スポーツ
-
スポーツ 2015年07月19日 10時00分
照ノ富士の影で闘志メラメラ 名古屋場所で復権を狙う白鵬の意地
大相撲名古屋場所が7月12日から愛知県体育館で始まっている。今場所も15日間満員御礼は確実で、名古屋場所の全日満員は若貴フィーバーで盛り上がっていた平成10年以来、17年ぶりのことになる。 また、幕内の取組にかかる懸賞も地方場所では史上最多の1400本を超える見込みだ。 再沸騰ともいうべきこの相撲人気を下支えしているのが、先場所の覇者で新大関の照ノ富士。しかし、急に多忙になり、ストレスも増えたせいで右足に蜂窩(ほうか)織炎という化膿性の炎症を発症。「ヤバイ、疲れからかな」と漏らす時期もあったが、名古屋入り後は連日、40番近い稽古をこなすなど、すっかり回復している。 「調子は普通。いつも通りだよ」と、ケロリとした顔で話し、出稽古した田子ノ浦部屋でも大関の先輩、稀勢の里に不得手の左四つで圧勝するなど、今場所も何かドデカイことをやってのけそうな雰囲気だった。 一方、こうした“台頭する新勢力”に異常なほど神経をとがらせているのが、35回目の優勝を狙っている横綱白鵬。先場所は終盤で失速し、照ノ富士に逆転優勝されたその胸中がどんなものだったか…。それは照ノ富士の援護射撃に燃える日馬富士に敗れ、支度部屋に引き揚げてからは唇をかみしめ、ひと言も発さなかったところによく出ていた。 先場所の負け数も3年ぶりとなる4。以前のようにぶっちぎりの優勝も少なくなり、周囲との差は着実に縮まってきている。どうやって勢いに乗る若手の猛追をはねのけ、先場所の悔しさを晴らすか−−。 「白鵬が照ノ富士らの台頭をかなり警戒しているのは確かでしょう。口では『もう先場所のことは忘れた。ここからまたエンジンをかけていく』と話していますが、場所前、田子ノ浦部屋に出稽古したときは、もう手の内は見せないと言わんばかりに大関稀勢の里だけと稽古。照ノ富士や先場所の初日にヤラれた逸ノ城らとの稽古は拒否し、一番ぐらいはやってほしかったと悔しがらせていました。ただ、今場所前も出稽古は2日間だけと相変わらず少なめ。これが、どう出るかが心配ですね」(担当記者) 白鵬は今場所で横綱在位48場所、曙と並んで歴代5位となる。「6年後の東京オリンピックまで現役で」というのが究極の目標だが、今の白鵬にはそんな遠くを見つめる余裕はない。
-
スポーツ 2015年07月18日 14時00分
オールスター開催記念 特別企画 プロ野球「光」と「影」 オールスター戦を100倍楽しく観る方法(3)
■因縁(?)のKK対決 “KKコンビ”として甲子園を沸かせた清原和博(西武)と桑田真澄(巨人)のプロ入り初対決(オープン戦を除く)が実現。'87年の第3戦、2人にとっても思い出深い甲子園球場だった。 その注目の対決は1回表一死一塁で、「ベースの上にきた球は何でも打ってやろうと思った」という清原が、桑田が投じた初球のストレートをレフトスタンドに叩き込んだ。打った瞬間に本塁打と分かる当たりに清原は何度もジャンプし、こぶしを突き上げて喜びを爆発させた。 プロ入りに際し、清原は巨人を熱望し、巨人もそれに応えて1位指名するものとみられていた。一方、桑田は早大進学を希望。ところがドラフト当日、巨人がまさかの桑田強行指名、清原は6球団競合の抽選の末、西武へ。それだけに清原にとっては怨敵(?)巨人&桑田からの本塁打は、「やった!」という思いが強かったのだろう。 清原は、意地の一発ともいえる桑田からの2ランホーマーを含む3安打でMVPを獲得した。★試合結果=パ9-7セ■5イニングも投げた投手 オールスターでは投手は3イニングを超えて投球することができない規定になっているのだが、何と5イニングも投げた選手がいた。 '82年の第2戦【西武】でのこと。5-4とセのリードで迎えた7回裏、4人目でマウンドに上がった斉藤明夫(大洋)は1点を失い同点。そのまま両軍0行進で延長11回時間切れ引分けとなった。 ところが、延長戦の場合は投球回数に制限ナシに従い、藤田元司監督(巨人)に「頑張ってくれや」と励まされ、斉藤は最後まで5イニングを投げ通したというわけだ。しかも無得点に抑えたのだからエライ。★試合結果=延長11回、5-5引き分け■超実力派“ジプシー選手” 移籍、移籍でユニホームが変わっても、違う4球団から出場を果たした選手が2人いる。 まずは江夏豊で'67〜'75年=阪神、'76年=南海、'78〜'80年=広島、'81〜'83年=日本ハム。成績は通算26試合、5勝3敗6セーブ、防御率2.20。 もう1人は落合博満。'81〜'86年=ロッテ、'87〜'91年、'93年=中日、'95〜'96年=巨人、'97年=日本ハムで、通算39試合、本塁打11本、打点27、打率.365。さすがです!■世界の王が38打席音なし 通算13ホーマー、MVPを3回も獲得している世界の王貞治のバットから火が消えたこともあった。'74〜'77年にかけ実に四球5つを挟み、何と38打席連続無安打とは信じられない出来事だった。 だが39打席目は、いかにも王らしく、'77年の第3戦【神宮】で、元同僚の高橋一三(日本ハム)から2ランを放ってMVP。球宴では7年ぶりの一発に、王は「これでモヤモヤも吹っ切れました」と満面の笑顔。■MVPゼロだったミスター オールスター150打席以上で通算打率ダントツの.313、本塁打も7本の長嶋茂雄(巨人)だが、不思議なことにMVPは一度も手にしたことはなかった。 それでも「オレはレギュラーシーズンMVP5回、日本シリーズの大舞台でも4回だからね、えっへへへっ」と、まったく意に介さずだったという。 65回目を迎える今年のオールスター戦。球史に残るスーパープレーをぜひとも見たいものだ。
-
スポーツ 2015年07月18日 12時00分
オールスター開催記念 特別企画 プロ野球「光」と「影」 オールスター戦を100倍楽しく観る方法(2)
■「ピッチャー イチロー」 '96年の第2戦【東京ドーム】で“ハプニング”が起こった。 7-3とパの勝利が確定的となった9回表、二死無走者でセの打席は松井秀喜(巨人)。するとパの仰木彬監督(オリックス)が、ファンサービスとばかりに同球団のイチローをマウンドに送ったので球場は大歓声。投球練習で144キロのストレートを投げ込み、ヤル気をみなぎらせた。 だが、真剣勝負を主張するセの野村克也監督(ヤクルト)は、「いろいろな考え方があるかもしれないが、格式の高いイベントを冒涜したと解釈した」と、代打に同球団の投手である高津臣吾を送り、結果はショートゴロに…。 多くのファンが期待した“夢の対決”は残念ながら実現しなかったが、今でもこの両監督の采配は賛否が渦巻いている。★試合結果=パ7-3セ■まさかのホームスチール! いろいろなパフォーマンスでファンを沸かせた新庄剛志(日本ハム)が、ここでも主役を演じたのが'04年の第2戦【長野】だった。 3回裏、先頭打者で二塁打を放った新庄は次打者の内野ゴロの間に三進。そして二死後、捕手・矢野輝弘(阪神)が投手・福原忍(阪神)に返球した瞬間、敢然とスタートを切り本塁へ頭から突っ込んでセーフ! “パフォーマンス男”による球宴史上初の単独本盗!試合も2-1でパが勝ち、2安打とこの本盗がモノをいって新庄はMVPを獲得しニコニコ顔。もちろんファンも大喜びだった。★試合結果=パ2-1セ■史上唯一のサイクルヒット '92年の第2戦【千葉マリン】で主役を演じたのが古田敦也(ヤクルト)。球宴史上ただ1人、サイクルヒットをやってのけたのだ。 この試合、古田は捕手で1番を打ったのだが、初回先頭打者として三塁打を放つと、3回にセンター前ヒット、5回に右翼席へホームラン、第4打席でライトフライに倒れたものの、9回に回ってきた最終打席に見事二塁打を放ち、サイクル達成! セが6-4で勝ち、MVPもゲットした。 賞品の他、もらった賞金は200万円とコミッショナー特別賞100万円。 「みんなから“狙え”と盛んに言われ、本当に打ててホッとした」 古田はうれし涙(?)でメガネを曇らせた。★試合結果=セ6-4パ
-
-
スポーツ 2015年07月18日 10時00分
オールスター開催記念 特別企画 プロ野球「光」と「影」 オールスター戦を100倍楽しく観る方法(1)
■圧巻の9連続奪三振! 球宴史上最高のパフォーマンスといえば、伝説となっている江夏豊(阪神)の9連続奪三振だろう。 1971年の第1戦【西宮】1回裏から3回裏までに奪ったもので“餌食”になったのは有藤通世(ロッテ)、基満男(西鉄)、長池徳二(阪急)、江藤愼一(ロッテ)、土井正博(近鉄)、東田正義(西鉄)、阪本敏三(阪急)、岡村浩二(阪急)、加藤秀司(阪急)の9人。 江夏は、9人目の加藤がカウント1-1からバックネット寄りにファウルフライを打ち上げると、捕手・田淵幸一(阪神)に「追うな!」と叫んだ。そして、4球目の外角ストレートで見事に加藤のバットに空を切らせ、大記録を達成した。投球数は41で1人当たり4.5球だった。 ちなみに、その大記録のおかげで、江夏自身が2回表に米田哲也(阪急)から3ランホーマーを放ったこと、パの打撃陣がセの投手陣にノーヒットノーランを喰らってしまったことは意外と知られていない。★試合結果=セ5-0パ■あの大記録、再現なるか… 江夏(阪神)の9連続奪三振という大記録から13年たった'84年の第3戦【ナゴヤ】で、江川卓(巨人)が「あと1人」という8連続奪三振を記録した。 4回から二番手として登板した江川は、最初の打者、2番の福本豊から蓑田浩二、ブーマー(以上阪急)、栗橋茂(近鉄)、落合博満(ロッテ)、石毛宏典(西武)、伊東勤(西武)、そして代打のクルーズ(日ハム)と8人をメッタ斬り。そして、あと1人での大記録達成という9人目の大石大二郎(近鉄)を、ストレート2球であっという間に追い込んだ。これを見て誰もが「9連続奪三振達成」間違いなしと思った。 しかし、江川が投げた3球目は、三冠王の落合から「表示された147キロという数字よりも実際の方が速かった。今、日本で一番速い投手」と絶賛された直球ではなく、なぜかカーブ。それを大石にちょこんと当てられセカンドゴロ…。夢の大記録は泡と消えた。★試合結果=セ4-1パ■代打逆転サヨナラ本塁打! '74年の第1戦【後楽園】だった。2-1とセが1点リードで迎えた9回裏、パが一死一塁と同点の走者を出した。ここで野村克也監督(南海)が代打に指名したのが、通算27本の代打本塁打を記録し、“代打男”と称された高井保弘(阪急)。 高井は期待に応えて、見事に松岡弘(ヤクルト)から劇的な逆転サヨナラホームランを放った。まさに“代打男”の本領発揮! 球宴史上唯一の代打逆転サヨナラ本塁打であった。★試合結果=パ3-2セ
-
スポーツ 2015年07月17日 11時45分
混戦ペナントレースを抜け出る中畑野球の切り札
今年のセ・リーグは混戦になると予想されていた。しかし、全球団が揃って低迷する展開になるとは思われなかった。「この混戦を抜け出すチームがあるとしたら?」「後半戦のキーマンは…」−−。そんなコメントを求められたが、この状態で気の利いた回答などそう易々と思い付くものではない。 強いて挙げるとすれば、侍ジャパン大学選抜との壮行試合で好投した広島の塹江敦哉(18=左投左打/高松北)だろうか(6月29日)。塹江はNPB選抜チームの二番手として登板し、三者凡退に抑えている。しかし、その投球内容は緒方孝市監督を喜ばせるほどではなかった。先頭打者を三ゴロに仕留めているが、制球難に苦しんだ。老獪なプロの一軍打者が相手ならば、自滅に陥っていたかもしれない。 中日の大ベテラン・山本昌がどのタイミングで一軍登板するのかもポイントになるだろう。NPB初の50歳となるシーズンに突入したレジェンドが、どんな投球を見せてくれるのか、楽しみにしているファンも多いはずだが、登板機会を与えるタイミングが難しい。セ6球団は僅差のゲーム差とはいえ、中日は最下位争いのなかにいる。“消化試合のような状況”で登板させることはできないはずだ。山本昌は「使うタイミング」が難しい。 では、そんな見どころの少ないセ・リーグ後半戦はどこに注目すればいいのか。 どの球団にも後半戦に頭角を現す若手、不振から立ち直りそうな選手がほとんどいないと仮定する。その場合、中畑DeNAが混戦を競り勝つのではないだろうか。 去る5月24日の対阪神戦、9回最後のマウンドに山崎康晃が送られた。山崎は新人ながらDeNAの守護神に抜てきされ、その期待にもこたえてきた。横浜スタジアムのファンは山崎がコールされた時点で勝利を確信したが、先頭の阪神・上本の頭部にぶつけてしまう。危険球、退場。阪神・和田監督が飛び出し、DeNA捕手・嶺井に胸を突き付ける。両軍入り乱れ、キナ臭い様相のまま、試合が再開された。その後も走者を出し、失点したが、中畑清監督(61)は田中健二朗、国吉佑樹のリレーで逃げ切った。 「勝つには勝ったが、後味の悪いゲーム」 試合後、中畑監督は難しい表情を浮かべたが、DeNAナインは興奮していた。通常、絶対的守護神が降板した場合、チームは浮足立つ。また状況はどうであれ、イニングの途中に守護神に救援を送るということは敗北を意味する。しかし、DeNAは違った。守護神に救援を送る緊急事態に対し、チーム一丸になって戦っていた。 このチームは長く低迷していた。旧横浜ベイスターズ時代に逆上っても、ローテーションの柱となる投手や4番を予定していた選手が機能せず、苦しんでいた。自ずと「全員野球」の体制となり、中畑監督はエース、4番、守護神といったチームの大黒柱を育ててきた。単に育てるだけではなく、全員野球の状況に闘争心を植え付けた。山崎降板後、DeNAナインは全員、ベンチから身を乗り出して声を張り上げていた。 中畑監督の明るさとは、単にチームを盛り上げるだけではなかった。チームを盛り上げる目的は「苦しい状況でも、全員野球で勝ち抜く」ためだった。そう考えると、混戦・低迷の6球団を競り勝つ可能性を秘めているのは、DeNAではないだろうか。(スポーツライター・美山和也)
-
-
スポーツ 2015年07月17日 11時00分
USA発 新聞、テレビではわからないMLB「侍メジャーリーガーの逆襲」 30歳でメジャー昇格を果たした苦労人! 元巨人・村田透(インディアンズ)が成し遂げた4つの快挙
6月28日、ダブルヘッダーとなったオリオールズ対インディアンズの第2試合で耳慣れない日本人投手が先発のマウンドに立った。インディアンズの右腕・村田透である。 メジャーではダブルヘッダーがあると5人の先発ローテーションを中4日で回すことができなくなるため、1試合限定でマイナーの先発投手を一人引き上げてスポットスターター(ローテの谷間の先発)として起用することが多い。村田も、この1日限定のスポットスターターとしてメジャーに呼ばれたのである。 昇格が決まったのは前日の夜だったため、当日、村田は飛行機で4時間かけてオハイオ州コロンバス(3Aの所在地)から東海岸のボルティモアに飛び、メジャーきっての強力打線を相手に投げることになった。 初回は上手くタイミングを外して3人で片づけた。しかし2回に味方の失策から2失点。3回は1番マチャードと2番パームリーを連続三振に切って取り立ち直りかけたが、4回になって投球が浮くようになりソロアーチを2本浴びてKOされてしまった。ほろ苦いデビューとなったため日本のメディアの扱いは小さかったが、筆者は村田透のメジャー昇格は、大きな賞賛を浴びてしかるべきものだと思っている。 理由は四つある。 一つ目の理由は、'95年の野茂英雄のメジャー入り以降、20年連続で続いていた日本人大リーガーの誕生が途絶えずに済んだことだ。筆者に限らず大リーグ・ウオッチャーの誰もが阪神・鳥谷敬のメジャーチャレンジ断念で今年は一人も日本人大リーガーの誕生はないと見ていたはずだ。そんな不作の年に、村田という伏兵が現れたことは嬉しい誤算で、これ以上ない朗報となった。 二つ目の理由は22歳でプロ入り後、苦節9年目で晴れて「一軍」のマウンドに立ったことだ。村田は'07年秋の大学生・社会人ドラフトで巨人から1位指名された逸材だったが、足首の故障に悩まされたこともあり、巨人時代の3年間('08〜'10年)は一度も一軍での登板がなかった。解雇された後、トライアウトでインディアンズのスカウトの目に止まり渡米。マイナーで投げるようになるが、初めは1Aからのスタートだった。これは大相撲でいえば序の口から始めたようなものだ。そこから4年半かけて這い上がり、レベルの高い米国で晴れて「一軍選手」になったのだから、そのネバーギブアップ精神には頭が下がる。 三つ目の理由は、速球のスピードが遅い欠点(時速137〜142キロ)を打たせて取る技術を磨くことで克服したことだ。村田が2Aと3Aで長いこと足踏みしていたのは遅い速球が甘く入り、一発を食うケースが頻繁にあったからだ。この欠点を克服するため、今季はゴロになりやすいカッター軌道の速球やシンカー軌道の速球を多投するようになり、一発を食うケースが半減。そのため、昨年まで5点台だった防御率が2点台にアップ(6月末現在2.79)。メジャー行きの切符を掴む決め手になった。 賞賛に値する四つ目の理由は、中南米の選手と同じレベルのハングリーな環境に身を置いて這い上がってきたことだ。 最近は日本人選手がメジャーに定着できず、マイナー暮らしを強いられるケースが多くなっている。井川慶、西岡剛、中島裕之はその典型だ。彼らはマイナーに落ちても年俸数百万ドルを保証され、通訳も付くため、大都市の高級コンドミニアムから通訳の運転する車で3Aの球場に通う大名暮らしを続け、周りからやっかまれ、浮いた存在になっていた。 村田の生き方は、そんな評判の悪い日本人マイナーリーガーたちと対極をなすものだ。 '10年秋に巨人を解雇された後、村田はインディアンズとマイナー契約したが、そのときの契約金はわずか3万ドル(360万円)だった。 米国1年目('11年)はフルシーズン、マイナーの1Aで投げたため月給は15万円程度。しかも支給されるのは公式戦が開催される5カ月間だけで、年収は100万円に届かなかった。 2年目は開幕時こそ1Aだったが、すぐに2Aに上がり、終盤には3Aにも昇格した。それでも月給は30万円程度で、支給される期間も6カ月である。この程度の収入では生活できないためマイナーの選手はオフの間、アスレチッククラブのインストラクターや荷物運びのアルバイトをして生活を支える。しかし、村田は小金を稼ぐよりハングリーな環境で自分を磨くことを選択。'12年からオフシーズンになるとベネズエラのウインターリーグに参加して投げた。 このように村田は日本人らしからぬハングリーな世界に何年もどっぷり浸かりながら這い上がってきた稀有な存在である。たとえ、メジャー在籍が1日で終わったとしても、その価値の大きさは計り知れないものがある。スポーツジャーナリスト・友成那智ともなり・なち 今はなきPLAYBOY日本版のスポーツ担当として、日本で活躍する元大リーガーらと交流。アメリカ野球に造詣が深く、現在は各媒体に大リーグ関連の記事を寄稿。'04年から毎年執筆している「完全メジャーリーグ選手名鑑」(廣済堂出版)は日本人大リーガーにも愛読者が多い。
-
スポーツ 2015年07月16日 11時00分
俺たちの熱狂バトルTheヒストリー〈北斗晶vs神取忍〉
男女を問わず、日本プロレス史上最高峰の一つと言ってもいいだろう。 1993年4月2日、横浜アリーナ、女子プロ夢のオールスター戦における北斗晶vs神取忍。 「初の本格的な女子プロ団体交流戦という舞台の大きさはもちろんのこと、全女vsLLPWの図式に加えて“純プロレスvs柔道”という異種格闘技戦的な意味付けもあった。しかも最後は多くの予想を超えた大どんでん返し。プロレスのスゴさ、面白さのすべてが凝縮された名勝負でした」(プロレスライター) 先立つ'92年、男女混合団体のFMWに所属するシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女のリングに殴り込んだことから、女子対抗戦時代の幕は開いた。 FMW大会に乗り込んだブル中野と北斗晶が彼方のエース、工藤めぐみ&コンバット豊田を一蹴すると、リング上から「ウチらの試合、もっと見たかったら全女の会場に来い!」(ブル)。 ここからJWPやLLPWまでをも巻き込んだオールスター戦へと急展開を見せることになる。 そうした中で決定した北斗vs神取。“デンジャラスクイーン決定戦”なるサブタイトルこそ物々しかったが、しかしこのとき、多くのファンはこれをさほど注目していなかった。 当時全女のトップは、WWWAの赤いベルトを持つヒールのアジャ・コング。ベビーフェイスでは豊田真奈美が絶対的エースであり、他にブル中野や堀田祐美子らベテラン勢も存在感を示していた。そんな中にあって、北斗は2番手、3番手の中堅どころ。当時の男子でいえば反選手会同盟(後の平成維震軍)を率いる越中詩郎ぐらいの選手、というのが大方の認識であった。 片や神取は“女子プロレス最強の男”とまで呼ばれる超一級品。かつてセメントマッチでジャッキー佐藤をぶちのめした伝説は、女子プロファンならずとも耳にしていた。 それを相手にまさか北斗が勝つなどとは思いも寄らず、あくまでも今後に続く全女vs神取のプロローグにすぎないと誰もが思っていた。「いかに神取が強さをアピールするか」が見所であり、神取が“初代デンジャラスクイーン”として名乗りを上げるはずの試合だったのだ。 一応は団体の看板を懸けたシングル戦でありながらセミファイナルに回され、メーンは豊田真奈美&山田敏代vs工藤めぐみ&コンバット豊田のタッグマッチに譲ったことも“前哨戦”ムードに輪をかけた。 だが、試合はそんなファンの先入観を打ち砕くかのような、北斗渾身の顔面パンチで幕を開ける。 リングに崩れる神取を見下ろし「てめえ! そんなもんか!」と叫ぶ北斗の姿はまさしく千両役者。そこに格下感などはみじんもなかった。 直後、神取逆襲の腕固めで肩の脱臼を思わせるかのごとく場外でのたうち回る北斗の様子に“秒殺”も予感されたが、そこから試合は一進一退の攻防へ。関節技に勝る神取がグラウンドで攻め立てれば、北斗は情念剥き出しの粘りでこれを切り返す。 場外戦でともに額から流血して以降は完全に互角の様相。北斗切り札のノーザンライトボムを放つもフォールには至らず、対する神取も掟破りの逆ノーザンライトを繰り出すが、やはりカウントは2まで。 持てる技を出し切れば、後は原始的な殴り合いしかない。 顔面パンチが相打ちとなりダブルノックダウン。仰向けに倒れたままの神取に北斗が這い寄って体を預けると、そのままカウント3が数えられた。 30分37秒。ついに死闘は決着となった。 敗れて花道を下がる神取に対して超満員の館内から大コールが沸き上がったことからも、当時のファンのこの試合への満足度合いがうかがえよう。 割を食ったのはこの後にメーンを闘った豊田たちで、歴史的なオールスター戦の最終試合にもかかわらず、これを見届けることなく席を立つ観客が続出した。 試合開始が23時50分と終電間際だったこともあろうが、北斗と神取の凄まじい激闘を観た後に“なまじの試合”など観る気が起きないという気分も、帰宅した観客の胸の内には少なからずあったのではないだろうか。
-
スポーツ 2015年07月15日 12時00分
【甦るリング】第15回 生けるレジェンド“最強の外国人”スタン・ハンセン
1980、90年代に日本マット界で活躍した外国人のなかで、ヒール(悪役)として大成したのが、アブドーラ・ザ・ブッチャーとタイガー・ジェット・シンであるが、“最強の外国人”といえば、“不沈艦”と呼ばれたスタン・ハンセン(65)以外になかろう。なんせ、新日本プロレスではアントニオ猪木を、全日本プロレスではジャイアント馬場を破ったのだから、誰も異論はないだろう。 ブルロープを振り回し、立場的にはヒールではあったが、凶器攻撃を繰り出すわけではなく、純粋に強さを全面に押し出した選手だった。ハンセンは米ウエスト・テキサス州立大学を卒業後、プロフットボール・プレーヤーとなったが、解雇され、故郷に戻って、中学校の教師をしていたインテリだ。 そんな時、大学のフットボール部の先輩であったテリー・ファンクから誘いを受け、プロレスラーに転職した。教師の給料は決して、いいものではなかったようだ。 73年1月にデビューしたハンセンは、若手時代、日本から修行に来ていたジャンボ鶴田や、後にWWWF(後にWWF→WWE)ヘビー級王者となるボブ・バックランドとともに、トレーニングで汗を流し、将来を語り合う間柄となっていた。75年9月には、全日本に初来日するが、まだまだグリーンボーイで、パワーで押すだけの不器用な選手だった。76年にWWWFに登場し、当時のヘビー級王者であったブルーノ・サンマルチノとの対戦するチャンスを得たが、首を負傷させてしまい、同団体に定着することはできなかった。 77年、日本で闘うリングを新日本に変え、徐々に頭角を現していく。そして、80年2月には、ついに猪木を破って、NWFヘビー級王座を奪取。シンを追い抜いて、新日本の外国人エースの座に就く。ハンセンもまた、シン同様、猪木が闘いのなかで、育てた選手といえよう。81年に入ると、再びWWFマットに上がるようになり、旧友バックランドのもつWWF王座に何度も挑戦するなど、ライバル関係を築いた。同年、日本では新日本と全日本による仁義なき引き抜き戦争が勃発。新日本がブッチャーを引き抜くと、報復として全日本はシンを引き抜いた。さらに、全日本はハンセンにもターゲットを絞り、師匠格のテリーが仲介役となって、移籍が決定。同年12月の「世界最強タッグ決定リーグ戦」最終戦で、ブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカのセコンドで登場したハンセンは、対戦相手のザ・ファンクス(ドリー・ファンク・ジュニア&テリー)に弓を引き、ブロディ組の優勝をアシストした。 82年から本格参戦すると、馬場、鶴田、天龍源一郎らと激闘を展開。馬場からPWFヘビー級王座を奪取した他、インター・ヘビー級、インター・タッグ、PWFタッグ、UNヘビー級などあらゆるタイトルを獲得。後に統一された3冠ヘビー級、世界タッグ王座にも戴冠した。馬場が第一線から退き、天龍が離脱、鶴田が肝臓疾患のためトップ戦線から去った後も、三沢光晴、小橋健太(現・建太)、川田利明、田上明らの厚い壁となって立ちはだかった。 全日本に定着してからは、日本での活動をメーンにしていたが、85年12月には、リック・マーテルを破り、AWA世界ヘビー級王座を奪取した。これが、本国で残した唯一の大きな勲章となった。馬場の死後、00年6月に全日本から大量離脱騒動があったが、ハンセンは動かず。ただ、体力的な衰えは隠せなくなっていた。両ヒザの故障を理由に、ハンセンは引退を決断。01年1月28日、東京ドームでの「ジャイアント馬場三回忌追悼興行」で引退セレモニーを行い、プロレスラー生活にピリオドを打った。 私生活では、リング上でのキャラとは打って変わって紳士。外国人ながら、義理人情に厚く、世話になった馬場夫妻に忠誠を誓っていた。現夫人は日本で知り合った日本人女性(ユミさん)とあって親日家。今年6月には、プロレスリング・ノアからゲストとしてオファーを受け、三沢光晴7回忌追悼メモリアルツアーに帯同し、元気な姿を見せてくれた。長年にわたって、全日本、新日本の両団体でトップを張ったハンセンは、紛れもなく、生けるレジェンドだ。(ミカエル・コバタ=毎週水曜日に掲載)
-
スポーツ 2015年07月14日 16時00分
錦織も棄権ウィンブルドンで悲鳴を上げたプロテニスプレーヤーを蝕む鬼ルール
プロテニスプレーヤーの錦織圭(25)が7月1日、ウィンブルドン選手権の2回戦を棄権した。大会前から懸念されていた左ふくらはぎの故障が完治しなかったためだが、棄権を表明したのは2回戦の始まる直前の練習後だった。 改めて怪我の具合が悪いことが判明し、「まだ若いんだから無理をせず、次に備えれば」と思ったファンも多いはず。 しかし、“テニス界の哀しい宿命”によって、錦織は無理をしなければならない立場にあった。 「テニス選手の評価は世界ランキングがすべて。そのポイントの加算ルールが選手を酷使させるようにできているのです」(担当記者) 加算対象となるのは、過去1年間に挙げた上位18大会のポイント。20大会に出たのなら、ポイントを挙げた上位18大会でのポイントを合算し、19位以下の大会は切り捨てられる。 また、得られるポイントも大会ごとに均等というわけではない。全英、全豪、全仏、全英の4大大会はポイント設定が高く、これに出るか出ないかだけでも大きく違ってくるという。 しかも、出場した大会後、52週が経過すると、そのポイントは自動消滅していくので、プロテニスプレーヤーは大会に出場し続けなければならない。つまり、錦織が無理をした理由は「ウィンブルドンのポイント」が高かったからなのだ。 「錦織はCM契約も多く、ランキングが落ちれば契約更新にも影響します」(同) ざっと計算して、1カ月に2大会は出なければならないのがランキング制。体の小さい日本人が海外を飛び回って、無休で戦い続けるのは酷な話である。 「棄権する前まで、錦織のランキングは5位。ダウンは必至で、怪我の影響も考えると、7〜8月は大会に出ても上位進出は期待できない」(専門誌記者) 錦織の怪我は1回戦途中で悪化した。ここに連戦の疲労が加わり、回復はかなり遅れるとみられている。 師匠・松岡修造への義理で、つかの間のオフもバラエティー番組出演やスポンサー対応で休めない…そのツケも、ないとは言えない。
-
-
スポーツ 2015年07月13日 16時00分
なでしこW杯惨敗で読売グループが画策する“澤次期監督”に暗雲
試合開始早々、失点を重ね、日本列島が悲鳴に包まれたサッカー女子ワールドカップ(W杯)カナダ大会決勝戦。なでしこジャパンが初優勝を果たした2011年のドイツ大会に続く米国との再戦とあって早朝から注目が集まったが、結果は2対5という“泣きたくなるような大敗”だった。 この惨敗により、思惑を大きく狂わされたのが安倍政権だ。「安保法制」や「マスコミ弾圧発言」で支持率が40%台に低下。ここで安保法制の強行採決をすれば、さらに10%以上はダウンし、政権はレームダック(死に体)化してしまう。 その前に「なでしこのW杯連覇」で日本中がお祝いムードに包まれ、次は東京五輪だ、頑張れニッポン!などと話題の転換を期待していただけに、自民党内のショックは計り知れない。 そしてもう一つ、この惨敗が、なでしこの次期監督争いにも影響を与えそうなのである。 前回、今大会と率いてきた佐々木則夫監督(57)は、'16年8月のリオ五輪を最後の花道とし、なでしこの監督を勇退するというのが既定路線になっている。 次期監督の最有力候補は、'14年のU-17(17歳以下)女子W杯で優勝に導いた高倉麻子監督(47)。この17歳以下のチームが、東京五輪でのベースとなるからだ。そこにライバルとして、日本サッカー協会の女子委員長・野田朱美氏(45)が立ちはだかる構図だった。 「東京五輪のメーン競技場となる新国立競技場にフランチャイズ移転を画策している読売新聞社グループは、“朝日新聞色”の強いサムライブルーの男子日本代表に対抗し、女子日本代表の主導権を握ろうと躍起になっています。次期監督を争う高倉も野田も、実は日テレ・べレーザのOGで、どちらでもいいという出来レースだった。しかし、ベレーザOGの重鎮・澤穂希(36)がカナダW杯で先発メンバーを外され、決勝戦でボコボコにやられたことで状況が一変。第三の候補が現れたのです」(スポーツ紙デスク) その人物とは、なでしこリーグ二部のAC長野パルセイロ・レディース本田美登里監督(50)で、今大会なでしこをけん引したエース宮間あや(30)を発掘した人物として知られている。その後ろ盾が、澤のW杯フル起用に見切りをつけた佐々木監督なのである。 この本田-宮間ラインに危機感を募らせた読売新聞グループが考え出したのが、今大会で不完全燃焼に終わった澤のなでしこ監督案。読売新聞グループは、澤に日テレ・ベレーザで監督のキャリアを積ませた後、東京五輪とW杯で日本代表と五輪代表の監督を兼任させようと計画しているのだ。 いずれにせよ、決勝戦の赤っ恥で、W杯後に欧米への海外移籍を目論んでいたMF阪口夢穂(27)、DF有吉佐織(27)、鮫島彩(28)らの“夢”は消滅。結果、有力選手の日本残留が決まり、澤派、アンチ派なども表面化してくるはず。 皮肉にも、W杯惨敗で面白くなった『なでしこ』から、今後も目が離せない。
-
スポーツ
ハッスル消滅!? 小川H軍休止宣言
2006年12月27日 15時00分
-
スポーツ
大みそかボビー弟と対戦 金子賢 前田道場入り
2006年12月14日 15時00分
-
スポーツ
珍指令 KID 秒殺禁止
2006年12月12日 15時00分
-
スポーツ
生還小橋に捧ぐ 三沢 GHC奪還
2006年12月11日 15時00分
-
スポーツ
猪木 緊急提言 想定外プロレスをやれ!
2006年12月05日 15時00分
-
スポーツ
1・4東京D「レッスルキングダム」 新日本 全日本“乗っ取り”へ秘策 長州3冠戦出撃
2006年11月16日 15時00分
-
スポーツ
復活1・4東京D大会へ秘策 新日本最終兵器サイモン猪木 IWGP挑戦!?
2006年11月07日 15時00分
-
スポーツ
来春ビッグマッチ パンクラス芸能人最強決定戦 坂口憲二 今田耕司 押尾学
2006年10月31日 15時00分
-
スポーツ
大みそか参戦ほぼ決定 芸能人対決 金子賢vs押尾学
2006年10月10日 15時00分
特集
-
岡平健治「19」解散は「お金の問題じゃない」 岩瀬敬吾、地元に戻るのを「止められてよかった」 今後はバラエティーで「ポンコツっぷりを見て笑ってほしい」
芸能
2025年08月05日 23時00分
-
野球人生“燃え尽きた”元プロ野球選手・宮國椋丞氏 今後は「周りの人に頼られたり、笑顔にしたい」
スポーツ
2025年07月25日 23時30分
-
-
豊ノ島、YouTubeチャンネルで若乃花とコラボ熱望 タレントとして相撲番組で「冠番組」持ちたい
芸能
2025年07月21日 12時00分
-
宮迫博之「雨上がり決死隊」再結成は「蛍原さん次第」 ドジャース始球式の裏話も明かす
芸能
2025年07月14日 17時00分
-
元ザブングル松尾陽介、沖縄で芸人のセカンドキャリアサポート 芸人引退に「心境の変化」
芸能
2025年04月28日 19時03分