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【追悼】「北尾さんがいなければ僕は…」“プロレスラー”北尾光司さん逝去に弟子の望月成晃、高田延彦氏が悼む

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望月成晃、高田延彦氏

 元大相撲の横綱、双羽黒こと北尾光司さんが2月10日、腎不全により亡くなられていたことがわかった。55歳の若さだった。ここではプロレスラー時代の北尾さんを振り返るとともに、レスラー時代に北尾さんとゆかりがあった人物の追悼コメントを掲載したい。

 1990年2月10日。この日は北尾さんがプロレスデビューを飾った日だった。横綱からプロレスラーになったのは、故・輪島大士さんに続いて2人目。その後、現在欠場中の曙が3人目のプロレスラーとなったが、横綱まで登りつめてプロレスに転向したのはこの3人しかいない。北尾さんは新日本プロレスのオファーを受け、『'90スーパーファイトIN闘強導夢』のセミファイナルで、クラッシャー・バンバン・ビガロを相手にデビューを飾り、ギロチンドロップでフォール勝ち。新日本にとって2回目の東京ドーム大会で、セミファイナルの破格なデビュー戦。入場テーマ曲はデーモン閣下がオリジナル曲を書き下ろし、デビューまでの指導は“鉄人”ルー・テーズが行った。この大会は直前でトラブルがあり、急遽、故・ジャイアント馬場さんが、全日本プロレスの所属選手と、スタン・ハンセンを新日本に貸し出したことから、全日本のファンも大挙として来場。デビュー前の言動や、相撲界の離れ方が悪かったこともあり、カード発表の段階から大ブーイングが発生。試合も終始ビガロコールが起こるなど、北尾さんにとっては気の毒なデビュー戦だった。しかし、同大会がゴールデンタイムで放映されると、最高視聴率は20%を超えており、世間的な注目度が高かったことが窺える。ちなみに、アントニオ猪木氏の「1、2、3、ダァー」はこの日のメインイベント終了後に初披露されるなど、ドーム大会史上最高興行として、今でも語り継がれる大会となっている。

 その後も、北尾さんのビッグマウスは『徹子の部屋』(テレビ朝日系)など、プロレスメディア以外でも見られるようになり、新日本内でも孤立していくが、田中ケロ・リングアナウンサー(当時)は「北尾さんが亡くなっておられました。新日本時代、悪い印象ないんですよ。長州さんと揉めた時もホテルの部屋まで話にいきましたが、ちゃんと話せば、お互いわかるんちゃうかって思った気がするなあ。めちゃくちゃ恵まれた体格に甘えちゃってる感じがあったんで、もったいないなぁと。早すぎますよ」とツイッターで悪い印象がなかったことを明らかにしながら、早すぎる死を悔やんでいる。田中リングアナが書いているように、当時の現場監督だった長州力と衝突したことから、新日本を離れ、メガネスーパーが同年に旗揚げした新団体SWSへ。大相撲の先輩である天龍源一郎氏を慕って入団となった。天龍氏とは憧れだったWWF(WWE)のリングにも上がっている。だが、ここでもジョン・テンタ(元大相撲力士)を相手に不可解な反則負けを喫した上に、暴言を吐いたことから解雇されてしまう。

 新日本、SWSと続けて解雇されてしまった北尾さんは、総合格闘家への転身を模索。そこで声をかけたのがUWFインターナショナルだ。1992年10月に高田延彦(現RIZIN統括本部長)氏との『格闘技世界一決定戦』が実現。この試合で北尾さんは高田氏のハイキックにKOされてしまい、高田氏が最強神話を築くキッカケになる試合となった。高田氏は自身のインスタグラムを更新し、「元横綱の北尾光司さんが亡くなったとの一報を聞いて茫然とした。あの北尾光司がまさか55歳の若さで逝ってしまうなんて今でも信じられない気持ちだ。いつか再会して言葉を交わしたいと思っていたが叶わなかった。本当に残念でならない。心よりご冥福を祈ります」とお悔やみの言葉を送った。

 1994年には格闘技塾、北尾道場(後の武輝道場)を設立。再び天龍氏のもとに戻り、WARに参戦。この時、北尾さんに弟子入りしたのが、ドラゴンゲートの岡村隆志前社長、望月成晃、フリーのTARUなどがいる。望月はプロレスリング・ノアの試合前に訃報を知ったそうで、「試合直前に知りました 北尾さんは引退されてから、プロレス界とはほぼ断絶されていたので、僕もお会いする事はありませんでした ただ一つ…間違いなく言えるのは、北尾さんがいなければ、僕はプロレスラーになれなかったという事です 心よりご冥福をお祈りいたします 合掌」とツイッターに悼む言葉を綴った。高田対北尾を見てプロレスラーを目指した望月にとってはショックが大きかったようだ。

 その後はPRIDEやUFCなど総合格闘技での活動が目立ち、高田対ヒクソン・グレイシーが行われた1997年10月の『PRIDE.1』東京ドーム大会では、ネイサン・ジョーンズを相手に総合初勝利。この時の喜び方は凄まじく、今でも鮮明に覚えている。1998年、全日本の東京ドーム大会で田上明戦が発表されるもこの試合は中止に。理由は明らかにされていない。同年7月18日にSWS、WARで一緒だった、北原光騎氏が主宰するキャプチャー新宿ACBホール大会での『地下室プロレス』で北原氏を相手に引退試合、10月11日の『PRIDE.4』東京ドーム大会で引退セレモニーを開催し、マット界から完全に離れた。

 プロレスラーとしては早すぎた逸材と評価する声も多く、実際、ビガロ、ビッグバン・ベイダー、スティーブ・ウイリアムスといったスーパーヘビー級の外国人選手と対峙しても見劣りはしなかったし、新人とは思えぬほど、肝が座っていた。最初の過度な売り出しが、本人の勘違いを招き、最後まで尾を引いてしまったのは残念でならない。

 和製ハルク・ホーガンを目指したプロレスラー北尾光司は、平成を全うして天国へ旅立っていった。

 合掌。

文・写真 / どら増田 ※文中一部敬称略

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