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【記憶に残るプロ野球選手】第7回・“幸運”を引き寄せる魔力を持った宮本和知

 失礼ながら、現役時代はさほど、たいしたことはなかったのに、なぜかやたら印象に残っているのが、元巨人投手の宮本和知だ。いったい、何がそうさせたのか? 宮本は学生時代、決して注目されていた選手ではなかった。投手に転向したのは高校2年の時。山口県立下関工業高等学校を卒業後、社会人野球の川崎製鉄水島製鉄所へ入社し、投手として頭角を現した。84年にロサンゼルス五輪で野球が公開競技として初開催されると、宮本は日本代表として出場し、金メダル獲得に貢献した。

 五輪での活躍がスカウト陣の目に留まり、同年秋のドラフト会議で3位指名され、巨人に入団した。当初は主に中継ぎでの登板が多かったが、藤田元司氏が新監督に就任した89年から、先発での起用が多くなった。同年はわずか5勝しか挙げていないが、リーグ優勝時、日本シリーズ制覇時に胴上げ投手となっている。これに代表されるように、宮本はとにかく“幸運”を引き寄せる魔力を持った選手だったのだ。

 胴上げ投手になった自信からか、翌90年には大きく飛躍。28試合に登板し、190回1/3を投げ、初めて規定投球回に到達。14勝(6敗)をマークし、チームのリーグ優勝に貢献。同年もリーグ優勝時の胴上げ投手になる幸運に恵まれた。ただ、14勝して、7割という高い勝率の割に、防御率は3.69と決して良くはなかった。これは、宮本が投げた試合では、打線が援護してくれた何よりの証拠。「宮本が投げるんだから、打ってやろう」という雰囲気が野手陣にあったようだ。それも宮本の人望がなせるワザだったのかもしれない。

 91年も10勝(11敗)をマークして、2年連続2ケタ勝利を記録。しかし、92年は9勝(9敗)に終わり、年々成績は下降していった。頸椎を痛めたこともあり、97年は4勝(4敗)どまりで、同年シーズン限りで現役引退した。残した通算成績は287試合に登板し、66勝62敗4セーブ、防御率3.60。100勝にも遠く及ばず、9年間、ローテーション投手としてプレーした割には、正直たいした成績は残していない。にもかかわらず、鮮烈な印象を残した宮本。それは、やはり何度も胴上げ投手になったインパクトが強く、5度のリーグ優勝、2度の日本シリーズ制覇に貢献し、明るいキャラクターでファンに愛されたからであろう。

 引退後の宮本はタレントに転向して開花した。元プロ野球選手となると、そのプライドが邪魔をして、うまくいかないケースも多いが、宮本はしっかり、そのポジションを確保している。現在、タレント活動をしている元プロ野球選手の中では、いちばん売れているのが宮本といってもいいだろう。所属事務所は業界大手のホリプロで、巨人OBの顔を生かして、日本テレビ系CS放送・ジータスで中継解説や試合前の「プレゲームショー」、試合後の「ポストゲームショー」など、巨人関連番組を数多く担当。ニッポン放送でも、「ショーアップナイター」の解説者を務めている。それ以外にも、「ズームイン!!サタデー」(日テレ)、日テレのバラエティ番組「妻にはショナイで!」にもレギュラー出演している。

 また、「ぶらり途中下車の旅」(日テレ)では旅人として街を歩き、読売テレビ制作の「情報ライブ ミヤネ屋」では準レギュラーでコメンテーターを務めている。出演番組のほとんどが、日テレ、読売テレビ系で、“巨人ブランド”を存分に生かしてはいる。だが、それだけではなく、野球関連のみならず、コメンテーター、旅人などを器用にこなしている。その振り幅の広さ、しゃべりのうまさがあるからこそ、野球以外の仕事も入っているのだ。明るいキャラクターも、その人気の源となっている。

 現役時代はスター選手ではなかったにもかかわらず、引退後のタレント活動が成功したのも、その人柄によるところも大きい。巨人時代、リーダーシップに秀で、投手会長、選手会長を務めた。性格も明るく人望もあるからこそ、オファーもあるのだろう。元プロ野球選手としてのプライドを引きずっていない点もプラスに作用したようだ。

 引退して、もう18年が経ち、すっかり、タレントとして定着した宮本。愛すべきキャラクターだけに、第2の人生を頑張ってほしいものだ。

(ミカエル・コバタ=毎週火曜日に掲載)

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