新日本
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スポーツ 2019年05月05日 18時10分
ヒクソン・カレリン・メイウェザー〜平成の日本格闘技界に来襲した3人の男たち〜
昭和の時代は、アントニオ猪木が「格闘技世界一決定戦」を掲げたことをきっかけに、新日本プロレスに数多くの格闘家が来襲した。柔道のウィリアム・ルスカ、プロボクシングのモハメド・アリ、極真空手のウィリー・ウィリアムスら、今では実現不可能なカードが次々に実現した夢の時代だったと言えるだろう。 平成に入る直前に前田日明、高田延彦、藤原喜明、船木誠勝らによって第2次U.W.Fが誕生し格闘技の一大ブームを巻き起こした。さらにそのU.W.Fが分裂し、立ち技最強を掲げたK-1や、猪木の魂を継承する形で生まれた総合格闘技イベントPRIDEが誕生すると、外国人選手が日本のマットに上がり、日本人が優位だったはずの格闘界に脅威を与えた。 その中でも一度も負けず、平成の格闘界にインパクトを残した3人の格闘家を紹介したい。 「兄は僕の10倍強い」 全てはホイス・グレイシーのこの言葉から始まった。1993年7月にアメリカUFCのトーナメントで優勝したホイスは、兄ヒクソンをこのように評し「まだ強いやつがいるのか?」と世界中の格闘技ファンをざわつかせた。 「400戦無敗」というコピーも強烈で、1994年に『VALE TUDO JAPAN OPEN 1994』に初来日。トーナメントを3連勝、しかも全試合で完勝し、本当に強いことを証明した。同年12月にU.W.Fインターナショナルの安生洋二が道場破りを決行したが返り討ちに。結果的にこれが後の高田延彦戦への布石となった。 翌1995年にも『VALE TUDO JAPAN OPEN 1995』に来日。1回戦では前田がセコンドについたリングスの山本宜久を破ると、そのままチョークスリーパーを武器に3連勝、2年連続でトーナメントを制している。 1997年10月にPRIDEが旗揚げされると、東京ドーム大会のメインイベントで高田延彦と対戦。腕ひしぎ逆十字固めで一本勝ちし、格闘技界のみならずプロレス界にも影響を与えた。高田とは1年後に再戦したが、結果は変わらなかった。 前田らU.W.F出身の選手から「ヒクソンを止めなければ」とコメントが出る中、本格的に準備を始めていた船木が、2000年5月に『コロシアム2000』という単発興行で対戦。試合後、「最も強かったのはフナキ」とヒクソンが認めるほど船木はヒクソンにダメージを与えたが、最後はチョークスリーパーで落とされた。船木は「死んでもいい」覚悟でこの一戦に挑んでおり、ギブアップするつもりはなかったという。 息子の死などもあり、この試合を最後にヒクソンは公式な試合は行っていない。まさに伝説のファイターとなった。グレイシーブランドは今でも健在だが、ヒクソンを超える強い選手が令和の日本格闘技界に現れる可能性は低いのではないだろうか。 “上がるはずがない”選手が日本のマットに上がり、日本のトップと対戦した選手といえば、レスリング“霊長類最強の男”アレクサンドル・カレリンと、プロボクシングで5階級を制覇したフロイド・メイウェザーの2人だろう。 カレリンは何度か新日本への参戦が取り沙汰されたが、実現しなかった。ヒクソンや、マイク・タイソンとのドリームマッチを実現できなかった前田日明は、自身の引退試合の相手として、水面下でカレリンと接触。1999年2月、横浜アリーナ大会で対戦した。カレリンが判定勝ちを収めたが、見応えのある展開で立ち見客が入りきらないほど入った横浜アリーナは大熱狂。ロシアの英雄であり、世界レスリング界のレジェンドであるカレリンが他流試合を行った唯一の試合として、今でも高く評価されている。 メイウェザーは昨年の大晦日、日本の最強キックボクサー那須川天心と、ボクシングルールによるエキシビジョンマッチで対戦。「メイウェザーが日本のリングに上がるだけでも奇跡」という声が上がる中、過去の異種格闘技戦を研究してきたのか、ルールだけではなく体重差も10kg近くオーバーしており、エキシビジョンとはいえメイウェザー側のアンフェアな行為に非難が殺到した。 結果は1R2分19秒でメイウェザーがKO勝ち。メイウェザーが日本のリングに上がり天心と試合をするインパクトだけが残った試合だったが、この試合で主催のRIZINや、天心の名が世界に広まったのも事実。これは猪木対アリの試合後と似た現象になっている。 ヒクソンのように知る人ぞ知る最強戦士と、カレリンやメイウェザーのように世界的な知名度を誇るスーパースターが来襲した平成の格闘技界。令和にはどんな“外敵”が現れるのだろうか?既にマニー・パッキャオら来襲“候補”は出てきているだけにまずは年末に注目したい。※文中敬称略文 / どら増田写真 / 山内猛
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スポーツ 2019年05月05日 06時00分
プロレス界に続く維新軍の歴史 平成維震軍に続く令和維新軍は結成されるのか?
先日「平成」が終わった。新元号「令和」になったわけだが、「昭和」から脈々と結成されている歴史的なユニットが維新軍である。 もともと維新軍は、藤波辰巳(辰爾)に「噛ませ犬」発言をし、新日本正規軍(現在の本隊)に反旗を翻した長州力が1980年代、マサ斎藤、アニマル浜口、キラー・カーン、タイガー戸口、谷津嘉章、小林邦昭、寺西勇とともに結成した昭和を代表する反体制ユニット。藤波だけではなく、アントニオ猪木、木村健悟、藤原喜明、前田明(日明)ら正規軍と激しくやり合った。 1984年には新日本プロレス興行改め、ジャパンプロレスに戸口を除くメンバーと、永源遙、栗栖正伸、保永昇男ら新日本の所属選手とともに大量移籍。マサ斎藤との革命軍から始まった「昭和維新」は団体設立、全日本プロレス参戦という団体の枠を超えるファンの夢をかなえた。後にスーパー・ストロング・マシン、ヒロ斎藤、高野俊二のカルガリー・ハリケーンズも合流。馳浩、佐々木健介といった新人も入団し、一大勢力となる。 しかし、1987年に分裂。長州ら大半の選手は新日本に戻ったが、谷津、仲野、永源、高野らは全日本に残留。カーンは嫌気がさして引退した。浜口も新日本で引退セレモニーを行った。昭和維新軍は、団体化した最初のユニットではないだろうか。 それから5年が経ち、1992年に選手会ともめた越中詩郎と小林邦昭が新日本本隊を離脱。誠心会館の青柳政司、齋藤彰俊、木村健悟も賛同し、反選手会同盟を結成する。翌年にはブロンドアウトローズを解散した後藤達俊、小原道由が加入し、名前を平成維震軍に改めた。 維新軍は昭和維新軍同様、結束力が高く、WARとの対抗戦にも本隊に先駆けて、天龍源一郎率いるWARに乗り込み開戦。全日本時代の先輩である天龍に越中が物怖じせず向かっていく姿はファンの胸を打った。その後、ザ・グレート・カブキも加入。平成維震軍の自主興行も開催するようになり、長州&谷津の昭和維新軍とも対戦している。野上彰(AKIRA)も加入したが、1999年に解散した。 解散後も節目には復活を繰り返しており、近年では武藤敬司がプロデュースするプロレスリング・マスターズや、今年1月に行われた越中のデビュー40周年記念興行では、平成生まれの新メンバー、真霜拳號が加入。平成が終わっても平成維震軍を継続すると宣言している。 平成維震軍は続くようだが、令和にも維新軍ができても不思議ではない。歴史が繰り返されることは、プロレス界の歴史を紐解けば分かること。令和維新は誰がどんな形で行動を起こしていくのか、大いに期待したい。取材・文・写真 / どら増田
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スポーツ 2019年05月04日 11時40分
IWGPヘビー級新王者オカダ・カズチカ、初防衛戦は「約束通り」“同い年”のSANADA!
オカダ・カズチカの次戦は「約束通り」の相手だ。 日本時間4月7日、アメリカのニューヨーク・マディソン・スクエア・ガーデン(MSG)大会に、日本人プロレスラー史上3人目となるメインイベントに出場。モンスター化したジェイ・ホワイトからIWGPヘビー級王座を奪取した。10カ月ぶりに戴冠し、平成最後のIWGPヘビー級王者となったオカダは、3月に開催された『ニュージャパンカップ2019(NJC)』の決勝で対戦したSANADAを初防衛戦の相手に指名した。 NJC決勝でSANADAを倒した際、オカダが「アメリカから帰ってきたらまずSANADAさんともう1回やるよ」と再戦をファンに約束しており、これを守った形だ。2人は5月4日、『レスリングどんたく 2019』福岡国際センター大会2日目のメインで戦う。 オカダとSANADAは同い年ということもあり、内藤哲也と飯伏幸太のように「自分らの世代で盛り上げたい」という気持ちが強い。しばらく先輩ばかりの状況が続いていたオカダにとって、ライバルになり得る同い年のSANADAが新日本マットに来たのは大きいのだろう。 歴代最多防衛V12の記録を持つオカダが、新たな防衛ロードの記念すべき初戦でスケール感の大きな戦いを見せてくれそうだ。SANADAとしてはリベンジ、そして新日本で初のシングル戴冠がかかる。NJCではシングルプレーヤーとして実力を発揮しただけに、抜群の身体能力とプロレスセンスが開花するのか?SANADAはまだオカダから勝利を収めていないが、今回はどうなるか。 また、今大会では「カミングスーン映像」が流れていたバレットクラブの新メンバーXがついにお披露目される。Xは石森太二と組み、ドラゴン・リーとウィル・オスプレイのハイフライヤータッグと対戦する。バレットクラブ所属ということ以外は何も分からないXだが、場内ビジョンで流れている噂のニューメンバーは、外国人の“あの”選手なのか?13日に開幕するジュニアヘビーの祭典『ベスト・オブ・スーパーJr.』に向けてインパクトを残すことができるのか注目したい。 今大会は福岡在住の獣神サンダー・ライガーにとって、キャリア最後の『レスリングどんたく』となる。なお、棚橋弘至は左肘の負傷で今シリーズを全休する。復帰時期は未定。取材・文・写真 / どら増田
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スポーツ 2019年05月03日 20時00分
G1クライマックスと闘魂三銃士〜平成の新日本プロレス〜
平成の新日本プロレスの中で、1.4東京ドームとともにヒット企画となったのが『G1クライマックス』(G1)である。 G1は1991年8月、史上初の両国国技館3連戦の目玉企画として開催されたリーグ戦が始まりだ。当時IWGPヘビー級王者だった藤波辰爾、長州力や、闘魂三銃士の武藤敬司、橋本真也、蝶野正洋、最強外国人レスラースリートップのビッグバン・ベイダー、クラッシャー・バンバン・ビガロ、スコット・ノートンの計8選手が、AとBの2ブロックに分かれて総当たりリーグ戦を行い、各ブロックの最高得点選手が最終日に戦い、優勝者を決めるものだった。 ちなみに第1回大会の「G1」はシリーズ名ではなく、あくまでもリーグ戦のタイトルにすぎなかった。愛知県体育館大会は『サマーナイト・フィーバーIN名古屋』、両国3連戦は『バイオレント・ストームIN国技館』というシリーズタイトルが別にあった。新日本も当初は両国3連戦のための一発企画であって、企画当初はG1を毎年継続する考えがなかったとされるが、厳選されたメンバーによる激闘の数々はプロレス界にインパクトを与えた。 また、長州力が全敗を喫するというまさかの展開も話題になった。最終日には、同点で並んだ橋本と蝶野が、決勝進出者決定戦を行い蝶野がSTFで橋本を撃破。決勝では武藤と対戦。武藤は前日、三銃士からピンフォールを許したことがないベイダーからムーンサルトプレスで3カウントを奪い、座布団が乱れこむ金星を挙げていた。 決勝で蝶野は30分の激戦を繰り広げ、初披露のパワーボムで武藤を撃破。ダークホースと言われた蝶野の優勝により、ファンは前日に続いて座布団を投げに投げ、以降プロレス興行への座布団の貸し出しが禁止となってしまった。エンディングでは、闘魂三銃士がそろい踏みして大会を締めた。新日本プロレスの平成時代の幕開けはG1から始まったと言っても過言ではない。 第1回の成功を受けた新日本は継続開催を決断する。第2回大会では、アメリカWCW勢が大勢参加。あのスティーブ・オースチンも出場している。この大会にはNWA世界ヘビー級王座の座を懸けたものとなったが、蝶野が連覇に成功し、同王座を獲得している。 第3回大会では両国7連戦(G1公式戦は中5日)を開催するなど、G1ブランドは、ドーム大会と同じく90年代黄金時代の大きな柱となった。両国5連戦が3連戦に戻り、かつてのMSGリーグ戦や、IWGPのようにシリーズ化していくにつれ、出場メンバーも増加していく。 最終戦は新日本が厳しい時代にあっても両国を使い続けてきたが、ブシロード傘下となり、V字回復を遂げると黄金時代同様、最終日のチケットが買えない現象が起こった。2014年には新日本初進出となる西武ドーム(メットライフドーム)で決勝戦を開催。これが成功を収め、2015年以降、両国に戻ると最終日のチケットは即日完売するようになった。 昨年からはG1の時期に両国を使用できない。新日本としては初となる日本武道館3連戦を開催した。初日こそ空席があったが、2日目と最終日は当日券が出ない状況で、新日本人気を見せつけた。今年も改装直前の武道館3連戦の開催が決定している。2012年から翌年1.4東京ドーム大会メインイベントで、IWGPヘビー級王者への挑戦権利証が与えられるようになったことで、より“箔”がついたのは確か。ちなみにこの制度になってからIWGPヘビー級王者はG1で優勝していない。 来年は東京オリンピック開催のため、都内の主要会場はほぼ使えない。どこで決勝を開催するのか注目が集まる。平成最後のG1覇者は棚橋弘至だったが、令和初の覇者は誰になるのか?6月の大阪城ホール大会が終わると、新日本は令和初のG1モードに突入する。※文中敬称略取材・文 / どら増田写真 / 舩橋諄
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スポーツ 2019年05月03日 15時00分
“黒船”WWEが日本プロレスに本格侵攻!日本人主力選手も続々移籍
今や世界最大のプロレス団体として、年商600億円とも800億円ともいわれているアメリカのWWE。昭和時代はアントニオ猪木率いる新日本プロレスと業務提携をし、ジャイアント馬場率いる全日本プロレス、当時世界最高峰だったアメリカNWAとAWA連合と対峙してきた。新日本との提携を主導したWWEのビンス・マクマホンSr.が逝去すると、息子のビンス・マクマホンJr.(以下ビンス)が、エースのハルク・ホーガンを中心に据えて全米侵攻に乗り出し、NWAやAWAを主戦場としていた選手を引き抜くとともに、新日本との業務提携も解消している。 日本が昭和から平成に変わった1989年、WWEの日本進出の噂が流れ、これをキャッチした馬場がビンスと交渉。新日本も猪木の政界進出により、馬場とパイプがある坂口征二を社長にしたことから、馬場は新日本に協力を要請。1990年4月13日に、3団体合同興行『日米レスリングサミット』東京ドーム大会の開催が決定した。メインは直前に決定し、ホーガンが全日本のスタン・ハンセンと、新日本時代以来のドリームマッチが実現。ホーガンが“日本だけの”必殺技、アックスボンバーで勝利を収めた。1991年3月にはメガネスーパーが旗揚げした新興団体SWSと業務提携し、東京ドーム大会に全面協力。ホーガンと天龍源一郎のドリームタッグが実現。その後もSWSのシリーズにスーパースターを派遣し続けた。 1994年には『マニアツアー』として、横浜、大阪、名古屋、札幌を回るWWE単独のシリーズを開催も集客は苦戦。しかし、このシリーズに出場した新崎人生やブル中野が関係者の目に留まり、その後WWEと契約している。ブルは日本人初のWWE世界女子王座を獲得するなど、WWEでも活躍した。このシリーズが失敗したことから、SWS崩壊後はWARが契約を引き継いだが、契約が終わると、日本の団体に選手を派遣するスタンスに戻している。 2000年に入り、日本ではCSのJスポーツでWWE人気が上昇。“ストーン・コールド”スティーブ・オースチン、ザ・ロック、トリプルHなどWWEのスーパースターを日本でも見たいという機運が盛り上がった2002年に、『SMACKDOWN! TOUR LIVE in JAPAN』を開催。チケットは完売した。メインでは、ロックがクリス・ジェリコに敗れたものの、エンディングでロックがジェリコをマイクで罵倒した上で、ロックボトムを決めたため、場内は大歓声に包まれた。 以降、毎年のように日本公演を開催し、2005年には主力ブランドのロウとスマックダウンの収録をさいたまスーパーアリーナで行っている。2014年に有料配信サイトWWEネットワークを開設すると、プロレスリング・ノアの主力選手だったKENTA(ヒデオ・イタミ)、新日本プロレスからプリンス・デヴィット(フィン・ベイラー)、AJスタイルズ、カール・アンダーソン、ドグ(ルーク)・ギャローズ、そして中邑真輔が移籍。ドラゴンゲートの戸澤陽、女子もフリーの華名(アスカ)、スターダムのカイリ・セイン(宝城カイリ)、紫雷イオといった主力選手が大挙して海を渡った。この流れは今後も止まりそうにない。 ビンスは成し遂げたいと思ったことは必ず実現させており、平成の日本プロレス界にとって、WWEが本格侵攻してきたのは事実である。取材・文 / どら増田写真 / 垪和さえ
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スポーツ 2019年05月03日 06時00分
“常勝軍団”の平成…三冠王から名捕手まで、福岡ダイエー・ソフトバンクを振り返る
球団別に平成時代を代表する選手を振り返りたい。今回取り上げるのは、平成に入り南海からダイエーホークスとなり、大阪から福岡に移転し、暗黒時代を乗り越え黄金期を迎えた福岡ソフトバンクホークスだ。1松中信彦 新日本製鐵君津時代にアトランタオリンピックに出場。4番として活躍し、決勝のキューバ戦では一時同点となる満塁ホームランを放つ。アマ時代の十分な実績を引っさげ、ダイエーホークスに入団する。 2年間は社会人時代に使用していた金属バットと木製バットの違いに苦しんだものの、3年目以降は主軸として活躍。城島健司・小久保裕紀・井口資仁とともに100打点カルテットとして他球団を震え上がらせた。 特にその勝負強さを特筆モノで、2003年から05年にかけては3年連続120打点を達成。2004年には44本塁打、打率.358で、平成唯一の三冠王も獲得し、名実ともに「平成最強打者」となった。 弱小だったダイエーホークスが常勝となった要因の一つに、間違いなく松中の存在があった。2城島健司 1994年オフに別府大付属高校からドラフト1位で入団。当初駒澤大学進学を表明していたが、「球界の寝業師」と言われた球団社長の根本陸夫氏が強行指名。翌年から監督に就任する王貞治氏の直接出馬もあり、入団となった。 入団から2年間英才教育を受けると、3年目に才能が開花。1997年には打率.308、15本塁打を記録し、レギュラーに定着する。リード面については当時評価が低かったが、当時投手として活躍していた工藤公康の直接指導で徐々に力をつけ、1999年はチームを移転後初となる優勝・日本一に導いた。 2000年以降は不動の捕手として君臨し、2003年には打率.330、34本塁打、119打点という成績を残し、チームの優勝・日本一に貢献。MVPを獲得。平成の「強いホークス」を支えたのは、城島の打撃とリードだった。 その後2005年オフにFAでシアトル・マリナーズに移籍し、2010年から3年間は阪神タイガースでプレーした城島。その存在は、記録以上に大きなものがあった。3攝津正 2008年オフにJR東日本東北からドラフト5位で入団。社会人野球8年目にして夢を叶え、プロの舞台に足を踏み入れる。 すると初年度から力を発揮し、セットアッパーとして毎日のように登板。その登板数は実に70試合で、球団記録を更新。防御率1.74、34ホールドで新人王を獲得した。 さらに2年目も勝ちパターンのセットアッパーとして獅子奮迅の活躍を見せ、71試合に登板。2年連続70試合登板は、あの稲尾和久氏以来。2年連続で最優秀中継ぎ投手賞を受賞している。 2011年から先発に回るが、こちらでも抜群の安定感を見せエースに成長。2012年には17勝5敗、防御率1.91の好成績で最多勝、沢村賞を獲得。2015年まで5年連続二桁勝利を達成した。 2016年以降は故障に苦しみ一軍で満足な結果が残せず、2018年に戦力外通告を受け、最終的に引退を選択。平成後期のエースは、ひっそりとマウンドを去った。社会人で8年、プロで10年の現役生活は、見る者に数字以上のインパクトを与えた。 平成初期はBクラス常連だったが、31年間で「強豪」の輝きを取り戻したホークス。今後もソフトバンクの豊富な資金をバックに、「常勝」を維持していくものと思われる。
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スポーツ 2019年05月02日 20時00分
プロレス番組「ワールドプロレスリング」の歴史〜平成の新日本プロレス〜
新日本プロレスの大会を中継しているテレビ朝日系列の全国番組『ワールドプロレスリング』(ワープロ)。昭和63年4月にゴールデンタイムから土曜の夕方4時に枠を移し『'88ワールドプロレスリング』に改名したが、平成元年に『ワールドプロレスリング』にタイトルを戻し、オープニングテーマと、スポンサー紹介のBGMにエマーソン・レイク&パウエルの『ザ・スコアー』を起用。これが『ワープロのテーマ』として定着し、現在も番組のオープニングテーマになっている他、会場で流れると大きな手拍子をするのが定番となっている。 テレビ朝日の土曜夕方4時枠は、たびたびゴルフ中継が入るため、放送休止が多くファンには不評だった。ただ、学生にとっては視聴しやすく、第2次UWFの旗揚げなどで集客が落ちていた時期に学生のファンを増やす効果はあった。 昭和62年10月には、新日本プロレス黄金時代の立役者の一人でもある古舘伊知郎アナウンサーが勇退。後任に辻義就(よしなり)アナが就任。多くの新日本ファンが“古舘ロス”に陥る中、辻アナは古舘アナより長く、新日本の実況を務めている。 平成5年4月から土曜の深夜に移動。ほぼ毎週放送され、深夜にもかかわらず高視聴率を記録して90年代のドームプロレスを成功に導いた。90年代から2000年代にかけて、ドーム大会がゴールデンタイムの特番で放送されていたのは、深夜枠で好評だったことが大きいだろう。大仁田厚と真鍋由アナウンサーの『大仁田劇場』などの企画はプロレスファン以外にも人気を博した。 2002年頃から打ち切り説がささやかれる中、2004年4月、ついに30分枠に短縮。ライバルだった日本テレビ系列『全日本プロレス中継』が30分枠になってから10年後のことだった。番組の構成を変更されたが、CSやBSなどを駆使して、派生番組を放送。中でも大会を丸ごと放送する『ワールドプロレスリング完全版』は現在でも人気だ。 2002年頃から、吉野真治アナウンサーがメインアナウンサーに。2007年から担当した野上慎平アナウンサーが、引退した飯塚高史に毎試合のように襲撃され、新日本ファンから支持を受けた。 2012年に新日本をブシロードが買収し人気がV字回復すると、吉野アナとともにツートップとして、『ワープロ』の顔となった。吉野アナ、野上アナともに他番組への出演が増え、配信サイト『新日本プロレスワールド』を開設。CSテレ朝チャンネル2『ワールドプロレスリングLIVE』のこともあり、メインアナウンサーを固定せず、テレビ朝日のスポーツアナウンサーや、フリーのアナウンサーによる実況が『ワープロ』で流されることも多くなった。 解説者は、故・山本小鉄さん、故・マサ斎藤さん、柴田惣一氏、木村健悟氏、金澤克彦氏、山崎一夫氏、ミラノコレクションA.T氏らが歴任。平成4年3月には故・櫻井康雄氏が復活しファンを喜ばせた他、平成10年4月のアントニオ猪木引退試合では、古舘&小鉄の黄金コンビが復活している。 「例え30分枠でも地上波は必要」 木谷高明オーナーは『ワープロ』を地上波で継続していくべきと考えている。令和になり、着手したいのは1時間枠の復活と、ゴールデンタイムは無理でもせめてプライムタイムに特番を放送し、ファン以外にも試合を見せていくことではないだろうか。来年は東京ドーム2連戦を開催することもある。地上波の露出はさらに強化したいところ。新日本とテレ朝の関係は昭和、平成、そして令和でもさらに深まっていくはずだ。取材・文・写真 / どら増田
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スポーツ 2019年05月01日 19時30分
メインはIWGPジュニア戦! 新日本プロレス令和初のビッグマッチは福岡2連戦
平成最後のビッグマッチ『レスリング火の国 2019』を4月29日に熊本・グランメッセ熊本で開催し、大成功を収めた新日本プロレス。4月は日本時間6日、アメリカのニューヨーク・マディソン・スクエア・ガーデン(MSG)に初進出、20日には愛知県体育館で久々のビッグマッチを開催。平成のフィナーレを飾った新日本にとって令和初のビッグマッチは5月3、4の両日に福岡国際センターで開催される『レスリングどんたく 2019』だ。 昨年から2連戦になった5月の福岡大会だが、90年代は福岡ドーム(ヤフオクドーム)で開催していた大会なだけに、今年も成功を収めたいところだ。 初日のメインには、MSG大会でIWGPジュニアヘビー級王座を初戴冠したドラゴン・リーに前王者の石森太二が挑戦するリターンマッチが大抜擢された。リーはMSG大会で、石森の持つIWGPジュニアヘビー王座に挑戦。バンディードを交えた3WAYマッチは目まぐるしい展開の中、石森をリング外に排除したリーが、バンディードをデスヌカドーラで仕留めて王座を獲得している。 直接負けていないのに王座から陥落し、納得がいかない石森はリターンマッチをアピール。これが認められた形となった。13日にはジュニアヘビーの祭典『ベスト・オブ・スーパーJr.』(BOSJ)が開幕し、決勝戦は6.5両国国技館大会で開催される。大会場のメインでもジュニアの闘いが会場を魅了することだろう。現在長期欠場中で、昨年のBOSJ覇者である高橋ヒロムの復帰が待たれる中、ライバルのリー、昨年のBOSJの決勝で闘った石森はともに「ヒロムが帰ってきた時はIWGPジュニアのベルトを持っていたい」という強い思いを抱く。MSG大会を超える激戦に期待したい。 セミファイナルではROH世界TV王座をかけて、ジェフ・コブがタイチの挑戦を受ける。コブはNEVER無差別級王者のウィル・オスプレイとのダブルタイトルマッチに勝ち、見事二冠王に輝いた。 タイチは3.24長岡でタッグマッチながらオスプレイからピンフォールを奪うと、NEVER挑戦をアピール。その際、オスプレイが「ジェフ・コブとやってから」と発言していたことに不満を抱いていた。だが、新日本サイドは王座が移動した後ではあるが、タイチのアピールを受けてコブとのタイトル戦を組んだ。 タイチは自身2度目のNEVER戴冠に向けて、今回も鈴木軍の介入も辞さない無法戦法を仕掛けてくるのは必至。コブはオスプレイ戦同様、パワーで振り切れるか?マイケル・エルガンが退団しただけに、コブにとっては新日本マットでのポジションを確立するチャンスでもある。 初日から博多っ子の心をつかむか?取材・文・写真 / どら増田
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スポーツ 2019年04月30日 22時30分
プロレスラー世界遺産 伝説のチャンピオンから未知なる強豪まで── 「カール・ゴッチ」“プロレスの神様”の作られた伝説
新日本プロレス旗揚げ時にアントニオ猪木と相まみえたとき、カール・ゴッチはすでに50歳手前であった。 以降、フロリダ州タンパのゴッチ道場において数多のレスラーを鍛え上げるとともに、自身も生涯トレーニングを欠かさなかったという。まさにレスリングの求道者であった。※ ※ ※ カール・ゴッチの初来日は1961年、日本プロレスの第3回ワールドリーグ戦。当時のリングネームはカール・クラウザーで、その緒戦はアメリカからの凱旋帰国となった吉村道明とのシングルマッチ、45分3本勝負であった。 ゴッチが日本初披露となるジャーマン・スープレックスで1本目を先取すると、吉村もこれまた日本初の回転エビ固めで2本目を奪い返し、その後は互いに一歩も引かないテクニック合戦の末、時間切れドローとなっている。 同シリーズに続いて開催された、ワールドリーグ選抜者による国際試合シリーズと合わせた約3カ月の間に、吉村とゴッチの対戦は都合13回も組まれていて、結果はゴッチの3勝1敗8分け1ノーゲーム(勝利は時間切れ判定勝ち2つを含む。ノーゲームは2本目のジャーマンで吉村が失神状態になったため、ゴッチの勝利とされながら、ゴッチがこれを拒否したもの)。 他の日本人選手との対戦では、力道山と1戦して1本ずつ取り合った後に両者リングアウトの引き分け。2番手格の豊登とは2勝1分け(不戦勝1を含む)。若手相手ではシングル28戦のうち20勝、反則負けが1回に時間切れ7回と、ほぼ完封の結果を残している。 また、シリーズ外国人エース格のミスターX(正体はビル・ミラー)には敗れているが、同じくシリーズの目玉とされたグレート・アントニオとは引き分けている。 力道山はゴッチと対戦した後に「強けりゃいいってもんじゃない」と吐き捨てたと言われ、以降は両者の対戦が組まれなかったことから“ゴッチは試合ぶりがつまらない”とする評価が一般的になっている。しかし、そうであれば、これから売り出そうという吉村のライバル役に抜擢したことの説明がつかない。 本当に面白味も華もないレスラーであったなら、アメリカマットでルー・テーズのNWA王座に9回挑戦したというのも不可解だ。 タッグも含めれば各テリトリーで世界王座に就いており、アメリカ進出が30代半ばと遅かったにもかかわらず、それだけの戦績を残したことを考えても、ゴッチがプロレス不適格者であったとは信じ難い。 「試合がつまらなくて観客ウケが悪かったわけではなく、対戦相手がゴッチを嫌がったというのが真相ではなかったか。ゴッチの試合映像を見ると、いったん相手の腕を取ればしつこくそれを離さないし、グラウンドでも簡単にブレークをせずに攻め続ける。ロープに振ったりもしないねちっこい戦いぶりで、対戦相手の疲労度は半端なものではないはず。しかも、極め技のジャーマンは当時としてはかなり危険なもので、力道山の言葉にしてもプロモーターの視点からではなく“疲れるし危ないしで、とても付き合いきれない”という、一選手としての嘆きのような気がしてならない」(プロレスライター)★プロレス的演出に寛容だった!? 「性格的に難あり」との評もあるが、そうであるならば日プロ、国際プロレス、新日本プロレスがゴッチに対してコーチ役を願って出るわけもなく、ゴッチ自身も己の技術を安易に授けたりはしなかっただろう。他にもルチャドールのエル・カネックや総合格闘家のジョシュ・バーネット、全日本プロレスの渕正信らのコーチ役も買って出ている。 「そのコーチングの内容自体がシビアであるために、厳しさばかりが喧伝されていますが、そうやって誰でもひょいひょいと受け入れるあたりは、むしろ人のいいおっちゃんのようにも見えます」(同) ゴッチの名前の由来からして、伝説のレスラーであるフランク・ゴッチにあやかったもので、またベルギー出身でありながら、当時のアメリカで敵役とされたドイツ人ギミックを受け入れていたあたりをみても、プロレス的演出に決して否定的ではなかったようだ。 国際プロ参戦時、モンスター・ロシモフの名前だった頃のアンドレ・ザ・ジャイアントにジャーマンを極めた伝説的一戦も、レフェリー不在でカウントが入らず、その後に逆転されるといういかにもプロレス的な結果に終わっている。“プロレスの神様”というのも、旗揚げ当初にゴッチしか目玉のなかった新日が、権威付けのために言い出しただけのこと。 「ゴッチにまつわるさまざまな伝説も、この頃に“作られた”ものが多い」(同) プロレス界での出世や名誉に対する欲が薄いので、ギャラさえ出れば選手ではなくコーチ役としての招聘も受け入れる。スターレスラーになることよりも技術の追求にばかり興味が向いていた、いわゆるオタク気質の人というのが、ゴッチの真の姿であったのかもしれない。カール・ゴッチ***************************************PROFILE●1924年8月3日〜2007年7月28日、ベルギー・アントワープ出身。身長184㎝、体重110㎏。得意技/ジャーマン・スープレックス。文・脇本深八(元スポーツ紙記者)
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スポーツ 2019年04月30日 17時30分
プロレス黄金時代と暗黒時代、そして真・黄金時代へ〜平成の新日本プロレス〜
今日で「平成」が終わり、5月1日から新元号「令和」の時代が始まる。 新日本プロレスが最初に東京ドーム大会を開催したのは、平成元年4月24日。『'89格闘衛星☆闘強導夢』という大会名で初進出している。この大会は平日開催だったにもかかわらず東京ドームという目新しさもあり、53,600人(主催者発表)の観衆を集めた。翌年は2月10日に開催。絶対にあり得ないと思われた全日本プロレスの主力選手が電撃参戦しドームを札止めに。前年11月に開催したUWFの動員数を超える63,900人(同)を動員、4月13日には全日本、アメリカWWF(WWE)の3団体による合同興行を東京ドームで開催している。91年は3月21日にアメリカのWCWと全面対抗戦を開催。メインイベントで藤波辰爾がリック・フレアーを破り、NWA世界ヘビー級王座を奪取した。92年には1月4日に開催。以後、今年まで27年連続で同日開催し、「1.4ドーム」が世間的にもブランド化された。 東京ドーム大会の最高記録は、98年4月4日に行われた『アントニオ猪木引退試合』の7万人。この記録はその後、K-1が抜いており、実数発表となった現在ではあり得ない数になるが、田中ケロリングアナ(当時は新日本)が東京ドーム関係者から聞いた話によると、回転扉にカウンターが付いており「猪木引退試合を超える動員数はその後ない」という。当時のK-1は外野に大きなセットを組んでおり、猪木の引退試合はセットも最小限に留め、立ち見も含めてギッシリと埋まっていた。現在は消防法も厳しくなっていることから、あそこまで入れるのは現実的に難しいと思われる。 しかし、今では毎年当たり前のように1.4東京ドーム大会を開催しているが、2000年代に入り、東京ドーム大会の動員数が下降。暗黒時代の始まりである。まず両国国技館が入らなくなり、後楽園ホールですら空席が目立つようになった。そんな時、心が折れることなく、全力プロモーションをし続けたのが“100年に一人の逸材”棚橋弘至だ。棚橋は全国各地を隈なくプロモーションをすることで、プロレスから格闘技に流れた“信頼”を少しずつ取り戻していった。 この棚橋の努力が実り、2012年にブシロード傘下になってから新日本は盛り返し、昨年は日本武道館3連戦、来年は東京ドーム2連戦を開催するまでに回復した。これは黄金時代にも成し遂げられなかったことで、木谷高明オーナーが「ドームでやるのをやめようと思ったけど、一度やめたらまたやる時がシンドイ」と開催継続を判断したのが大きかった。もちろんユークス体制のときにも何度も「来年はやるかわからない」「来年は1.4にこだわらないかも」という声は新日本サイドから明らかにされており、ドーム大会の開催がいつ終わってもおかしくなかったのは事実。真夏の最強戦士決定戦『G1クライマックス』の両国3連戦は縮小したが、東京ドーム側が毎年1月4日は新日本のために他を入れない配慮をし続けてきたこともあり、継続してきた。これは真・黄金時代到来を語る上で大きなポイントだ。1.4ドーム大会は来年1.5ドームという未知の領域にチャレンジする。メイ社長は「ファンの皆さんへの感謝」と話していたが、平成の新日本プロレスにとって象徴とも言える東京ドーム大会や東京ドームより大きい新国立競技場への進出は、令和に時代が変わってもチャレンジしていくことだろう。盤石な真・黄金時代を築くために。取材・文・写真 / どら増田
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