捕手として守備に就いた際、バッターボックスの打者を惑わすために仕掛けた“ささやき戦術”はあまりにも有名。また、打席に入る際、ユニフォームをわざとダボダボにして、内角に際どい球がくると、「ボールがユニフォームに当たった」と大騒ぎ。投手が投じた球が手の近くを通過しようものなら、自分で手をつねって赤く腫らしてデッドボールをアピールするなど日常茶飯事だったのだ。そんなわけで、達川は“珍プレーの王者”として同番組では格好のネタだったのである。
そんな笑える存在の達川だが、捕手としては一級品。広島の黄金期を支えた一人でもある。生粋の広島っ子である達川は、当時の野球強豪校だった県立広島商業高等学校に進み、2度甲子園に出場。73年夏には全国制覇も成し遂げている。
高校卒業後、東洋大学に進学し、77年のドラフト4位で指名され、地元の広島入り。当時の広島にはレギュラーに水沼四郎捕手がおり、なかなか試合に出ることができなかったが、水沼が中日に移籍した83年に正捕手の座を獲得。以降、10年間、広島のホームベースを死守し、84、86、91年のリーグ優勝に大きく貢献した。
卓越したリードと、明るいキャラクターで投手陣からの信頼も厚かった。バッティングに関しては決して秀でたものはなく、86年の打率.274が最高。10年レギュラーを張った割には通算安打も895で、1000本にも到達していないのは意外だ。ベストナインとゴールデングラブ賞を、それぞれ3回受賞。オールスター戦にも7回出場している。
晩年は巨人でプレーした西山秀二捕手の台頭もあって、92年シーズン限りで引退。引退試合では代打に起用され、号泣したシーンは今でもファンの記憶に残っている。引退後はフジテレビ、ニッポン放送、テレビ新広島で解説者を務めていたが、福岡ダイエーホークスの王貞治監督からオファーを受け、95年にバッテリーコーチに就任した。だが、広島時代の後輩であり、当時、打撃兼守備走塁コーチだった高橋慶彦と選手の起用法を巡って対立したこともあり、わずか1年で福岡を去った。
98年には二軍監督として6年ぶりに広島に復帰。99年には三村敏之監督の退任に伴い、監督に昇格した。高校の大先輩である鬼軍曹・大下剛史をヘッドコーチに招へいし、若手の底上げを図ったが、一朝一夕には選手は育たず。
三村前政権は5年連続でAクラスを確保していたが、99年は5位にとどまり、大下コーチも退陣。達川監督時はとかく戦力が整っておらず、投手陣はボロボロ。99年オフには4番打者の江藤智がFA権を行使して巨人に移籍するなど戦力ダウンははなはだしく、00年も5位に終わった。達川は2年連続5位と成績不振の責任を取り、00年で監督を辞任した。監督として実績は残せなかったが、指導者としては高く評価されていたのも事実。02年には星野仙一監督に乞われて、広島のライバル球団である阪神のバッテリーコーチに就任。この年、阪神は18年ぶりのリーグ優勝を果たしたが、星野監督が勇退したことに伴い、1年でチームを去った。その後、フジテレビなどに戻り、長年、解説者を務めていたが、13年オフ、谷繁元信新監督のもと、再建を目指す中日から声が掛かり、バッテリーコーチに就任。実に12年ぶりにユニフォームを着ることになった。達川起用を決めた落合博満GMとは、これまで何の接点もなかったが、その指導力が評価されての入閣だった。
実は中日は02年にFAで入団した谷繁捕手(現・兼任監督)と入れ替わりに、横浜へ移籍した中村武志以来、自前の正捕手が育っていないという悲しい現実がある。中日で2年目を迎えた今季、谷繁の後を継ぐ捕手を育てられるかどうかが達川に課せられた課題で、バッテリーコーチとしての能力が問われることになる。達川自身も「指導者生命を懸ける」と言い切っている。
福岡に行っても、大阪に行っても、名古屋に行っても使う言葉は広島弁。独特のキャラクターでチームを明るくし、解説者時代も人気だった達川もまた、“レジェンド”のひとりである。
(ミカエル・コバタ=毎週火曜日に掲載)