今の10代、20代の若者にとって、プロレスはマニアックなファンに支えられたジャンルにしか思えないだろう。しかし、かつてプロレスはゴールデンタイムで高視聴率を獲っており、当時の若者にとっては、人気娯楽のひとつだった。
多くのR30、R40世代にとって、少年期に見たプロレスは、それこそ今の人気バラエティー番組を見るかのごとく、日常生活のなかで、欠かせない熱く燃えさせてくれた“テレビ番組”だったに違いない。また、プロレス会場に足を運んだ人も少なくないだろう。
そこで、本項では、特に80年代、90年代を彩ったレジェンド・プロレスラーの「あの日あの時」を記していきたい。第1回で取り上げるのは長州力(63)。いまだに現役を続けている長州だが、昨今ではバラエティー番組で、すっかりおなじみだ。バリバリの頃の長州を知るファン、関係者にとって、今の姿は意外というほかない。
長州は専修大学でレスリングに励み、72年ミュンヘン五輪に出場したトップアスリートだった。同五輪で同じレスリングで出場したジャンボ鶴田(故人)は、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスに入団した。一方、長州は鶴田をライバル視するがごとく、オポジションの新日本プロレスに入団した。
74年、国内でデビュー戦を行った長州は海外武者修行に出発。その後、帰国するも、パッとせず、中堅選手の域を脱せず。全日本で、馬場と並ぶトップスターとして活躍していた鶴田との立場の差は明らかだった。
そんななか、長州はメキシコ遠征に出た。決して、団体の期待があってものとはいいがたかった。現地で長州はメキシコのトップ選手であるエル・カネックを破って、UWA世界ヘビー級王座を奪取して、勇躍凱旋帰国した。しかし、団体内での“序列”は変わるものではなかった。時は82年10月8日、東京・後楽園ホール。長州はアントニオ猪木、藤波辰巳(現・辰爾)と組み、アブドーラ・ザ・ブッチャー&バッドニュース・アレン&SDジョーンズと対戦した。
入場時、今まで通り、長州は藤波より前を歩き、リングアナのコールは藤波より先。プロレスでは格上が後ろから入場し、選手コールは後にされるのが慣例。メキシコで実績をつくって帰ってきたのに、なんら変わらない団体の扱いに、長州は「切れた」のだった。
試合中にもかかわらず、長州は藤波に食ってかかり、下剋上。当時、マスコミでは「藤波、俺はオマエの噛ませ犬じゃない」と発言したとして、2人の抗争が勃発。後に、長州は「このままでは絶対にこいつより上に行けない。絶対に、俺の方が上だと思っていた」といった主旨の発言をしている。
2人の闘いは“名勝負数え歌”として、後に語り継がれることになり、一介の中堅レスラーにすぎなかった長州は一気に大ブレイク。革命軍、維新軍を結成して、2人のライバルストーリーは、新日正規軍との軍団抗争に発展した。今でこそ、日本人による軍団同士の闘いは当たり前となっているが、正規軍と維新軍による抗争は当時のプロレス界では画期的で大ヒットとなった。“革命戦士”と称された長州は時代の寵児となり、金曜夜8時に放送されていた「ワールドプロレスリング」(テレビ朝日)は常に視聴率20%を超え、興行的にも満員御礼が続いた。
その後、長州は84年、新日本を離脱し、新団体ジャパン・プロレスに参画し、ライバル団体の全日本に事実上移籍した。しかし、長州は87年、全日本との契約を解除し、新日本に出戻った。ライバル・藤波との立場は対等となり、長州は団体の象徴であるIWGPヘビー級王座を奪取したり、猪木を破ったりして、文字通り、新日本のトップに君臨することになり、復帰は成功だったといえる。だが、紛れもなく、長州が最もギラギラと輝き、プロレスを見ていた者たちを熱く燃えさせてくれたのは、藤波に牙をむき体制に反旗を翻した82年〜84年のあの頃であったのは間違いない。
基本的にマスコミには一切媚を売らず一線を画して、ファンサービスにも無縁だった長州が、後にバラエティー番組で活躍するとは、いったい誰が想像したか? 60歳をすぎても、なおリング上がっただけで、その発するオーラはただならぬものがある長州。その現役生活は残り少ないものであろうが、限られた時間のなかで、そのファイトをファンの目に焼き付けてほしいものだ。
(ミカエル・コバタ=毎週水曜日に掲載)