第1回は「ヘディング事件」で、あまりにも有名になった宇野勝(56=中日→ロッテ)だ。事件が起きたのは81年8月26日、後楽園球場で行われた巨人対中日戦でのこと。2-0と中日リードで迎えた7回裏二死一塁、巨人の打者・山本功児はショートへのフライを打ち上げて、3アウトチェンジかと思われた。
ところが、宇野は平凡なフライを捕球できず、ボールは宇野の頭を直撃。大きく跳ね上がったボールはレフトフェンス側へ転がり、一塁走者は生還。本塁を狙った打者走者はアウトとなり、同点になるのは防いだ。
当時投げていたのは、後に中日の監督となる“闘将”星野仙一。宇野のエラーで狙っていた完封がならなくなった星野は、激怒しグラブを叩きつけたのだった。試合はそのまま、2-1で中日が勝って、星野は勝利投手になって、ことなきを得たが、この「ヘディング事件」は、“世紀の珍プレー”として終生語り継がれることになり、宇野は一躍その名を全国にとどろかせた。
ちなみに、その年、宇野は128試合に出場し、25本塁打、70打点、打率.282をマーク。それまでで自己最高となる成績を収めている。
宇野の珍プレーはそれだけではない。打った後、前の走者を追い抜いてアウトになったり、ユニフォームを忘れて、コーチのユニフォームを借りて試合に出場したりで、まさに“天然”なプレーヤーだった。
「ヘディング事件」があまりにも有名な宇野だが、その実力はかなりなものであった。千葉・銚子商業時代に甲子園に出場。76年のドラフトで3位指名され、中日に入団。意外な気もするが、宇野は強肩で、当時は遊撃手としての守備が評価されての指名だったという。
3年目の79年に頭角を現し、遊撃のレギュラーを奪取。持ち前の長打力を生かして、82年には初の30本塁打をマーク。84年には37本塁打を放ち、掛布雅之(阪神)と並んで、初めて本塁打王のタイトルを獲得。翌85年には41本塁打を記録したが、これは遊撃手としてのシーズン最多記録だ。
元来、本塁打が多い反面、三振も多く、通算1306三振は歴代18位(4月8日現在)。打率は決して高くはなかったが、89年には1度だけ3割(.304)を打った。92年、若手の台頭で出場機会が減り、成績も下がってしまい、同年オフ、交換トレードでロッテに移籍。ロッテでの2年間は出番も少なく、94年オフに戦力外通告を受けた。獲得する球団はなく、宇野はこのシーズンかぎりで現役を引退した。
実働18年間で打った本塁打は338本で、堂々の歴代32位タイ。中日在籍時に放った334本は、同球団の最多本塁打記録として今でも残っている。現状、中日にホームランバッターがいないため、この宇野の球団記録は当分破られることはないだろう。遊撃手として3回ベストナインを受賞しているが、守備面ではファインプレーが多かったものの、平凡な打球をエラーすることも多く、ゴールデングラブ賞を受賞したことは一度もない。
引退後は名古屋のメ〜テレ(旧名古屋テレビ)や東海テレビで解説者を務めていたが、04年に落合博満が中日の監督に就任すると、宇野はその打撃理論を買われ打撃コーチに抜てきされた。08年までの5年間、コーチを務めて2度のリーグ制覇、1度の日本一に指導者として貢献した。
退団後、再び、東海ラジオやメ〜テレで解説の仕事をしていたが、12年、中日に第2次高木守道政権が誕生すると、コーチに復帰。2年間、務めたが、高木監督の退任とともに退団。14年からは再度、メ〜テレ、東海ラジオで解説者として活動している。「ヘディング事件」で伝説のプレーヤーとなり、一連の珍プレーで笑わせてくれた宇野は、まさに“記憶”に残る選手だった。しかし、残した成績はホームランバッターとして立派なもので、実力も伴った選手だった。
(ミカエル・コバタ=毎週火曜日に掲載)