スポーツ
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スポーツ 2015年06月16日 11時00分
北島康介の去就も左右した水連・競泳委員長に平井伯昌氏内定の裏
競泳界のスーパースター北島康介の周辺が、またもや騒がしくなってきた。5月のジャパン・オープン平泳ぎ100メートル決勝では、平凡なタイムで5位に終わったのだが…。 「辞めたくても辞められないのでしょう。今も競泳界は北島の知名度で協賛企業が集まっているので」(日本体育協会詰め記者) それだけではない。日本水泳連盟(水連)もお家騒動に揺れていた。強化担当のトップである上野広治委員長を交代させ、平井伯昌ヘッドコーチを次期委員長にする方針を決めたのだ。 「平井ヘッドは北島をはじめ、寺川綾、荻野公介などを育てた名コーチ。東洋大水泳部の監督を務め、スイミングクラブの指導者も兼任している。有力選手を自身のチームに誘い続け、その発言力は水連内でも無視できないほど大きくなってきました。狙いは上野-平井ラインを崩して、平井さんの影響力をそごうということでしょう。委員長になれば、現場からはどうしたって距離を置かざるを得ませんから」(同) 平井氏の発言力がここまで増したのは、教え子に北島がいたからこそという面もある。その師弟関係を指してこんな声も聞かれた。 「このままでは北島はリオ五輪代表から落選してしまう。北島が復活しなければ、平井氏の影響力は自ずと失墜するものと思われます。他クラブから移籍した荻野は北島と違って、無名時代からの二人三脚ではありませんので」(関係者) 北島はトレーニング機器を扱う会社の社長に就任している。世界大会で解説を務めるなどし、すでに“第2の人生”を歩みつつあるが、本人の未練とスポンサー問題でロンドン五輪後も現役を続けてきた。そして今後は、師匠の立場にも影響が及んでくる。 「浅田真央の現役復帰を望んだのは、羽生結弦を公私で支える元強化部長、城田憲子氏の復権を阻みたい連中。競技は違っても、メダリストの去就には連盟幹部の進退が絡むようですね」(同) 北島も浅田と同じように、自分以外のために復活を期することになりそうだ。
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スポーツ 2015年06月15日 16時00分
広島・マエケン我慢の限界「これじゃメジャーに行けん!」(1)
広島のエース・前田健太(27)の怒りが爆発寸前! 今季のカープは優勝候補の筆頭に挙げられていたが、いまだ最下位付近に低迷している。開幕ダッシュに失敗したころは「そのうちエンジンがかかってくるだろう」とファンも大目に見ていたが、鯉のぼりのシーズンが過ぎ、交流戦も終盤を迎えたというのにもたついたままだ。その敗因は打てない打線に尽きるが、「最少失点に抑えても報われない先発投手陣の集中力も切れ掛かっている」と“内部崩壊”の危機も囁かれ始めた。 火薬庫は、粘投しても勝ち星が増えないマエケンだ。 「前田はメジャー挑戦の夢をいったん封印し、チームの優勝に懸けています。松田元オーナーとも話し合い、『優勝し、誰からも応援してもらえるような活躍を見せてから渡米する』という気持ちで挑んでいます。でもチームは一向に浮上せず…。このままではポスティングによるメジャー挑戦は夢のまま終わってしまいます」(担当記者) 6月8日現在、チームは25勝32敗、首位巨人から6.5ゲーム差を付けられての最下位。前田個人は4勝4敗だが、防御率はリーグ2位の1.76、奪三振数も73で同じく2位の好成績である。既に82イニングを投げているが、被本塁打はたったの『1』。先発投手に対するメジャーリーグの評価項目でもあるクオリティー・スタート(6回を自責点3以内に抑える)に当てはめれば、11試合の登板全てでそれをクリアしている。 今シーズン、マエケンが登板した翌日のスポーツ新聞には『見殺し』なる見出しがよく躍る。 「5月26日の千葉ロッテ戦では勝利したものの、救援陣が失点を重ね、マエケンの勝ち星が消える寸前でした。6月2日の日本ハム戦は8回2失点の好投もむなしく、救援陣が最終回に逆転を許してしまいました」(同) 昨季の快進撃とは大違いである。「打てない」のはある程度、予想されていた。しばらくの間、本塁打王のエルドレッドを欠き、得点力のダウンは否めなかった。 「緒方孝市監督は二軍監督も経験しており、今の主力選手の若手時代を知っています。彼らをかわいい、一人前に育ててやりたいと思う気持ちが裏目に出ている感じです」(ベテラン記者)
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スポーツ 2015年06月15日 11時00分
オリックス宮内オーナーが泣きつくイチロー・田口次期監督の可能性
交流戦の最中、オリックス・バファローズの森脇浩司監督が成績不振の責任を取り休養宣言した。 まるで1年前のプレイバック。西武ライオンズ・伊原春樹監督がほぼ同じ時期、同じ理由で休養を発表し、その後は田辺徳雄打撃コーチ(当時)が監督代行を務め、今季はそのまま監督に昇格した。オリックスは当面、福良淳一ヘッドコーチが采配を振るうが、こちらはもうひと波乱起こりそうだ。 「昨季は西武だけでなく、楽天も星野仙一監督が途中で抜けた。佐藤義則投手コーチを星野監督の代行に立てた後、成績が振るわず“代行の代行”で当時の大久保博元二軍監督が呼ばれました。福良ヘッドでチームが浮上しなければ、楽天の二の舞いも十分にあり得ます。ましてオリックスは大型補強をし、優勝を狙うつもりでシーズンインしていますからね」(在阪記者) 最低でもAクラス、クライマックスシリーズ進出が経営陣の要望だろう。 「今のオリックスに適した新監督を探すのは困難ですよ。チームは大型補強の影響で若手の台頭はなく、一発狙いの大砲をそろえただけの打線です。こういう戦力の扱い方に慣れていて、かつ若手の育成もできる指揮官となると、監督経験を持つ年長のOBに限られてくる」(スポーツ紙デスク) チームOB・田口壮氏の名前が報じられていたが、宮内義彦オーナーの大本命はイチローだという。だが、今は監督経験ゼロの青年指揮官を迎える時期ではない。 「宮内オーナーは優勝を切望していますが、その前にチームの抜本的な改革が必要」(前出・在阪記者) オリックスは阪急の有力OBとの距離を縮めていない。「ブレーブス」の名前が消滅し、また近鉄とも合併したが、バファローズOBとの距離も同様に縮めていない。ブレーブス、バファローズの両有力OBが協力すれば、危機的状況は打開できるのだが…。 「関西圏は阪神人気と対抗しなければならないので、経営的に非常に厳しい。阪急、近鉄の両OBに冷たいのは、彼らの名前でお客が増えないからです。まあ、森脇監督は機動力野球の指揮官なのに、大砲ばかりそろえた補強では何もできないのと同じ。チーム低迷の責任はフロントにもあります」(同) 現役メジャーリーガーのイチローはもちろんだが、OB冷遇のチームでは、たとえ頼まれても田口氏も二の足を踏むことだろう。
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スポーツ 2015年06月14日 16時00分
復帰の目処が立たない松坂大輔 育成枠契約で再契約か?
福岡ソフトバンクホークスの松坂大輔(34)がますます苦しい立場に追いやられた。5月20日に二軍戦で登板したものの、出遅れた原因の右肩痛が再び悪化。リハビリ生活に逆戻りしてしまったのだ。球団はここまで松坂に復帰までの調整プランを全て任せてきたが、状況次第ではその特権も白紙に戻すという。 「そうはいっても、松坂にもプライドがある。いまさら復帰のメドが立たないからと言って、コーチが命令口調で『ああしろ、こうしろ』と指示しても逆効果です。復帰までの十分な時間を与えてやるしかない」(球界関係者) ホークスは優勝を目指すチームである。松坂というビッグネームを使い、人気目当ての集客をするために、一軍で調整登板させることもできた。しかし、工藤公康監督(52)が松坂を二軍調整させてきたのは、右肩の故障のせいだけではなく、勝てる要素が少ない投手を投げさせられないからだ。 「今年のパ・リーグは120試合を過ぎても、優勝チームが決まらないのではないか。上位チームがピンポイントの補強を狙って、駆け込みトレードを仕掛ける球団も出てくるでしょう。ホークスは選手層の厚いチームですが、復帰のメドが立たない投手をいつまでも待っているほど余裕があるわけではない」(スポーツ紙記者) 松坂に対しては、復帰までの十分な時間を与えてやるのが妥当なようだが、そうなると、ホークスは大事な70人の支配下登録枠を1人分無駄にしていることになる。そこで浮上してきたのが、第2の斎藤和巳といえるような策だ。 斎藤は2007年シーズン中に右肩腱板損傷で戦線を離脱した。その後、長いリハビリ生活に入ったが、業を煮やした球団は11年に支配下登録を外し、リハビリ担当コーチとして、現役復帰を目指すよう通達した。その措置に斎藤は憤ったが、受け入れざるを得ず、復帰を目指したが13年途中に引退を表明した。つまり、松坂も近々の復活が難しいようであれば、いったん支配下登録から外し、育成選手契約にする計画があるというのだ。 「松坂も今の状況に焦りを感じているのは間違いありません。一度、支配下登録から外してやった方が、追々は本人のためかもしれない」(前出関係者) ホークスは三軍制を敷いている。支配下登録を外れれば、自動的に三軍扱いとなり、二軍戦に出場するチャンスはさらに少なくなる。ホークスの三軍選手は主にプロアマ交流戦に出場しており、松坂が社会人、大学生相手に投げることになるかもしれない。 「右肩が本調子ではないからかもしれないが、二軍戦で登板した際に球速は月並みでした。右肩の開きも早いため、もし一軍戦で投げていたならば、釣瓶打ちにされた可能性もある」(同) しかも、松坂はリハビリだけでは体力を持て余してしまうからか、体重過多にも陥っている。支配下登録を外れるのは屈辱以外の何者でもないが、じっくりと時間をかけてリハビリに取り組んだ方が良策かもしれない。もっとも、アマチュアに痛打されたときには、立ち直れなくなるかもしれないが…。
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スポーツ 2015年06月14日 10時00分
小塚桃子ゴルフ連載(38)第七部・ゴルフダイエット編「水分補給は必須」
6月の折り返しを迎えました。一年の早さを実感しますね。 夏は汗をかくので、ダイエットに最適−−とお考えの方が多いと思います。実はこの考え方、間違いなんです。 確かに夏は発汗が多く、体内の水分値が低くなります。分かりやすく言えば、脱水気味になります。そうなると脳が「水を飲め」という指示を出し、喉が渇く。ダイエッタ−では無い場合、ここで水分補給をします。 ところが夏の暑さを利用して痩せようとしている方は、そこで水分補給を自重する。すると、脳は血液を分解して、それを水分の代わりにするよう指示します。結果、半脱水し、血液中にある水分が不足、血液もドロドロになり、身体に負担がかかります。 何より、脳へのダメージが計り知れない。最悪のケースは、くも膜下出血を誘発するそうです。 ですから、6月から9月まではダイエットを意識しない事。ゴルフ場は日陰が少ないので、熱中症になりやすい。こまめな水分補給は絶対、行うようにして下さい。水よりもスポーツドリンク、熱中症予防のドリンクがいいでしょう。 さらに日傘や帽子も必需品。特に帽子は直射日光の影響で頭皮が焼けるので、サンバイザーよりもしっかりしたモノ(帽子)の方が良いと思います。 一方、女性の夏ゴルフ対策は日焼け止めを忘れない事。ウェアは日焼け防止で長袖になるのは仕方がありません。が、前述の通り、熱中症と背中合わせになっている事は心して下さい。水分補給は必須です。 どうしてもダイエットが必要な場合はプレー中の食事を控え、移動を歩きでは無くジョギングにすると効果的。結構、アップダウンがあり、足への負担が大きい。勿論、スポーツドリンクを片手に補給しながらのジョギングになります。 心掛け一つで無理のないダイエットが出来る事は忘れないで下さいね。ただ、このジョギングもキツイと言えば、キツイです。脱水を促進する様な「ラク」に思えるダイエットは効果が薄く身体へのダメージが大きい。その逆でしっかりした運動はキツイですが、身体へのフォローをすれば、効率の良いダイエットに直結します。 私は夏場、標高の高いゴルフ場でプレーします。涼しい事がその理由ですが、酸素が薄い為からか、ボールが良く飛ぶ。打球=球筋を見るには絶好で、秋の本格シーズン前の調整には最高です。 コールドスプレーと氷嚢は必ず持参します。「夏は無理をしない」。当たり前の事を当たり前にする。簡単な様で難しい事ですね。小塚桃子オフィシャルブログ「季節はずれのももリンダ」http://ameblo.jp/koduka-momoko/
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スポーツ 2015年06月13日 16時00分
阪神補強連敗いまだ継続中 藤川球児が独立リーグを選んだ真相
藤川球児(34)が日本復帰のステージとして、古巣の阪神ではなく、四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグスを選んだのは既報通り。同チームはかつて、実兄がゼネラルマネージャーを務めていたとはいえ、誰も予想できなかった移籍になった。 「藤川サイドから高知球団に連絡が入り、入団が可能か否かを探ってきました。対応に当たったのは同球団の一部の幹部だけ。藤川サイドの売り込みと聞かれればその通りなのですが、高知側も半信半疑でした」(地元関係者) 「帰って来てくれるはず」と信じていた阪神の落胆は計り知れない。しかも、阪神の入団オファーに対する正式な断りの電話が藤川サイドから来たのは、高知入団発表のあととも言われている。一方で、阪神上層部には事前に連絡を入れていたとの情報もあり、藤川の律儀な性格を考えると筋は通したと思われるが、阪神は2014〜15年オフの補強でも全敗しており、編成部門を根底から見直さなければならなくなった。 「藤川のトラ帰還が実現しなかったのは、ショックですよ。藤川が帰ってくれば、チームの起爆剤になったはずですから」(在阪記者) 藤川の高知入りが正式に発表されたのは、6月1日。前出の地元関係者によれば、藤川サイドから売り込みがあったのは5月25日前後。ちょうどその時期、藤川の代理人を務める人物は阪神幹部と会っており、特命を受けた在米有力者が藤川本人とも会談している。要するに、阪神が帰還オファーを進めていた真っ最中に、自らを高知球団に売り込んだわけだ。 「阪神時代の藤川は米球界挑戦の相談を何度もしていますが、上層部は頑として首を縦に振ろうとしなかった。憶測に過ぎませんが、ひょっとしたら、わだかまりがあったのかもしれない」(前出記者) 6月8日、藤川は高知のユニフォームに袖を通し、無報酬で投げることも発表した。しかも、高知球団は藤川が登板した試合の入場者収益の10%を児童施設に寄付することも決めた。高知県出身の藤川らしい、心憎い配慮である。 「NPBよりも地元愛を選んだ、藤川流の男気に高知は盛り上がっています」(前出関係者) 阪神は藤川の高知入りが決まった後の対千葉ロッテ戦(2日)で、クローザーの呉昇桓がまさかの逆転満塁弾を浴びた。和田監督はガックリと肩を落とし、藤川を「球団の宝」と賞していた坂井信也オーナーも、厳しい表情を浮かべたまま球場を後にした。藤川にフラれ、かつての藤川と同じ背番号を付ける呉が敗戦投手になる。泣きっ面に蜂とはこのことであろう。 藤川が阪神を選ばなかった理由は他にもあるようだ。 「藤川は一昨年6月に右肘にメスを入れています。そのトミー・ジョン手術から完全復帰を果たすには約1年半を要するとされ、この復帰イヤーとなると目されていたのは今季でした。藤川は高知で自分のピッチングを取り戻し、来季、メジャーに再挑戦するのではないか」(球界関係者) 藤川は阪神のなかでも選手別グッズの売上が高く、トラ復帰が実現していれば、営業的にもウマミはあったはず。独立リーグでの契約は基本的に1年。メジャー復帰を目指すのならば、古巣阪神よりも郷里の方が都合がよかったのかもしれない。
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スポーツ 2015年06月12日 14時00分
俺たちの熱狂バトルTheヒストリー〈カンムリワシ 具志堅用高〉
具志堅用高のプロデビューは1974年。その前年、沖縄・興南高校3年時にインターハイで優勝し、協栄ジムのスカウトを受けてのことであった。 沖縄がアメリカから日本へ返還されたのは'72年のことだから、もしこれが1年でも遅れていたならば、インターハイの出場もプロデビューもなかった可能性は高い。 WBA世界ジュニアフライ級王座を獲得したのは'76年。当時の沖縄はまだ“車は右側通行”などアメリカの影響が色濃く残っていて、そんな中での具志堅の活躍は本土と沖縄をつなぐ架け橋ともなった。石垣島出身の具志堅を“日本の英雄”として、皆がそろって応援したのだ。 世界戦のテレビ中継は軒並み視聴率30%超え。5度目の世界防衛戦となった'78年の対ハイメ・リオス(パナマ)で記録した43.2%は、視聴率が機械によるオンライン調査となった'77年以降のボクシング放送では、今なおトップである(それ以前はアンケートによる調査で、'54年に白井義男の世界挑戦試合で記録した96.1%が最高値)。これは、その後に話題となった辰吉丈一郎vs薬師寺保栄や、内藤大助vs亀田興毅を上回るもので、どれほど具志堅への国民的関心が高かったかが、この点からもうかがえる。 「あのころは“今夜は具志堅の試合だ”などと日常会話が交わされ、夜の7時には仕事帰りの父親がテレビのまん前に座って家族みんなで応援したものです」(ベテランボクシング記者) アフロヘアに口髭という印象的なルックスに加え、そのわかりやすい強さも人気の要因となった。 「形ばかりの右ジャブを2、3発放つと、そこから一気に踏み込んで左右のラッシュ。腰が入って体重の乗ったパンチは丸太棒で突くような衝撃を感じさせるものでした」(同・記者) いったん火が付けば相手が倒れようとおかまいなしにパンチを浴びせ続ける。そんな猪突猛進のスタイルは相手のパンチを食らうことも多かったが、しかし具志堅は一切ひるむ様子を見せることなく、観衆は試合後の腫れ上がったまぶたを見て決して簡単な試合でなかったことに気付かされるのだった。 「あのころ使用されていたグローブは6オンスで、ガードの隙間から拳をねじ込めるほど小さい(現在は軽量級で8オンス、それ以上は10オンス)。15ラウンド制で試合数自体も多く、そのダメージは現代とは比較になりません」(同) そんな過酷な環境にあって、具志堅は次々と日本記録を打ち立てた。 “9試合目での世界戴冠”は当時の日本最速(現在は井上尚弥の6試合目)。“世界王座6連続KO防衛”は今現在も日本では具志堅のみ。世界戦連続防衛記録も、それまでの輪島功一、小林弘の6度を大きく更新した。 結果、世界13連続防衛は、今なお女子の小関桃(現在15連続防衛中)にしか破られていない。 '80年6月1日、高知県民体育館で行われたマルチン・バルガス(チリ)との12度目の防衛戦では、ジュニアフライ級世界王座防衛数の世界記録も塗り替える。8R、バルガスから計3度のダウンを奪いKO勝利を収めた具志堅は、グラブをはめたままの両手でマットを叩き、飛び跳ねて歓びを爆発させたものだった。 同級は具志堅が王座に就く直前に新設されたため、他の階級よりもやや選手層が薄い面はあったが、それでも当時は10位以内のランカーしか挑戦できないなど対戦相手のレベルは今以上に高かった。 「国民栄誉賞級の活躍ながら受賞とならなかったのは、所属する協栄ジムのいわゆる“毒入りオレンジ疑惑”の醜聞が流れた影響が大きかった」(スポーツ紙記者) 直接的に問題とされたのは同ジムの後輩、渡嘉敷勝男の試合に関してではあったが、具志堅の試合でも同様に試合前、対戦相手に下剤や筋弛緩剤を仕込んだ疑いは拭い切れなかった。 「もしジム側でそういう企てがあったとしても、本人は全く知らぬ中でのことに違いなく、実に残念ではあります」(同・記者) ただ、国民栄誉賞受賞となると、今のように気楽にテレビ出演というわけにもいかなかっただろう。 果たしてどちらが良かったか、人間万事塞翁が馬ということか。
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スポーツ 2015年06月11日 14時00分
USA発 新聞、テレビではわからないMLB「侍メジャーリーガーの逆襲」 プラス要素だらけでチーム再生のキーマンに? カブス大躍進を左右する和田毅の奪三振ショー
今季は開幕前にダルビッシュがトミージョン手術を受けて全休となったほか、和田毅も左足の付け根を痛めて開幕から故障者リスト入り。さらに4月下旬には田中将大が手首、岩隈久志が肩の広背筋を痛めて戦列を離れたためメジャーでは3週間以上、日本人の先発投手不在の状態が続いた。 この異常事態に終止符を打ったのが和田だ。昨季、カブスと契約した和田は7月途中までマイナーで投げたあとメジャーに昇格し、大半の試合で好投を見せた。 気の毒なのはチーム状態が悪いため、味方打線の貧打、内野陣の拙守、リリーフ陣の炎上などに足を引っ張られ、13試合の登板で自責点2以内に抑えた試合が10試合もあったのに四つしか勝ち星が付かなかったことだ(4敗)。 しかし、球団がオフに大胆な補強を敢行したことで状況は一変。大きなプラス要素がいくつも生まれた。和田にとって特に大きな追い風になるのは次の3点だ。(1)「打線の得点力が大幅にアップ」 昨季、カブスは得点力不足が深刻で、和田が投げるときランサポート(9イニングあたりの得点援護)はリーグ・ワーストレベルの2.92だった。 こうした得点力不足を解消するため球団はオフに大掛かりな補強を行ったほか、ブライアント、ソレルら並外れたパワーを秘めた若手をレギュラーに抜擢。それにより得点力はワーストレベルから平均レベルまでアップし、好投すれば高い確率で勝ち星が付くようになった。(2)「投手起用のツボを心得た監督」 今季カブスの監督に就任したジョー・マドンはメジャーきっての知将で、データをフルに活用することで知られる。和田に関しても、相手打線が1巡目の時は被打率2割0分4厘、2巡目の時も2割5分5厘に抑えているのに、3巡目になると被打率が3割6分0厘に急上昇することや、6回まではよく抑えるのに、7回になると投球が浮いて一発を食う頻度が急に高くなることなどを頭にインプットしている。その結果、和田は好投していても早めに交代を告げられることが多くなっている。和田は内心面白くないだろうが、結果的にこうした早い交代は、防御率をよくする結果につながる。 今季、2点台の防御率を出せれば、シーズン終了後、2年2000万ドル(24億円)レベルの契約も夢ではないだろう。(3)「リードのツボを心得た2人の捕手」 好調時、和田は速球と変化球を効果的に組み合わせて打者の目線を狂わせながらハイペースで三振を奪う。それにはリードのツボを心得た女房役が必要になる。昨季は第2捕手のベイカーがそのタイプで相性が良くバッテリー防御率は2.28だった。しかし正捕手だったウェリントン・カスティーヨは緻密なリードができないタイプで相性が悪く、バッテリー防御率は3.70だった。 今季はこの2人が去り、正捕手がミゲール・モンテーロ、第2捕手がデービッド・ロスという布陣になった。この2人はリードの上手さに定評のあるベテランなので、和田には好都合だ。 和田は先発の5番手なので、ロスと組むケースが多くなるだろう。この捕手は「落ちる系の変化球」を効果的に使うことに長けており、一昨年はレッドソックスで上原浩治の女房役として多大な貢献をした。カブスでも和田にとって頼りがいのある参謀になるだろう。 今季、和田に一番期待したいのはプレーオフのマウンドに立って好投し、カブスにとって105年ぶりとなるワールドシリーズ制覇に貢献することだ。 カブスが所属するナ・リーグ中地区は序盤カージナルスが驚異的なペースで勝ち星を積み重ね独走態勢に入りそうな雲行きだったが、大エースのウェインライトがアキレス腱断裂の大けがを負い勢いが止まった。差は4ゲームに縮まっているので追いつくのは時間の問題だろう。 カブスはデーゲーム主義の伝統があるため現在もホームゲームの65%がデーゲームだ。夏場、シカゴは酷暑になるので、デーゲームが多いと選手は消耗が激しくなる。しかも遠隔地でナイターをやったあと翌日ホームでデーゲームという強行軍もよくあるので、選手は睡眠管理にも苦労する。 このデーゲーム主義によるマイナスが大きいこともあり、カブスは大都市の人気球団であるにもかかわらず成績が振るわず、1908年のワールドシリーズ制覇後、106年間もシリーズ制覇から遠ざかっている。 1945年のワールドシリーズで一度制覇のチャンスがあったが、ペットの山羊を連れたビリーという男が本拠地リグレーフィールドに観戦に来たところ、職員に追い返されて激怒。「カブスは永遠にここでワールドシリーズを戦うことはないだろう」と呪いをかけた。するとカブスは本当にワールドシリーズに出場できなくなったため、「山羊の呪い」は米国で最も知られた呪いの一つになった。 それだけにカブスがワールドシリーズに進出するようなことになれば、大騒ぎになるのは必至だ。和田が好投を続けてそれに多大な貢献をするような展開になれば最高なのだが。 スポーツジャーナリスト・友成那智ともなり・なち 今はなきPLAYBOY日本版のスポーツ担当として、日本で活躍する元大リーガーらと交流。アメリカ野球に造詣が深く、現在は各媒体に大リーグ関連の記事を寄稿。'04年から毎年執筆している「完全メジャーリーグ選手名鑑」(廣済堂出版)は日本人大リーガーにも愛読者が多い。
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スポーツ 2015年06月10日 14時00分
照ノ富士の大関昇進で日本の国技がいよいよ“モンゴル大相撲”の違和感
大相撲夏場所で初優勝した照ノ富士(23、伊勢ヶ濱部屋)が大関に昇進した。三役2場所通過での“飛び級”は、年6場所制となった1958年以降では初の快挙だ。 協会からの使者を迎えた照ノ富士の注目の口上は、「今後も心技体の充実に努め、さらに上を目指して精進いたします」というもので、これまでこんなふうに口上に横綱昇進の決意を盛り込んだ力士はいなかった。 「さらに上を目指すというのは何回も言っているよ。ただそれを入れただけさ」 記者会見の席ではケロリとした表情でこう言っていたが、いかに自分の相撲に自信を持ち、また精神的にも強いものを持っているかがにじみ出ていた。 「大相撲界は強気な人間の集まりですが、照ノ富士はその中でも群を抜いていますね。千秋楽、白鵬が日馬富士に勝てば優勝決定戦にもつれ込むところでしたが、この一番を支度部屋のテレビで見ていたときも、『自分では優勝決定戦でもう1回勝つつもりだった』と堂々と言っていましたから。照ノ富士の辞書に、弱気とか控え目という言葉はありません。上り調子の伸び盛りですから、ホントに年内の横綱昇進もあるかもしれませんよ。まだ3場所もありますからね」(担当記者) それに比べて相変わらず線が細い日本勢。中でも期待の遠藤(24)は左膝の故障を抱えての強行出場だったとはいえ6勝9敗と3場所連続の負け越し。中盤までは支度部屋でも険しい顔で無言を貫くことが多かったが、終盤に何とか盛り返して十両転落だけは免れた。 「左膝にお疲れさまと言いたい」 千秋楽の支度部屋で遠藤は苦笑いし、「こういう状況の中で15日間、取り切ったというのは自信になる。収穫の多い場所だった」と総括していた。 しかし協会関係者の多くは、こんな平幕下位で負け越して笑みを浮かべている遠藤ではなく、もっと上位で照ノ富士らと激しく渡り合う“まなじり”を決した表情の遠藤を求めている。 この分ではますます照ノ富士、さらには来場所で関脇返り咲きが確実な逸ノ城らとの距離は開くばかり。 「次の横綱も大関も、またモンゴル勢。日本の国技はまるでモンゴル大相撲」 こんな嘆き節が協会内部から聞こえてくるが、それでも若貴ブーム以来の3場所連続15日間満員御礼を記録中。ファンは全く気にしていないのかもしれない。
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スポーツ 2015年06月10日 12時00分
【甦るリング】第11回・周囲に流され過ぎた高田延彦
現在、テレビ朝日「サンデースクランブル」にレギュラー出演するなど、タレントとして活躍する高田延彦(旧名・伸彦)も、プロレスラー、格闘家として名を残したレジェンドだ。プロレスラーで、引退後、芸能人として成功した稀有な例の一人だ。その高田なのだが、現役時代、あまりにも周囲に流され過ぎて、自分の意思を貫けなかった印象が強い。 少年時代、アントニオ猪木に憧れていた高田は、中学卒業後、高校進学はせず、プロレスラーになるべく自己流で体を鍛え、1980年に新日本プロレスに入門。道場では師匠格の藤原喜明、兄貴分の前田日明に徹底的にしごかれる。 81年5月にデビューした後は、細い体ながら、抜群のプロレスセンスとガッツあふれるファイトで頭角を現し、離脱した初代タイガーマスク(佐山聡)の後釜として期待を懸けられる。甘いマスクであることから、女性ファンにも人気が出た。しかし、84年4月に前田らが参加した旧UWFが旗揚げすると、師である藤原に誘われるまま、同団体に移籍してしまう。その理由は「藤原さんが新日本からいなくなると強くなれない」とのものだった。あの時、高田が新日本にとどまっていたら、そのプロレス人生は違うものになっていただろう。 その旧UWFは格闘路線を標ぼうし、新たなプロレスのスタイルを模索したが、興行不振のため、85年9月、志半ばで活動停止。タイガーはプロレス界から去ったが、前田、高田ら、他のメンバーは業務提携の名のもとに、新日本に復帰する。当初は新日本対UWFの対抗戦が主軸となったが、高田はジュニア・ヘビー級戦線に駆り出され、第2代IWGPジュニア・ヘビー級王座に君臨。全日本プロレスから移籍した越中詩郎と伝説の名勝負数え唄を繰り広げる。高田は前田とのタッグで、IWGPタッグ王座にも就いている。 87年になって、長州力らのジャパン勢が新日本にUターンすると、UWFの立場はなし崩し的になっていき、長州の呼び掛けにより、旧世代軍対新世代軍による世代闘争に転換される。そんな中、同年11月19日に行われたUWF軍対維新軍の6人タッグマッチで、前田は木戸修にサソリ固めをかけていた長州の背後に回り込み、その顔面を蹴って、長州の右目に大ケガを負わせる。プロレスの暗黙のルールに反したとして、前田は出場停止処分を受ける。解除条件として、メキシコ遠征を言い渡されるが、これを前田が拒否したため、88年2月、新日本から解雇される。 新日本から追放された前田は新生UWFの旗揚げに動き、高田は兄貴分に誘われて、山崎一夫らとともに移籍。高田は新日本で、それなりのポジションを確保していたが、また新たな道を進むことになる。新生UWFは格闘路線をまい進し、従来のプロレスに満足できなくなった層のファンから絶対的な支持を得て、一大ムーブメントを形成。高田は前田に次ぐナンバー2の座に就く。その後、新日本から、藤原、船木誠勝、鈴木実(後にみのる)が合流し、戦力アップを図り、89年11月に東京ドームに進出するなど隆盛を極めた。 しかし、選手とフロント間に不協和音が発生。前田がフロントの不正経理疑惑を糾弾したことに対し、背任行為として出場停止処分を下すなど、両者間の激しいあつれきが発生。結局、新生UWFは90年12月にあっけなく解散した。前田は残った選手で新団体設立を目指したが、話し合いは決裂。前田は孤立し、船木、鈴木は藤原に付いていくことになり、高田らはUWFインターナショナル設立に動く。高田はついに団体トップの座に就き、社長に祭り上げられることになるが、果たして、それが良かったのかどうか…。 91年5月に旗揚げしたUインターは、新生UWFよりプロレス寄りのスタンスを取り、スーパー・ベイダー(ビッグバン・ベイダー)、元横綱・北尾光司、プロボクシング元WBC世界ヘビー級王者のトレバー・バービック、サルマン・ハシミコフ、ダン・スバーン、ゲーリー・オブライトらを招へい。タッグバウト(タッグマッチ)を導入したりした。 だが、新生UWFが三派に分裂したことで、集客に苦労し、経営はひっ迫していくことになる。95年6月、「近い将来、引退します」と宣言した高田は、同年7月の参議院選挙で、さわやか新党に担がれて出馬するなど迷走(落選)。このあたりにも、「NO」と言えない高田がいたようだ。落選により、引退の話はどこかに消えて行ってしまった。 いよいよ、経営が厳しくなったUインターはポリシーを捨て、新日本との対抗戦に踏み切る。同年10月9日、東京ドームで開催された新日本対Uインターの全面対抗戦は、興行的には空前の大ヒットとなったが、エースの高田は武藤敬司に敗れ、大きなイメージダウンを被る。その後も新日本との対抗戦は継続し、その流れからWARとの対抗戦にも飛び火。基本的に、技を受けないスタイルだったUの高田と、典型的な受けのプロレスの天龍源一郎との異色対決は、意外にも名勝負を奏でた。だが、反面、Uのポリシーはどんどんあってないようなものになっていく。 その一方、方向性が違ってきたこともあり、所属選手が次々に退団。96年10月には、交流のあった東京プロレスからのオファーを断り切れず、高田がアブドーラ・ザ・ブッチャーと対戦するという仰天カードが実現。団体を守るため、高田はもはや、なりふり構わぬ姿勢を取ったが、ついにギブアップ。同団体は、同年12月で解散し、5年半に及ぶ活動に終止符を打った。高田は団体のトップとして、それなりの役割を果たしたが、経営者には向いているとはいえなかった。同団体のほとんどの選手は、新団体キングダムに移行したが、高田は参加しなかった。高田対ヒクソン・グレイシー戦を実現させるためのプランが進行していたからだ。高田は自らの道場を設立し、“400戦無敗の男”との対戦に向かうことになる。 そして、97年10月11日、東京ドームで開催された総合格闘技興行「PRIDE.1」(当時はKRS主催)で、高田対ヒクソン戦が実現するも、高田は完敗を喫し、プロレスファンの夢を打ち砕くことになる。その後、「PRIDE」シリーズは継続し、その代表選手となった高田はプロレスを封印し総合に専念。そのあたりから、「プロレスラー」と呼ばれることを嫌い、「ファイター」と称するようになる。 1年後の98年10月11日(東京ドーム)では、ヒクソンと再戦するも、またも敗退。高田の控え室は、マスコミ用のインタビュースペースの隣りに設置されていたが、試合後、大声で号泣する高田の嗚咽が漏れたのが記憶に生々しい。そもそも、「PRIDE」はプロレスファンを当て込んだ興行で、高田の存在は欠かせないものとなり、総合を継続。しかし、マーク・ケアー、ホイス・グレイシー、イゴール・ボブチャンチンに敗れるなど、戦績はかんばしいものではなかった。階級は違うが、弟子の桜庭和志が“グレイシー・ハンター”として、総合で大ブレイクを果たしたが、正直、高田は総合に適性があるとは思えなかった。 02年11月24日、東京ドームでの「PRIDE.23」で、高田はかつての弟子・田村潔司を相手に引退試合を行い、右フックで失神KO負け。Uインター時代、田村からの挑戦表明を高田が拒否した経緯があったが、二人はその遺恨をこの試合で水に流した。 引退後、高田はPRIDE統括本部長に就任し、運営会社のDSEが旗揚げしたエンターテインメントプロレス団体「ハッスル」に参画し、悪の高田モンスター軍を率いる高田総統に扮した。「ハッスル」では高田総統の化身の触れ込みで、ザ・エスペランサーとして復帰したが、これまた本人の意思だったのかどうか…。 09年7月をもって、「ハッスル」から撤退した高田は、リングと決別。その後、道場経営をしながら、タレントとして活動している。何度も大きなターニングポイントがあった高田だが、常に周囲の意見に流されてしまったイメージはぬぐえない。(ミカエル・コバタ=毎週水曜日に掲載)
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