スポーツ
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スポーツ 2010年01月19日 01時00分
57歳の早すぎる死…小林繁氏を悼む
17日、福井市内の自宅にて、巨人・阪神のエースとして活躍した名投手・小林繁氏が、心筋梗塞による心不全で亡くなった。小林氏は福井市内の中学硬式野球チーム「オールスター福井」の総監督として、未来のプロ選手を育成する夢に燃えていた。 小林氏のキャリアを語る上でけっして外せないのが、言うまでもなく「空白の一日」を経た、江川卓氏との電撃トレードであろう。金子鋭コミッショナー(当時)が、「江川氏の入団が認められなければセ・リーグ脱退」を匂わせる巨人サイドの圧力に屈する形で、ドラフトで阪神に指名された江川氏の、トレードでの巨人入団を強固に後押し。小林氏が江川氏とのトレードを告げられたのは、春季キャンプに向かう空港でのことだった。 79年1月31日のその日から、小林氏と江川氏は数奇な運命に巻き込まれ、以降けっして交わることはないものの、お互いに酷似した現役生活を辿ることとなる。ともに肩痛が原因とはいえ、余力を残した印象を与えたまま、若くして引退した小林氏と江川氏。二人とも40歳までプレーし続けていれば軽く200勝はクリアできたろうが、納得いくピッチングができなくなったと自己判断した途端、記録への執着をまったく見せずに、あっという間に現役生活に見切りをつけた。その現役生活同様、いささか見切りの早すぎる死に様を見せた小林氏に、江川氏は何を思ったことか…。 巨人・阪神という二大人気球団でプロのキャリアを積み、いずれもエースとして獅子奮迅の活躍を見せた小林氏。周囲からのプレッシャーが他球団とは比較にならないほど甚大な両球団でトップを張り続けた経験を、今季より日本ハムの投手コーチ業で活かすはずであった。否、むしろその貴重な経験は、日本ハム球団はおろか、球界全体の財産となり得たであろう。早すぎた死が惜しまれる。
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スポーツ 2010年01月18日 14時00分
高田ヤクルトの士気を奪う経費節減…
2010年のペナントレースが盛り上がるかどうかは、東京ヤクルト次第−−。高田繁監督(64)率いる東京ヤクルトスワローズは、昨季、『3試合連続サヨナラ勝ち』を決めるなど好調だったが、8月に故障者が続出。クライマックスシリーズには滑り込めたものの、史上初の『勝率5割切れでの進出』という“汚名”を残してしまった。 その東京ヤクルトが何故、ペナントレースの命運を握っているか? 01年以降、9年連続で巨人戦に負け越している。巨人を独走させた“張本人”だからである。 「最多勝の館山(昌平)が対巨人戦で2勝3敗、13勝の石川(雅規)は3試合に登板して、1勝もできませんでした。打線にしても、中軸の青木(宣親)が2割6分7厘、デントナは1割7分5厘ですからね」(在京球団スコアラー) 巨人との対戦成績は、8連敗を含む5勝18敗1分け。しかし、巨人追撃の最右翼と目された落合中日とは13勝11敗、後半戦に上昇ムードを掴んだ真弓阪神にも15勝9敗と勝ち越している。 これでは、巨人の援護射撃をしているようなものだ。 「最下位の横浜は尾花(高夫)新監督を迎え、大量なトレードも行いました。不況のせいもあるが、ヤクルトは補強らしい補強をしていません」(前出・同) 不況といえば、ヤクルトナインの士気を奪うような『経費節減』が敢行されていた。 クライマックスシリーズ進出が決まる直前から、「(第1ステージ主催権がある2位・中日の本拠地)名古屋まで行けない。神宮球場でパブリックビューイング(PV)をやってほしい」というファンの声が多数寄せられた。 PVとは、神宮球場・バックスクリーンで落合中日との一戦をライブ中継するもの。球団内には前向きな声も聞かれたが、「警備面などの諸経費を合わせたら、3試合で250万円くらいかかる」ことが分かるなり、立ち消えになってしまった。パ・リーグ3位のソフトバンクが福岡でPVをピーアールしていたのとは対照的なだけに、ヤクルトナインは愕然としていた。 「選手が試合中に使うタオル、試合後のシャワー室に常備されているバスタオルも経費節減の対象にされました。『1人で2枚も3枚も使うな』と…」(関係者談) 今季、高田監督は3年契約の最終年を迎える。就任1年目は5位。チーム成績そのものは上がっており、球団はゼネラルマネージャーとしてのフロント入りも期待しているが、こんな状態では巨人に一矢を報いることはできない。不況なのは分かるが、選手の士気を奪うような経費節減は致命傷にもなり兼ねない。
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スポーツ 2010年01月18日 13時00分
「時代」を彩った男と女・あの人は今 元全日本女子バレーボール監督・山田重雄さん
06年7月13日、米国・マサチューセッツに本部がある『バレーボール殿堂』に元・全日本女子監督の山田重雄が選定され、殿堂の仲間入りをした。 奇しくも、山田の殿堂入りを公表したのが、彼をバレーボールから事実上、抹殺した『日本バレーボール協会』。協会からの報告を山田はどんな思いで聞いたのだろうか…。 1931年10月26日、静岡・清水市(現・静岡市清水区)で生まれた山田は東京教育大学(現・筑波大)を卒業するまで、バレーボール一筋。卒業後、体育教師でありながら都立・三鷹高校でバレーボールの指導にあたっていた。 高校バレー部の監督であった山田に転機が訪れた。実業団・日立武蔵からの監督招聘だ。 当時を知る元・スポーツ記者が回想する。 「昭和40年前後だと思いますが、その当時は『東京五輪』(昭和39年)の大松監督が採っていた“スパルタ指導”が主流。それに対し、山田は自身がバレーボールのエリートで無かった…高校で様々なタイプの生徒を指導してきた…というこれまでの指導者に無い2つのヒントを生かし新しい指導法を生みだしたのです。これが斬新で革命的でした」 山田が採った指導法とは今でこそ、ごく当たり前となった「データ主義」。大松とは180度異なる理詰めの戦略で、相手チームの徹底分析から始まり、データに基づいたチーム編成と練習を行った。 勿論、当時はスポーツ全体が「根性論」主義。山田のアイディアは画期的で「知将」と持て囃された。が、大松をはじめとする大半の指導者から山田は、猛反発を受けたのも事実であった。 それでも、山田は自らの姿勢を崩さず「データ」を重視。その結果、日立武蔵は日本リーグ18回優勝という快挙を打ち立てたのだ。 そんな山田の革命的な指導にバレーボール協会は着目。67年、協会は山田に全日本女子の監督を要請した。山田は翌年、開催される『メキシコ五輪』(68年)まで、という期限付きで監督を受諾したのだ。 「期限付き監督は、協会も有難かった。勝てなければすぐに解任出来ますから…。つまり、協会は“これで行く”という確たる芯が無い。風見鶏なのです。実際、山田を監督に担ぎあげた時に、メキシコ五輪後の監督選びをしていた。ウワサだと山田の後を受けた小島孝治(70〜72年監督)の方が、山田より先に決定したと言われていました」と、前出・記者は語る。 ところが、山田の魔術は冴えわたり『メキシコ五輪』では銀メダルを奪取。もはや「山田無くして全日本女子は無い」状態になってしまった。 当初予定通り、山田は五輪後に一度、監督の座を降りるが、73年に復帰。74年に開かれる世界選手権を見据えてのものだった。関係者がいう。 「世界選手権から始まり76年の『モントリオール五輪』と77年に開催されたワールドカップまで3大会、負け知らず。全て金メダルで世界初の“三冠王”となったのです。山田の全盛期でした」 特筆すべきは『モントリオール五輪』だろう。今大会は全ての試合に完勝。相手に1セットも与えない、という快挙を成し遂げたのだ。 「三冠王」監督になった山田は78年途中で全日本監督を退任。88年に一度だけ復帰するが、神懸かり的な魔術は色あせてしまった。 最後の代表監督後、日立の監督に戻った山田。だが、この辺りから、彼の人生が大きく狂い始めたのだ。 94年、サッカーがプロ化し、Jリーグが発足。山田はこれに触発され、バレーボールもプロ化に移行させようと画策した。 「山田は“プロ化することで、バレーボール人気が向上する”と協会に働きかけた。そのために、山田が指揮を執っている『日立』の選手からプロにさせようとしたのですが、親会社の『日立』が猛反発。何と、『日立』がプロ化を許可しなかったのです」と、スポーツ紙デスクが語る。 しかも、ちょうどこの時期に山田のセクハラが『週刊ポスト』でスクープされたのだ。山田はプロ化画策とセクハラ報道の責任を追われ、日本バレーボール協会常任理事を辞任。そればかりか、山田を慕っていた幹部連中も「山田色の排除」名目で要職から外される憂き目にあった。 また、山田のプロ化に協調していた主力選手の大林素子、吉原知子が『日立』より解雇通告。かつて「バレーボールの魔術師」と呼ばれた山田がバレーボールから抹殺された瞬間だった。 地に堕ちた魔術師の晩年は寂しく、バレーボール撤退後は「株取引の違反で逮捕されるなど、すっかりブローカーになってしまった」と前出・デスクが嘆く。 そんな中、殿堂入りした山田、彼はこの「名誉賞」をどう受け止めたのか−−。
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スポーツ 2010年01月16日 14時00分
星野SD以上!? 原、岡田両監督の意外な評判
「今、もっともネットワークのあるプロ野球監督は誰か!?」−−。 そんな質問を何人かのアマチュア野球指導者にぶつけてみた。 ちょっと予想外な答えが返ってきた。 「タツノリさん(原辰徳)か、岡田(彰布)監督だと思う」 こちらは、星野仙一・阪神SD(62)の名前が出ることを想定しての質問だった。何故、星野SDではなく、原、岡田両監督なのか? その理由は、彼らの『若さ』と『経歴』にあるようだ。 「タツノリさんは東海大学の出身で、岡田監督は早稲田ですよ。彼らの学生時代の同期や、先輩後輩は、今、現役の高校、大学、社会人の監督、コーチを務めているんですから」 学生野球の指導者の1人がそう言う。確かにその通りである。星野SDの同期生たちは現場を退く年齢だ。星野人脈の広さは「政治家も顔負け」と言われているが、ドラフト候補生に関する情報なら、現場関係者と直接話のできる原、岡田両監督の方がより早く、具体的な内容が入っている。 「東海大グループの野球関係者は毎年1回、岩井美樹・国際武道大学監督のゴルフコンペに集まります。人数にして200人以上です。当然、野球の話題が中心になりますからね。巨人スカウトも知らないような話まで、原監督の耳に入ってきます」(関係者) 早大出身の岡田監督も、同様である。 原監督がアマチュア球界に影響力を持つエピソードもある。大田泰示内野手が巨人に1位指名された一昨年秋、原監督のことを「タツノリさん」と言い、叱責された。とくに東海大系の学校関係者がそうなのだが、アマチュア球界において「原監督」は父・原貢氏のことを指し、原辰徳・巨人監督は「タツノリさん」と呼ばれている。大田の「タツノリさん」発言は、むしろ、原辰徳・巨人監督が学生野球の現場に知れ渡っているかを証明するものだった。 「外国人選手の招聘ルート、日本球界で通用するタイプか否かを見分ける眼力は星野SDの方が上。阪神は、外国人は星野SD、ドラフトは岡田と使い分ければ良かったんですが、2人とも張り合ってしまって…」(在阪球団関係者) ネットワークの強さを張り合った結果、岡田監督がオリックスに転じたとの情報もある。 星野SDが巨人監督の候補者から消えて久しい。読売グループが「星野、星野」と言わなくなったのは、原監督の采配だけではなく、“ウラの影響力”を認識したからかもしれない。
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スポーツ 2010年01月15日 15時30分
「時代」を彩った男と女・あの人は今 元ボクサー・ピューマ渡久地さん
沖縄県石川市(現・うるま市)出身の元日本フライ級王者・ピューマ渡久地。興南高校卒業後、日本大学農獣医学部に進学するが、ボクシングに専念するため中退する。 鬼塚勝也、辰吉丈一郎とともに『平成の三羽ガラス』と呼ばれ、90年前半の日本ボクシング界をリードしてきた。戦型は右のファイタータイプ。 高校入学と同時にボクシングを開始。金城真吉監督の元、メキメキ頭角を現し、87年のインターハイで準優勝(フライ級)。同年開かれた沖縄・海邦国体では沖縄代表としてチームの優勝に貢献した。 アマチュア時代の戦績は58戦53勝5敗。まさに驚異的な実績を持ち「今すぐプロに転向しても日本のトップレベル」と関係者もその素質の高さを評価していた。 88年5月、プロデビュー。パワフルなボクシングを持ち味とし、全日本新人王(MVP)、A級トーナメント優勝(MVP)、日本プロスポーツ大賞・内閣総理大臣新人賞…など、あらゆるタイトルを獲得。賞を総なめした。 尚、東日本新人王トーナメント決勝では、後のWBC世界フライ級王者・川島郭志を6回TKOで撃破した。 「この試合は圧倒的に川島有利と言われていました。前年の高校インターハイで川島が渡久地に完勝しており、その差は縮まっていないと目されていたからです」と、当時取材したスポーツ紙記者は語る。 90年3月、実に10戦目で渡久地はフライ級日本王座戦にチャレンジし、見事KO勝ち。続く8月に行われた初防衛戦もKO勝利で、デビューからの連続KO勝利を日本歴代3位になる11に伸ばす偉業を成し遂げたのだ。 渡久地のボクシング人生はまさに順風満帆であったように思えたが90年11月、2度目の防衛を終えた後に一転する。 「3度目の防衛戦が91年3月に行われる予定だったのでしたが、その直前に失踪したのです。当然、日本王者ははく奪され、JBCから無期限のライセンス停止処分を受けたのです」と、前出・スポーツ紙記者。 当時、売り出し中であった勇利アルバチャコフ(当時はチャコフ・ユーリ)との対戦はファンならずとも注目の1戦であっただけに渡久地の失踪には衝撃が走った。 「失踪理由は所属ジムとの金銭トラブル…スパーリング中に相手と喧嘩になり骨折した…などと言われていますが真相は不明。有力なのは躁鬱説ですが、これも決め手に欠けているのです」(前出・スポーツ紙記者) 無期限のライセンス停止から2年半、93年4月ついに復帰する。初戦の相手は元WBAフライ級世界王者で現役世界ランカー、へスス・ロハス(ベネズエラ)だった。 さすがにブランクが響き往年のキレを失った渡久地は9回TKOでプロ初黒星を喫し、8月に行われた2戦目も敗北する。 それでも渡久地は拳を交わし続け、95年1月23日、復帰5戦目で日本フライ級王者・岡田明広と対戦。日本王座戦に挑み、10回判定で勝利。約4年ぶりに王者へ返り咲いた。 96年8月26日、両国国技館で“因縁の”WBC世界王者・勇利アルバチョフと世界戦に挑む。これが渡久地にとって初の世界戦であったが9回TKOで撃沈。世界の壁を痛感した渡久地だが、JBCはこの試合が高レベルであったと評価。96年の年間最高試合として選出した。 その後、日本王者を返上し勇利の所属する『協栄ジム』に移籍するなど、試合よりも“お騒がせネタ”を提供してきた渡久地。関係者が語る。 「彼は『協栄』に移籍後5連勝し、WBA世界スーパーフライ級王者・飯田覚士と世界戦が決定(98年12月)していたのですが脳梗塞の疑いが判明。試合が中止になったのです。結局、この診断は事実ではなかったのですが、これで選手生命が終わったのです」 99年10月に再度復帰するが、もはや渡久地に気力は無かった。3回TKOで完敗…引退を決意し、表明した。 私生活では93年8月5日に生田聡美と入籍。2女1男の父。東京・東麻布に『ピューマ渡久地ボクシングジム』を設立し初代会長に就任。現在は名誉会長として後進の指導に力を注いでいる。 07年度、東日本ボクシング協会理事を歴任。 ※プロ通算成績は23勝(19KO)4敗。
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スポーツ 2010年01月15日 14時00分
巨人坂本に追い抜かれた中日・堂上弟は今…
戦力層の厚い巨人のなかで、レギュラーポジションが安泰なのは、坂本勇人内野手(21)だけだろう。もっともショートを守れる控え野手も少なくないが、若い彼の奮闘は同年代のプロ野球選手の励みにもなると思いきや、こんな情報も駆け巡っている。中日・堂上直倫内野手(21)の前では、坂本の話はご法度だというのだ。 理由は簡単だ。06年・高校生ドラフトを思い出せば分かる。超高校級内野手として評判だった堂上を、中日、巨人が入札。抽選の結果、中日が当選。坂本は『外れ1位』で巨人に指名されたのである。 「外れ1位の方が活躍しているわけですからね。面白いはずがありません」(関係者) 今さらではあるが、堂上は『中日ファミリー』で育った。3歳年上の兄・剛裕も中日選手だが、父・照さんも元中日投手で、中日若手寮『昇竜館』の館長も務めてきた。兄弟への期待は大きかったが、内野手の弟・直倫に関しては「アライバコンビ(荒木、井端)を崩すのは並大抵ではない。三塁には森野もいるしね」と、坂本と張り合うまでの道のりは険しそうだ。出場好機に恵まれたドラフトのライバルを羨むのも仕方ないかもしれないが、潜在能力の高さは他球団も認めている。 「本人によりも周囲が『坂本に負けるな!』『見返せ!』と発破をかけ、それでイヤになったんです。『背番号1』を与えられたように期待も高かったので、その裏返しでした。まあ、『1番』に昇格して以来、その重圧に押しつぶされてしまった感もしないではない」(前出・同) 坂本の話を振ると、「自分は自分、人は人」とは言うものの、今も表情は険しくなるそうだ。父・照氏は兄・剛裕が中日入りする際、こう言った。「プロのユニフォームを着て満足してしまうか、それとも上を目指すかは自分次第」と−−。4年目の今季、アライバと勝負する覚悟がなければ、中日首脳陣も06年のドラフトを悔やむことになるだろう。
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スポーツ 2010年01月14日 13時30分
シオ順風満帆の陰で…オグひっそり引退
一世を風靡したアイドルバドミントンデュオ「オグシオ」の「オグ」、力尽きる−−。 三洋電機女子バドミントン部のエース・小椋久美子が、体調不良により12日、現役引退を発表した。引退会見によると小椋は、かねてから抱えていた腰痛、右足首痛に加え、故障が続いたことによる心労で胃炎を発症。特に胃炎に苦しみ続けたことが直接の引き金になり、10月に引退を決意したとのこと。 思えば、北京五輪後にコンビを解消した「オグシオ」の二人がそれぞれに歩んできた道のりは、まさに好対照そのものだった。「オグっち」と7年コンビを組み続けた「玲ちゃん」こと潮田玲子は、五輪終了直後の当初は即引退→スポーツキャスターとして芸能界転身が既定路線と見られていたが、池田信太郎との混合ダブルス「イケシオ」を結成し現役続行。同時にフリーアナウンサー事務所「セントフォース」とマネジメント契約を結び、現役として12年のロンドン五輪を目指しながら芸能活動も並行する。そしてプライベートではチュートリアル・徳井義実に元ラグビー日本代表の青年実業家と、常に恋の噂が絶えないモテモテぶり。オグシオフィーバーが頂点だった北京五輪が終了した後も、常に華やかな話題を振りまき続けるヒマワリのような存在、それが「シオ」なのだ。 一方、「オグ」の“アフター北京”は苦難の連続だった。一時期引退も検討し、迷いを見せていた潮田よりもいち早く現役続行を宣言し、バドミントン一筋の姿勢を見せたものの、前述の通り、腰痛に足首痛とコンディションが悪化。昨年はなんと、一度も公式戦に出場できなかった。そしてストレスで胃炎まで発症し、ボロボロのまま引退−−。引退会見での涙には、計り知れぬほどの無念さが漂っていた。 アイドルデュオ「オグシオ」と並び称されてはいたものの、正直なところ、人気面では常に潮田の後塵を拝していた小椋。常に派手な話題でメディアを賑わす潮田と比較すると、いわば月見草のような存在だったともいえる。引退後もOLとして三洋電機に残るという選択も、「名よりも実」のバドミントン人生を送ってきた彼女にふさわしい。これまでロマンスの面でも潮田に後れを取っていた小椋だが、今後はこれまでの人生同様の実直な恋愛・結婚で幸せを掴んでもらいたいものだ。
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スポーツ 2010年01月12日 16時30分
トライアウト受験の悲劇は解消されないのか…
プロ野球の元旦が『2月1日のキャンプイン』ならば、現在行われている1月の自主トレは、年越しの準備期間ということになるだろう。マスメディアの関心は菊池雄星(18=埼玉西武)など有名新人に集まっているが、“新年を迎えられなかった面々”もいる。トライアウト受験に失敗した元プロ野球選手たちである。 「阪神の今岡(誠)? テスト生として千葉ロッテのキャンプに参加することになっているが、『合格』の内定がでていると見てまず間違いないでしょう。フロントの信頼が厚い井口(資仁)が同い年ということで、強く推薦しているようだし」(球界関係者) 今岡については、トライアウトを受験した当初、オリックス・岡田彰布監督が「晒し者にするな!」と古巣・阪神に噛み付いていた。その岡田監督の一喝が千葉ロッテを動かしたかどうかはともかく、大多数のトライアウト受験者は新天地を見つけることができなかった。何人かに取材してみたが、トライアウト受験者は大きく分けて、『2つ』に分けられる。1つは再起を目指し、必死になっている者。もう1つは、野球に見切りを付けるために受験した者。つまり、「何処の球団からもオファーがなかった」事実を自分自身に言い聞かせるためである。 後者の受験者の心境も、分かる気がする。しかし、問題なのは前者である。トライアウトを取材したことのある者なら、分かると思うが、出場機会に恵まれれば、戦力として十分にやっていけそうな選手も少なくないのだ。あるプロ野球OBによれば、「もし他球団で再起したら、旧在籍チームの二軍指導者の引責問題に発展する」とし、故障や性格面におけるウソの情報を流すのだという。 「首脳陣に嫌われただけで、解雇された選手いますよ」(同) もし本当なら、プロ野球の世界も、ビジネスマンと変わらない辛さがあるようだ。 08、09年のセ・リーグ新人王は巨人から輩出された。その2人の受賞者、山口鉄也と松本哲也は『育成枠』から這い上がってきた。彼らの頑張りには頭が下がる思いだが、「70人まで」と支配下登録選手数を定めているプロ野球各チームは、新人を獲得するためには、その人数分の「支配下選手」を解雇しなければならない。 昨秋のドラフト会議を見て、疑問に思うことがある。支配下登録する新人の指名を4、5人で終えておきながら、育成枠ドラフトに再び参加する球団もあった。支配下登録する選手にはそれなりの契約金も払わなければならないが、育成選手なら多少の支度金と年俸240万円で済む。人件費を削るための計略だとしたら、解雇を通告されたトライアウト受験者も納得できないだろう。 育成枠の在り方に限らず、ドラフト会議後に行われるトライアウトの日程、アマチュア復帰のための条件緩和など、プロ野球は“年始”までに解決できなかった問題も少なくないようだ。(スポーツライター・美山和也)
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スポーツ 2010年01月12日 15時00分
「時代」を彩った男と女・あの人は今 元ヤクルト(ドラフト1位)・竹本由紀夫さん
去年の各球団のドラフト1位に指名された注目の菊池雄星や長野久義、今村猛などは今季どんな活躍をするのだろうか。「ドラ1」と言われた選手はえてして当たりが少ない。 1980年のドラフト会議で社会人野球で輝かしい記録を数多く残した選手がヤクルトから1位指名を受けて入団した。竹本由紀夫がその人だ。 竹本は56年8月1日静岡県に生まれた。県立修善寺工業高から新日鉄室蘭に入社。79年の都市対抗野球大会ではエースとして投げ、ベスト8に進出する活躍を見せた。この年のドラフトではロッテに1位指名されたが、これを拒否した。 翌80年、世界選手権の代表に選ばれ、キューバ戦で好投した。そして都市対抗野球でも大昭和製紙北海道の補強選手として出場、準決勝まで勝ち進んだ。この年のドラフトで再び注目を集めた。そして、ヤクルトから1位指名を受けた竹本、石毛宏典(西武)、原辰徳(巨人)の3人がこの年のドラフト“御三家”とまで言われた。 竹本は右腕の即戦力として大いに期待されるが、その期待を裏切る結果となった。ヤクルトに4年間在籍したが、通算37試合に出場して、0勝5敗0セーブで、投球回数72回と3分の2、防御率4.71で引退した。社会人時代は輝かしい実績を残したにもかかわらず、プロでは1勝もできなかった。 引退後は、飲食店を経営するなど、さまざまな事業に手を出したがことごとく失敗、現在はその消息が知れないという。 ちなみにこの年のドラフトは前述の原、石毛以外に中尾孝義(中日)、川口和久(広島)、愛甲猛(ロッテ)、高木豊(大洋)、駒田徳広(巨人)、大石大二郎(近鉄)など、80年代のプロ野球を支えた錚々たる選手が輩出した。それだけに竹本のハズレが目立つものであった。
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スポーツ 2010年01月11日 15時00分
「時代」を彩った男と女・あの人は今 スキージャンプ・笠谷幸生さん
今年2月、カナダのバンクーバーで冬季五輪が開催される。日本からも多くの選手が代表入りを目指して国内で熱い戦いを繰り広げている。 今から37年前の1972年、札幌で冬季五輪が開催された。その時、日本選手団は男子スキー70メートル級ジャンプで、金・銀・銅を獲得、表彰台を独占した。そして「日の丸飛行隊」と呼ばれた。この時の金メダリストが笠谷幸生だった。 笠谷は43年8月17日、北海道余市郡大江村(現・仁木町)で生まれた。4歳の頃から遊びでジャンプを始め、中学3年生の時には兄・昌生(スキージャンプ選手。昨年2月死去)に連れられて社会人の羽幌炭鉱と明治大学の合同合宿に参加、大人顔負けのジャンプを見せ「仁木から神童が現われた」と評判になった。 59年、笠谷は余市高校に入学するが、スキー部の方針でインターハイに出場できず、その怒りを闘争心に変えて、そのシーズンのあらゆる大会で優勝し続けた。 60年の新潟でのインターハイで笠谷は3位に入ると、それを契機に海外遠征もこなした。そして63年2月の第2回STV杯ジャンプ大会では日本人2人目の100メートルジャンパーとなった。 海外での国際大会では、70年のメルディックスキー世界選手権の70メートル級で銀メダル。72年の欧州ジャンプ週間では開幕3連勝を成し遂げた。そして札幌五輪の金メダルとなった。銀メダルは今野昭次、銅メダルは青地清であった。 笠谷はその後の76年、シーズン前に兼任していたコーチ業に専念するため現役を引退。オーストリアに留学してコーチとしての知識を身に付けた。そして帰国後は、全日本代表のコーチとしてジャンプ選手の育成や強化に努めた。 01年、全日本スキー連盟担当理事でジャンプ部長兼ヘッドコーチに就任。03年には紫綬褒章を受章した。現在は札幌スキー連盟副会長を務めている。
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