奇しくも、山田の殿堂入りを公表したのが、彼をバレーボールから事実上、抹殺した『日本バレーボール協会』。協会からの報告を山田はどんな思いで聞いたのだろうか…。
1931年10月26日、静岡・清水市(現・静岡市清水区)で生まれた山田は東京教育大学(現・筑波大)を卒業するまで、バレーボール一筋。卒業後、体育教師でありながら都立・三鷹高校でバレーボールの指導にあたっていた。
高校バレー部の監督であった山田に転機が訪れた。実業団・日立武蔵からの監督招聘だ。
当時を知る元・スポーツ記者が回想する。
「昭和40年前後だと思いますが、その当時は『東京五輪』(昭和39年)の大松監督が採っていた“スパルタ指導”が主流。それに対し、山田は自身がバレーボールのエリートで無かった…高校で様々なタイプの生徒を指導してきた…というこれまでの指導者に無い2つのヒントを生かし新しい指導法を生みだしたのです。これが斬新で革命的でした」
山田が採った指導法とは今でこそ、ごく当たり前となった「データ主義」。大松とは180度異なる理詰めの戦略で、相手チームの徹底分析から始まり、データに基づいたチーム編成と練習を行った。
勿論、当時はスポーツ全体が「根性論」主義。山田のアイディアは画期的で「知将」と持て囃された。が、大松をはじめとする大半の指導者から山田は、猛反発を受けたのも事実であった。
それでも、山田は自らの姿勢を崩さず「データ」を重視。その結果、日立武蔵は日本リーグ18回優勝という快挙を打ち立てたのだ。
そんな山田の革命的な指導にバレーボール協会は着目。67年、協会は山田に全日本女子の監督を要請した。山田は翌年、開催される『メキシコ五輪』(68年)まで、という期限付きで監督を受諾したのだ。
「期限付き監督は、協会も有難かった。勝てなければすぐに解任出来ますから…。つまり、協会は“これで行く”という確たる芯が無い。風見鶏なのです。実際、山田を監督に担ぎあげた時に、メキシコ五輪後の監督選びをしていた。ウワサだと山田の後を受けた小島孝治(70〜72年監督)の方が、山田より先に決定したと言われていました」と、前出・記者は語る。
ところが、山田の魔術は冴えわたり『メキシコ五輪』では銀メダルを奪取。もはや「山田無くして全日本女子は無い」状態になってしまった。
当初予定通り、山田は五輪後に一度、監督の座を降りるが、73年に復帰。74年に開かれる世界選手権を見据えてのものだった。関係者がいう。
「世界選手権から始まり76年の『モントリオール五輪』と77年に開催されたワールドカップまで3大会、負け知らず。全て金メダルで世界初の“三冠王”となったのです。山田の全盛期でした」
特筆すべきは『モントリオール五輪』だろう。今大会は全ての試合に完勝。相手に1セットも与えない、という快挙を成し遂げたのだ。
「三冠王」監督になった山田は78年途中で全日本監督を退任。88年に一度だけ復帰するが、神懸かり的な魔術は色あせてしまった。
最後の代表監督後、日立の監督に戻った山田。だが、この辺りから、彼の人生が大きく狂い始めたのだ。
94年、サッカーがプロ化し、Jリーグが発足。山田はこれに触発され、バレーボールもプロ化に移行させようと画策した。
「山田は“プロ化することで、バレーボール人気が向上する”と協会に働きかけた。そのために、山田が指揮を執っている『日立』の選手からプロにさせようとしたのですが、親会社の『日立』が猛反発。何と、『日立』がプロ化を許可しなかったのです」と、スポーツ紙デスクが語る。
しかも、ちょうどこの時期に山田のセクハラが『週刊ポスト』でスクープされたのだ。山田はプロ化画策とセクハラ報道の責任を追われ、日本バレーボール協会常任理事を辞任。そればかりか、山田を慕っていた幹部連中も「山田色の排除」名目で要職から外される憂き目にあった。
また、山田のプロ化に協調していた主力選手の大林素子、吉原知子が『日立』より解雇通告。かつて「バレーボールの魔術師」と呼ばれた山田がバレーボールから抹殺された瞬間だった。
地に堕ちた魔術師の晩年は寂しく、バレーボール撤退後は「株取引の違反で逮捕されるなど、すっかりブローカーになってしまった」と前出・デスクが嘆く。
そんな中、殿堂入りした山田、彼はこの「名誉賞」をどう受け止めたのか−−。