実は最初にタイガーマスクの名前でリングに上がったのは、日本プロレス時代の轡田友継(サムソン・クツワダ)であり、'71年に大木金太郎がプロデュースした韓国遠征でのことだった。
日本文化の流入が制限されていた当時の韓国において、タイガーマスクの知名度がどれほどだったかは分からないが、とにかく大層な人気を博したという。
70年代の韓国マットには、他にもサンダー杉山や高千穂明久(ザ・グレート・カブキ)らがタイガーマスクとして参戦している。
とはいえ、プロレスファンにとってタイガーマスクといえば、やはり'81年4月の蔵前国技館大会に、彗星のごとく登場した佐山タイガーに尽きるだろう。
デビュー戦の相手は、のちにライバルとして好勝負を繰り広げることになるダイナマイト・キッド。ジュニアヘビー級時代の藤波辰爾のライバルとして、その実力をファンから認められていたキッドだが、タイガーはこれと互角どころか凌駕するほどの動きを披露し、最後はきれいなブリッジを描くジャーマン・スープレックス・ホールドで勝利を収めている。
「この日のメインイベントはアントニオ猪木vsスタン・ハンセン。IWGP創設に向けてNWFのベルトを封印するという歴史的一戦で、マスコミやファンの関心はそこに注がれていました。なので、タイガーについては、前座の余興ぐらいにしか思っていなかった人は多かったはずです」(スポーツ紙記者)
もともとの関心の薄さに加えて、急造コスチュームのチープさに失笑が漏れるという悪条件の下、タイガーはテレビの前の視聴者も含めて一発でハートを鷲づかみにした。
「試合開始からフィニッシュの瞬間まで、どれもがそれまで見たことのない動きで、あのキッドを相手に完勝したことも含めて度肝を抜かれました」(同)
初登場から新日を退団するまでの約2年4カ月の間、タイガーはシングルマッチで155勝1敗9分の成績を残している(唯一の敗戦はキッド戦でのフェンスアウトによる反則負け)。
「勝率の高さはもちろんですが、それ以上に注目すべきは、これだけ勝ちっぱなしでいながらずっと高い人気を保ち続けたこと。どんなスター選手でも普通は飽きられますよ」(スポーツライター)
興行スポーツとしてのプロレスにおいて、勝ったり負けたりしながらライバルストーリーを紡いでいくことは常套手段ともいえる。
新日の絶対的エースだった当時の猪木にしても、いつもフォール勝ちということではなく、勝つにしても反則やリングアウトなどの不透明決着を織り交ぜるのが常であった。そうして観客の中に溜まった鬱憤を完全勝利で晴らすというのが、古今東西を問わず一つの様式美になっている。
海外のファンも試合内容で魅了
ところがタイガーの場合、遺恨決着と呼べるものは、ブラック・タイガー相手に何度か両者リングアウトで終わった試合と、小林邦明の覆面剥ぎによる反則勝ちがあったぐらい。
タッグマッチでのフォール負けすらなく、とにかくクリーンに勝ち続けることでファンを熱狂させた。
「つまりストーリー性など関係なく、タイガーの試合そのものが素晴らしかったという証拠です」(同)
新技の開発やマスクのリニューアル、赤いロングタイツへのコスチューム変更やキック主体のスタイルなどのマイナーチェンジはあったが、試合内容でファンを魅了したことに違いはない。
だからこそ日本以外の海外マットでも、大いに人気を博することとなった。
「中でも'82年11月から約1カ月間にわたるメキシコ、アメリカへの遠征は、連日の大盛況。元ネタの劇画やアニメのことは知らなくとも、タイガーの一挙手一投足に会場全体が歓声に包まれるような状態で、新日退団時にはアメリカへの本格参戦が噂されたほどです」(同)
なお、このときの遠征では、ジュニアだけでなくヘビー級の選手たちとも対戦しており、有名どころではマサ斎藤にも回転エビ固めによる勝利を収めている。
まだ当時の日本では、ジュニアとヘビーの間には明確な壁があったが、そういう感覚のない国では、ヘビー級の選手相手にタイガーが勝利することへの違和感は薄かったようだ。
同様に日本においても、全盛時のタイガーがヘビー級の選手たちと闘っていたならば、いったいどんな試合になっただろうか。そう考えたとき、まだ第一線に猪木が君臨し、藤波や長州力もいた当時の状況は、ある意味で残念だったと言えようか。
もし、新日の選手大量離脱時にタイガーがデビューしていたならば、日本のプロレス史はまた違ったものになっていたかもしれない。
タイガーマスク
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PROFILE 1957年11月27日、山口県下関市出身。
身長173㎝、体重90㎏。得意技/タイガー・スープレックス、ローリング・ソバット。
文・脇本深八(元スポーツ紙記者)