search
とじる
トップ > スポーツ > 【甦るリング】第7回・正真正銘の“練習の虫”小橋建太

【甦るリング】第7回・正真正銘の“練習の虫”小橋建太

 どんなスポーツでも、練習は自身を高めるために必要なこと。しかし、アスリートとて人間だ。練習が好きな選手もいれば、嫌いな選手もいる。そんな中、小橋建太は“練習の虫”として有名だったが、それはもう、偽りなく正真正銘のトレーニング好きだ。

 プロレスリング・ノアに所属していた当時のとある日、東京・ディファ有明内にあるノア道場にて、マスコミ向けの小橋の公開練習が行われた。小橋が、その練習をマスコミに公開するのは、その頃では異例のことだった。その日、私は小橋の行動に絶句したのであった! プロレスに限らず、多くのプロ格闘技では、その興行のプロモーションのため、頻繁に公開練習を行う。それが記事になることで、興行のPRとなるからだ。ただ、あくまでも、マスコミ向けの場合は、絵作りや選手のコメントがメーンで、実は濃密な練習をするわけではない。それが、業界の常識でもあり、プロレス界の場合は特に顕著だ。

 ところが、その常識を見事に覆した男が、何を隠そう小橋なのだ。ぶっちゃけ、マスコミ的には練習はそこそこに、各媒体で掲載する写真撮影用の絵作り、そして試合に向けてのコメントをしてくれればいいのだが、小橋だけはそれを許してはくれなかった。

 「取材向けの練習はしない。ちゃんと練習を見せるのが公開練習なんだから」と言った小橋は、マスコミの前でビッチリと練習した。報道陣も心の中では、「絵作りしてくれればいいのに…」と思いながらも、相手は天下の小橋建太だ。誰も文句を言える者などいない(笑)。その真意は「俺は絵作りのための練習など絶対にしない。ふだんの練習をそのまま見せるのが公開練習」といった小橋なりのプライドだったのだろう。これこそ、“練習の虫”たる小橋らしいエピソードだ。

 小橋を語る上で、トレーニングについては切り離すことができないものだ。1967年3月27日生まれ、京都府福知山市出身の小橋は、高校卒業後、一般企業に就職するも、プロレスへの夢が断ちがたく、体を鍛えていた。サラリーマンを約2年で辞めた小橋は、87年6月にジャイアント馬場率いる全日本プロレスに入門する。

 全日本の場合、ジャンボ鶴田、三沢光晴、川田利明、秋山準らがアマレス、天龍源一郎、田上明らが大相撲の元関取といった具合で、トップ戦線に浮上した選手はほとんどがプロレス入り前に、格闘技で名を馳せた猛者だった。そんななか、唯一、格闘技で特段実績がなかったにもかかわらず、小橋がエース格までに登り詰めることができたのは、人一倍練習に明け暮れたからにほかならない。小橋は師である馬場の教えに習い、全日本時代、欠場することを良しとしなかった。ただその代償は大きかった。ヒザのじん帯は切れたまま、ガッチリ、テーピングして試合を続けたため、まさに満身創痍の体となった。

 2000年6月に全日本を退団し、ノアへの移籍を発表した後、ヒザの手術をしたが、ノア時代は全日本での無理がたたって故障が相次ぎ、ヒザやヒジなどの手術を何度も受けざるを得なかった。06年6月には右腎臓にがんが見つかり、同年7月に摘出手術を受けた。正直、がんの手術を受けた小橋が、復帰できるとは多くの者が予想しなかっただろう。しかし、“鉄人”小橋はがんをも克服し、手術から1年5カ月後の07年12月、奇跡の復活を果たした。それは不屈の闘志、そして節制の賜物以外の何物でもない。だが、度重なるケガで欠場も多くなり、納得いくファイトができないと判断した小橋は、12年12月に引退を表明。13年5月11日、日本武道館で引退興行を開催し、26年に及ぶ現役生活にピリオドを打った。

 極端な話、“客寄せパンダ”よろしく、負担を軽くして、前座戦線でファイトすることを選択すれば、まだまだ現役は続けられただろう。しかし、あくまでもトップレスラーとして、全力ファイトできなければ、リングを下りるというのが小橋の哲学だったに違いない。流した汗は、積み重ねた練習はウソをつかない。これまでも、この先も、小橋ほどトレーニングに励んだプロレスラーはおそらく二度と現れないであろう。

(ミカエル・コバタ=毎週水曜日に掲載)

関連記事

関連画像

もっと見る


スポーツ→

 

特集

関連ニュース

ピックアップ

新着ニュース→

もっと見る→

スポーツ→

もっと見る→

注目タグ