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【記憶に残るプロ野球選手】第4回・ブッ飛んだ言動! “超天然”な新庄剛志

 記録より記憶に残るプロ野球選手といえば、1990年代、2000年代に日米を股に掛けてプレーした新庄剛志(43=阪神→メッツ→ジャイアンツ→メッツ→日本ハム)も、決して忘れられない存在だ。そんなに秀でてイケメンというわけではないが、男として抜群のプロポーション、プロ野球選手としては異例な派手なファッションで女性ファンのハートをつかんだ。さらには、天然ぶりを大いに発揮した数々の言動は常に注目の的となった。その上で、選手としても並みのプレーヤーではなかったわけだから、鮮烈に記憶に残る選手だ。

 新庄は長崎県の離島・対馬で生まれ、福岡県福岡市で育つ。「プロ野球選手になってほしい」との父親の強い要望で、野球を始めた。西日本短期大学附属高等学校時代、3年生の夏の福岡県予選で決勝まで進むが、福岡大大濠に敗れ、惜しくも甲子園出場を逃した。しかし、その足の速さと肩の強さは各球団のスカウトの間で定評があり、89年のドラフト会議で阪神から5位指名を受ける。もともと巨人ファンだったという新庄は指名順の低さもあり、プロ入りを迷っていたが、父親から「行けなかった甲子園でプレーできるだろう」との進言を受け、阪神入りを決意した。

 プロ入り後、当初は外野手だったが遊撃手に転向。2年目(91年)の9月に1軍初昇格を果たす。92年5月、三塁手のトーマス・オマリー(現阪神コーチ)の故障をきっかけに、“代役三塁手”としてチャンスをつかむ。オマリー復帰後も、その活躍が認められて、ポジションは遊撃手を経て、本来の中堅手に戻り、スタメン起用が続いた。この年、新庄は95試合に出場し、規定打席には達しなかったが、打率.278をマーク。高卒3年目ながら、2ケタ本塁打(11本)を放ち、レギュラーへの大きな足掛かりをつかんだ。

 93年にはレギュラーに定着。初めて4番を打つなど、102試合に出場し、規定打席にも到達。打率.257ながら、23本塁打を放ち、ベストナイン、ゴールデングラブ賞を初受賞し、阪神のスタープレーヤーの仲間入りを果たす。その後、順調な野球生活を送るも、ピンチが訪れたのが95年のこと。同年7月、新庄を買っていた中村勝広監督が休養となり、藤田平が代理監督を務めることになったのだが、新庄の成績は下降。故障の影響もあって、わずか87試合の出場に終わり、打率.225、本塁打7本と最悪な成績に終わった。

 同年オフの11月、契約更改交渉後の会見で、新庄は「野球センスがないからやめます」と突然の引退宣言。2日後には発言を撤回し、契約を更改したが、まだ23歳のバリバリのプレーヤーの引退発言は大騒動となったのだ。これが、新庄のぶっ飛んだ発言の始まりともいえる。後に明らかになったところによると、引退すると言い出したのは、藤田代行監督との確執が最大の原因とされる。撤回したのは実家から「父親の病気が悪化している」と伝えられ、「ユニフォームを着ている姿を見せるのが、オヤジへのいちばんの薬だと思った」として翻意した。しかし、当時父親が病気であったのは確かだが、新庄に引退を思いとどまらせるため、実際の病状より深刻に伝えたようだ。

 その藤田監督代行は96年に監督に昇格したが、成績不振のため、途中休養となった。この年、新庄は113試合に出場し、打率.238ながら、19本塁打をマークした。97年に吉田義男が新監督に就任すると、新庄は初の全試合(136試合)出場を達成。打率は.232と、この年も低かったが、4年ぶり2度目の20本塁打をマークした。98年オフには、野村克也新監督が誕生。新庄の肩の強さに目を付けた野村監督は、投手との二刀流を発案。練習を積んだ新庄は99年のオープン戦で、投手として登板もしたが、左ヒザを故障し、二刀流は断念。公式戦でマウンドに上がることはなかった。同年6月12日、甲子園での巨人戦では、同点の場面の12回裏一死一、三塁で、投手・槙原寛巳が敬遠しようとしたが、新庄は敬遠球を打ってサヨナラヒットとなり、これも“新庄伝説”のひとつとなっている。

 00年には131試合に出場し、打率.278、28本塁打、85打点と自己最高の成績を収めた。これも、野村ID野球の成果かと思いきや、後に「ID野球は理解できなかった」といった“らしい”発言を残している。同年オフ、新庄はFA権を行使。ヤクルト、横浜(現DeNA)が獲得に乗り出し、阪神も5年12億円(推定)の破格な条件で慰留したが、新庄が選択したのはニューヨーク・メッツだった。年俸は20万ドル(当時のレートで約2200万円)で、日本に残った場合の10分の1。これについて、「新庄は1ケタ金額を間違えたのではないか?」との逸話もある。01年、当時メッツの監督は元ロッテ監督で日本通のボビー・バレンタインとあって、新庄は開幕メジャー入りを果した。当初はベンチを温める機会が多かったが、じょじょにスタメン出場も増え、4番を打つこともあった。この年、123試合に出場し、打率.268、10本塁打、56打点の成績を挙げた新庄の年俸は135万ドルに上がり、日本円換算で初めて年俸が1億円を超えた。

 ところが、同年オフにジャイアンツにトレードされ、02年は118試合出場、打率.238、9本塁打、37打点の成績で、日本人として初めてワールドシリーズにも出場した。同年オフにはFAとなり、古巣のメッツに復帰。年俸は60万ドルに下がった。この年は故障の影響もあって、不振が続き、マイナー落ちも経験。わずか62試合の出場にとどまり、FAとなる。

 新庄が新天地に選んだのは、翌年から本拠を札幌に移転する日本ハムだった。新庄は試合前のシートノックで、被り物をして受けるなどのパフォーマンスで、ファンサービスに精力を注いだ。同年、オールスター戦に出場した新庄はホームスチールを成功させるなど、ド派手な活躍が目立った。9月20日のダイエー戦(札幌ドーム)では、同点の9回裏二死満塁の場面で、ホームランを放ったが、うれしさのあまり、二塁の手前で一塁走者を追い越す形となり、アウトとなり、幻のホームランを記録した。幸い、三塁走者の本塁生還は認められたため、チームはサヨナラ勝ち。これまた、新庄らしいエピソードだ。

 この年、移転1年目で日本ハムはプレーオフに進出し、新庄は観客動員に大いに貢献。自身も123試合出場、打率.298、24本塁打、79打点の好成績を残した。そして、06年4月18日、東京ドームでのオリックス戦。ヒーローインタビューの際、「今日、ヒーローインタビューという最高の舞台でみんなに報告したいことがあります タイガースで11年、アメリカで3年、ハムで3年…。今シーズン限りでユニフォームを脱ぐことを決めました」と、シーズンが開幕したばかりなのに、突然の引退表明。同年、日本ハムは快進撃を続け、25年ぶりのパ・リーグ制覇。さらに、中日との日本シリーズも制し、新庄にとっては最高の花道となった。

 引退後は野球界とは一線を引き、タレント、実業家として活動していたが、10年にはインドネシア・バリ島に移住し、絵画制作やモトクロス競技の練習に没頭。元スタープレーヤーとは思えぬ浮き世離れした生活を送っている。打者としては、1度も3割を打ったことがなく、2000安打にも遠く及ばない(日米通算1524本)新庄だが、ゴールデングラブ賞10回の抜群の守備力、サービス精神、天然キャラで多くのファンに愛された。指導者向きではないかもしれないが、いつの日か何らかの形で野球界に戻ってきてほしい人材だ。

(ミカエル・コバタ=毎週火曜日に掲載)

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