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【甦るリング】第5回・日本プロレス界の歴史を変えた藤波辰爾

 還暦を過ぎても、なおリングに上がり続ける藤波辰爾(61)。その藤波は3月には、世界最大のプロレス団体WWE(旧名=WWWF→WWF)から、日本人ではアントニオ猪木以来2人目となる殿堂入りを果たし、同29日(現地時間)には、米カリフォルニア州サンノゼで行われたWWE殿堂記念式典「ホール・オブ・フェーム」に出席。改めて、ワールドワイドなプロレスラーであることを再認識させられた。

 藤波といえば、新日本プロレス創業者であり、絶対的なエースであった猪木の正統的な後継者であり、その座をライバル・長州力と争った。長州が遅咲きだったため、藤波がエリートで、長州は雑草とやゆされることもあった。だが、実際のところ、藤波は叩き上げから這い上がった選手であり、逆にミュンヘン五輪出場の実績を引っ提げて、新日本に入団した長州はエリートだったのだ。

 大分県東国東郡武蔵町(現・国東市)出身の藤波は熱狂的なプロレス少年で、猪木に憧れていた。中学卒業後、いったんは地元の自動車整備工場に就職するも、プロレスラーになる夢をあきらめ切れず、同郷のプロレスラー・北沢幹之(魁勝司)に直談判。なかばもぐりこむような形で、1970年6月、日本プロレス入りした。
 プロレスラーとしては、決して体が大きくない藤波は、現在公称しているプロフィールで身長183センチ、体重105キロ。当時まだ16歳だった藤波は体も小さく、なにかスポーツで実績があったわけでもなく、よく入門が許可されたものである。

 あこがれの的だった猪木の付き人となった藤波は、71年5月9日にデビューを果たす。ところが、直後に猪木のクーデター事件がぼっ発し、同年12月に日プロを追放された。猪木は新日本を旗揚げし、藤波は行動をともにする。

 メキメキと力を付けた藤波は74年12月、若手の登竜門である「第1回カール・ゴッチ杯」を制し、75年1月に海外武者修行に出発。西ドイツ遠征を皮切りに、米国に渡ってゴッチのもとで修業を積み、米国、メキシコでファイトした。そして、藤波の運命を変えたのが、78年1月23日、“WWWFの聖地”米ニューヨーク州MSG(マジソン・スクエア・ガーデン)で開催された定期戦。藤波はWWWFジュニア・ヘビー級王者のカルロス・ホセ・エストラーダに挑戦し、ドラゴン・スープレックスで見事勝利し、王座を奪取した。この実績がWWE殿堂入りに当たって、評価されたのはいうまでもない。

 同年3月、勇躍凱旋帰国を果たした藤波は、ブリッジの効いたドラゴン・スープレックス、ドラゴンロケットと称された空中殺法を武器に、王座防衛を積み重ねた。ビルドアップされた見事な体は誰も見ても、カッコよく、大人の男性ファンのみならず、女性、子どものファンのハートを射止め、ドラゴンブームを巻き起こした。

 それまで、日本プロレス界において、軽量級は浸透しなかった。しかし、藤波がチャボ・ゲレロ、エル・カネック、ダイナマイト・キッド、木村健吾、剛竜馬らのライバルと名勝負を繰り広げたことで、日本プロレス界に「ジュニア・ヘビー級」を確立させた。

 ヘビー級にこだわったオポジションの全日本プロレスも、ジュニア・ヘビー級の導入をせざるを得なくなり、後にこの階級は日本プロレス界において、なくてはならないものになった。その意味で、藤波は日本プロレス界の歴史を変えた大功労者なのだ。

 80年2月には、NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座も奪取し、ジュニア2冠王者となった藤波だが、81年10月にヘビー級転向のため、ジュニア・ヘビー級王座を返上。82年8月には、再び、MSGでジノ・ブリットを破り、WWFインターナショナル・ヘビー級王座を奪取した。同年10月には、藤波に反旗を翻した長州力との一連の抗争がスタート。2人の闘いは、このベルトを巡る闘いでもあった。

 ただ、ヘビー級転向後の藤波は決して順風満帆とはいかなかった。トップに君臨する猪木の壁はなかなか切り崩せなかったが、85年12月、IWGPタッグリーグ戦決勝戦(猪木&坂口征二対藤波&木村)で、タッグながら、初めて猪木からピンフォールを奪い、世代交代の予感を感じさせたのだった。しかし、後にも先にも藤波が師・猪木をフォールしたのは、この1度だけで、シングルではついぞ、猪木超えは果たせなかった。

 88年4月、控室で自ら前髪を切るパフォーマンスで猪木に現状改革をアピール、これは「飛龍革命」と称された。直後の同年5月、空位となっていたIWGPヘビー級王座決定戦でビッグバン・ベイダーを破り初戴冠。同年8月8日、神奈川・横浜文化体育館で挑戦者となった猪木と闘い、60分時間切れドローで防衛。試合後には猪木が藤波の腰にベルトを巻いてやり、両者ともに涙を流す感動の一幕があった。この伝説に残る一戦が、事実上新日本の世代交代となった試合だった。

 この後、新日本は藤波エース路線を敷いたが、好事魔多し。89年6月、藤波は椎間板ヘルニアを発症し、1年3カ月にわたる長期欠場となり、長州がエースの座に就く。藤波は90年9月の復帰を機に、リングネームを本名の辰巳から辰爾に改名。同年12月にはIWGP王座を奪還するなどしたが、武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也の闘魂三銃士の台頭もあり、じょじょに影が薄くなっていく。99年6月に坂口社長が退任し、後を引き継ぐと第一線から退くようになり、引退カウントダウンが始まる。折しも、橋本がZERO−ONEを旗揚げ、長州、佐々木健介らは新団体WJプロレスに参加、武藤は全日本に転じるなど、主力選手の離脱が相次ぎ、新日本は苦境に陥る。そんななか、藤波の発言は一貫性がなく、猪木が何か言うと前言を翻すなどしたため、“風見鶏”と称されることもあった。

 04年6月に社長を退任した藤波は引退カウントダウンを撤回し、06年6月に新日本を退団し、無我ワールド(現ドラディション)を旗揚げ。現在はドラディション、初代タイガーマスク(佐山聡)主宰のリアル・ジャパン・プロレス、レジェンド・ザ・プロレスリングなどでファイトしている。リングを降りたら、極めて温厚な紳士で、ファンを大事にする藤波だが、新日本という業界最大手の社長職には向いていなかったようだ。
 また、「飛龍革命」もそうだったが、部屋別制度を唱えて結成した「ドラゴン・ボンバーズ」や、新日本から独立した興行「無我」など、どこか中途半端に終わることが多かった。

 ジャンボ鶴田(全日本)がジャイアント馬場を倒さない形でエースの座に就いたように、藤波もまた猪木を力でねじ伏せて団体のトップに立ったわけではないだけに、ファンにとっては、いまひとつ説得力に欠ける世代交代だったかもしれない。リング上や、その発言においても人の良さが見え隠れする藤波だが、それもまたキャラクター。リングに立っただけで絵になるプロレスラーは、そうそういない。現役を続ける以上、1年でも長く、元気な姿を見せてほしいものだ。

(ミカエル・コバタ=毎週水曜日に掲載)

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