日本が昭和から平成に変わった1989年、WWEの日本進出の噂が流れ、これをキャッチした馬場がビンスと交渉。新日本も猪木の政界進出により、馬場とパイプがある坂口征二を社長にしたことから、馬場は新日本に協力を要請。1990年4月13日に、3団体合同興行『日米レスリングサミット』東京ドーム大会の開催が決定した。メインは直前に決定し、ホーガンが全日本のスタン・ハンセンと、新日本時代以来のドリームマッチが実現。ホーガンが“日本だけの”必殺技、アックスボンバーで勝利を収めた。1991年3月にはメガネスーパーが旗揚げした新興団体SWSと業務提携し、東京ドーム大会に全面協力。ホーガンと天龍源一郎のドリームタッグが実現。その後もSWSのシリーズにスーパースターを派遣し続けた。
1994年には『マニアツアー』として、横浜、大阪、名古屋、札幌を回るWWE単独のシリーズを開催も集客は苦戦。しかし、このシリーズに出場した新崎人生やブル中野が関係者の目に留まり、その後WWEと契約している。ブルは日本人初のWWE世界女子王座を獲得するなど、WWEでも活躍した。このシリーズが失敗したことから、SWS崩壊後はWARが契約を引き継いだが、契約が終わると、日本の団体に選手を派遣するスタンスに戻している。
2000年に入り、日本ではCSのJスポーツでWWE人気が上昇。“ストーン・コールド”スティーブ・オースチン、ザ・ロック、トリプルHなどWWEのスーパースターを日本でも見たいという機運が盛り上がった2002年に、『SMACKDOWN! TOUR LIVE in JAPAN』を開催。チケットは完売した。メインでは、ロックがクリス・ジェリコに敗れたものの、エンディングでロックがジェリコをマイクで罵倒した上で、ロックボトムを決めたため、場内は大歓声に包まれた。
以降、毎年のように日本公演を開催し、2005年には主力ブランドのロウとスマックダウンの収録をさいたまスーパーアリーナで行っている。2014年に有料配信サイトWWEネットワークを開設すると、プロレスリング・ノアの主力選手だったKENTA(ヒデオ・イタミ)、新日本プロレスからプリンス・デヴィット(フィン・ベイラー)、AJスタイルズ、カール・アンダーソン、ドグ(ルーク)・ギャローズ、そして中邑真輔が移籍。ドラゴンゲートの戸澤陽、女子もフリーの華名(アスカ)、スターダムのカイリ・セイン(宝城カイリ)、紫雷イオといった主力選手が大挙して海を渡った。この流れは今後も止まりそうにない。
ビンスは成し遂げたいと思ったことは必ず実現させており、平成の日本プロレス界にとって、WWEが本格侵攻してきたのは事実である。
取材・文 / どら増田
写真 / 垪和さえ