1985年4月20日に『殺意のバカンス』でデビューを果たすのだが、とても10代とは思えない色気があり、しかも聴かせる声量もあったことで、歌番組などではズバ抜けた歌唱力の持ち主だったこともあり、アイドルファン以外にも注目されていた。
そんな本田との初遭遇は、デビューしてすぐに行われた『殺意のバカンス』のキャンペーンだった。いつものように自転車を走らせて、後楽園ゆうえんちへ向かった。初本田に気持ちが高まり、現地に到着する前からテンションが異常だったのを覚えている。現地に着いて早々にレコードを購入して、握手券をもらいイベントスタートを待っていた。本田が登場するとまず思ったのが「何だこのキレイな人」だった。これまでの出会ったアイドルに対しての印象とまったく違った。しかもアイドルのデビュー曲なのに、いきなり殺意という言葉を使うなんて当時は考えられなかった。ある意味では衝撃的な出会いである。
強烈なインパクトを与えてくれた本田だが、私の地元にある高校に通っている情報が流れた。とはいえ学校まで行って会いたいという気持ちもなく、むしと自分の住んでいる地域に本田も行き来しているだけで嬉しかった。ほんの数か月で転校してしまったので、こんな気持ちでいられたのはわずかでしたけど。
しかし本田はスマッシュヒットはあるものの、アイドル歌手としてなかなか大ヒットに恵まれることなく数か月が経ってしまった。当時は『ザ・ベストテン』の10位以内のランクインが目安みたいなところもあったので、この域には達していなかったのが現実だ。その状況を打破するキッカケとなった曲が『1986年のマリリン』である。シングル5枚目にしてようやく『ザ・ベストテン』で最高順位2位を獲得し、名実ともにトップアイドルの仲間入りを果たした。
『1986年のマリリン』では、ヘソ出し腰フリが話題になり、パワフルでセクシーなステージパフォーマンスで人気が上昇した。これだけ素晴らしいパフォーマンスは生で観ないとマズいと思った私は、公開番組に片っ端から観に行くことにした。生での迫力はハンパなく、完全にファンは悩殺する破壊力を持ち合わせていた。
この頃からファンも急増して、出待ちをする人も多くなってくるのだが、公開収録の出待ちをしている時に、一気に本田に向かって雪崩れ込んでくるころがあった。それでも本田は集まったファンに対して、しっかり握手をしたりポーズを撮ったりと嫌な顔ひとつしないで、ファンサービスを怠ることもなく笑顔を振りまいてくれた。
しかしこれだけのヒット曲が出たにも関わらず1987年にはアイドル活動を辞め、MINAKO with WILD CATSという名義でロックバンドのボーカルに転身してしまった。そのロックバンドも2年たらずで解散。お世辞にも成功したとは言いがたかった。解散してから本田にとって低迷の時期がスタートするのだが、このタイミングでミュージカル『ミスサイゴン』の出演することになり、ミュージカルスターへと上り詰めた。『ミスサイゴン』での本田は、アイドル時代、バンド時代とも違い、好きだった歌を楽しそうに歌っている印象を受けた。
以降もミュージカルを中心に第一線で活躍をしていたのだが、2005年1月に急性骨髄性白血病の診断を受け、同年11月6日に帰らぬ人になってしまった。38歳という若さで亡くなり、アイドル界やミュージカル業界では大きな損失となってしまった。
私は90年代前半に『ミスサイゴン』を観た時が本田との遭遇は最後だったのだが、アイドル時代にずっと見てきた人が亡くなるのは本当に悲くて辛かった。今年で亡くなってからちょうど10年になるが、今でも本田の歌は色褪せることなく生き続けていることだろう。最後に素晴らしい功績を残してくれた本田美奈子にありがとうと言いたい。
(ブレーメン大島=毎週土曜日に掲載)
【ブレーメン大島】
小学生の頃からアイドル現場に通い、高校時代は『夕やけニャンニャン』に素人ながらレギュラーで出演。同番組の「夕ニャン大相撲」では元レスリング部のテクニックを駆使して、暴れまわった。高校卒業後は芸人、プロレスのリングアナウンサー、放送作家として活動。現在は「プロのアイドルヲタク」としてアイドルをメインに取材するほか、かつて広島カープの応援団にも所属していたほどの熱狂的ファンとしての顔や、自称日本で唯一の盆踊りヲタとしの顔を持つことから、全国を飛び回る生活を送っている。最近、気になるアイドルはNMB48の三田麻央。