ラストファイトは弟子の維新力と組み、新日本時代の先輩である藤波辰爾&初代タイガーマスクと対戦。藤波のドラゴンスリーパーで引導を渡された。
谷津は栃木・足利工大付属高校でアマレスを始め、日本大学に進学。大学時代は敵なしの強さを見せ、全日本学生選手権を4連覇。76年のモントリオール五輪では8位に終わったが、80年のモスクワ五輪では金メダル確実といわれていた。しかし、同五輪を日本が出場ボイコットし、谷津の金メダルは幻となった。谷津の実力は今でも“日本アマレス界重量級史上最強”の称号をほしいままにしている。
五輪でのメダル獲得が露と消えた谷津は、プロレスに転向。80年に鳴り物入りで、新日本プロレスに入門。同年12月、デビュー戦を米ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで行なう破格の扱いを受けた後、81年に凱旋帰国。いきなり、蔵前国技館のメーンイベンターに抜擢され、師匠・アントニオ猪木と組み、スタン・ハンセン&アブドーラ・ザ・ブッチャーと対戦。ラフファイター2人の前に、谷津は血だるまにされ、国内デビュー戦は散々な目にあった。
通常、有望選手の国内デビュー戦は、無難な相手で行なうのが、プロレス界の常識でもあったが、強敵2人を相手に、ぶざまな姿を見せてしまった谷津。この試合が、その後の彼のプロレス人生を左右したといえなくもない。
その後、谷津は長州力率いる維新軍団に加入。デビュー当初の弱々しい姿を払しょく。84年、長州が中心となって、ジャパンプロレスを設立。谷津も新日本を辞めて、これに追随した。ジャパンは全日本プロレスと業務提携を結び、戦場を全日本に移した。ジャパンで、谷津は長州の正タッグパートナーに推され、世界タッグ王座等を奪取。長州&谷津と、全盛期のジャンボ鶴田(故人)&天龍源一郎との対戦は名勝負数え歌となった。谷津自身も、「全盛期に戻れるなら、長州と組んで、鶴田&天龍と闘いたい」と言うほど、選手として充実した時期であった。
しかし、ジャパンはあっさり分裂。新日本に復帰した長州と谷津は対立。両者は大きな遺恨を残す形となった。谷津はジャパン崩壊を機に、ジャイアント馬場さん(故人)から全日本への残留を打診され、同団体に入団し、鶴田とのタッグで活躍した。
90年には新たに設立されたSWSに移籍したが、同団体も内部対立により、あっけなく崩壊。谷津は自身が代表となり、93年にSPWFを設立した。
メジャーからインディーに格落ちしたことで、谷津にとっては、暗黒の時代に突入。00年には総合格闘技のPRIDEにチャレンジしたが、時すでに遅し。当時、44歳。格闘家としては下り坂。かつて、アマレスで敵なしだった実力は発揮できなかった。
02年には長州が設立したWJプロレスに営業部長職兼任で入団。SPWF時代に長州との遺恨は清算されており、再び、かつての朋友と同じ釜のメシを食うことになる。だが、WJの経営はずさんで、またたく間に団体運営は窮地に陥り、ギャラの未払いが続いた末、谷津は同団体を退団。その際に、マスコミに洗いざらいぶちまけたことで、長州との遺恨が再燃した。
その後、谷津は表舞台から姿を消し、SWS時代の後輩である畠中浩旭が主宰する弱小団体、アジアン・スポーツ・プロモーションでひっそりとファイトしていた。
この度、30周年を機に、現役にケジメをつけることを決めた谷津が望んだのは、「すべてを水に流す」こと。2度目の遺恨を残した長州にも、当然、引退興行へのオファーを出した。しかし、長州は現れず。それでも、谷津は「来てくれなかったけど、今日ですべて水に流す」と自身に言い聞かせた。
長州との確執が氷解したとはいえないが、代打として長州のモノマネで有名な長州小力が登場し、谷津の心をなごませたのが救いだった。オファーを蹴った長州にも、言い分があるだろう。いつの日か2人が、握手をする日が来ることを願ってやまない。
(文・写真=最強プロレスサイトBATTLENET ミカエル・コバタ)