ないことだったのだろう。 そんな川田に相次いで、ショッキングなことが起きる。09年6月、足利工業大学附属高校レスリング部の1年先輩である三沢が、リング禍により死去。川田は三沢の後を追って全日本入りし、ずっと三沢の後ろ姿を見続けていた。不幸にして、上がるリングは変わったが、05年7月18日、ノア初の東京ドーム大会では、シングルマッチで三沢と対戦。その後、三沢存命時に再びノアのリングに上がることはなかったが、川田自身は再戦を熱望していたのだ。 川田にとって、立場が変わっても、ずっと目標であった三沢が亡くなったことで、プロレスを続けるモチベーションに変化があったのは確かのようだ。さらに、主戦場のハッスルは09年10月に事実上の活動停止に陥る。 転機となった川田は10年6月、世田谷区に飲食店「麺ジャラスK」を開店。オープン当初はプロレス活動もしており、三沢没後のノアのリングにも上がったが、同年後半からはフェードアウトし、店の経営に専念。ふたつのことを同時にこなすのが苦手で、ひとつのことに集中するタイプの川田は、店を軌道に乗せるために汗を流し、トレーニングをする暇もなく激ヤセしてしまった。今ではリングに上がれるようなコンディションではない。なお、同店はラーメン屋と思われがちだが、川田曰く居酒屋。客には唐揚げなどのつまみで酒を飲み、締めでラーメンを食べてもらうのが理想だという。 現在51歳の川田。このままプロレスラーとしては終わってしまうのか? 中途半端なことはしない性分なだけに、ちょっとやそっとのことでリングに上がることはないだろうが、いつか、もう1度、“デンジャラスK”の勇姿をリング上で見たいものである。(ミカエル・コバタ=毎週水曜日に掲載)
-
スポーツ 2015年05月19日 18時00分
俺たちの熱狂バトルTheヒストリー〈千代の富士vs貴花田〉
大相撲中継の最高視聴率は1981年初場所に記録された52.2%。当時、関脇の千代の富士が全勝優勝を懸けて臨んだ千秋楽のことだった。 この数字自体はスポーツ中継全体で見ると歴代18位にとどまるが、夕方という放送時間帯や、視聴者の目当てである千代の富士の取組が約1時間半の中継のうち、ほんの数分にすぎないことを考えれば十分にすごい数字だと言える。 結果、千代の富士は横綱・北の湖との本割に敗れたものの、両者による優勝決定戦で勝利。このとき、瞬間視聴率は65.3%にまで跳ね上がった。仕事中のお父さん方を除いた国民の大半が、テレビの前に集まったといっても決して過言ではなかろう。 体格に勝るあんこ型の力士たちを、正面からの力勝負でなぎ倒す−−。そんな強さに生来の精悍な顔つきも加わって“ウルフフィーバー”と称される一大ブームが巻き起こった。 「千代の富士が革命的だったのは、それまでは伝統芸能のカテゴリーともされてきた大相撲の世界にスポーツの概念を持ち込んだところです。脱臼しやすい肩を筋肉で守るためという必要に迫られたこととはいえ、従来の相撲界では軽視されたウエートトレーニングに励み、そうして作り上げた筋肉隆々の身体は、大相撲を格闘技としてファンに再認識させることになりました」(スポーツ紙記者) しかし、近代的トレーニングは“もろ刃の剣”ともなった。 通算1045勝。31場所の幕内優勝に53連勝、さらには国民栄誉賞。そうした数々の記録から「常勝横綱」と記憶する人もあろうが、実際には横綱昇進後も度々故障に見舞われている。 その都度「引退危機」を囁かれ、そこから不死鳥のごとく復活して幾多の記録を成し遂げてきたのが実際のところであった。 そんな千代の富士の横綱在位10年目となった1991年。初場所では幕内通算805勝の大相撲記録(当時)を樹立したものの、その後の取組で左腕を痛めて途中休場。翌場所も全休したことにより、何度目かの限界説を世間が言う中で迎えた復帰の5月場所。その初日の相手が貴花田、後の貴乃花であった。 元大関・貴ノ花の実子という血統のみならず、入門前から関取としての才を見込まれた逸材。前場所では12勝3敗の成績で技能賞と敢闘賞をW受賞し、前頭筆頭まで番付を上げていた。 千代の富士とは初顔合わせ。才能開花目前の新鋭対復活を期す古豪…。 「前評判では貴花田に期待する声も多かったけれど、相手は相撲史に名を刻む大横綱。勝敗の予想はまったくの五分でした」(同・記者) 呼び出しを受けて両力士が土俵へ上がる。 この数場所でどんどん力士らしい身体付きとなり、体格で大きく上回る貴花田。一方、休場明けでいくらか覇気を欠くようにも映る千代の富士。 行司の軍配が返ると貴花田は迷わず頭から突っ込む。出足で後れを取った千代の富士は素早い前さばきでまわしを取ろうとするも、貴花田がこれを許さない。逆に前まわしに手を掛けた貴花田はここを勝負どころと一気に前に出て、倒れ込むようにして全体重を浴びせたところで千代の富士が土俵を割った。 いかにも新鋭らしい懸命な相撲ぶりに、館内は割れんばかりの歓声に包まれた。視界を遮るほど次々と座布団が宙を舞う。18歳9カ月での、史上最年少金星でもあった。 敗れた千代の富士に対しては、またもや引退説が持ち上がったものの、取組直後の会見ではこれを言下に否定する。 「このときの千代の富士にはまだ“土俵勘が戻らないところを若手の勢いにやられただけ”という気持ちがあったのでしょう」(同) だが、二日目は勝ち星を挙げたものの納得のいく内容とはいえず、三日目、貴花田の兄弟子・貴闘力に“とったり”で土俵下に投げ飛ばされるという横綱らしからぬ敗戦を喫すると急転直下、引退会見を開いた。 初日、貴花田の勢いに負けたのではなく、自身が衰えたのだという現実を受け入れるまで、二日の間を要したとも言えようか。 「気力、体力の限界」 昭和最後の名横綱から次世代の俊英へ、新時代を託された瞬間だった。
-
スポーツ 2015年05月19日 14時00分
巨人の敵はベンチ裏にあり! ポスト原で大混戦となった監督レース(2)
ところが、職人肌の川相ヘッドは読売内の改革派とともに、有事に際しては落合博満氏(中日GM)の擁立に動くとみられている。両氏は実は縁浅からぬ関係にあるからだ。 現役時代、533犠打の世界記録を打ち立てた川相ヘッドだが、この記録にはエピソードがある。'03年オフ、一度は現役を引退し一軍コーチに転身することになっていた川相ヘッドだったが、当時の原監督が電撃辞任をしたことで、このコーチ就任が白紙撤回され、現役引退を発表していた手前、行き場を失った。そこに助け船を出したのが中日の新監督に就任した落合氏だった。引退を撤回し、巨人を退団して中日にテスト移籍している。 「その後、川相氏は'10年オフに中日の二軍監督を辞め、巨人に出戻りました。巨人サイドから毎年のように、川相氏を返してほしいという要望があったようです。そこで落合氏が快く送り出したのです。川相氏には落合氏に2度助けられた恩があり、それに報いたいのでしょう」(中日球団関係者) 一方、次期監督の期待がかかる松井秀喜氏も、今オフの巨人監督就任の可能性は物理的に難しい。ヤンキースのフロントに入り、修業中の身だからだ。そこで自身の代役に推挙しているのが、長嶋茂雄氏の門下生で兄弟子に当たる中畑清DeNA監督だという。 「これまでならジョークで終わった話ですが、今季のDeNAは首位争いを展開しており、有力候補に躍り出た。昨シーズンも巨人戦には勝ち越しており、今季も勝ち越して優勝なんてことになれば誰も反対できない。長嶋さんが後ろ盾で松井が推薦。次の次を目指す松井にはちょうどいいワンポイントなのでしょう」(前出の巨人OB解説者) 昭和30年生まれの江川卓氏は今年が還暦。阪神の掛布雅之氏も同級生で、ともにスーパースターと称えられながら監督は未経験。二人は日本テレビとつながりが深いことから、同局首脳の間では「還暦を機に巨人、阪神のダブル監督誕生」を画策する動きがある。新鮮で監督としての伸び代も十分。他局からも、視聴率復活の起爆剤に期待する声があり軽視できない。 桑田真澄氏も候補の一人だが、このところの本人の興味はプロ野球独立リーグに向けられている。長男・真樹外野手が昨年のルートインBCリーグのドラフト会議で、新潟から2位指名されたからだ。今は巨人のことより息子をプロ野球に押し上げることで頭がいっぱいだという。 もっとも原監督には辞める意思など微塵もなく居座りの構えだが、選手やOBたちがそれを許しそうもない。今季で監督通算12シーズン目。これ以上続けられては順番待ちの監督候補が腐ってしまう。それに群がるコーチ予備軍たち。彼らが一斉蜂起することで、夏を待たずに巨人のベンチ裏は大混乱必至だ。
-
-
スポーツ 2015年05月19日 12時00分
【記憶に残るプロ野球選手】第5回・スターにはなれなかったがインパクト抜群の男・元木大介
若い世代の人にとって、元木大介(元巨人)はいったいどんなイメージだろうか? やはり、時折、バラエティ番組に出てくる大して売れないタレントといった印象か? 元木はれっきとした元プロ野球選手で巨人OB。現在は大手芸能事務所ケイダッシュ・グループのアワーソングス・クリエイティブに所属。芸能活動の他、巨人ブランドを生かして、しばしば、TBSラジオの「エキサイトベースボール」、日本テレビ系のCS放送ジータスの「週刊ジャイアンツ」に解説者として登場している。 元木といえば、ダイエー(現ソフトバンク)への入団を拒否した事件は避けて通れない。大阪・上宮高校時代、3度甲子園に出場。高校通算24本塁打、甲子園通算6本塁打を放つなど、超高校級スラッガーとして鳴らしただけに、“清原二世”をほうふつとさせたものだ。マスクもなかなかのものであったため、多くの女性ファンのハートをつかんでいた。 熱狂的な巨人ファンだった元木は巨人入りを熱望し、巨人も指名を約束していたが、困ったことに巨人が上位指名を予定していた慶應大の大森剛内野手が「高校生より下の指名なら行かない」と発言。やむなく、巨人は大森を1位指名し、野茂英雄を抽選で外したダイエーが外れ1位で元木を指名してしまったのだ。 巨人入りの夢を断ち切れなかった元木は、ダイエーの指名を拒否。それが原因で、かつての江川卓よろしく、マスコミや野球ファンのバッシングを受けるハメになってしまった。大学や社会人に進んでしまうと、プロ入りが遅れてしまうため、元木は浪人を選択。マスコミに追われるのを避けるため、海外に渡り、ハワイで野球留学をする。しかし、留学とは名ばかりで、練習環境は最悪だった。 1年後、1990年のドラフト会議で巨人から念願の1位指名を受け、入団。しかし、ブランクが響き、1年目は2軍暮らしが続いた。2年目の92年に1軍初出場。内野ならどこでも守れるユーティリティープレーヤーとして活躍。8年目(98年)にようやくレギュラーの座を奪い、114試合に出場し、打率.297、9本塁打、55打点のキャリアハイの成績を収める。以降、2002年まで巨人の主力選手として活躍するが、故障もあって、03年から出場機会が激減。05年後半には、堀内恒夫監督(当時)の構想から外れ、2軍降格。同年9月には戦力外通告を受けた。他球団からトレードの打診もあったものの、「巨人が好きで、1年間待ってまでユニフォームを着たこともあり、入団した時からユニフォームが着られなくなったら引退すると決めていた」として、33歳の若さで引退を決断した。 初志貫徹ではないが、獲得を希望する球団がありながら、巨人でのプレーにこだわってユニフォームを脱いだ元木。他球団に移籍していれば、また違った野球人生があっただろうが、今も野球関係の仕事ができているのは、生涯巨人をまっとうした“巨人ブランド”があったからこそか…。野球センスの良さは群を抜き、守備も決して、悪くはなかったが、シーズンを通してレギュラーとしてフル出場した年はなく、それが響いてか、スター選手になれそうでなれなかった。 高校時代はスラッガーだったが、プロ入り後は1度も打率3割(規定打席到達で)、2ケタ本塁打もなかった。通算安打891本、通算本塁打66本と平凡な成績。高校の同級生であり同じ内野手で、中日に6位指名されてプロ入りした種田仁(中日→横浜→西武)の方が、プロでは成績を残したのはなんとも皮肉か…。 プロ15年間で積み重ねた成績は、それほどたいしたものではなく、スター選手にはなれなかった元木だが、ことチャンスでの勝負強さは抜群。98年には得点圏打率1位となるなど、試合を決める一打を放つ機会が多く、ヒーローインタビューに呼ばれるケースも多々あった。そのため、記録よりファンの記憶に残る選手だった。 高校時代の元木を知っている者からしたら、プロ入り後の姿はなんとももどかしく映った。くしくも、元木の巨人入りを遠回りさせた大森はプロでは大成しなかった。あの時、巨人が大森ではなく、元木を1位指名していれば、元木の野球人生も変わったものになっていたかもしれない。(ミカエル・コバタ=毎週火曜日に掲載)
-
スポーツ 2015年05月18日 18時00分
野村克也と長嶋茂雄 厳戒「リハビリ闘病記」 〜スポーツジャーナリスト・吉見健明〜(2)
思えば、ノムさんの「生きる執念」や、現役にこだわり続ける姿は、私がずっと以前から見続けてきたものだった。それはミスターこと、長嶋茂雄(79)の姿である。私の11年間にわたるミスターのリハビリ取材は、この5月5日で3733日目になった。 当初、ミスターの辛い姿をファンに見せたくないという故・亜希子夫人の意向もあって、そのリハビリの様子はほとんど伝わってこなかった。亜希子夫人はミスターの極秘トレーニングのため、最新のリハビリ施設を備えた都内の高級マンションを用意し、そこでは壮絶なリハビリが行われていた。 リハビリは現在も続いており、火曜から土曜までは、マンションの近くにある国立自然教育園がその舞台。そして、特筆すべきは月曜日。この日だけは、自宅近くの多摩川台公園でリハビリをしているのだが、ここは一般の人たちも自由に出入りできる普通の公園である。そのためミスターが姿を現すと通勤、通学中のサラリーマンや学生がサインや写真を求めて次々と声をかけ、ミスターも時間の許す限り快く応じている。 毎週、近くの御婦人が朝の散歩に連れてくるワンちゃんと戯れ、無邪気に大声を出すこともリハビリの一環だ。ミスターは誰かれとなく「おはようございます!」と公園中に響き渡るような声で挨拶をするのだが、その声を聞いているだけで幸せな気持ちになる。 現役時代はミスターがくしゃみをしただけでニュースなると言われていたが、現在もミスターが犬にボールを投げただけで、その写真が誌面になるなど、華やかな存在感は変わらない。 「本当に野球が好きなんですね。まだ、現役の監督になりたいという願望があるようで、今のミスターの生きがい、リハビリへのモチベーションはそこにある。だから、周囲も長嶋さんの現場復帰という奇跡を信じているんです」(スポーツ紙幹部) それを象徴する光景として、土曜日のリハビリでは、決まって見せる動きがある。バットの素振りだ。 「毎回リハビリの最後に必ず10スイングすることが続いています」(同) 奇跡を信じてリハビリを続けるこのポジティブさこそ、ミスターのミスターたるゆえんである。 ノムさんとミスターは、現役時代から「月見草」と「ひまわり」の比較で語られてきたが、病気から現役復帰を目指してリハビリに励む現在は、双方とも家族の事情があって、親子関係は良好とはいえない。 「ノムさんは、団野村氏やケニー氏(サッチーの子供)との折り合いはよくない。ただ、団氏の会社が傾いた際にサッチーがこっそり援助した経緯などもあって、車の運転手の手配などは団氏の事務所がやっています。そしてなにより、克則がずっとそばにいますからね。克則の孫と一緒に食事をするのが一番の楽しみのようで、子供の日も孫と一緒だったと聞いています」(テレビ局関係者) 一方、ミスターの事情はさらに複雑だ。長男・一茂は奥さんの言いなりでミスターとは歯車が合わないといわれており、次女の三奈さんが面倒を見ている。 「この正月、ミスターのリハビリの様子がテレビで初公開されましたが、これは三奈さんの企画で、番組では一茂の存在が完全に無視されていた。この一点から見ても、長嶋家の確執の根深さがうかがえます」(同) それでも、2人の復帰にかける壮絶な執念は衰えることはない。79歳の2人のスーパースターはいまなお、その生き様で、私に希望を見せてくれている。
-
-
スポーツ 2015年05月18日 14時00分
巨人の敵はベンチ裏にあり! ポスト原で大混戦となった監督レース(1)
ゴールデンウイークが終わると同時に、読売首脳が“有事”に備え出した。きっかけは4月15日に原辰徳監督がインフルエンザで離脱したことだが、拍車を掛けているのがアウェーでの弱さだ。 今季は開幕2カード目のナゴヤドームの中日戦で3連敗。先週もマツダスタジアムの広島戦で3タコ。チームは35試合で19勝16敗(5月9日現在)の2位につけてはいるが、ことアウェーでは7勝12敗(同)と大きく負け越している。 「チームのタガが緩んでいるのです。3連覇した昨年までの3シーズンはホーム、敵地とも勝ち越している。しかし、Vを逸したその前の2011年、'10年は、ホームでの勝ち星は同じくらいあるのにロードで負け越し。東京ドームの試合はチケットもグッズもビールも売れるし、テレビ視聴率にも跳ね返ってくる。収益は全て巨人だから全選手がベストを尽くし、査定も高い。一方、敵地での収入は当然巨人には反映されない。だからフロントも選手も手抜きになるのでしょうが、それをホーム同様に、緊張感を植え付けて士気を高めるのが監督の手腕というもの。体調不良で試合を休むのも自己管理責任。そこを問題視しているのです」(スポーツ紙デスク) そんなチームで際立っているのが、川相昌弘ヘッドコーチの指導能力の高さだ。突然の代行にもかかわらず、5試合を4勝1敗で難なくしのぎ、原監督にバトンを返した。川相ヘッドの評価は上がりに上がった。その後に起きたのが、あの広島での赤っ恥3連敗。ケチの付き始めは新外国人フランシスコの失態だ。 インフィールドフライなのに三塁走者にタッチせず、サヨナラ負けという珍プレーを演出したかと思えば、翌日には一塁後方へのファウルフライに追い付きながら捕球をミスし、そのまま悪い流れを呼び込んで球団初の初回10失点を“お膳立て”。その翌日もバント処理ミスでエース菅野がボロボロに…。原監督から即刻二軍落ちを命じられた。 一方、DeNAはなぜか絶好調。5月以降の首位は8年ぶりのことで、これまたOBの中畑清監督の評価は上がったが、当然、原監督の株はさらにダウン。憂慮した読売首脳はシーズン中の休養も視野に入れ、次期監督の選定作業を再燃させているという。 もっとも、シーズンの途中交代は川相ヘッドに限られるが、オフでも一部フロントからは「川相を次期監督に」という待望論が湧き上がっている。 「二軍監督時代('11、'12年)の指導能力が素晴らしい。キャンプで全力疾走を怠った選手は迎えのバスに乗せず、球場から宿舎まで平気で罰走を命じた。早出や居残り練習は当たり前。当時の二軍は読売ドラゴンズと呼ばれたものです。絶頂を誇った中日の落合イズムが注入され、その落合氏の監督手腕はナベツネさんも高く評価していた。今の原巨人に欠けているものを川相に求めているのでしょう」(巨人OBの野球解説者)
-
スポーツ 2015年05月18日 12時40分
TBS・枡田絵理奈アナが第1子妊娠も… 素直に喜べない夫・堂林の悲しい現状
昨年12月25日、プロ野球・広島東洋カープの堂林翔太内野手(23)と結婚したTBS・枡田絵理奈アナ(29)が第1子を妊娠していることが明らかになった。堂林も、その事実を認めた。関係者によると、今秋に出産予定だという。 枡田アナは3月末ですべての収録を終え、残っていた有給休暇の消化に入ったが、いまだに未消化の有給があるとは驚き。いったい、何十日残っていたのか? というわけで、まだTBSに在籍しており、6月中に退社となるようだ。 新婚夫婦にとって、第1子の妊娠は大変おめでたい話なのだが、堂林にとっては、素直に喜べない事情があるのだ。 オープン戦で絶不調だった堂林は3月14日に2軍降格。開幕を2軍で迎えるハメに陥った。ようやく、4月5日に1軍昇格したが、スタメン起用されることはほとんどなく、ベンチウォーマーが続いている。 その成績は5月17日現在、16試合に出場し、23打数5安打0本塁打0打点、打率.217と悲惨なもので、いつ2軍に落とされてもおかしくない状況なのだ。 1軍に引き上げられた12年には全試合(144試合)出場を果たした堂林だが、昨季はわずか93試合の出場にとどまり、打率.246、8本塁打28打点と自己ワーストの成績に終わってしまった。 「結婚はレギュラーを獲ってからでいい。時期尚早」との声もあったようだが、結婚に踏み切った堂林。このような成績が続くようなら、それこそ、枡田アナが“下げマン”扱いされかねない。 産まれてくる子どものためにも、この先、挽回して、レギュラー奪取あるのみだ。(落合一郎)
-
スポーツ 2015年05月17日 18時00分
野村克也と長嶋茂雄 厳戒「リハビリ闘病記」 〜スポーツジャーナリスト・吉見健明〜(1)
凄まじい生命力だ。 ゴールデンウイークも終盤に差し掛かった5月5日午後7時。東京・田園調布の邸宅から一人の男性が姿を現した。ノムさんこと、野村克也氏(79)である。 野村邸の勝手口から道路までは8段の階段が設置されている。ホワイトブルーと黒のスラックスという洒落たいでたちに身を包んだこの日のノムさんは、手すりもない階段を、杖や他人の介護なしに、自分の足で下りてきたのである。確かにヨチヨチとした足取りは、かなり危なっかしい。だが、それでも自力で歩くノムさんの姿は感動的だった。 階段を下りたノムさんは、2時間半以上前から待機していた愛車レクサスの後部座席に乗り込んだ。そのすぐ後に階段を下りてきたのがサッチーこと、沙知代夫人。こちらは真っ赤なドレス風の派手なワンピースといういつもの“らしい”服装だ。報道陣の存在を警戒するかのように、右左をジロリと見回しながら、ゆっくりと車に乗り込みノムさんの隣に座る。 2人を乗せた車は環八から赤坂方面にゆっくりと走り去っていった−−。 野村氏の重病説が表面化したのは昨年11月下旬のことだった。10月にTBSのレギュラー番組を休養降板した当初は病状や入院先すらはっきりしない状況の中、私はノムさんの病状を追いかけ始めた。 取材から浮かび上がってきたのは5年前(2010年)に患った胸部の解離性大動脈瘤の再発だ。昨年10月に都内の病院で手術を行っており、一旦は退院したものの、体調が優れずに再入院までしたという。 3月には私との連係プレーで、『フライデー』がホテルで息子の克則夫妻らと会食するノムさんをキャッチ。サッチーの肩を借りて歩く写真を掲載している。激ヤセしたその姿は、病状の深刻さをうかがわせるに十分なものだった。 以降、ノムさんはすっかり人前から姿を隠しており、『腰痛が激しく一人では歩けない』『克則がキャンプから帰ってきて肩を貸して歩いていた』といった話が続々流れるなど、病状は予断が許せないとの情報も飛び交っていた。 「退院後は地方の仕事は禁止となり、都内の有名ホテルをオフィス代わりにして、週に4日はここに通ってテレビや雑誌の取材などの仕事を受けていました。ただ4月になってからは自宅にいることも増えているようです」(スポーツ紙記者) この間、サッチーには、家のインターホン越しに何度も病状を直撃しているのだが、そのたびに「誰がそんなこと言っているのよ。ないわよ!」との返答だった。ノムさんに近い関係者がこう心配を口にする。 「野村さんは『早期発見で助かった。今回はメスは入れてない。1カ月も入院していれば体重が減るのはしょうがない』と言っていますが、実際は大手術をしているし、齢を考えればやっぱり心配です。まだ完全に治ったわけではないし、再発の可能性もゼロではありません。しかも、かなり腰痛がひどくて一人では歩けない状態です。サッチーは、『働かないと体は弱る一方だから、どんどん仕事しなきゃ』とテレビなどの取材を入れようとしているようですが、まだ体力も完全に戻っていないし、正直、もう少し休ませてあげてほしいところなんですが…」 こうした周囲の声もあって、私も、ノムさんはまだサッチーの肩を借りなければ一人で歩くこともできない状況なのだろうと勝手に思い込んでいた。 それだけにこの日、独力で歩くノムさんの姿を見ることができたのは嬉しい出来事だった。その姿からは、復帰に向けた執念、生きるパワーが伝わってきた。
-
スポーツ 2015年05月17日 14時00分
東京五輪“協賛マネー”3000億円後押しで香川真司「FC東京」復帰
サッカー日本代表のエース香川真司(26)のJリーグ“レンタル”復帰が囁かれているが、2020年東京五輪の開催都市を本拠地とするFC東京が、獲得準備を進めているという。 発端は、香川の後ろ盾だったドルトムントのクロップ監督の今季限りでの退任が決まったこと。後任には現マインツ監督のトゥヘル氏が内定しているが、同氏は就任条件にマインツのエースストライカー岡崎慎司(29)の獲得を挙げているとされ、香川は来季構想から外れた格好なのだ。 「岡崎は自己最高だった昨季の15得点に続き、今季も2ケタ得点と評価はうなぎ上りです。'12年に英マンチェスター・ユナイテッドが香川の獲得でドルトムントに支払った移籍金は19億円。岡崎の評価はそれを上回っている。英レスターが岡崎の獲得に19億円を提示したのですが、マインツはこれを拒否しました。ドルトムントが岡崎を手に入れるには、20億円超が必要ということでしょう」(大手広告代理店) 香川と岡崎がジョイントすれば日本のサッカーファンは大喜びだが、そうはいかない。これをサッカー先進国ドイツが許すはずもなく、観客動員にも響く上、選手人件費もかさむ。そこで香川放出の流れができたのだが、すかさずこれに目を付けたのが、五輪景気を見込むFC東京だという。 「スポンサー集めに長けた五輪組織委員会には、既に3000億円超の資金が集まるめどが立った。この一部を東京五輪開催都市にあるFC東京に投入すれば、香川の獲得は容易です。これで五輪サッカーを盛り上げようという大義もある。オーバーエイジ枠で香川を起用できれば十分に元が取れるという計算でしょう」(スポーツ紙デスク) FC東京のFWで日本代表の新星、武藤嘉紀(22)の海外移籍が本格化しているのも、香川の日本復帰の布石とみられている。 日本代表ハリルホジッチ監督は「所属クラブで控えに甘んじている選手は代表には呼ばない」と語っている。エース香川に残されている選択肢は、Jリーグへの復帰しかない。
-
-
スポーツ 2015年05月17日 10時00分
小塚桃子ゴルフ連載(34)第七部・ゴルフダイエット編「私の失敗談」
5月の中旬だと言うのに30度を超える日が続いています。連日、真夏日の夏場は身体が慣れているので特段、注意は要りませんが、今の様に「突然の夏到来」は危険。「春仕様」で真夏日の対策が出来ていない身体だけに、熱中症を始めとする体調不良が起こりやすくなります。 これは、ゴルフでも言える事。ゴルフ場は日陰が少なく、直射日光をモロに浴びるので要注意です。この時期、ゴルフ場に行かれる方は熱中症対策を万全にとって下さい。 さて、今回のテーマは「ダイエット」。カートに乗らずラウンドした場合、消費カロリーは1000〜1200キロと言われるほど、ダイエット効果が期待できるスポーツです。 それなのに、「ゴルフダイエット」が今一つ浸透しないのは何故だと思いますか? 答えは簡単。プレー中の飲食とカートの存在です。 今回は私がデビュー前、12キロ太った話を中心に「ゴルフダイエット」の失敗談をお送りします。 1000〜1200キロカロリーと言ってもピンとこないと思います。分かりやすくランニングで比較しましょう。 時速10キロ(1キロ6分ペース)で5キロ(30分)走ると約200キロカロリー消化した事になります。それを考えたら、ゴルフは手軽で楽しく減量が出来ることが理解出来ると思います。 ここからは、私の失敗談。私はゴルフ場に到着すると必ず、レストランに入るジンクスがあり、「プレー前にはしっかり朝ごはんを摂って、コースに…」というのが私のスタイルでした。 日本の場合、ハーフに要する時間はおよそ2時間半。次のハーフに行くまで、ここで休憩…少し早いランチとなります。勿論、150分前に朝食を摂ったばかりで、全然お腹は空いていない状態。ところが1時間の休憩があるとレストランに入るモノ。そこで美味しそうな食べ物を見つけると、つい食べたくなります。 分かりやすく具体例をあげますね。7時にゴルフ場に到着。レストランに直行で朝食。8時にラウンド開始。10時半にハーフが終了。レストランでお昼。12時に後半がスタート。14時半、終了。少しお腹が減るのでレストランで軽めの食事。帰宅後、普通に晩御飯…こういった感じです。 この生活をゴルフ留学時にしていたので、私は知らず知らずのうちに12キロ増。気が付いたら「別人」になっていました。 帰国後、友達から「別人」になった事を指摘された私は、ダイエットを敢行。炭水化物をカット。就寝3時間前以降は物を口に入れない。ゴルフはカートを使わず、全て歩き、無駄な食事は控える…。この生活を貫徹出来たので、僅か2カ月でマイナス12キロに成功。留学前の身体に戻しました。 ただ、減量の弊害もありました。太っていた時はドライバーが良く飛び、球筋も「ビューン」とまっすぐ力強かった。が、元通りになった途端、球筋は弱々しく「ヒューン」と力ないモノとなりました。飛距離も4分の3程度になりましたね。 やはり、12キロ太った時は、体がずっしりしているので、下半身を固定する事が出来たので、安定して打てました。勿論、体重増で上半身も大きくなったからか、ヘッドスピードが速くなりました。 太って良い事もありますが、これは一時的な現象。やはり、健康的な容姿がゴルフ上達の道だと私は考えます。小塚桃子オフィシャルブログ「季節はずれのももリンダ」http://ameblo.jp/koduka-momoko/
-
スポーツ
ハッスル消滅!? 小川H軍休止宣言
2006年12月27日 15時00分
-
スポーツ
大みそかボビー弟と対戦 金子賢 前田道場入り
2006年12月14日 15時00分
-
スポーツ
珍指令 KID 秒殺禁止
2006年12月12日 15時00分
-
スポーツ
生還小橋に捧ぐ 三沢 GHC奪還
2006年12月11日 15時00分
-
スポーツ
猪木 緊急提言 想定外プロレスをやれ!
2006年12月05日 15時00分
-
スポーツ
1・4東京D「レッスルキングダム」 新日本 全日本“乗っ取り”へ秘策 長州3冠戦出撃
2006年11月16日 15時00分
-
スポーツ
復活1・4東京D大会へ秘策 新日本最終兵器サイモン猪木 IWGP挑戦!?
2006年11月07日 15時00分
-
スポーツ
来春ビッグマッチ パンクラス芸能人最強決定戦 坂口憲二 今田耕司 押尾学
2006年10月31日 15時00分
-
スポーツ
大みそか参戦ほぼ決定 芸能人対決 金子賢vs押尾学
2006年10月10日 15時00分
特集
-
岡平健治「19」解散は「お金の問題じゃない」 岩瀬敬吾、地元に戻るのを「止められてよかった」 今後はバラエティーで「ポンコツっぷりを見て笑ってほしい」
芸能
2025年08月05日 23時00分
-
野球人生“燃え尽きた”元プロ野球選手・宮國椋丞氏 今後は「周りの人に頼られたり、笑顔にしたい」
スポーツ
2025年07月25日 23時30分
-
-
豊ノ島、YouTubeチャンネルで若乃花とコラボ熱望 タレントとして相撲番組で「冠番組」持ちたい
芸能
2025年07月21日 12時00分
-
宮迫博之「雨上がり決死隊」再結成は「蛍原さん次第」 ドジャース始球式の裏話も明かす
芸能
2025年07月14日 17時00分
-
元ザブングル松尾陽介、沖縄で芸人のセカンドキャリアサポート 芸人引退に「心境の変化」
芸能
2025年04月28日 19時03分