平成に入る直前に前田日明、高田延彦、藤原喜明、船木誠勝らによって第2次U.W.Fが誕生し格闘技の一大ブームを巻き起こした。さらにそのU.W.Fが分裂し、立ち技最強を掲げたK-1や、猪木の魂を継承する形で生まれた総合格闘技イベントPRIDEが誕生すると、外国人選手が日本のマットに上がり、日本人が優位だったはずの格闘界に脅威を与えた。
その中でも一度も負けず、平成の格闘界にインパクトを残した3人の格闘家を紹介したい。
「兄は僕の10倍強い」
全てはホイス・グレイシーのこの言葉から始まった。1993年7月にアメリカUFCのトーナメントで優勝したホイスは、兄ヒクソンをこのように評し「まだ強いやつがいるのか?」と世界中の格闘技ファンをざわつかせた。
「400戦無敗」というコピーも強烈で、1994年に『VALE TUDO JAPAN OPEN 1994』に初来日。トーナメントを3連勝、しかも全試合で完勝し、本当に強いことを証明した。同年12月にU.W.Fインターナショナルの安生洋二が道場破りを決行したが返り討ちに。結果的にこれが後の高田延彦戦への布石となった。
翌1995年にも『VALE TUDO JAPAN OPEN 1995』に来日。1回戦では前田がセコンドについたリングスの山本宜久を破ると、そのままチョークスリーパーを武器に3連勝、2年連続でトーナメントを制している。
1997年10月にPRIDEが旗揚げされると、東京ドーム大会のメインイベントで高田延彦と対戦。腕ひしぎ逆十字固めで一本勝ちし、格闘技界のみならずプロレス界にも影響を与えた。高田とは1年後に再戦したが、結果は変わらなかった。
前田らU.W.F出身の選手から「ヒクソンを止めなければ」とコメントが出る中、本格的に準備を始めていた船木が、2000年5月に『コロシアム2000』という単発興行で対戦。試合後、「最も強かったのはフナキ」とヒクソンが認めるほど船木はヒクソンにダメージを与えたが、最後はチョークスリーパーで落とされた。船木は「死んでもいい」覚悟でこの一戦に挑んでおり、ギブアップするつもりはなかったという。
息子の死などもあり、この試合を最後にヒクソンは公式な試合は行っていない。まさに伝説のファイターとなった。グレイシーブランドは今でも健在だが、ヒクソンを超える強い選手が令和の日本格闘技界に現れる可能性は低いのではないだろうか。
“上がるはずがない”選手が日本のマットに上がり、日本のトップと対戦した選手といえば、レスリング“霊長類最強の男”アレクサンドル・カレリンと、プロボクシングで5階級を制覇したフロイド・メイウェザーの2人だろう。
カレリンは何度か新日本への参戦が取り沙汰されたが、実現しなかった。ヒクソンや、マイク・タイソンとのドリームマッチを実現できなかった前田日明は、自身の引退試合の相手として、水面下でカレリンと接触。1999年2月、横浜アリーナ大会で対戦した。カレリンが判定勝ちを収めたが、見応えのある展開で立ち見客が入りきらないほど入った横浜アリーナは大熱狂。ロシアの英雄であり、世界レスリング界のレジェンドであるカレリンが他流試合を行った唯一の試合として、今でも高く評価されている。
メイウェザーは昨年の大晦日、日本の最強キックボクサー那須川天心と、ボクシングルールによるエキシビジョンマッチで対戦。「メイウェザーが日本のリングに上がるだけでも奇跡」という声が上がる中、過去の異種格闘技戦を研究してきたのか、ルールだけではなく体重差も10kg近くオーバーしており、エキシビジョンとはいえメイウェザー側のアンフェアな行為に非難が殺到した。
結果は1R2分19秒でメイウェザーがKO勝ち。メイウェザーが日本のリングに上がり天心と試合をするインパクトだけが残った試合だったが、この試合で主催のRIZINや、天心の名が世界に広まったのも事実。これは猪木対アリの試合後と似た現象になっている。
ヒクソンのように知る人ぞ知る最強戦士と、カレリンやメイウェザーのように世界的な知名度を誇るスーパースターが来襲した平成の格闘技界。令和にはどんな“外敵”が現れるのだろうか?既にマニー・パッキャオら来襲“候補”は出てきているだけにまずは年末に注目したい。
※文中敬称略
文 / どら増田
写真 / 山内猛