スポーツ
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スポーツ 2015年06月02日 12時00分
【記憶に残るプロ野球選手】第7回・“幸運”を引き寄せる魔力を持った宮本和知
失礼ながら、現役時代はさほど、たいしたことはなかったのに、なぜかやたら印象に残っているのが、元巨人投手の宮本和知だ。いったい、何がそうさせたのか? 宮本は学生時代、決して注目されていた選手ではなかった。投手に転向したのは高校2年の時。山口県立下関工業高等学校を卒業後、社会人野球の川崎製鉄水島製鉄所へ入社し、投手として頭角を現した。84年にロサンゼルス五輪で野球が公開競技として初開催されると、宮本は日本代表として出場し、金メダル獲得に貢献した。 五輪での活躍がスカウト陣の目に留まり、同年秋のドラフト会議で3位指名され、巨人に入団した。当初は主に中継ぎでの登板が多かったが、藤田元司氏が新監督に就任した89年から、先発での起用が多くなった。同年はわずか5勝しか挙げていないが、リーグ優勝時、日本シリーズ制覇時に胴上げ投手となっている。これに代表されるように、宮本はとにかく“幸運”を引き寄せる魔力を持った選手だったのだ。 胴上げ投手になった自信からか、翌90年には大きく飛躍。28試合に登板し、190回1/3を投げ、初めて規定投球回に到達。14勝(6敗)をマークし、チームのリーグ優勝に貢献。同年もリーグ優勝時の胴上げ投手になる幸運に恵まれた。ただ、14勝して、7割という高い勝率の割に、防御率は3.69と決して良くはなかった。これは、宮本が投げた試合では、打線が援護してくれた何よりの証拠。「宮本が投げるんだから、打ってやろう」という雰囲気が野手陣にあったようだ。それも宮本の人望がなせるワザだったのかもしれない。 91年も10勝(11敗)をマークして、2年連続2ケタ勝利を記録。しかし、92年は9勝(9敗)に終わり、年々成績は下降していった。頸椎を痛めたこともあり、97年は4勝(4敗)どまりで、同年シーズン限りで現役引退した。残した通算成績は287試合に登板し、66勝62敗4セーブ、防御率3.60。100勝にも遠く及ばず、9年間、ローテーション投手としてプレーした割には、正直たいした成績は残していない。にもかかわらず、鮮烈な印象を残した宮本。それは、やはり何度も胴上げ投手になったインパクトが強く、5度のリーグ優勝、2度の日本シリーズ制覇に貢献し、明るいキャラクターでファンに愛されたからであろう。 引退後の宮本はタレントに転向して開花した。元プロ野球選手となると、そのプライドが邪魔をして、うまくいかないケースも多いが、宮本はしっかり、そのポジションを確保している。現在、タレント活動をしている元プロ野球選手の中では、いちばん売れているのが宮本といってもいいだろう。所属事務所は業界大手のホリプロで、巨人OBの顔を生かして、日本テレビ系CS放送・ジータスで中継解説や試合前の「プレゲームショー」、試合後の「ポストゲームショー」など、巨人関連番組を数多く担当。ニッポン放送でも、「ショーアップナイター」の解説者を務めている。それ以外にも、「ズームイン!!サタデー」(日テレ)、日テレのバラエティ番組「妻にはショナイで!」にもレギュラー出演している。 また、「ぶらり途中下車の旅」(日テレ)では旅人として街を歩き、読売テレビ制作の「情報ライブ ミヤネ屋」では準レギュラーでコメンテーターを務めている。出演番組のほとんどが、日テレ、読売テレビ系で、“巨人ブランド”を存分に生かしてはいる。だが、それだけではなく、野球関連のみならず、コメンテーター、旅人などを器用にこなしている。その振り幅の広さ、しゃべりのうまさがあるからこそ、野球以外の仕事も入っているのだ。明るいキャラクターも、その人気の源となっている。 現役時代はスター選手ではなかったにもかかわらず、引退後のタレント活動が成功したのも、その人柄によるところも大きい。巨人時代、リーダーシップに秀で、投手会長、選手会長を務めた。性格も明るく人望もあるからこそ、オファーもあるのだろう。元プロ野球選手としてのプライドを引きずっていない点もプラスに作用したようだ。 引退して、もう18年が経ち、すっかり、タレントとして定着した宮本。愛すべきキャラクターだけに、第2の人生を頑張ってほしいものだ。(ミカエル・コバタ=毎週火曜日に掲載)
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スポーツ 2015年06月01日 16時30分
オールスター・ファン投票で異変! 監督業にほぼ専任の中日・谷繁が捕手部門1位に
プロ野球オールスター戦のファン投票で異変が起きた。今季は監督業にほぼ専任している中日ドラゴンズ・谷繁元信兼任捕手(44)が、捕手部門でトップに立ったのだ。 5月29日、NPB(日本野球機構)は「マツダオールスターゲーム2015(第1戦=7月17日・東京ドーム、第2戦=同18日・マツダスタジアム広島)」ファン投票の中間発表をした。 同25日に、第1回中間発表がされたが、セ・リーグでは全11枠中、9枠が前回と同じ顔触れとなった。首位を走るDeNAベイスターズからは、田中健二朗(中継ぎ投手)、山崎康晃(抑え投手)、アーロム・バルディリス(三塁手)、筒香嘉智(外野手1位)、梶谷隆幸(外野手2位)の5人。広島東洋カープ勢は、黒田博樹(先発投手)、新井貴浩(一塁手)、菊池涼介(二塁手)の3人が1位。他の球団では、阪神タイガースの鳥谷敬(遊撃手)がトップを守り、外野手部門で丸佳浩(広島)を抜いて、中日・平田良介が3位に食い込み、圏内の3枠目に入った。 捕手部門では、会沢翼(広島)をかわして、谷繁が3万169票を得て、トップに立った。野村克也がもつ出場試合最多記録(3017試合)まで、あと10試合に迫った谷繁だが、今季は若手捕手に任せることが多く、ここまでわずか16試合の出場で、27打席しか立っていない。成績だけを見ると、とてもオールスター戦に出場するようなものではない。 その谷繁は同28日のソフトバンク戦で腰を痛め、皮肉にも、ファン投票中間発表がされた同29日に、出場選手登録を抹消された。これは、監督兼任となった昨季以来、初めての事態。ケガは重症ではないようだが、監督として指揮を執らなければならず、治療に専念できないのが実状で、再登録までは少々時間がかかるかもしれない。 当の中日は25勝29敗の借金4で4位に低迷。最下位・広島には0.5ゲーム差に迫られており、いつ最下位に転落してもおかしくない状況。そんななか、中日ファンの「勝つために谷繁にもっと試合に出てほしい。“選手”谷繁を見たい!」との切なる思いが、この投票行動につながったようだ。 ただ、2位の会沢(2万9417票)とは、わずか752票差。その他に、3位の阿部慎之助(巨人)らも控えており、いつ逆転されてもおかしくない状況だが、もし谷繁が最終的にファン投票のトップに立つようなことがあれば、出場試合日本記録達成のご祝儀と解釈すべきか? なお、ファン投票は6月20日で締め切られ、最終結果は同26日に発表される。※記録はすべて5月31日現在(落合一郎)写真:横浜DeNAベイスターズ、梶谷隆幸
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スポーツ 2015年06月01日 13時00分
大谷翔平は球宴負担も二人分 打者と投手で2試合フル出場か?
プロ野球オールスター戦のファン投票が始まった。そのピーアールを兼ねたイベントに、セ・リーグとパ・リーグそれぞれの指揮を執る巨人の原辰徳監督(56)とソフトバンクの工藤公康監督(52)が登場し、ペナントレースの行方を決めかねない爆弾発言が飛び出した。 「セパの代表監督はペナントレースのライバル球団の主力選手を預かります。意図的に特定球団の選手を潰すようなことはしないが、結果的に球宴明けのペナントレースに影響を与えることもないとは言い切れない」(ベテラン記者) 1998年に、その年の前半戦を牽引した巨人の趙成は、球宴で自ら降板を申し出たが、受け入れられなかった。その後に趙成は、右肘の故障の原因は球宴にあったと話している。あくまでも趙成サイドの一方的な証言ではあるが、主力選手を預ける側の指揮官の本音は「怪我だけではしてくれるな」だろう。 今夏の球宴で懸念されるのは、日本ハムの大谷翔平(20)の起用法だ。工藤監督は投手としての大谷の活躍と、打者としての大谷の人気を踏まえて次のように語っていた。 「投げないときは守って打ってもらう」 二刀流での起用法である。隣にいた原監督も「2試合投げてもらう手もあるよ」と、大谷のフル回転を支持した。 今年の球宴は全2試合の開催。投手の大谷が先になるか、打者の大谷から披露されるのかは日本ハムのローテーションを見てからの判断になるが、球宴で他の選手の2倍の出場をしてから後半戦に臨むことになる。 「今季の序盤、大谷は先発登板して何試合か続けて足をつることがありました。投手と打者は使う筋肉が違う。二刀流の是非とは別に、大谷が疲れているのは間違いありません」(スポーツ紙記者) プロ野球選手である以上、ファンを楽しませなければならない。また、球宴全試合がテレビ中継をされなかった年もある。NPBはその失敗を繰り返してはならないと、近年は懸命な営業活動を続けている。大谷が確実に2試合とも出るとなれば、テレビ局側も前向きに捉えるはずだ。原、工藤両監督のコメントはそういった側面も念頭に入れてのリップサービスでもあり、コーチとしてベンチ入りする保護者役の栗山英樹監督(54)も強く反対することはできないだろう。 大谷が趙成の二の舞にならなければいいのだが…。
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スポーツ 2015年05月31日 13時00分
交流戦ネット裏スクープ 甲子園のヒーロー 松坂大輔と斎藤祐樹が直面する「引退」(2)
自己流の落とし穴にはまったのは斎藤佑樹も同じだ。斎藤は現在、二軍で“クローザーの適性テスト”を受けている。5月4日にプロ初セーブを挙げたが、「ボールが野手の正面に飛び、救われたようなもの」というのが本当の評価だった。 「栗山英樹監督は、何も抑え投手として斎藤を蘇生しようとは思っていません。クローザー起用の目的は、斎藤に必死さを植え付けるためです」(担当記者) しかし、このクローザー試験に合格しなければ、斎藤は“厳しいオフ”を迎えることになるだろう。 「斎藤をリリーフに転向させる案は、前季オフに栗山監督が実際に口にしていたことなんです。捕手だった近藤健介を三塁手で使ったシーズン後でもあったので、本気かなと思いましたが、クローザーの適性を語っていたのではなく、本当は先発で通用しないから、斎藤を生かす方法としてリリーフに転向させようと考えていたようです」(日ハムOBのプロ野球解説者) 斎藤は今季、開幕ローテーション入りを果たしたが、連続KOを食らって二軍落ち。初セーブ後の成績は以下の通りだ。【5月10日対DeNA、1回失点0、対戦打者数5、被安打1、与四球1、2セーブ目】【5月16日対ヤクルト、1回失点2、対戦打者数6、被安打3、与四球0】【5月20日対西武、1回失点2、対戦打者数5、被安打1、与四球1】 「ストレートが速いわけではないし、ウイニングショットになる変化球もないから、苦しいピッチングしかできないんです」(前出の担当記者) 斎藤の二軍登板を観戦したスポーツライター・飯山満氏はこう言う。 「常に走者を背負い、薄氷の登板でした。ゲームセットの瞬間まで気が抜けないので、むしろ、斎藤が投げて試合は面白くなった。そういう意味では、さすがエンターテイナー」 ファイターズの二軍にはクローザー候補が他にもいる。プロ2年目の白村明弘と6年目の大塚豊だ。ともにチャンスは限られているが、防御率は2点台。対して斎藤は7.16。クローザーとして4試合を投げ、計4失点だから、先発で投げていたときよりも防御率は悪くなった。 「大卒5年目の投手が二軍でモタモタしているようではヤバイ。これまで斎藤が救われてきた最大の要因は人気です。日ハムは各先発投手の観客動員数やマスコミ露出度も査定に加えますが、斎藤は入団以来、営業面での貢献度が大きかった。でも、その役目も大谷翔平の活躍によって終わりました」(ベテラン記者) 前出の飯山氏が皮肉ったように“薄氷のリリーバー”に徹すれば、営業的な貢献度は回復できるかもしれないが…。 「松坂にしても斎藤にしても、プライドが捨てられないのか、自分から教えを請うような姿が見られない。2人とも性格的には好人物だが、特に斎藤はエリート街道を歩んできたせいか、這い上がるすべを知らない。松坂は自分を過信しすぎです」(同) 我流の代償は自己責任。引き際も自分で決めるしかない。
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スポーツ 2015年05月31日 10時00分
小塚桃子ゴルフ連載(36)第七部・ゴルフダイエット編「夏場は薄着でもOK」
6月に入り、梅雨の時季を迎えます。湿度が高くなり、発汗量が多くなります。気温の割には汗をかくのでゴルフのプレー中は水分補給を必ず行いましょう。 汗といえば、私は今年のGWに軽井沢でラウンドしてきました。その時は気温こそ、高くありませんでしたが、大量の汗をかきました。湿度が高かったです。もう、あり得ないほどの汗が出ました。もっとも、「軽井沢=標高が高い」という意識があったので、暑さよりも寒さ対策を実施。ヒートテックを着てプレーしました。汗をかくのは当然ですね。 スコアは前半47、後半40。トータル87でベストスコアタイでしたが、実は80台前半が出てもおかしくない状況でした。 何と、後半のスタートがパー。続く2ホール目もパー。3ホール目がバーディー。4ホール目はパー。5ホール目がバーディー…と出だし快調。本気で「30台が出る!」と意識しました。こうなると気持ちは「30台」。意識しない方がおかしい位です。結果、ボギー、ダボを叩き、30台は「水の泡」となりました。とはいえ、40で上がれたので上出来ですが…ね。 因みに、後半スタート直後、一瞬だけですが、「30台」が見えたので、ゴルフ友達にオンタイムで「ヤバい、今アンダーなんだけど」と、LINEをしちゃいました。すると、「そのまま30台で回りなよ」「お祝いしようね!」という返信がきて、逆にこれが大プレッシャー。正直、「送んなきゃ良かった…」。私は、ロングパットが得意なんですが、緊張のせいで、全然思うように行かなかった。 ただ、その日は3人で回っていたのですが、そのうちの一人が絶不調。それも後半が酷く、彼女を持ち上げながらのラウンド。途中から私の事はどうでも良くなり、スコアを意識する事を忘れていました。「私の事はどうでもいいや」という気分でした。 結局、後半は40。スコアを意識した時としない時でハッキリした格好です。不調の彼女をフォローした時から、スコアが上がりました。「ゴルフはホントにメンタルなスポーツ!」−−本気で、思い知らされた瞬間でしたね。私は、まだまだ未熟者です。 さて、ダイエット。この時期は日焼けを警戒して厚着になる女性が多いですが、これは熱中症になりやすく危険。日焼け止めをくまなくし、厚着にならない様にして下さい。 なぜ、この話をダイエットにつなげたか、というと男性も敢えて着込んでプレーしている方が多い。こちらは完全に発汗を意識した厚着。ダイエット目的です。しかも、水分補給しないでプレーをする。熱中症予備軍となる事、必至。絶対、止めましょう。 夏場のゴルフは、薄着でもダイエット効果が高い。スポーツドリンクを片手に、途中にある「お茶屋」「レストラン」でアルコールを摂取しなければ、普通に2キロは落ちます。間食をしないゴルフを心掛けましょう。 それと、普段は素振りを毎日、100回。これを習慣化させるだけでいいと思います。毎日が難しいようでしたら、週3回を素振り。週末の一日をラウンド又は練習場でみっちり、打ち込む。これ以上は、ストレスになるので、やらなくていいと思います。 いずれにしても熱中症を警戒して、無意味な厚着や練習過多は避けて下さいね。小塚桃子オフィシャルブログ「季節はずれのももリンダ」http://ameblo.jp/koduka-momoko/
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スポーツ 2015年05月30日 13時00分
交流戦ネット裏スクープ 甲子園のヒーロー 松坂大輔と斎藤祐樹が直面する「引退」(1)
福岡ソフトバンクホークスの松坂大輔(34)と北海道日本ハムファイターズの斎藤佑樹(26)が『引退』の危機に晒されている。振り返れば、彼らは夏の甲子園を制した優勝投手。あまりに過去の栄光が輝かしいためなのか“今の自分”が見えていないようなのだ。 「松坂、斎藤は一軍復帰を目指して頑張っていますが、それぞれ復帰に関する手応えや調整の順調ぶりを口にするたびに落とし穴が見え隠れする。2人を見たいというファンは多い。人気選手だから使わなければならない。でも、今の状態で使えば、今度は監督に批判が集まる。そういう状況がわかっていないのか、いまだに自己流の調整を続けているのです」(球界関係者) 松坂は5月20日の対オリックス二軍戦で実戦復帰した。6回から2番手で登板し、2イニングを投げ被安打2、失点1。「とりあえず投げられたので、ひと安心」と笑顔を見せたが、試合後、ホークス内部から衝撃的なコメントが聞かれた。 「次回の登板は松坂本人が決めることになると思う」 一般論として、二軍投手の実戦登板は限られている。チャンスは平等に与えられるので他投手との兼ね合いもあり、その順番から逆算して5月24日が有力だった。二軍首脳陣は「24日を空けておく」としたものの、最終判断は松坂本人に委ねられたわけだ。 そして、心配が現実になる。予定通りの24日、広島二軍戦。ブルペンで肩をつくったものの、調子が上がらず、コーチとの話し合いで登板回避が決まった。 松坂は「まだこういう状態なので、いい時も悪い時もあるだろうと思っていた。今日は試合前からあまり調子が良くなかったので、回避することにした」と話した。 右肩筋疲労の故障から復帰を目指している過程なので、自己流の調整には慎重を期する意味合いもあるようだが…。 「球団と契約した時点から自己流調整は認められていました。実績のあるベテランですし、他意はなかったはずです」(地元紙記者) どうにも練習内容と調整段階に関して、首脳陣との食い違いが目立つ。こんなこともあった。ゴールデンウイーク最後の5月5日と同6日、松坂は2日連続でのブルペン入りを果たす。もっとも、捕手を立たせたままではあったが、両日とも変化球を交えて40球強を投げた。記者団の「順調ですか?」の問いに、「そうですね」と答えている。同じくリハビリ中で、西武時代を知る捕手の細川亨も「いいんじゃないですか」と手応えを語っていた。 しかし、これを伝え聞いた工藤公康監督は「肩の状態はいいと聞いている」と話しただけ。佐藤義則投手コーチに至っては「踏み出す左足は着地の部分までしっかりと修正すべきだが、できていないから下半身と左足の動きに合わせて右腕がスムーズに前に出てこない。それが問題」と具体的に厳しい評価を下した。 松坂の実戦復帰への思いとは裏腹に、首脳陣は全くそのレベルに達していないと見ていたのだ。 「ホークス内部からは『見守るしかない』と言う声さえ聞かれます。自分で考えた調整法を全く疑わず、我流を過信しているのを心配しているようでした。20代のころとは肉体も違う。30代半ばの身体を自覚し、それに適した練習をしているようには見えない。故障や不振から這い上がった経験を持つ工藤監督と比較する報道もあるが、松坂とは比べ物になりません。工藤監督はベテランになるにつれ練習量も増え、内容も変わっていきましたから」(前出の球界関係者) 日米通算164勝も挙げておきながら“野球の頭脳”の方は成長していないというわけか。 「交流戦最終週の6月9日からの本拠地6連戦、対阪神、広島戦で、松坂を一度、一軍登板させるかもしれない。佐藤コーチは、ここで投球フォームのチェックをするつもりです。もちろん今の状態では、本拠地で火ダルマになってそのまま二軍落ちする可能性もあるので、指導も何もできないかもしれませんが」(前出の地元紙記者)
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スポーツ 2015年05月29日 13時00分
USA発 新聞、テレビではわからないMLB「侍メジャーリーガーの逆襲」 不安説が吹き荒れる中で三振の山を築く 「2年22億円」の契約は快挙 40歳の守護神・上原浩治
今シーズンの上原浩治を語る上でまず触れておかなくてはいけないのは、2年1800万ドル(21億6千万円)という破格の契約だ。 上原は昨季8月中旬まで、レッドソックスのクローザーとして安定した投球を見せていた。しかし8月16日の試合から突然最大の武器であるスプリッターが落ちなくなり、甘く入って痛打されるケースが続いた。 炎上はすぐに収まらず6試合で被本塁打4、自責点10という大荒れのピッチングが続いたため、チェリントンGMはファレル監督と相談し、9月初旬に上原をクローザーから外すことを決定。上原は中継ぎに回されてシーズン終了まで投げた。 クローザーを外すときは「一時的な措置」であることが強調されるが、実際に復帰するケースはそう多くないため、アナリストや野球記者の多くは、レ軍が40歳になる上原を再度クローザーで使う可能性は、ほとんどないと見ていた。 「上原に関しては、シーズン終了後、FAになって1年600〜800万ドルくらいの契約でBクラスの球団と契約することになると見る向きが多かった」(スポーツ専門局のアナリスト) ところがオフに入るやいなや、レ軍が真っ先に契約したのは上原だった。しかも2年1800万(21億6千万円)という破格の条件での契約だった。 「これはビッグ・サプライズだった。それまで40歳以上で2年契約にサインしたリリーフ投手はマリアーノ・リベラ(元ヤンキースの守護神)しかいない。まさか上原が2人目になるなんて、思ってもみなかったからね」 レ軍は上原を9月初旬、クローザーから外している。にもかかわらず、わずか50日後に年俸225%アップの2年契約で再契約したのは、8月下旬の大乱調の原因を正確に把握していたからだ。腰の不調が原因だった。腰が悪いと投げ込む際に下半身を十分使うことができず、上半身だけで投げるようになる。それがスプリッターの著しい威力低下につながっていたのだ。 そのことを理解したレ軍は腰の不調さえ防げば、まだまだクローザーで使えると判断し2年契約を交わして囲い込むことにしたのだ。 この球団の判断をメディアはどう受け止めただのろうか? 「2年契約は長すぎるという声が多かった。上原は今年40歳だけど、肉体的な衰えが急速に進む年齢なので、途中で機能しなくなると危惧していたよ」(同) こうした年齢的な衰えに対する危惧は、今シーズンが開幕すると「もう一人のクローザーを獲得せよ」という声に変化していった。 そのような声が出るようになったのは、開幕後、上原がスプリッター75%、速球25%という極端にスプリッターに依存したピッチングを見せるようになったからだ。昨年までは速球50%、スプリッター50%だったが、速球のスピードが142キロから138キロに落ちたため、スプリッターへの依存度が高くなったのだ。 上原懐疑派の目には、こうした苦し紛れのピッチングではとてもクローザーは務まらないと映った。そこで「もう一人クローザーを獲得せよ」という主張になった。4月25日の5試合目の登板で上原が2失点して敗戦投手になると、上原懐疑派はさらに勢いを増し、「ジョナサン・パペルボンを呼び戻せ」という論調まで現れた。 パペルボンは'06年から'11年までレッドソックスのクローザーを務めた豪腕タイプで、現在はフィリーズのクローザーを務めている。ワガママな言動が多い悪ガキ・タイプのためフィリーズは手を焼いており、トレードで放出することを画策しているので、レッドソックスファンの中には、うちで引き取れという声が出ているのだ。 こうした「守護神交代待望論」は4月中、勢いがあった。しかし5月に入って上原が無安打ピッチングを続けるようになると鳴りを潜め、上原に対する逆風は止んだように見える。 しかし、これは一時的なもので、2度連続してセーブに失敗するようなことがあれば、年齢的な衰えを過度に強調した「クローザー交代論」がまた出現するだろう。 ボストンは、メディアもファンも辛辣で、味方の選手に対しても無遠慮な言葉を平気で浴びせかける。レ軍にいた頃、松坂大輔は「投資金額の半分も働かない役立たず」「いつも同じ失敗ばかりするブタ頭」と酷評されている。こうした雑音を最小限に抑えるには、カネに見合った働きをするしかない。米国のファンは対費用効果を重視する傾向が顕著だからだ。 上原の場合「カネに見合った働き」の線引きは以下のようになる。(1)セーブ成功率90%以上(2)WHIP(1イニングあたりの「被安打+与四球」)0.80以内(3)防御率2.20以下(4)奪三振率(9イニングあたりの奪三振)11.50以上 これらの数字をすべて満たしていれば、フェンウェイパークのファンはブルペンを出てマウンドに向かう上原を「コージ、コージ」の大合唱で迎えてくれるだろう。スポーツジャーナリスト・友成那智ともなり・なち 今はなきPLAYBOY日本版のスポーツ担当として、日本で活躍する元大リーガーらと交流。アメリカ野球に造詣が深く、現在は各媒体に大リーグ関連の記事を寄稿。'04年から毎年執筆している「完全メジャーリーグ選手名鑑」(廣済堂出版)は日本人大リーガーにも愛読者が多い。
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スポーツ 2015年05月28日 11時45分
藤川を獲るのか!? トラが積極的になれないアノ事件
阪神タイガース首脳陣が定例の報告会を行った(5月26日)。『定例の報告会』とは、定期的に坂井信也オーナーのもとに集まり、南信男球団社長、中村勝広GMなどトップ幹部がペナントレースの戦況や経営、収支決算などを伝え、善後策も話し合っている。 この時期の報告会となれば、真っ先に思い浮かぶのが、テキサスレンジャーズを自由契約となった元守護神・藤川球児の獲得策だが、球団幹部の口ぶりは重たかったという。 「阪神は藤川の代理人を務める人物との接触に成功しています。帰還に関する藤川サイドの要望を、すでに阪神は把握していると見るべきでしょう」(球界関係者) 藤川はもちろんだが、その代理人を務める有力者も帰還に関する条件事項は口にしていない。藤川が一部報道の取材に応じた限りでは日本帰還を前向きに捉えているようでもあったが、「先発転向を希望している」説など、2年余の米球界での動向とは関連性のないものも報じられている。 藤川は古巣に帰還するのか−−。 定例報告会後、坂井オーナーは関西系メディアに「(藤川の話は)全くない」と答え、足早に立ち去ってしまったという。藤川獲得を狙っているのは阪神だけではない。DeNAはかなり熱心な調査を行ってきたとされ、14−15年オフだが、巨人渉外担当者も藤川サイドにアタックしていた。藤川争奪戦はマネーゲームに発展する可能性も高い。そう考えれば、阪神首脳陣が慎重を期してダンマリを決め込むのも当然だろう。 「藤川に往年の力があるか否か、評価が分かれるところです。DeNA、巨人は守護神としてフル回転してくれとは思っていません。DeNAには山崎、巨人には澤村がいて、両球団とも投手継投策の選択肢を広げるため、経験豊富な藤川を必要としているんです。阪神だけは事情が違って…」(プロ野球解説者の1人) 阪神にも呉昇桓という絶対的な守護神がいるが、「呉昇桓>藤川」なる評価で交渉に臨めば、渡米前の功績を「否定された」との誤解も与えかねない。また、先発転向説が本当ならば、ローテーションのやり繰りにも困っている戦況を救ってくれるかもしれない。いや、岡田彰布監督の時代から“救援一筋”だったため、「先発・藤川」がどこまでやれるかは未知数だ。下位に低迷する戦況からして、藤川に調整で先発登板する余裕はないはず。 前出の球界関係者もこう言う。 「藤川の代理人を務める人物と阪神はイザコザがあったんです。その人物は14〜15年オフ、国内FA権を行使した金子千尋(オリックス)の『相談役』ともなり、交渉に当たろうとした球団の窓口役を務めていました。阪神は金子の希望を聞きたいとし、その代理人と直接会って話をしてきました。でも、『その内容が報道に漏れている』と抗議されていました」 阪神フロントには機密事項をバラすような輩は一人もいない。両者の間に誤解があるのかもしれない。 長く、阪神のブルペンを支えた藤川が再びタテジマのユニフォームを着れば、チームはもちろん、ファンも鼓舞するはず。しかし、「交渉しにくい」という現状を打破する話は聞こえてこない。
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スポーツ 2015年05月27日 14時00分
俺たちの熱狂バトルTheヒストリー〈マービン・ハグラーvsトーマス・ハーンズ〉
世紀の一戦とうたわれたフロイド・メイウェザーとマニー・パッキャオの一戦は、試合後の会場にブーイングが飛び交うなど消化不良な内容となった。これまで絶対的なキャリアを築き上げてきた両者の対戦では、ともに守るものが大きいだけに、この結果も仕方のないところか。 だが、そんなもっともらしい言説も、'80年代“黄金の中量級”を知るファンには通用するまい。 アメリカのボクシングシーンに登場したキラ星のごとき天才たち。かのガッツ石松も下した“石の拳”ロベルト・デュラン。モントリオール五輪金メダリストのシュガー・レイ・レナード。強打のラッシュでデビューからKOの山を築いた“ヒットマン”トーマス・ハーンズ。そして稀代のテクニシャン“マーベラス”マービン・ハグラー。 圧倒的なパフォーマンスを誇る彼らによる戦い模様は「ボクシング界の頂点はあくまでもヘビー級」とされてきた歴史すら書き換え、米国内にとどまらず全世界を熱狂の渦に巻き込んでいった。 「当時は日本でもテレビ東京系で中継があったので、それを見たという人も多いでしょう」(ボクシング雑誌記者) デュランがレナードを下せば、次にはハーンズがデュランをKO。そのハーンズに今度はレナードが勝利するといった具合に勝者は目まぐるしく入れ替わる。 「そんな中でも最も人気が高かったのはハーンズ。長いリーチから繰り出されるフリッカージャブで相手を翻弄しながら、強打のラッシュで仕留めるファイトスタイルは見た目もハデで、さらにリングを下りてもビッグマウスでファンの関心を集めました。その一方、関係者の間で評価が高かったのはハグラーです」(同) ミドル級王座獲得はプロデビューから7年を経た54戦目と時間のかかったハグラーだが、これはあまりの強さを恐れた王者に対戦を拒否されたり、ようやくたどり着いた王座戦では泥仕合の引き分けに持ち込まれるなどがあってのこと。その当時に付けられたあだ名は“無冠の帝王”。それでもくじけず、地道なトレーニングを続けた結果の戴冠であった。 王座奪取後のハグラーは遺憾なくそのテクニシャンぶりを発揮し、デュランらの強豪を次々と退けていく。そこに挑戦者として名乗りを上げたのが、ウェルター、スーパーウェルター級王座を制覇し、三冠目のミドル級に狙いを定めたハーンズであった。 一度はレナードに敗れたハーンズだが、そこからまた連勝街道を突き進むと、'84年にはボクシング専門誌『リング』で年間最優秀選手に選ばれた('83年の最優秀選手はハグラー)。 '85年2月、2人の対戦が発表されると、全米各地の都市を巡る両者のプロモーションツアーが組まれる。試合に付けられたキャッチフレーズはシンプルに“The Fight”。余計な装飾はいらない、ボクシングの神髄がここにあるというわけだ。 そうして迎えた'85年4月15日、大歓声が包み込むラスベガスの名門ホテル、シーザーズ・パレス特設リング。運命のゴングは鳴った。 テクニックのハグラーvs強打のハーンズという前評判を覆すかのようにハグラーが開始早々からラッシュに出ると、これに気圧されて引き気味ながらハーンズも応戦。第1Rから両者の間で激しくパンチが交錯する。ハグラーは揉み合いの中で額から出血。それでも前進を止めることなくハーンズの懐に潜り込むと、ボディーを中心にパンチを放ち続ける。 第3R、コーナーを出たハグラーは、それまでのサウスポーからオーソドックスに構えをチェンジ。 「基本、試合中はサウスポーなのですが、私生活では右利きで、オーソドックススタイルもスムーズにこなす。気を付けて見ていないと構えが変わったことにも気付かないほどです」(同) そんな変調にハーンズは調子を狂わされたか、ハグラーの放った右ストレートが顔面を捉える。さらにハグラーは飛び込むようにして大振りの右ストレートを3連発。このすべてをクリーンヒットされ、ハーンズはあえなくマットに沈んだ。 ファンはおろか、専門家からも「地味」と評されたハグラーが世紀の一戦で見せた意地のハードファイトに、いつまでも歓声は鳴りやまなかった。
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スポーツ 2015年05月27日 12時00分
【甦るリング】第9回 “タイガーマスクブーム”巻き起こした佐山聡の人柄
近代プロレス史において、ジャイアント馬場、アントニオ猪木は“別格”として、まさに強烈なインパクトを残したのが、初代タイガーマスク(佐山聡)だ。タイガーマスクのデビューは、そりゃもうプロレス界の常識を覆すような鮮烈なものだった。時は81年4月23日、場所は蔵前国技館。対戦相手はジュニア・ヘビー級の雄であったダイナマイト・キッド。 もちろん、タイガーの正体は不明とされていた。そこに現れた虎の覆面の男は、アニメの「タイガーマスク」をはるかに上回る四次元殺法を披露し、強豪のキッドに勝ってしまったのである。とても、常識では考えられないような空中殺法に私は魅了された。いや、多くのプロレスファンが、そのとりこになったのだ。 私的なことで恐縮だが、当時、私は大学生。飲食店でアルバイトしていたのだが、タイガー見たさもあって、新日本プロレスのテレビ中継「ワールドプロレスリング」がある金曜日は休みにしてもらったりしていた。その頃、ビデオデッキなどという高価なものを、大学生ごときが所有できるような時代ではなく、リアルタイムで見るしかなかったからだ。飲食店といえば、金曜夜は稼ぎ時で、バイト先の社長からは「忙しいのに…」と苦言を呈されたものだ。 タイガーはキッド、ブラック・タイガー(マーク・ロコ)、小林邦昭といったライバル相手に、名勝負を繰り広げたうえで、連戦連勝。WWFジュニア・ヘビー級王座、NWA世界ジュニア・ヘビー級王座に君臨。シングルマッチはおろか、タッグマッチにおいても、1度もフォールやギブアップを奪われたことはなかった。敗れたのは1試合だけで、キッド戦での反則負けだった。 当時の新日本は人気絶頂の頃。テレビ視聴率はゆうに20%を超え、どこに行っても連日超満員の観衆が集まっていた。タイガーがその新日ブームに大いに貢献したのは、いうまでもない。ところが、タイガーはあっけなく、その覆面を脱ぎ捨ててしまう。83年8月、新日本に対して、契約解除を一方的に通告し、引退を宣言した。タイガー側によると、その人気で得られた収益を、猪木が経営難の個人事業であった「アントン・ハイセル」に流用させていたとして批判。さらに、営業本部長だった新間寿氏と、タイガーの個人マネージャーが対立していたとの背景もあった。 その直後に、一部スポーツ紙が素顔の写真を掲載し、その正体が佐山であることを報じた。タイガーはテレビ出演した際にも、迷うことなく素顔を公開した。こうして、大ブームを巻き起こしたタイガーマスクは、わずか2年4カ月でリングを去った。 そして、引退したタイガーは「タイガージム」を設立し、ジム生を集めて格闘技の指導にあたる。引退から約1年後の84年7月、同年4月に旗揚げした新団体・旧UWFで復帰。もともと、格闘技志向が強かったタイガーは、従来のプロレスとは一線を画し、新たなルール作りに着手した。ところが、タイガーの方向性を疑問視する選手も多く、団体のエースであった前田日明との確執もあって、85年10月に離脱した。これ以降、タイガーはプロレス界と絶縁し、新格闘技・シューティング(後の修斗)を設立。プロレス界の暴露本を出版したこともあった。むろん、プロレス界からの反発も強く、もはや2度とプロレス復帰はあり得ないと思われた。 一から立ち上げたシューティングは徐々に普及し、日本の総合格闘技の礎となった。あの“400戦無敗の男”ヒクソン・グレイシーを選手として、初めて招聘したのもタイガーだった。その存在がなければ、その後の日本での総合格闘技ブームはなかったわけで、その意味でも大功労者である。タイガーは96年に修斗の運営から手を引いたが、プロレス記者となった私が初めて、単独インタビューを行ったのは、まだ修斗時代。ファンだった頃、魅了された存在であり、かなり、緊張して赴いた記憶があるが、現れたタイガー、いや佐山さんはとても腰が低く、気さくで柔らかい人当たりの好人物でホッとしたのだった。とにかく、タイガーの話は面白く、その後、何度もインタビューさせていただいたが、その人当たりの良さは今でも変わらない。 94年5月には、永島勝司取締役のオファーを受け、古巣・新日本のリングに上がり、獣神サンダー・ライガーとエキシビションマッチを行い、9年ぶりにプロレス界と接点をもったタイガーは、翌95年に、まさかの復帰を果たす。プロレス界に舞い戻ったタイガーは、猪木とも和解し、98年に創設されたUFOに参画。プロレスに転向した小川直也を指導したが、猪木との方向性の違いから離脱。99年5月には、再び新たな格闘技・掣圏真陰流を設立し、桜木裕司や瓜田幸造らを育てる。その一方で、05年6月にはリアルジャパン・プロレスを旗揚げした。 全盛期はビルドアップされた体をしていたが、大の“甘党”が災いしてか、復帰後は常に体重オーバー。本人はことあるごとに、「○○キロまで減量する」と言うのだが、実現できたことはないのでは? かつては、変幻自在の空中殺法を繰り出していたが、今はキックや関節技が主体。たまに、飛ぶこともあるが、もう57歳だ。バリバリの20代の頃と比較するのは野暮ってものだ。プロレスを一度捨てていなかったら、新日本の大エースになっていたかもしれない。しかし、タイガーがプロレスを離れたからこそ、日本に総合格闘技が根付いた。いろんなことがあったタイガーだが、リングに上がっただけでも、“華”がある。“初代”タイガーマスクの名は絶対的なもので、レジェンドであることに変わりはない。 なお、リアルジャパン・プロレスでは6月11日(木)に、東京・後楽園ホール(18時半開始)で10周年記念興行を開催する。ただし、タイガーは現在、心臓疾患を抱えており、出場できるかどうかは微妙だという。(ミカエル・コバタ=毎週水曜日に掲載)
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