スポーツ
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スポーツ 2015年06月12日 14時00分
俺たちの熱狂バトルTheヒストリー〈カンムリワシ 具志堅用高〉
具志堅用高のプロデビューは1974年。その前年、沖縄・興南高校3年時にインターハイで優勝し、協栄ジムのスカウトを受けてのことであった。 沖縄がアメリカから日本へ返還されたのは'72年のことだから、もしこれが1年でも遅れていたならば、インターハイの出場もプロデビューもなかった可能性は高い。 WBA世界ジュニアフライ級王座を獲得したのは'76年。当時の沖縄はまだ“車は右側通行”などアメリカの影響が色濃く残っていて、そんな中での具志堅の活躍は本土と沖縄をつなぐ架け橋ともなった。石垣島出身の具志堅を“日本の英雄”として、皆がそろって応援したのだ。 世界戦のテレビ中継は軒並み視聴率30%超え。5度目の世界防衛戦となった'78年の対ハイメ・リオス(パナマ)で記録した43.2%は、視聴率が機械によるオンライン調査となった'77年以降のボクシング放送では、今なおトップである(それ以前はアンケートによる調査で、'54年に白井義男の世界挑戦試合で記録した96.1%が最高値)。これは、その後に話題となった辰吉丈一郎vs薬師寺保栄や、内藤大助vs亀田興毅を上回るもので、どれほど具志堅への国民的関心が高かったかが、この点からもうかがえる。 「あのころは“今夜は具志堅の試合だ”などと日常会話が交わされ、夜の7時には仕事帰りの父親がテレビのまん前に座って家族みんなで応援したものです」(ベテランボクシング記者) アフロヘアに口髭という印象的なルックスに加え、そのわかりやすい強さも人気の要因となった。 「形ばかりの右ジャブを2、3発放つと、そこから一気に踏み込んで左右のラッシュ。腰が入って体重の乗ったパンチは丸太棒で突くような衝撃を感じさせるものでした」(同・記者) いったん火が付けば相手が倒れようとおかまいなしにパンチを浴びせ続ける。そんな猪突猛進のスタイルは相手のパンチを食らうことも多かったが、しかし具志堅は一切ひるむ様子を見せることなく、観衆は試合後の腫れ上がったまぶたを見て決して簡単な試合でなかったことに気付かされるのだった。 「あのころ使用されていたグローブは6オンスで、ガードの隙間から拳をねじ込めるほど小さい(現在は軽量級で8オンス、それ以上は10オンス)。15ラウンド制で試合数自体も多く、そのダメージは現代とは比較になりません」(同) そんな過酷な環境にあって、具志堅は次々と日本記録を打ち立てた。 “9試合目での世界戴冠”は当時の日本最速(現在は井上尚弥の6試合目)。“世界王座6連続KO防衛”は今現在も日本では具志堅のみ。世界戦連続防衛記録も、それまでの輪島功一、小林弘の6度を大きく更新した。 結果、世界13連続防衛は、今なお女子の小関桃(現在15連続防衛中)にしか破られていない。 '80年6月1日、高知県民体育館で行われたマルチン・バルガス(チリ)との12度目の防衛戦では、ジュニアフライ級世界王座防衛数の世界記録も塗り替える。8R、バルガスから計3度のダウンを奪いKO勝利を収めた具志堅は、グラブをはめたままの両手でマットを叩き、飛び跳ねて歓びを爆発させたものだった。 同級は具志堅が王座に就く直前に新設されたため、他の階級よりもやや選手層が薄い面はあったが、それでも当時は10位以内のランカーしか挑戦できないなど対戦相手のレベルは今以上に高かった。 「国民栄誉賞級の活躍ながら受賞とならなかったのは、所属する協栄ジムのいわゆる“毒入りオレンジ疑惑”の醜聞が流れた影響が大きかった」(スポーツ紙記者) 直接的に問題とされたのは同ジムの後輩、渡嘉敷勝男の試合に関してではあったが、具志堅の試合でも同様に試合前、対戦相手に下剤や筋弛緩剤を仕込んだ疑いは拭い切れなかった。 「もしジム側でそういう企てがあったとしても、本人は全く知らぬ中でのことに違いなく、実に残念ではあります」(同・記者) ただ、国民栄誉賞受賞となると、今のように気楽にテレビ出演というわけにもいかなかっただろう。 果たしてどちらが良かったか、人間万事塞翁が馬ということか。
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スポーツ 2015年06月11日 14時00分
USA発 新聞、テレビではわからないMLB「侍メジャーリーガーの逆襲」 プラス要素だらけでチーム再生のキーマンに? カブス大躍進を左右する和田毅の奪三振ショー
今季は開幕前にダルビッシュがトミージョン手術を受けて全休となったほか、和田毅も左足の付け根を痛めて開幕から故障者リスト入り。さらに4月下旬には田中将大が手首、岩隈久志が肩の広背筋を痛めて戦列を離れたためメジャーでは3週間以上、日本人の先発投手不在の状態が続いた。 この異常事態に終止符を打ったのが和田だ。昨季、カブスと契約した和田は7月途中までマイナーで投げたあとメジャーに昇格し、大半の試合で好投を見せた。 気の毒なのはチーム状態が悪いため、味方打線の貧打、内野陣の拙守、リリーフ陣の炎上などに足を引っ張られ、13試合の登板で自責点2以内に抑えた試合が10試合もあったのに四つしか勝ち星が付かなかったことだ(4敗)。 しかし、球団がオフに大胆な補強を敢行したことで状況は一変。大きなプラス要素がいくつも生まれた。和田にとって特に大きな追い風になるのは次の3点だ。(1)「打線の得点力が大幅にアップ」 昨季、カブスは得点力不足が深刻で、和田が投げるときランサポート(9イニングあたりの得点援護)はリーグ・ワーストレベルの2.92だった。 こうした得点力不足を解消するため球団はオフに大掛かりな補強を行ったほか、ブライアント、ソレルら並外れたパワーを秘めた若手をレギュラーに抜擢。それにより得点力はワーストレベルから平均レベルまでアップし、好投すれば高い確率で勝ち星が付くようになった。(2)「投手起用のツボを心得た監督」 今季カブスの監督に就任したジョー・マドンはメジャーきっての知将で、データをフルに活用することで知られる。和田に関しても、相手打線が1巡目の時は被打率2割0分4厘、2巡目の時も2割5分5厘に抑えているのに、3巡目になると被打率が3割6分0厘に急上昇することや、6回まではよく抑えるのに、7回になると投球が浮いて一発を食う頻度が急に高くなることなどを頭にインプットしている。その結果、和田は好投していても早めに交代を告げられることが多くなっている。和田は内心面白くないだろうが、結果的にこうした早い交代は、防御率をよくする結果につながる。 今季、2点台の防御率を出せれば、シーズン終了後、2年2000万ドル(24億円)レベルの契約も夢ではないだろう。(3)「リードのツボを心得た2人の捕手」 好調時、和田は速球と変化球を効果的に組み合わせて打者の目線を狂わせながらハイペースで三振を奪う。それにはリードのツボを心得た女房役が必要になる。昨季は第2捕手のベイカーがそのタイプで相性が良くバッテリー防御率は2.28だった。しかし正捕手だったウェリントン・カスティーヨは緻密なリードができないタイプで相性が悪く、バッテリー防御率は3.70だった。 今季はこの2人が去り、正捕手がミゲール・モンテーロ、第2捕手がデービッド・ロスという布陣になった。この2人はリードの上手さに定評のあるベテランなので、和田には好都合だ。 和田は先発の5番手なので、ロスと組むケースが多くなるだろう。この捕手は「落ちる系の変化球」を効果的に使うことに長けており、一昨年はレッドソックスで上原浩治の女房役として多大な貢献をした。カブスでも和田にとって頼りがいのある参謀になるだろう。 今季、和田に一番期待したいのはプレーオフのマウンドに立って好投し、カブスにとって105年ぶりとなるワールドシリーズ制覇に貢献することだ。 カブスが所属するナ・リーグ中地区は序盤カージナルスが驚異的なペースで勝ち星を積み重ね独走態勢に入りそうな雲行きだったが、大エースのウェインライトがアキレス腱断裂の大けがを負い勢いが止まった。差は4ゲームに縮まっているので追いつくのは時間の問題だろう。 カブスはデーゲーム主義の伝統があるため現在もホームゲームの65%がデーゲームだ。夏場、シカゴは酷暑になるので、デーゲームが多いと選手は消耗が激しくなる。しかも遠隔地でナイターをやったあと翌日ホームでデーゲームという強行軍もよくあるので、選手は睡眠管理にも苦労する。 このデーゲーム主義によるマイナスが大きいこともあり、カブスは大都市の人気球団であるにもかかわらず成績が振るわず、1908年のワールドシリーズ制覇後、106年間もシリーズ制覇から遠ざかっている。 1945年のワールドシリーズで一度制覇のチャンスがあったが、ペットの山羊を連れたビリーという男が本拠地リグレーフィールドに観戦に来たところ、職員に追い返されて激怒。「カブスは永遠にここでワールドシリーズを戦うことはないだろう」と呪いをかけた。するとカブスは本当にワールドシリーズに出場できなくなったため、「山羊の呪い」は米国で最も知られた呪いの一つになった。 それだけにカブスがワールドシリーズに進出するようなことになれば、大騒ぎになるのは必至だ。和田が好投を続けてそれに多大な貢献をするような展開になれば最高なのだが。 スポーツジャーナリスト・友成那智ともなり・なち 今はなきPLAYBOY日本版のスポーツ担当として、日本で活躍する元大リーガーらと交流。アメリカ野球に造詣が深く、現在は各媒体に大リーグ関連の記事を寄稿。'04年から毎年執筆している「完全メジャーリーグ選手名鑑」(廣済堂出版)は日本人大リーガーにも愛読者が多い。
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スポーツ 2015年06月10日 14時00分
照ノ富士の大関昇進で日本の国技がいよいよ“モンゴル大相撲”の違和感
大相撲夏場所で初優勝した照ノ富士(23、伊勢ヶ濱部屋)が大関に昇進した。三役2場所通過での“飛び級”は、年6場所制となった1958年以降では初の快挙だ。 協会からの使者を迎えた照ノ富士の注目の口上は、「今後も心技体の充実に努め、さらに上を目指して精進いたします」というもので、これまでこんなふうに口上に横綱昇進の決意を盛り込んだ力士はいなかった。 「さらに上を目指すというのは何回も言っているよ。ただそれを入れただけさ」 記者会見の席ではケロリとした表情でこう言っていたが、いかに自分の相撲に自信を持ち、また精神的にも強いものを持っているかがにじみ出ていた。 「大相撲界は強気な人間の集まりですが、照ノ富士はその中でも群を抜いていますね。千秋楽、白鵬が日馬富士に勝てば優勝決定戦にもつれ込むところでしたが、この一番を支度部屋のテレビで見ていたときも、『自分では優勝決定戦でもう1回勝つつもりだった』と堂々と言っていましたから。照ノ富士の辞書に、弱気とか控え目という言葉はありません。上り調子の伸び盛りですから、ホントに年内の横綱昇進もあるかもしれませんよ。まだ3場所もありますからね」(担当記者) それに比べて相変わらず線が細い日本勢。中でも期待の遠藤(24)は左膝の故障を抱えての強行出場だったとはいえ6勝9敗と3場所連続の負け越し。中盤までは支度部屋でも険しい顔で無言を貫くことが多かったが、終盤に何とか盛り返して十両転落だけは免れた。 「左膝にお疲れさまと言いたい」 千秋楽の支度部屋で遠藤は苦笑いし、「こういう状況の中で15日間、取り切ったというのは自信になる。収穫の多い場所だった」と総括していた。 しかし協会関係者の多くは、こんな平幕下位で負け越して笑みを浮かべている遠藤ではなく、もっと上位で照ノ富士らと激しく渡り合う“まなじり”を決した表情の遠藤を求めている。 この分ではますます照ノ富士、さらには来場所で関脇返り咲きが確実な逸ノ城らとの距離は開くばかり。 「次の横綱も大関も、またモンゴル勢。日本の国技はまるでモンゴル大相撲」 こんな嘆き節が協会内部から聞こえてくるが、それでも若貴ブーム以来の3場所連続15日間満員御礼を記録中。ファンは全く気にしていないのかもしれない。
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スポーツ 2015年06月10日 12時00分
【甦るリング】第11回・周囲に流され過ぎた高田延彦
現在、テレビ朝日「サンデースクランブル」にレギュラー出演するなど、タレントとして活躍する高田延彦(旧名・伸彦)も、プロレスラー、格闘家として名を残したレジェンドだ。プロレスラーで、引退後、芸能人として成功した稀有な例の一人だ。その高田なのだが、現役時代、あまりにも周囲に流され過ぎて、自分の意思を貫けなかった印象が強い。 少年時代、アントニオ猪木に憧れていた高田は、中学卒業後、高校進学はせず、プロレスラーになるべく自己流で体を鍛え、1980年に新日本プロレスに入門。道場では師匠格の藤原喜明、兄貴分の前田日明に徹底的にしごかれる。 81年5月にデビューした後は、細い体ながら、抜群のプロレスセンスとガッツあふれるファイトで頭角を現し、離脱した初代タイガーマスク(佐山聡)の後釜として期待を懸けられる。甘いマスクであることから、女性ファンにも人気が出た。しかし、84年4月に前田らが参加した旧UWFが旗揚げすると、師である藤原に誘われるまま、同団体に移籍してしまう。その理由は「藤原さんが新日本からいなくなると強くなれない」とのものだった。あの時、高田が新日本にとどまっていたら、そのプロレス人生は違うものになっていただろう。 その旧UWFは格闘路線を標ぼうし、新たなプロレスのスタイルを模索したが、興行不振のため、85年9月、志半ばで活動停止。タイガーはプロレス界から去ったが、前田、高田ら、他のメンバーは業務提携の名のもとに、新日本に復帰する。当初は新日本対UWFの対抗戦が主軸となったが、高田はジュニア・ヘビー級戦線に駆り出され、第2代IWGPジュニア・ヘビー級王座に君臨。全日本プロレスから移籍した越中詩郎と伝説の名勝負数え唄を繰り広げる。高田は前田とのタッグで、IWGPタッグ王座にも就いている。 87年になって、長州力らのジャパン勢が新日本にUターンすると、UWFの立場はなし崩し的になっていき、長州の呼び掛けにより、旧世代軍対新世代軍による世代闘争に転換される。そんな中、同年11月19日に行われたUWF軍対維新軍の6人タッグマッチで、前田は木戸修にサソリ固めをかけていた長州の背後に回り込み、その顔面を蹴って、長州の右目に大ケガを負わせる。プロレスの暗黙のルールに反したとして、前田は出場停止処分を受ける。解除条件として、メキシコ遠征を言い渡されるが、これを前田が拒否したため、88年2月、新日本から解雇される。 新日本から追放された前田は新生UWFの旗揚げに動き、高田は兄貴分に誘われて、山崎一夫らとともに移籍。高田は新日本で、それなりのポジションを確保していたが、また新たな道を進むことになる。新生UWFは格闘路線をまい進し、従来のプロレスに満足できなくなった層のファンから絶対的な支持を得て、一大ムーブメントを形成。高田は前田に次ぐナンバー2の座に就く。その後、新日本から、藤原、船木誠勝、鈴木実(後にみのる)が合流し、戦力アップを図り、89年11月に東京ドームに進出するなど隆盛を極めた。 しかし、選手とフロント間に不協和音が発生。前田がフロントの不正経理疑惑を糾弾したことに対し、背任行為として出場停止処分を下すなど、両者間の激しいあつれきが発生。結局、新生UWFは90年12月にあっけなく解散した。前田は残った選手で新団体設立を目指したが、話し合いは決裂。前田は孤立し、船木、鈴木は藤原に付いていくことになり、高田らはUWFインターナショナル設立に動く。高田はついに団体トップの座に就き、社長に祭り上げられることになるが、果たして、それが良かったのかどうか…。 91年5月に旗揚げしたUインターは、新生UWFよりプロレス寄りのスタンスを取り、スーパー・ベイダー(ビッグバン・ベイダー)、元横綱・北尾光司、プロボクシング元WBC世界ヘビー級王者のトレバー・バービック、サルマン・ハシミコフ、ダン・スバーン、ゲーリー・オブライトらを招へい。タッグバウト(タッグマッチ)を導入したりした。 だが、新生UWFが三派に分裂したことで、集客に苦労し、経営はひっ迫していくことになる。95年6月、「近い将来、引退します」と宣言した高田は、同年7月の参議院選挙で、さわやか新党に担がれて出馬するなど迷走(落選)。このあたりにも、「NO」と言えない高田がいたようだ。落選により、引退の話はどこかに消えて行ってしまった。 いよいよ、経営が厳しくなったUインターはポリシーを捨て、新日本との対抗戦に踏み切る。同年10月9日、東京ドームで開催された新日本対Uインターの全面対抗戦は、興行的には空前の大ヒットとなったが、エースの高田は武藤敬司に敗れ、大きなイメージダウンを被る。その後も新日本との対抗戦は継続し、その流れからWARとの対抗戦にも飛び火。基本的に、技を受けないスタイルだったUの高田と、典型的な受けのプロレスの天龍源一郎との異色対決は、意外にも名勝負を奏でた。だが、反面、Uのポリシーはどんどんあってないようなものになっていく。 その一方、方向性が違ってきたこともあり、所属選手が次々に退団。96年10月には、交流のあった東京プロレスからのオファーを断り切れず、高田がアブドーラ・ザ・ブッチャーと対戦するという仰天カードが実現。団体を守るため、高田はもはや、なりふり構わぬ姿勢を取ったが、ついにギブアップ。同団体は、同年12月で解散し、5年半に及ぶ活動に終止符を打った。高田は団体のトップとして、それなりの役割を果たしたが、経営者には向いているとはいえなかった。同団体のほとんどの選手は、新団体キングダムに移行したが、高田は参加しなかった。高田対ヒクソン・グレイシー戦を実現させるためのプランが進行していたからだ。高田は自らの道場を設立し、“400戦無敗の男”との対戦に向かうことになる。 そして、97年10月11日、東京ドームで開催された総合格闘技興行「PRIDE.1」(当時はKRS主催)で、高田対ヒクソン戦が実現するも、高田は完敗を喫し、プロレスファンの夢を打ち砕くことになる。その後、「PRIDE」シリーズは継続し、その代表選手となった高田はプロレスを封印し総合に専念。そのあたりから、「プロレスラー」と呼ばれることを嫌い、「ファイター」と称するようになる。 1年後の98年10月11日(東京ドーム)では、ヒクソンと再戦するも、またも敗退。高田の控え室は、マスコミ用のインタビュースペースの隣りに設置されていたが、試合後、大声で号泣する高田の嗚咽が漏れたのが記憶に生々しい。そもそも、「PRIDE」はプロレスファンを当て込んだ興行で、高田の存在は欠かせないものとなり、総合を継続。しかし、マーク・ケアー、ホイス・グレイシー、イゴール・ボブチャンチンに敗れるなど、戦績はかんばしいものではなかった。階級は違うが、弟子の桜庭和志が“グレイシー・ハンター”として、総合で大ブレイクを果たしたが、正直、高田は総合に適性があるとは思えなかった。 02年11月24日、東京ドームでの「PRIDE.23」で、高田はかつての弟子・田村潔司を相手に引退試合を行い、右フックで失神KO負け。Uインター時代、田村からの挑戦表明を高田が拒否した経緯があったが、二人はその遺恨をこの試合で水に流した。 引退後、高田はPRIDE統括本部長に就任し、運営会社のDSEが旗揚げしたエンターテインメントプロレス団体「ハッスル」に参画し、悪の高田モンスター軍を率いる高田総統に扮した。「ハッスル」では高田総統の化身の触れ込みで、ザ・エスペランサーとして復帰したが、これまた本人の意思だったのかどうか…。 09年7月をもって、「ハッスル」から撤退した高田は、リングと決別。その後、道場経営をしながら、タレントとして活動している。何度も大きなターニングポイントがあった高田だが、常に周囲の意見に流されてしまったイメージはぬぐえない。(ミカエル・コバタ=毎週水曜日に掲載)
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スポーツ 2015年06月09日 15時59分
無報酬で独立リーグと契約の藤川球児 今季中のNPB復帰も視野
独立リーグ・四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグス入りを決めた前レンジャーズの藤川球児投手(34)が、6月8日、入団会見を行い、今季中のNPB復帰も視野に入れていることが明らかになった。 藤川と高知との契約内容は異例なものだった。登板ごとのスポット契約となり、事実上フリーの立場。同球団の選手は月給10数万円だが、藤川はこれを辞退し、“無報酬”でプレーする。その代わり、登板試合のチケット収入の10%を児童養護施設に寄付する約束。 NPBの新規契約期限は7月31日だが、すでに、四国アイランドリーグの前期は終了し、後期の開幕は8月1日とあって、今季中のNPB復帰はないとみられていたが、ここいきて事情が変わってきた。 同球団は藤川の入団に当たって、オープン戦の開催を緊急決定。6月20日に香川オリーブガイナーズ・徳島インディゴソックス連合チーム戦、同27日に愛媛マンダリンパイレーツ戦を地元・高知球場で開催する。7月にもオープン戦を組む意向だ。藤川は20日の試合に先発予定で、中6日空くことから、故障さえなければ、27日の登板も濃厚。 公式戦でないとはいえ、これで藤川が言う「未来のスーパースターになるチャンスをもった子どもたちに、僕が投げる姿を見てもらって今後の夢につなげてもらいたい!」との約束も果たせる。 会見の質疑応答で、藤川は「力を発揮できていると感じれば。ここのレベルより、上のチームからオファーがあるか、ないか。必要だと言ってもらえるたら、しっかり話をしたい」とキッパリ。 同球団の梶田宙球団社長は「ここで終わるような選手ではない。いつ(NPBから)呼ばれても構いません」と容認する構え。 仮に短期間で、藤川が退団しても、同球団は知名度もアップし、スポンサー獲得にもつながり、オープン戦収入で潤うため、メリットは十分。 スポット契約は今季中のNPB復帰を視野に入れたものである。問題は藤川がオープン戦で、しっかり結果を出して、NPB球団からのいいオファーを受けられるかどうかだ。(落合一郎)
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スポーツ 2015年06月09日 14時00分
現在の人気か、将来の戦力か 斎藤佑樹のリリーフ登板をめぐる不穏な周囲
5月27日に行われた東北楽天ゴールデンイーグルス対北海道日本ハムファイターズの試合で、斎藤佑樹(26)が3セーブ目を挙げた。 しかし、内容は綱渡りそのもの。九回表に3点リードで斎藤が登板。すると、楽天打線は「待っていました!」と言わんばかりに追撃態勢に入り、打者7人で3安打、1四球と襲いかかり、一発出れば逆転という場面まで斎藤を追い詰めた。 「斎藤に抑え投手の適性がないことは明白ですね…。栗山(英樹=54)監督は必死さを植え付けるために救援で起用させていますが、抑え投手として何か一つでも習得しなければ、一軍復帰はないでしょう」(プロ野球解説者) もっとも、「斎藤がリリーフで出てくると楽しい」という声も聞かれた。3セーブ目を挙げた同日の試合を指して、スポーツライターの飯山満氏が次のように話す。 「斎藤が出てくるまでスコアは6対3。完全に日本ハムペースでしたが、斎藤が投球練習を開始した七回あたりから、スタンドがざわついていました。あわや、逆転というピンチになり、最後まで試合を楽しめました」 しかし、日本ハムは二軍に白村明弘(23)、大塚豊(27)など、将来は抑え投手になるべく、救援で頑張っている投手がいる。プロ野球は実力の世界であり、どちらに将来性を感じるかといえば、その答えは明白だ。 「日本ハム内部からも、斎藤の今後に関する厳しい意見が聞かれます。大卒5年目の投手が二軍で結果を出せないようでは、お先真っ暗です。かといって、斎藤の人気は捨てがたい。復活すれば札幌ドームを満員にできるでしょう。おそらく、あと1年は猶予が与えられるのでは」(ベテラン記者) そんな球団の温情に付け込んだのか、セ・リーグからは、「日本ハムの有望な二軍投手をトレードで獲得できるのではないか」という声が挙がり始めている。現時点で、セ・リーグ6球団のなかで絶対的なクローザーを持っていないのは広島だけ。だが、DeNAの中畑清監督(61)は、ルーキーの山崎康晃(22)に頼りきった状況に一抹の不安を感じており、巨人の原辰徳監督(56)も澤村拓一(27)に繋ぐセットアッパーを補充したいと考えている。日本ハムが斎藤に固執しているうちは、有望な若手投手が格好の標的というわけだ。 「栗山監督は何度も斎藤にチャンスを与えてきました。逆に言えば、これまでの斎藤の一軍登板によって、契約金、年俸以上の儲けは得ており、斎藤に対してドライな評価を下せると見る声もある。斎藤人気を捨てがたいとする声もなくなることはありませんが」(同) 斎藤がリリーフ登板すれば、その分、他の投手がチャンスを失う。こうした状況に若手投手が「他球団でチャンスがあるなら」と考えはじめたとしても、決しておかしくはないだろう。水面下では非公式を含め、日本ハムにトレードを打診する他球団の動きがあるという。斎藤に固執するか否か、日本ハム経営陣は決断しなければならない時期に来たようだ。
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スポーツ 2015年06月09日 12時00分
【記憶に残るプロ野球選手】第8回・“こんにゃく打法”で女性ファンをとりこにした梨田昌孝
プロ野球では、落合博満(ロッテ→中日→巨人→日本ハム)の神主打法、種田仁(中日→横浜→西武)のガニマタ打法のように、独特のバッティングフォームで打つ選手もいるが、ひときわ特異なフォームをしていたのが、後に近鉄バファローズ、日本ハム・ファイターズで監督を務めた梨田昌孝(61=元近鉄)だ。梨田のフォームは、そりゃもう独特なものだった。バットは上段ではなく、腰のあたりに低く構え、腰を落として力を抜き、プルプルと体を動かしながらタイミングを取るという極めて変わったものだった。全身の力を抜いて、柔らかい体勢で構えることから、“こんにゃく打法”という奇抜なネーミングで呼ばれた。 今ではダンディな紳士である梨田。当時はBSもCSもなく、パ・リーグの選手にスポットが当たる機会は少なかったが、端正なマスクの梨田は、その特異な打法もあって、女性ファンをとりこにしたものだ。60歳を過ぎた今でも、世の熟女たちから熱い支持を得ている。普通、「あんな変わった打ち方で、よく打てるな」と思ってしまうのだが、梨田には合っていたのだろう。3割を打ったことこそ1度もないものの(規定打席到達で)、捕手としては高い打率をマーク。79年に19本塁打を記録して以降、4年連続で2ケタ本塁打を放つ長打力もあった。 長く、近鉄の正捕手として活躍したイメージがあるが、意外に出場試合は多くない。通算成績は1323試合、874安打、113本塁打、439打点、打率.254と、たいしたことはない。その理由は、同時期に同等の力をもった有田修三捕手(近鉄→巨人→ダイエー)がいて、併用されることが多かったからだ。有田は当時の近鉄の大エースで、通算317勝を挙げ、後に近鉄の監督も務めた鈴木啓示の専属捕手としても活躍した。そんな強力なライバルがチーム内にいることで、出場機会が限られたが、逆にライバルがいたからこそ、「負けられない」との思いでプレーできたのかもしれない。 1979年に有田から正捕手の座を奪うと、同年の球団史上初のリーグ優勝に大きく貢献。以降、3年連続でベストナイン、ダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)を受賞。83年には4度目のダイヤモンドグラブ賞を受賞するなど、黄金期の近鉄を支えた。強肩で全盛期の盗塁阻止率は5割前後あり、投手から絶対的な信頼を勝ち得ていた。88年シーズン限りで現役を引退すると、NHKの野球解説者に就任。パ・リーグ出身ながら、温厚な人柄と甘いマスクで人気者になった。 梨田は指導者としても有能だった。93年に一軍作戦兼バッテリーコーチとして、古巣・近鉄に復帰すると、96年から二軍監督を務め、00年には一軍監督に昇格。1年目は最下位だったが、2年目の01年には近鉄をリーグ優勝に導いた。近鉄監督は5年間務めたが、オリックス・ブルーウェーブへの吸収合併による球団消滅に伴い、04年で退任。オリックスヘッドコーチ就任の打診があり、新監督・仰木彬氏からも慰留されたが、これを固辞し、NHK解説者に戻った。 3年間、グラウンドの外から野球を見た後、新たなオファーは全く縁がなかった日本ハムからのものだった。この誘いを受けた梨田は08年に同球団の監督に就任。1年目は3位だったが、2年目の09年には見事、リーグ優勝を果たし、2球団で優勝監督となった。11年で退任したが、4年間で3度Aクラスに入った。2球団での通算9年の監督生活で、2度のリーグ優勝を経験し、Aクラスが6回。通算成績は645勝(歴代20位)594敗21分け、勝率.521と勝ち越している。日本シリーズ制覇こそならなかったが優秀な監督だった。日本ハム監督退任後も、阪神タイガースの監督候補にリストアップされるなど、その指導力は高く評価されている。 その後、再びNHK解説者に復帰。12年10月には、山本浩二監督のもと、日本代表チームの野手総合コーチに就任。13年3月に開催された第3回WBCを指導者として経験している。今後、誰もまねをすることがないとも思われる“こんにゃく打法”で、ファンの記憶に鮮明な印象を残した梨田は、監督としても、まぎれもなく“レジェンド”だ。(ミカエル・コバタ=毎週火曜日に掲載)
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スポーツ 2015年06月09日 11時45分
連敗脱出の東大野球部にプロ野球スカウトが熱い視線を注ぐワケ
東京大学野球部が連敗を「94」で止めたのは既報通り(5月23日)。2010年秋季リーグ戦・第4週第1日以来となる勝ちゲームに沸いたが、その翌日、翌々日の公式戦を落とし、再び連敗街道へ…。東京六大学リーグにおいて、東大の野球レベルだけが格落ちしている事実は否めない。 「早大、慶大、立大もスポーツでの自己推薦制度を導入したため、甲子園出場の経験者はもちろん、地方大会で散った強者が東京六大学リーグに入りやすくなりました。法大、明大はかなり前からスポーツ推薦制度を取り入れています。東大は同制度を導入する話は一切出ておりません」(大学関係者) 連敗脱出以降、東大野球部を追うマスメディアは減ったが、プロ野球スカウトは今も東大戦の視察を続けている。 スポーツのエリートではない現東大野球部に「要チェックの好投手」が出現したというのだ。2年生左腕・宮台康平(湘南高校−東大)である。春季リーグは中継ぎ役で登板し、連敗脱出を果たした法大戦にも投げているが、失点している。球速は140キロ台半ばとも伝えられているが、目立った功績はまだ無い。 宮台投手がドラフト指名の対象学年になるのは2年も先の話だが、「ほしい」と思った選手に関しては何年も費やしてデータを集めるのがスカウトの鉄則だ。 在阪球団関係者が宮台投手をこう評する。 「関東地区担当のスカウトが高校時代に見ていますが、指名リストには入っていませんでした。東大に入って伸びた投手。予想外だね」 過去、東大からプロ野球に進んだ選手は何人かいる。また、「左投手」という利点もあるのだろう。同様に、近年のドラフト会議を見れば分かる通り、救援専門投手や控え投手が上位指名されることも珍しくなくなった。宮台投手にも「将来性」という可能性を感じているのではないだろうか。 「左の中継ぎ投手を欲しているチーム、左投手の育成に自信を持っているチームは、どこまで成長するか興味を持って今後も見守っていくと思う」(前出・同) スカウトの内部情報をひとつ披露したい。 12球団スカウトが対象選手の潜在能力を見極めようとするのは当然だが、指名するか否かのボーダーライン上にいる選手、つまり、判断しかねた選手に関しては、「誰に教わったか」という経歴も加えて最終決断を下しているのだ。 「どんな指導者に教わったのか」も指名の判断基準になるというならば、2013年シーズンから“弱小・東大野球部”を率いる浜田一志監督が、プロ野球界からも一目置かれているというわけだ。勝つに越したことはないが、東大にはその指導内容で評価される監督がいる…。そう遠くない将来、東大が東京六大学リーグで『一人負けする』こともなくなるのではないだろうか。
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スポーツ 2015年06月08日 14時00分
交流戦真っ只中ベンチ裏 巨人・原⇔横浜・中畑 今オフ「監督トレード」情報の真相
球団史上初めて両リーグ30勝一番乗りを果たした横浜DeNAベイスターズ。セ・パ交流戦がスタートしてからもリーグV4を目指す巨人と激しい首位争いを演じ、地元横浜の街は盆と正月が一緒に来たようなにぎわいを見せている。 この騒ぎに拍車を掛けたのが5月26日に発表された救宴の中間発表。セの最多得票は三冠王も視野に入れるDeNAの和製大砲・筒香嘉智外野手。一方、巨人の選手は全部門で圏外。昨年もファン投票選出は捕手の阿部慎之助一人だったが、いよいよのっぴきならない状況に突入した。 そんな折、本誌に聞こえてきたのが、中畑清監督と原辰徳監督の“監督トレード”というビックリ仰天情報。話を聞くと、これがなかなか面白い。 巨人サイドが敵将・中畑監督の人気と能力を評価して呼び戻す、という話ではない。DeNAの方が原監督を次期監督に招き入れるために、チーム強化を図っているというのだ。 選手の平均年俸はプロ野球12球団で最低。にもかかわらずこれだけ勝負強いチームに生まれ変わったのは、優勝を条件に1勝1000万円規模のボーナス枠を設け、それを選手たちが奪い合っているから…との“怪情報”もある。 「この手法は、日本テレビが視聴率アップを狙ってスポンサーとなり、中畑監督の巨人選手時代には普通に行われていた。その手法を取り入れているのでしょう。DeNAが突如として戦闘力を上げているのは、これで理解できる。見逃せないのはその意図です。実は原監督に対し『DeNAは巨人に負けないチーム力と人気があります。ぜひお待ち申し上げます』というラブコールなのです」(スポーツ紙デスク) 原監督の生まれは福岡県大牟田市だが、育ちは神奈川県厚木市と相模原市。父親の貢氏が福岡県立三池工業高校、東海大相模高校、東海大学硬式野球部監督を歴任した後をなぞるように1974年、東海大相模高校に入学し野球部に入部。神奈川は、いわば東海大相模高、東海大時代に活躍した“フランチャイズ”とも言え、思い入れは人一倍強い。 その中心地、横浜は2020年東京オリンピックに向け、山下ふ頭にカジノを建設することが内定している。その前提となるIR(統合型リゾート)構想の中で、ドーム球場建設計画の機運も高まっている。 「現在の横浜スタジアムとDeNAの契約は2012年からの7年契約で、東京オリンピック開催前年の2019年で満了する。使用料は総入場料の13%の契約で年間数億円にも及ぶ。そこでDeNAには本拠地移転説がついて回っていたのですが、カジノ便乗で山下ふ頭にドーム球場ができるとなれば話は違ってくる。この計画を確実に進めるためには、申し訳ないが中畑監督では役不足。地元の超大物、原辰徳監督に旗振り役を期待しているのです」(横浜の若手財界首脳) 親会社DeNAは今年に入り、任天堂と資本提携を結ぶなど経営基盤も一段とアップ。原監督を招く環境は整いつつある。しかもソーシャルゲームの大手にとどまらず、5月28日には「自動車関連事業に参入する」と発表した。新会社『ロボットタクシー』を立ち上げ、無人運転のタクシー事業化に着手、スマホを使ったカーナビ事業へも参入するという。 「場所柄、どうしても勘繰りたくなるのが、横浜とは縁浅からぬ関係にある日産自動車です。横浜F・マリノスの本拠地でもある。日本初の試みとして、プロ野球のベイスターズとJリーグのマリノスを統合し、ビッグクラブを山下ふ頭に作ろうとしているのでしょう。そのためにも原監督のネームバリューが不可欠なのです」(地元紙記者) 原監督も親しいマスコミ関係者には「野球人生の最後は神奈川もいいね」と話しており、師と仰ぐ星野仙一氏がそうしたように、最終的にはDeNAのシニアディレクター(上席GM)も念頭にあるという。 そうなると宙に浮いてしまうのが中畑監督。しかし、幸いにも巨人監督ポストは原監督の任期満了に伴って空席となり、古巣復帰の門戸が開く、というわけだ。 今シーズン、DeNAがセ・リーグ優勝を果たし、クライマックスシリーズで原巨人に敗れ、日本シリーズ出場切符をさらわれる。これを“手土産”に巨人に中畑監督が誕生する。原監督は監督任期満了で、すんなり“横浜に凱旋”−−。 「原監督は去年ここ横浜スタジアムでV3を決め、8回宙に舞いました。亡き父と過ごした思い出深い地。さぞ感無量だったことでしょう」(横浜在住のファン) 前代未聞の“監督トレード”実現は、プロ野球人気復活の最終兵器になるかもしれない。
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スポーツ 2015年06月07日 14時00分
四面楚歌の阪神タイガース 株主総会の生け贄になるのは…
阪神タイガースの親会社である阪急阪神ホールディングスが、6月16日に株主総会を控えている。同日はセパ交流戦を終えた2日後で、トラの戦況が議案となるのは必至。関係者は祈るような思いでペナントレースを見守っているのではないだろうか。 「思い出してくださいよ。昨年は株主が『外国から帰って来て、全然活躍せえへん人がいますな〜』と選手名こそ挙げませんでしたが、不振だった福留、故障離脱中の西岡を非難し、最後は『続投はないと思いますが』と、和田(豊=52)監督を酷評していました。経営陣は相当堪えているはずです」(在阪メディア陣の1人) 阪神は借金4で交流戦に突入した。6月1日時点で4勝2敗と勝ち越しているものの、交流戦に強いソフトバンク、千葉ロッテとの一戦を控えている。厄介なのは、交流戦最終カードだ。2014〜15年オフでトラの補強にことごとく立ちはだかった宿敵オリックスと対戦する。中島裕之、金子千尋の争奪戦で煮え湯を飲まされた相手に、交流戦でも惨敗を喫したとなれば、株主の怒りはおさまらないだろう。 「テキサスレンジャーズを解雇された藤川球児の獲得にも失敗したことで、球団経営のトップがやり玉に挙げられると思われますが、本当の怒りの標的は和田監督でしょう。優勝から遠ざかって久しいですから」(同) その和田監督に関しては、経営陣も総会対策を練っているようだ。 昨年の株主総会直前のことだった。球団は突如、福留孝介(38)を二軍に降格させた。打率が2割を切るなど当時は絶不調で二軍落ちは当然といえば当然であったが、「このまま終わるオトコではない」と和田監督はあえて使い続けていた。周囲が降格を進言しても聞く耳を持たなかったほどだったが、株主総会直前で急に方針撤回をしての二軍降格だった。この一軍登録抹消は「総会での批判を避けるための経営判断」というのが周囲の一致した見方だった。 「むしろ、逆効果でした。福留を使い続けた方が説得力がありました。以来、和田監督の采配に関する批判が増し続けています」(ベテラン記者) タイガース批判が出る度に、南信男球団社長が答弁に立つ。昨年は「私たちは監督を信頼しておきたいと思っております」と言ったものの、「実際、ベンチで負けた試合もあろうかと思いますが」と“際どい前置き”をしていた。「勝ってくれ!」というのが、経営陣の本心であり、和田采配に一抹の不安を抱いていたが故に、思わず出てしまった言葉だろう。 かつて、城島健司氏も株主総会で非難された。その際に「不良債権」呼ばわりされて、引退を決意したとも伝えられるだけに、タイガースが6月16日を意識しているのは間違いない。 大補強を敢行したにも関わらず最下位に沈むオリックスは、成績不振を理由に森脇浩司監督(54)を休養させると発表した。株主総会をきっかけに、和田監督の休養が発表される事態も考えられる。
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