新日本
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スポーツ 2018年09月10日 21時15分
「権利証の露出を増やす」新日本 棚橋弘至、精神的な余裕をG1後初シリーズで示す!
新日本プロレス『Road to DESTRUCTION』▽7日、8日 東京・後楽園ホール 観衆 1,712人(7日)、1,715人(8日) ※両日ともに札止め 新日本プロレスは5日、名古屋国際会議場・イベントホール大会で新シリーズ『Road to DESTRUCTION』をスタートさせた。今シリーズは史上最多の観客動員に成功した『G1クライマックス28』後、初のシリーズ。新日本ではこのシリーズから来年の1.4東京ドーム大会に向けた闘いが一気に進んでいく。 その中心人物はもちろん、G1優勝者の棚橋弘至である。 棚橋は9月23日の『DESTRUCTION in KOBE』神戸ワールド記念ホール大会で、G1では30分時間切れ引き分けとなったオカダ・カズチカと対戦する。この試合は1.4ドーム大会のメインイベントでケニー・オメガのIWGPヘビー級王座に挑戦できる「挑戦権利証」の防衛戦だ。『Road to DESTRUCTION』では連日、オカダとの前哨戦が組まれた。 G1から「笑顔」をテーマに掲げイメージチェンジしたオカダは、今シリーズも引き続き、タンクトップ姿で風船を配りながら入場する新スタイルを継続。G1優勝を逃し、元のレインメーカースタイルに戻すのか注目されていたが、どうやら今後もこのスタイルを貫くようだ。 後楽園2連戦で行われた前哨戦は1勝1敗に終わったが、棚橋のコンディションはG1が終わっても良いようだ。今後、オカダのあか抜けたスタイルがどのような形で変化するのかは分からないが、現時点では棚橋が精神的にも優勢に立っていると言えるだろう。 「守ることが大前提だけど、この権利証の注目度を上げたいじゃん。これから権利証の露出を上げていくから」 棚橋は権利証を手に入れたときから、過去に権利証が1.4ドーム大会まで一度も移動していないことに触れていた。最初の防衛戦の相手にオカダを選んだ理由のひとつに「注目度を上げたい」ことがあるのは、棚橋の発言から考えても明らかだ。21日には主演映画『パパはわるものチャンピオン』の上映も控えており、棚橋自身のメディア露出も増えることだろう。 1.4ドーム大会が「最後」ではなく「始まり」であることを証明する意味でも、権利証の防衛ロードに注目していきたい。取材・文・写真 / どら増田、舩橋諄
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スポーツ 2018年09月09日 21時15分
Codyがヤングバックスとの自主興行で、あのNWA世界ヘビー級王座を奪取!
日本時間9月2日にシカゴ・シアーズセンターアリーナにて開催された、Codyとヤングバックスによる自主興行『ALL IN』。同大会には新日本プロレスからもIWGPヘビー級王者のケニー・オメガらバレットクラブELITEのメンバーをはじめ、オカダ・カズチカ、飯伏幸太、そしてレイ・ミステリオ・Jr.らが参戦。1万枚のチケットが早々にソールドアウトになるなど、話題になっていた。 CodyはNWA世界ヘビー級王者のニック・アルディスに挑戦。流血してピンチに陥ったが、最後はうまく丸め込み第131代王者に輝いた。現在のNWA世界ヘビー級王座は、世界最高峰と呼ばれていた頃とは違いローカルタイトルレベルの別モノになってしまったが、歴史は継承されている。Codyの実父であるダスティ・ローデスは同王座が世界最高峰と言われていた時代に2度王者に就き(第61代、第69代)、今回Codyが戴冠したことで、親子での戴冠となった。現在のベルトは、デザインもダスティが巻いていた頃と同じもの(レイスベルト)になっているので、32年ぶりにローデス家にベルトが戻ってきたということになる。 数年前までは日本でも天山広吉、小島聡ら第3世代が挑戦し、ベルト奪取に成功していたNWA世界ヘビー級王座だが、再び日本で防衛戦が行われることはあるのだろうか?新日本プロレスは日本時間の10月1日に、ロサンゼルスのロングビーチ、WALTER PYRAMIDで『FIGHTING SPIRIT UNLEASHED』を開催する予定。ここでCodyはジュース・ロビンソンのIWGP USヘビー級王座に、NWA世界ヘビー級王者として挑戦する。 ベルトの乱立は好ましいことではないが、レスラーとしてのステータスが高いCodyが王座を奪還したことは良いことだ。NWA世界ヘビー級王座が再び輝きを取り戻すのならいいだろう。棚橋弘至の「プロレスはつながってますからね」という言葉通り、また面白い新たな展開が見られるかもしれない。【どら増田のプロレス・格闘技aID vol.22】
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スポーツ 2018年09月07日 21時00分
プロレスラー世界遺産 伝説のチャンピオンから未知なる強豪まで── 「T・ジェット・シン」常識が通用しない“インドの狂虎”
放埓な悪役ファイトで長きにわたり日本マット界を震撼させてきたタイガー・ジェット・シン。 観客席にまでなだれ込みサーベルを振り回す、その型にはまらない試合ぶりは、ライバルのアントニオ猪木にも多大な影響を与えることになった。 ※ ※ ※ 日本マット界における歴代“最凶”外国人といえば、アブドーラ・ザ・ブッチャーかタイガー・ジェット・シンのいずれかということになるだろう。 機械的に反則を繰り返すブッチャーと予測不能のシン。前者が静なら後者は動。凶悪という点では一致しながらも、その個性は両極でいずれも甲乙付け難い。 「一般的には“観客から人気のあったブッチャーと観客に怖がられたシン”という評価もありますが、ブッチャーの人気が高まったのは、モデルになったマンガ『愛しのボッチャー』の連載が少年マガジンで始まって以降のこと。ファンクスとの抗争の頃は完全なる嫌われ者でしたから、一概に“人気者”とするのは正確ではない。それよりも両者の大きな違いとしては、アメリカ仕込みか否かという点が大きいのではないか」(プロレスライター) シンが初来日に臨んでヒールに転向したというのはよく知られたところで、それ以前はカナダのトロント地区でベビーフェイスとして活躍していた。 「デビュー直後はヒールでしたが、トロントにはインド系移民が多かったため、ヒールらしからぬ人気があったようで、程なくベビーターンしています」(同) しかし、人気といってもあくまでも地元限定で、日本ではまったく無名の存在だった。そこで新日本プロレスへの参戦時に、心機一転ヒールを志したのだ。そして、ヒール体験が希薄だったことは、自由な発想による新たなヒール像を創出することにつながった。 「新日に送られた最初のプロフィル写真がナイフをくわえたもので、それを見た猪木がナイフをサーベルに変更させたという有名なエピソードがありますが、そもそもナイフをくわえるという発想が異端そのもの。実際の試合でナイフを凶器に使えば、生き死にの問題となり明らかに既存のプロレスの範ちゅうを越える。それをアピールするのは、本職のヒールにはない感覚でしょう」(同) 本来は武器であるはずのサーベル(正確にはフェンシング・サーベル)を振り回すというのも、いかにも日本式のヒール像。のちにシンは、ナイフも実際の試合で使用している。 「70年代のアメリカでそれをやったら観客がヒートアップしすぎて、やったレスラーの身に危害が及びかねない。しかも、シンのように観客席で暴れること自体が危険な行為であり、最悪の場合、観客から刺されたり、撃たれたりということもあり得たでしょう」(同) 1973年の新宿・伊勢丹前での猪木襲撃事件は、今では新日サイドの仕組んだアングルというのが定説とされているが、このときシンに同行した他の2人の外国人選手は、「プロレス的な乱闘のつもりで行ったのに、シンだけが本気になった」と述懐している。 街中で流血乱闘を繰り広げることが、プロレスラーとしての仕事ではないという“常識”は、シンには通用しなかったというわけだ。 ちなみに、この件を報じた東京スポーツ紙上で、全日本プロレスのジャイアント馬場社長や国際プロレスの吉原功社長は、「これで次の猪木vsシンは満員になる」と脱帽のコメントを寄せている。★シンに触発され猪木も変わった また、そんなシンの姿勢に触発されて、猪木の方も変わっていったことは見逃せないポイントだ。 それまでの猪木といえば、売り文句は“神様カール・ゴッチの弟子”であり、ドリー・ファンク・ジュニアとのNWA世界王座戦に代表されるようなテクニシャンとしての面が色濃かったが、シンとの流血抗争により、いわゆる“過激なプロレス”に目覚めることになった。 路上襲撃にとどまらず、リング上でも火炎攻撃やサーベルでのめった打ちなど、シンのルール度外視の暴走があったからこそ、猪木の過剰な“腕折り制裁”が生まれ、これが以後のスタイルのベースとなった。 そのあたりの自覚は、猪木にもあるのだろう。引退後のテレビ番組で自身のベストバウトを問われた際に、番組側の用意した候補として先のドリー戦やビル・ロビンソン戦が挙がるのを見て、「こういうときに、なぜかシン戦というのは出てこない」と軽くボヤいたものだった。 型破りなヒールのシンとの闘いの中で、型破りなプロレスをつくり上げた猪木。だからこそ、定型ヒールのブッチャーといまひとつ手が合わなかったのも、当然のことと言えるだろう。 地元カナダでのビジネスの成功をもって、「実は常識人」とシンを評する声がある。しかし一方で、いったんリングに上がったときのシンが、まったくの常識外れであったことに異論はあるまい。 「世の中には二通りの人間しかいない。殴る人間と殴られる人間だ。だから俺はプロレスを選び、殴る人間になった」というシンの言葉は、ヒールとしてのポーズだけではなく、きっと多分に本音も含まれていたに違いない。T・ジェット・シン***************************************PROFILE●1944年4月3日、インド出身。身長190㎝、体重120㎏。得意技/凶器攻撃、コブラクロー、ブレーンバスター。文・脇本深八(元スポーツ紙記者)
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その他 2018年09月05日 13時00分
本好きリビドー(218)
◎快楽の1冊『長州力 最後の告白』 長州力、聞き手・水道橋博士 宝島社 1500円(本体価格)★沈黙の“革命戦士”がすべてを語る 本書はまず編集のセンスが光る。「聞き手・水道橋博士」とはあるが、格闘技愛あふれる博士のプロレス史と自分史とを重ね合わせた解説的地語りと、長州のコメントを交互にした構成がまるで活字で読むドキュメント番組のような雰囲気を醸し出しお見事。 長州小力のネタの影響で「キレてないですよ」(正しくは「キレちゃいないよ」)ばかりがクローズアップされがちだが、筆者など世代的に長州語録といえば反射的に「俺はお前の噛ませ犬じゃない」「あのヤローがくたばって墓建ったら、俺はクソぶっかけてやる」、そしてやはり「俺の一生にも、一度くらい幸せな日があってもいいだろう」。数々の名言が耳に刻み込まれたクチだが、もちろん本書中の随所でも、その独特のフレーズはラリアット同様の切れ味を炸裂させて(「インパクトの粉」など、昔より風味を増した印象)まこと興が尽きない。 かつてジャンボ鶴田が全日本プロレスへの入団を“就職”と表現したのと同様に、憧れて入ったのではなく、あくまで「メシを食うために」新日本へ、とサラリと語る姿にむしろ限りなく「プロ」を感じてしまう。下積み時代に本気でやったら自分の方が強いのに、と歯がゆい思いでリングを見上げていた時、アントニオ猪木の試合ぶりを見て「強さを出す相手は(対戦相手のレスラーでなく)観客だ」と気付くあたり、名優の芸談を聴くようだ。 テレビ好きのお笑いファンを自認し敬意を持って芸人を論じる長州と、プロレスへの絶大なリスペクトでそれに応える博士の応酬がすばらしい。馬場・猪木がビッグ3(たけし・タモリ・さんま)なら早逝した橋本真也はダウンタウンと例える長州。では、自身を誰になぞらえるのか、無いものねだりでも尋ねたい。(敬称略)_(居島一平/芸人)【昇天の1冊】 東京の源となった「江戸」は100万人が住んでいた都市だったといわれる。実際に定住していた大衆は50万人半ば(1853年頃)だったらしいが、その他にも参勤交代などで絶えず武士が出入りしていたため、実数は確定できていない。 いずれにせよ、徳川幕府初代将軍の家康が江戸城に入城した頃は関東の辺境にすぎず、人口も徳川家臣団を中心の約5万人だった。それが約250年の間に飛躍的に増えたのだから、治安・衣食住環境・政治機能に至るまで整備された、世界でも類を見ない巨大都市だった。 そんな大都市で暮らす庶民の生活にスポットを当てたのが『サライの江戸 CGで甦る江戸庶民の暮らし』(小学館/1700円+税)。長屋の構造とそこに住む人々や、湯屋(銭湯、なんと混浴だった!)の内部をCGで再現したり、庶民が従事していた「棒手振り(魚や野菜などの商品を天秤棒にぶら下げて売り歩く商人)」の稼ぎ、寿司・うなぎ・蕎麦・天ぷらの“江戸四大食”の歴史と特徴など、当時の暮らしが生き生きと甦る。 また、両国橋の花火大会、江戸歌舞伎や相撲、落語の隆盛など、現代の東京に連綿と受け継がれた娯楽の紹介も充実している。 「江戸っ子は宵越しの銭はもたない」などという。それだけ貧しかったワケだが、毎日の暮らしは充実していたことがうかがわれ、もしかしたら現代人より心豊かだったかもしれない…そんなことまで想像させる1冊だ。(小林明/編集プロダクション『ディラナダチ』代表)
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スポーツ 2018年09月04日 21時15分
「もし悩んでる人がいるなら...」プロレスラー・小島聡が子供の「夏休み明け自殺」を憂う
「いっちゃうぞ、バカヤローッッ!!!」のフレーズで知られる、プロレスラーの小島聡。現在主戦場とする新日本プロレスでは、鍛え上げられた肉体から繰り出す「剛腕ラリアット」などの技でファンを沸かせているが、そんな彼が憂いを感じていることがあるようだ。3日に更新された小島のツイッター。そこには「こないだニュースで、夏休み後の学生の自殺が一番多いと言ってました。もし悩んでる人がいるなら、思い留まってほしい。学校なんて長い人生の、ほんの僅かな時間でしかないし、無理やり行く必要もない」という、小島の心境がつづられていた。 近年、深刻な社会問題となっている子供の「夏休み明け自殺」。人間関係、学業、家庭に問題を抱える子供が、休み明け前後のストレスを理由に自ら命を絶ってしまうこの問題は、テレビ・ネットを問わず数多くのメディアによって取り上げられている。おそらく、今回小島が目にしたのも、その中のひとつであったのだろう。 小島はこの問題を憂うとともに「私にできる事は…プロレスを通じて、学校以外の世界も楽しいということを伝えたいです」と自分なりの対応策を表明している。今回のツイートに対し、コメント欄には「私も、学校が全てではないと思っています」、「社会人みたいに、ある意味逃げ道を用意してあげたいものですね」、「プロレスを見て、そう言うストレスを吹っ飛ばせる人が増えるといいですね」といったコメントが寄せられている。 こうした声を受け、小島はその後「学校についての貴重なご意見、ありがとうございます。私の学生時代は、『とにかく行け』とか『嫌な奴がいるならブン殴れ』とかいう世界だったけど、今は色んな選択肢もあるから…とはいっても簡単ではないし、その辺を大人がサポートしてあげられるような感じになれば…とは思います」と改めて自身の考えを表明している。問題の解決に向け、それぞれのやり方で子供たちを守っていくことが、大人たちには強く求められていると言えるだろう。文 / 柴田雅人
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スポーツ 2018年09月03日 17時30分
プロレスラー世界遺産 伝説のチャンピオンから未知なる強豪まで── 「大仁田厚」毀誉褒貶を顧みない“邪道”のプロレス哲学
昨年10月31日、正式に引退(7年ぶり通算7度目)しながらも、いまだ復帰を取り沙汰される大仁田厚。毀誉褒貶が激しいそのプロレス人生は、ファンの間でも評価の分かれるところであろう。 大仁田に対する評価は、人それぞれにより大きく分かれる。一挙手一投足に心酔する“大仁田信者”がいる一方、蛇蝎のごとく忌み嫌う者も少なくない。 ファンのみならずメディアなどの関係者の間でも、これは同様だ。「現場の記者からすると実にありがたい存在で、批判的な記事にもまず怒ることはないし、逆にこういうふうにしたら面白いんじゃないかと、提案までしてくれる。親分肌でいながら変に威張ることもなく、時にこちらを頼って甘えるようなかわいらしいところもあって、心情的に大仁田シンパの記者は多いですよ」(スポーツ紙記者) しかし、一方でキャップやデスクになると、スポーツ性に乏しい大仁田の記事は「紙面が汚れる」とこれを嫌がることになり、各所で「日本のプロレス界を衰退させた元凶」との声も聞かれる。 大仁田が旗揚げしたFMWの成功により、インディー市場が開かれたことで、現在、日本には100を超えるプロレス団体が存在するともいわれる。だが、そうなると当然、業界全体におけるレベルの低下は避けられない。 「大仁田にできるなら俺だって」と独立する選手が増えたことは、メジャー団体の力を削ぐことになった。 しかし、その反面でプロレスの裾野を広げたとの評価もある。電流爆破など過去に例を見ない新奇なデスマッチ形式を生み出したことで、新たなファン層をつかみ、ハードコア・スタイルとしてアメリカマット界にまで影響を与えることになった。 闘龍門出身のオカダ・カズチカやDDT出身の飯伏幸太ら、今をときめくトップスターも、大仁田以後のインディー団体が活況を呈していなければ、現在のように日の目を見ていたかどうかは分からない。 さらに、レスラー間における大仁田の評価となると、単に好き嫌いにとどまらず、互いのプロレス哲学までもが絡んだ話になってくる。“プロレス=八百長”という世間の目に反発してきたUWF勢にとって、闘いよりも刺激や話題性を優先する大仁田のスタイルは目に余るものがあった。 高田延彦などは「大仁田なんて同業者とは思っていない」「ああいうのがいるから一生懸命やってる人たちがプライドを持てなくなる」と、かつて雑誌のインタビューで罵倒している。 FMWの旗揚げ当初、先に成功していたUWFを意識して格闘技路線を掲げたことも、嫌悪の理由であろう(FMWの「M」はマーシャルアーツ=格闘技の意味)。 しかし、同じUWF系でも船木誠勝などは大仁田を受け入れ、リングで肌を合わせている。 「いわゆる真剣勝負を求めてパンクラスを立ち上げた船木が、大仁田と電流爆破マッチで闘ったことには驚かされました(2016年と翌年に2度闘って1勝1敗)。ヒクソン・グレイシー戦後にさまざまな経験をして、人間が丸くなったということでしょう」(プロレスライター)★大仁田に対する猪木の“拒否感” また、大仁田は、新日本プロレス時代に一度もフォール負けしたことがなかった初代タイガーマスク(佐山聡)から、タッグマッチながらピンフォール勝ちを収めている。 プロレスを舐められることが大嫌いな佐山からすると、大仁田とは水と油になりそうなものだが、どこかで認める部分があるのだろう。「プロレスと並行して武道を追求する佐山もそうですが、プロレスと他競技をまったく別の物と捉えている人の方が、大仁田のパフォーマンスや集客力、知名度を評価しているように見えますね」(同) プロレスにおける痛みや強弱、善悪などを過度にデフォルメする大仁田の手法を「まさにプロレス的で面白い」と受け取るか、「プロレスを馬鹿にしている」と捉えるかの違いとも言えようか。 “プロレス最強”を唱えてきたアントニオ猪木が、大仁田を激しく嫌うのも、そうしたところから来ているのかもしれない。 「基本的に誰でもウエルカムな人なのに、大みそかの猪木祭への大仁田の参戦要求だけは、かたくなに受け入れなかった。長州力戦へ向けての新日参戦の際も強硬に反対したようですし、その拒否感たるや相当なものです」(同) 大仁田と、これを激しく嫌う高田と猪木。3人にはいずれも国会議員を目指したという共通点がある。 また、この3人はプロレスラーとしてだけでなく、大仁田と高田はタレントとして、猪木は事業家として一般社会から認められたいという承認欲求が強いという面でも似ている。そういう意味では同族嫌悪というところもありそうだ。大仁田厚***************************************PROFILE●1957年10月25日、長崎県長崎市出身。身長181㎝、体重100㎏(全盛時)。得意技/サンダー・ファイヤー・パワーボム。ノータッチ・ヘッドバット。文・脇本深八(元スポーツ紙記者)
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スポーツ 2018年08月31日 21時15分
新日本プロレス棚橋弘至、完全復活ストーリーが9.23神戸から始まる!
「挑戦権利証の初防衛戦はオカダとやりたいですね」 新日本プロレス真夏の最強戦士決定戦『G1クライマックス28』で3年ぶり3度目の優勝を飾った棚橋弘至。翌日には“慣例”に基づいて、来年1月4日の東京ドーム大会メインイベントでの「IWGPヘビー級王座挑戦権利証」が棚橋に授与された。この挑戦権利証には王座同様、防衛義務が課せられている。ただ、2012年に権利証が発行されてから、1.4ドーム大会までにIWGPヘビー級王座が移動したことはあったが、権利証の保持者が移動したことはない。 今年のG1では7勝1敗1分という好成績で決勝に駒を進めた棚橋。暴走ファイトで唯一棚橋に土をつけたジェイ・ホワイトを「ジェイの出方次第で」と後回しにして、8.10日本武道館大会で30分時間切れ引き分けだったオカダ・カズチカを挑戦者に逆指名したのは「オカダに勝たなければ東京ドームのメインに上がれない」「オカダに勝たなければ復活はできない」という強い思いがあるからだ。オカダも棚橋の心理を察しているよう。ショックを隠しきれずノーコメントでインタビューブースを後にした10日の試合後からは一転、翌日の試合後には「決勝はAブロック、棚橋推しで!」とG1後の巻き返しを見据えた発言を残している。 棚橋がG1で優勝したとしたら、聞いておきたいと思っていたことがあった。棚橋は5月4日の福岡国際センター大会で、当時IWGPヘビー級王者だったオカダに挑戦し敗れたものの、それ以降、棚橋の動きやキレが欠場前よりもはるかに良くなっていった。あのオカダ戦で本来の棚橋弘至を取り戻したのではないか?そんな質問を本人にぶつけてみると… 「あるかもしれないですね」と本人は答えた。「“試合勘”もそうなんですけども、あの日は負けましたけど、十分オカダに対して、そのときの(IWGPヘビー級)チャンピオンに対して十分動けてる、一方的にやられなかったっていうところが、『まだまだ行ける』っていう気持ちになったし。そして、『さらにコンディションが良くなれば、棚橋、まだまだ十分行けるぞ』と(思った)。そうなんですよ…。もう年齢に捉われないレスラーになると。それはどうすればいいかって言ったら、より動けて、いまよりもビルドアップされた体を作って、笑いジワとかをこうケアしてですね(笑)。若々しくあればいいかなと思ってます」 最後は冗談も交えていたが、私の目を見て「ありがとうございます!」と答えてくれた。この姿はかつて引退を賭けて藤波辰巳(当時)と60分時間切れ引き分けの試合を行ったアントニオ猪木が「まだやれる」と確信したときの心境と似ているのではないだろうか。今年2月のシリーズを全休し、満身創痍の体をできる限りケアして復帰を果たし、オカダに挑戦したものの敗れた棚橋。しかし、この夏、1年で最も過酷なG1を制して、今度は上の立場でオカダを迎え討つことになった。 決戦の舞台は9.23神戸ワールド記念ホール大会。棚橋完全復活の第一歩となるか?取材・写真 / どら増田
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スポーツ 2018年08月30日 21時15分
ノア凱旋直前のヒデオ・イタミ&WWE大阪公演凱旋直前の戸澤陽が好調をアピール!
世界最大のプロレス団体WWEは日本時間29日、カナダ・オンタリオ州トロントで軽量級ブランド205 Liveを開催した。 日本時間31日に開催されるWWEエディオンアリーナ大阪公演には戸澤陽が、翌9月1日のプロレスリング・ノア両国国技館大会にはヒデオ・イタミが205 Liveからそれぞれ参戦することが決定しており、両選手にとっては日本凱旋直前の収録となった。 まず元ドラゴンゲートの戸澤陽が、ゼロワンや新日本プロレスなどにも来日経験があるブライアン・ケンドリック(withジャック・ギャラハー)とシングルで対戦。先週の205 Liveでケンドリックとギャラハーに乱入されて試合を潰された戸澤は、騙し討ちパンチからセントーンで先制。スープレックスやサブミッションなど、ケンドリックのテクニシャンぶりに苦戦する場面もあったが、戸澤はケンドリックの右足に狙いを定めて集中攻撃。最後はコーナートップから必殺のダイビングセントーンを見事に決めて3カウント。先週試合を潰された雪辱を果たすとともに、大阪凱旋に向けて順調な仕上がりをアピールした。 205 Liveでムスタファ・アリと抗争中のヒデオ・イタミは、地元出身のマイケル・ブレイズと対戦。ヒデオは格下相手にビックブーツで吹き飛ばしてファルコンアローで沈めたが、ターザン後藤のように自らカウント2で相手の頭を掴み上げて3カウントを自ら阻止した。さらにドラゴンスリーパーの体勢から強烈なヒザ蹴りを食らわせカバーに入った。しかしここでもカウント2で相手を持ち上げた。 まさにヒデオはターザン後藤が乗り移ったかのように、相手を痛みつけて不敵に笑っていた。すると、そこに突然抗争中のアリが登場。ヒデオはアリがリングに上がるとすぐさま場外に退散。リング上からヒデオを挑発するアリをあざ笑うと、ヒデオはバイバイポーズをしながらリングを後に。来週以降に遺恨を残す結果となった。 ヒデオは古巣のノア9.1両国で開催される『丸藤正道デビュー20周年記念興行』のメインイベントで、丸藤正道とシングルマッチを行うことが決定している。KENTAのリングネームで、丸藤とともに三沢光晴亡き後のノアを支えてきたヒデオがノアを電撃退団したのは2014年4月30日。あれから4年4カ月が経ち、WWEや205 Liveのヒデオ・イタミとして、生涯のライバル丸藤の対角線に立つというのはとても興味深い。ヒデオの立場からすれば今後このカードが実現する可能性は極めて低いだろう。 大阪では関西を拠点にしていた戸澤が、両国では古巣のリングでヒデオが、それぞれ飛躍する姿を目に焼き付けながら楽しみたい。文 / どら増田写真 / ©2018 WWE, Inc. All Rights Reserved.
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スポーツ 2018年08月26日 21時15分
ファンだけじゃない!マスコミも迷子に!新日本プロレス15年振りの日本武道館大会
新日本プロレス単独では15年ぶり、全日本プロレス、プロレスリング・ノアと共催した『ALL TOGETHER』からは7年ぶり、プロレスとしては2012年にDDTプロレスが使用して以来、6年ぶりの進出となった日本武道館大会。 この間、ファンもかなり入れ替わっていることから、今回の武道館3連戦で武道館デビューを飾ったファンも多いのではないだろうか。新日本でも新規のファンに対して、武道館へのアクセスを公式ホームページでていねいに説明していた。このような対応は、2014年の西武ドーム(現メットライフドーム)初進出の際にも見られたことだが、とても好感が持てた。 「武道館ってこんな感じだったっけ?」 3連戦初日の10日は、久々の武道館に戸惑う報道陣も多く、こんな声がよく聞かれた。ベテラン記者によると、以前の武道館大会とはプレスルームの場所も変わっていたようで、プレスルームにたどり着いた記者やカメラマンは一様に苦笑いを浮かべていた。 昔は毎月のように武道館に通っていた私だが、当然のことながら武道館のバックステージに入るのは初めて。だいたい、私は2階席での観戦が大半だったので、外階段を上り直接2階席に向かうことが多かった。だから、1階の正面玄関から入ることにあまり慣れてない。しかし不思議なもので、中に入ると何となく体が覚えているのか、比較的スムーズに地下(アリーナエリア)までは行くことができた。 問題はここからだった。何度か警備員に止められてはルートを聞きまくり、何とかプレスルームへ向かった。荷物を置いてアリーナ席への扉を開けると、武道館にはプロレスだけではなくライブでも頻繁に来ていただけに、青春時代が一気によみがえってきた。 武道館は筒状の作りになっているので、空席が目立った初日も歓声や拍手、手拍子が会場中に響き渡った。札止めだった残り2日間は、武道館のテッペンにある“大きな玉ねぎ”にまで響きそうな大きな声援が、選手を後押しした。試合後、インタビューブースに現れた選手から「武道館」というワードが頻繁に出ていたことからも分かるように、武道館は選手にとってもやりやすい会場なのだと思う。 現在は衆議院議員の馳浩はかつて「武道館の一番後ろの席の上にいる立ち見のお客さんにまで届くプロレスを心がけている」と言っていたが、新日本プロレスの日本武道館大会を観戦したことがきっかけで「新日本プロレスのプロレスラーになる」と決意した内藤哲也は、現在メインイベンターとなった。武道館には東京ドームとはまた違った意味で夢がある。 音楽関係者の話によると、来年から武道館は2020年の東京オリンピックに向けて改修工事に入るとのこと。残念ながら来年は、この時期に武道館3連戦が行われることはなさそうだ。ただ、今回久々に武道館大会を開催し「武道館はとても見やすくて感動した」と離すファンは多かった。改修後は、かつての全日本ほど…とは言わないが両国国技館とともに、毎年定期開催してもらいたい。 それが可能なのは新日本プロレスしかない。【どら増田のプロレス・格闘技aID vol.21】
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スポーツ 2018年08月26日 17時46分
プロレスラー世界遺産 伝説のチャンピオンから未知なる強豪まで── 「タイガーマスク」空前絶後の四次元プロレス
1980年代初頭、新日本プロレス黄金時代の立役者となったタイガーマスク(佐山聡)。新日流のストロングスタイルをベースにして、ルチャ・リブレやキックボクシングの要素を加えたその試合スタイルは、今も“プロレス史上最高”と讃えられる。 実は最初にタイガーマスクの名前でリングに上がったのは、日本プロレス時代の轡田友継(サムソン・クツワダ)であり、'71年に大木金太郎がプロデュースした韓国遠征でのことだった。 日本文化の流入が制限されていた当時の韓国において、タイガーマスクの知名度がどれほどだったかは分からないが、とにかく大層な人気を博したという。 70年代の韓国マットには、他にもサンダー杉山や高千穂明久(ザ・グレート・カブキ)らがタイガーマスクとして参戦している。 とはいえ、プロレスファンにとってタイガーマスクといえば、やはり'81年4月の蔵前国技館大会に、彗星のごとく登場した佐山タイガーに尽きるだろう。 デビュー戦の相手は、のちにライバルとして好勝負を繰り広げることになるダイナマイト・キッド。ジュニアヘビー級時代の藤波辰爾のライバルとして、その実力をファンから認められていたキッドだが、タイガーはこれと互角どころか凌駕するほどの動きを披露し、最後はきれいなブリッジを描くジャーマン・スープレックス・ホールドで勝利を収めている。 「この日のメインイベントはアントニオ猪木vsスタン・ハンセン。IWGP創設に向けてNWFのベルトを封印するという歴史的一戦で、マスコミやファンの関心はそこに注がれていました。なので、タイガーについては、前座の余興ぐらいにしか思っていなかった人は多かったはずです」(スポーツ紙記者) もともとの関心の薄さに加えて、急造コスチュームのチープさに失笑が漏れるという悪条件の下、タイガーはテレビの前の視聴者も含めて一発でハートを鷲づかみにした。 「試合開始からフィニッシュの瞬間まで、どれもがそれまで見たことのない動きで、あのキッドを相手に完勝したことも含めて度肝を抜かれました」(同) 初登場から新日を退団するまでの約2年4カ月の間、タイガーはシングルマッチで155勝1敗9分の成績を残している(唯一の敗戦はキッド戦でのフェンスアウトによる反則負け)。 「勝率の高さはもちろんですが、それ以上に注目すべきは、これだけ勝ちっぱなしでいながらずっと高い人気を保ち続けたこと。どんなスター選手でも普通は飽きられますよ」(スポーツライター) 興行スポーツとしてのプロレスにおいて、勝ったり負けたりしながらライバルストーリーを紡いでいくことは常套手段ともいえる。 新日の絶対的エースだった当時の猪木にしても、いつもフォール勝ちということではなく、勝つにしても反則やリングアウトなどの不透明決着を織り交ぜるのが常であった。そうして観客の中に溜まった鬱憤を完全勝利で晴らすというのが、古今東西を問わず一つの様式美になっている。 海外のファンも試合内容で魅了 ところがタイガーの場合、遺恨決着と呼べるものは、ブラック・タイガー相手に何度か両者リングアウトで終わった試合と、小林邦明の覆面剥ぎによる反則勝ちがあったぐらい。 タッグマッチでのフォール負けすらなく、とにかくクリーンに勝ち続けることでファンを熱狂させた。 「つまりストーリー性など関係なく、タイガーの試合そのものが素晴らしかったという証拠です」(同) 新技の開発やマスクのリニューアル、赤いロングタイツへのコスチューム変更やキック主体のスタイルなどのマイナーチェンジはあったが、試合内容でファンを魅了したことに違いはない。 だからこそ日本以外の海外マットでも、大いに人気を博することとなった。 「中でも'82年11月から約1カ月間にわたるメキシコ、アメリカへの遠征は、連日の大盛況。元ネタの劇画やアニメのことは知らなくとも、タイガーの一挙手一投足に会場全体が歓声に包まれるような状態で、新日退団時にはアメリカへの本格参戦が噂されたほどです」(同) なお、このときの遠征では、ジュニアだけでなくヘビー級の選手たちとも対戦しており、有名どころではマサ斎藤にも回転エビ固めによる勝利を収めている。 まだ当時の日本では、ジュニアとヘビーの間には明確な壁があったが、そういう感覚のない国では、ヘビー級の選手相手にタイガーが勝利することへの違和感は薄かったようだ。 同様に日本においても、全盛時のタイガーがヘビー級の選手たちと闘っていたならば、いったいどんな試合になっただろうか。そう考えたとき、まだ第一線に猪木が君臨し、藤波や長州力もいた当時の状況は、ある意味で残念だったと言えようか。 もし、新日の選手大量離脱時にタイガーがデビューしていたならば、日本のプロレス史はまた違ったものになっていたかもしれない。タイガーマスク***************************************PROFILE 1957年11月27日、山口県下関市出身。身長173㎝、体重90㎏。得意技/タイガー・スープレックス、ローリング・ソバット。文・脇本深八(元スポーツ紙記者)
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