そのため、開発に向けた協議が始まったのは、太平洋戦争が始まってから半年ほど経った昭和17年4月となり、零戦を生み出した堀越二郎技師が担当することとなった。まず4月16日に行われた海軍側と三菱側の打ち合わせにおいて、海軍は零戦の成功から同等の格闘性能とさらなる重武装を要求し、機動性を高めるべく低翼面過重とすることも求めた。同時に、エンジンは中島飛行機において開発が進められていた「誉」を使用するよう、強く主張していた。
しかし、堀越技師は誉の安定性に危惧を抱き、自社において開発を進めていた「ハ43」を想定していたため、両者は鋭く対立した。そして、エンジンをめぐる対立と迷走が、結果的に烈風の死命を制したのである。
やがて、海軍から三菱に要求仕様書が提出されたが、伝えられる内容は概ね以下のようなものだった。
・零戦三二型と同等以上の格闘性能
・最大速度は高度6000メートルにおいて638キロ以上
・上昇速度は6000メートルまで6分以内
なお、焦点のエンジンは「昭和十八年三月までに審査を合格したもの」とし、当時はまだ開発途上だった三菱の「ハ43」を排除している。仕様が提示される前から、海軍と三菱とは協議を繰り返ししていたものの、こうして海軍は強引に誉の採用を決定してしまった。
ともかくエンジンも決まったことで本格的な開発がスタートしたが、雷電の作業や零戦の改良に人手を取られたこともあり、作業は遅延した。試作初号機が完成したのは昭和19年4月で、着手から2年も経過していたのである。
既に、開発開始直後のミッドウェー海戦で空母航空隊に壊滅的な打撃を受け、さらにガダルカナル島からも撤退を余儀なくされるなど、戦局は悪化の一途をたどっていた。そんな状況で、海軍の大きな期待を担った新鋭機が、この烈風だったのである。しかし、各種審査や初飛行の後、本格的な試験飛行が始まると、その期待は完全に裏切られた。それも、最悪に近い形で。
最大速度も上昇力も零戦とさして変わらないどころか、劣っていたのだ。そのような体たらくとなった最大の要因は、なんといっても誉エンジンの出力不足であり、堀越技師らの危惧は現実のものとなったのである。
この結果に対し、海軍はいったん烈風の開発中止さえ決意したが、もとより「誉」に対して懸念を表明していた堀越技師は黙っていられない。海軍に対しエンジンの換装許可を取り付け、当初の想定どおり「ハ43」を装備したところ、最高速度も上昇力も計画値に近い性能を発揮した。気を良くした海軍は、「誉」をあきらめ、エンジン換装機を「烈風一一型」として制式採用を決定、ただちに量産に入るよう三菱に命じた。
しかし、烈風はどこまでも不運な機体だった。エンジンの工場が空襲と東海地震によって破壊され、生産が不可能となってしまう。結局のところ、敗戦までに完成したのはわずかに数機で、もちろんなんら戦局に関与することはなかった。
またエンジンにタービン過給器を装備し、武装を30ミリ機関砲へ強化した対爆撃機用の「烈風改」も計画されていたが、こちらも実現することはなかった。
零戦の後継機である烈風の操縦性は良好であり、あるテストパイロットは「我に烈風2000機あらば、戦局の挽回も可能なり」と評したとさえ伝えられる。だが、そもそも三菱における「ハ43」の開発も難航しており、もし堀越技師らの主張が受け入れられていたとしても、昭和19年春の段階でエンジンが十分な性能を発揮できていたかどうかは疑問で、それどころか不具合続出で機体に装備できなかった可能性すらあるのだ。
結局、最近の研究では烈風でも米軍の新鋭機「F8Fベアキャット」などには及ばず、戦局を挽回するには至らないとの意見が大勢を占めている。さらに、当時の日本の工業基盤、燃料事情、激減した熟練搭乗員など、目に見えにくいが重要な要素も考慮すると、烈風も他の日本機と同様に大きな損害を出し、自爆攻撃機となりはてただろうとの指摘さえもある。これらの意見は、まったく妥当なものであろう。
しかし、零戦、隼、紫電改などの実戦で活躍した機体はともかく、試作機にもかかわらず戦後の少年誌などでスターとなった戦闘機は烈風のみと言っても良い。なぜなら、堀越技師を始めとする当時の関係者と戦後のファンが、ともに起死回生の夢を託した戦闘機であり、また実戦を経験しなかったからこそ「零戦の後継機」としての名誉を汚すことはなかったのだから。
(隔週日曜日に掲載)
■三菱十七試艦上戦闘機「烈風」要目
全幅/14m
全長/10.98m
全高/4.23m
翼面積/30.86平方メートル
自重/3266kg
最大重量/5315kg
発動機/ハ43-11型
最大速度/627km/h
実用上昇限度/10900m
航続距離/1600km
武装/20mm機関砲×2、13mm機関砲×2または20mm機関砲×4、60kg爆弾×2
乗員/1名