スポーツ
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スポーツ 2015年05月03日 12時00分
交流戦はトレード相手を探す見本市 人気はベテラン2野手
巨人が前レイズのホアン・フランシスコ内野手(27)を緊急獲得した。巨人情報に詳しいプロ野球解説者によれば、2012年から13年に掛け、巨人渉外担当者がオファーを出した経緯もあるという。 「飛ばすことに関しては“超”の付く一流ですが、変化球へ対応できず、その才能を開花させられないまま今日に至りました。守備ははっきり言ってヘタクソ。原監督の期待には応えられないのでは」(米特派記者) 巨人はキューバの主砲、セペダの調子が上がらず、一発の期待が持てる選手が少ない。変化球の対応が悪く、守備難ということだが、原辰徳監督(56)はフランシスコのパワーに相当期待しているようだ。 「三塁を守る村田が不振に喘いでおり、故障者が出たため、井端が急造一塁手を務めています。巨人は内野守備の際に一塁手がサインを出すので、守備能力の高い選手でなければ一塁手が務まりません。だから、守備難のフランシスコをあえて、村田の代わりに三塁手で起用するのではないか」(ベテラン記者) これによって、巨人野手陣に“玉突き事故”が生じ、余剰人員が出ることになりそうだ。 「他球団が注目している巨人の余剰人員は、やはり亀井善行(32)です。数年前から『使わないのならくれ』と、他球団がトレードを申し入れていますが、原監督も期待している選手の一人なので」(同) しかし、亀井を取り巻く状況も変わりつつある。年齢的にも30歳を過ぎ、高卒7年目の橋本到が3番打者に定着しつつある。故障で出遅れた大田泰示は原監督のお気に入りであり、長野久義、ベテランの高橋由伸も健在だ。交換要員次第では巨人側も決断するのではないだろうか。 「若手成長で出番がなくなったベテランなら、DeNAの多村仁志(38)もいます。長打率は健在であり、中畑監督はクローザータイプの投手を欲しがっています。交換トレードを成立させたいと思っているチームも少なくありません」(同) 中畑監督が本当に求めているのは、ローテーション入りできる先発タイプの投手だろう。だが、そのタイプの投手はどの球団も不足しており、トレード対象にはなり得ない。まして、同一リーグともなれば、出す方も獲った方も、その後の対象選手の成績如何では首脳陣の責任問題にも発展しかねない。 「交流戦は日程が通常のペナントレースとは異なり、先発ローテーション投手6人のうち、1人が飛ばされることも多い。その投手を狙うやり方もあれば、救援タイプの投手を一本釣りして、獲得後に先発に転向させる方法もあります。そういう力量、チーム内の状況を見極めるのにも絶対の機会となるのが交流戦なんです」(同) GW期間が終われば、プロ野球は交流戦に突入する。18試合と試合数は削減されたが、セパ両リーグにとって、緊急トレードをまとめる絶好の見本市といえる。
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スポーツ 2015年05月02日 18時00分
黒田復帰効果てきめん! ホームでもビジターでも観客動員大幅増
NPB(日本野球機構)は5月1日、開幕から4月30日までの観客動員数を発表した。 前年同時期と比較すると、1試合平均で、セ・リーグは3万327人で8.0%増、パ・リーグは2万2906人で8.4%増だった。 球団別の前年比伸び率を見ると、出色なのはメジャーから黒田博樹投手が復帰した広島で、チーム成績は最下位(5月1日現在)ながら、41万1061人(14試合)を動員。1試合平均は2万9362人で、なんと32.8%の大幅増。この勢いなら、年間200万人の動員も現実味を帯びてきた。 日本ハムは19.5%増(1試合平均=2万6480人)、オリックスは18.5%増(同=2万3725人)だったが、広島の伸び率とは比較にならず。 同じセ・リーグでは、阪神が8.8%増(同=4万327人)、DeNAが8.8%増(2万3866人)、ヤクルトが5.8%増(同=1万9533人)、中日が4.1%増(同=2万7410人)で、1日現在で首位に立っている巨人は1.9%減(同=4万441人)となっている。 黒田は1日現在、6試合に登板。その内訳は、ホーム3試合、ビジター3試合。ホームでの動員数は、3万1540人(3月29日)、3万734人(4月18日)、3万1589人(同25日)で、いずれも球団の1試合平均動員を上回っている。 ビジターでも、多くの広島ファンが駆け付けて、3万6240人(ナゴヤドーム=同4日)、4万5735人(甲子園=同11日)、2万9819人(神宮=5月1日)を動員。各球団の平均観客動員数を大幅に上回り、神宮のヤクルト戦に至っては平日ながら、1試合平均から1万人も引き上げたのだから驚異的。他球団にとっても、黒田効果はてきめんで、まさに黒田様々だ。 次の登板は同8日の阪神戦(甲子園)あたりが有力とみられるが、まだ東京ドーム、横浜での登板がないだけに、巨人、DeNA両球団の営業部としては、黒田フィーバーが冷めぬうちに早く登板してほしいところだろう。 ところで、肝心の黒田の成績は3勝2敗、防御率3.46(リーグ15位)とまずまず。1日のヤクルト戦では、前半で5失点しながら、4回以降立ち直り、敗戦投手になったものの6回まで投げ抜いた。勝敗は別として、登板した全試合で6回以上を投げており、しっかりゲームをつくっている点はさすがだ。(落合一郎)
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スポーツ 2015年05月02日 12時00分
進撃の巨人ベンチ裏 巨人・原監督が猛反発! 松井次期監督含みの川相ヘッドコーチ昇格(2)
しかし、フランシスコについては「村田の発奮材料になり得るのか」の声も聞かれる。本誌『侍メジャーリーガーの逆襲』を連載する友成那智氏が、フランシスコをこう評する。 「打球を遠くに飛ばす力は確かにあるが、空振りも多い。守備はド下手。昨季は出場機会が少なかったですが、対左投手の成績は1割1分8厘。左投手に極端に弱く、変化球にも対応できない。守備も気掛かりで、2013年シーズンは67試合を一塁手で出場していますが、10失策を記録しています。マイナーでも契約を切られ、日本に来たわけです。アメリカ版の守備のヘタな『おかわり中村』といったところです」 世代交代に関しては、こんな情報も聞かれた。 「シーズン直前に、原監督は高卒ドライチの岡本和真を一軍で使いたいとコーチ陣に相談したことがあります。まだまだ守備難を克服できていないので、それはかないませんでしたが…」(球界関係者) 首位戦線浮上の契機になったのは、新3番打者・橋本到の活躍が大きい。川相ヘッドも打ち明けているが、その橋本を一軍昇格と同時に3番で使うよう指示したのは原監督だったという。 「インフルエンザで自宅療養していた際も、テレビの自軍中継にかじりついていたようです。チームに積極性が足りないと感じたらしく、現場に復帰した第1戦目の広島戦ではギャンブルスタートのサインを出すなど、動く采配に徹していました」(同) 序盤の2回、1死二、三塁の場面、バットにボールが当たった瞬間にスタートを切らせた。ベテランの多いチームは受け身になりがちであり、その空気を払拭させたかったのだろう。 「昨季の原監督も、負ける覚悟というか度胸はありました。投打ともに主力選手が成績を落とす中で優勝できたのは、勝負どころを知っていたベテランの底力でしょう。今季はさらに、あえて阿部をコンバートさせ、坂本勇人を主将にした。彼らに一層“攻めの姿勢”を促すためです」(同) 編成スタッフとの打ち合わせでは、左投手のリストアップを要望し続けているという。内海哲也、杉内俊哉の両ベテランに代わる左の先発投手は、プロ初勝利を挙げたばかりの19歳、田口麗斗だけでは足りない。スカウトに意見を伝えるということは、次年度以降のチームも見越してのこと。原監督はヤル気十分なのである。 今季スローガン『新成』の象徴として、近いうちに岡本の一軍デビュー案が再燃する可能性もある。原監督の“猛反発”が、がぜん面白くなってきた!
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スポーツ 2015年05月01日 12時00分
進撃の巨人ベンチ裏 巨人・原監督が猛反発! 松井次期監督含みの川相ヘッドコーチ昇格(1)
首位戦線への復帰と同時に、巨人・原辰徳監督(56)の心境にも変化が起きつつある。来年以降も続投−−。その秘めた思いをぶっちゃけようとしているのだ。 今季、原監督は2年契約の最終年を迎えた。読売グループが次期指揮官として本命視する松井秀喜氏(40)からは、色よい返事をもらえていない。開幕前の激励会で渡辺恒雄・球団最高顧問(88=読売新聞グループ本社会長・主筆)が“続投もあり得る”とするニュアンスの発言をしたのは、そのためだろう。 しかし、川相昌弘ヘッドコーチ(50)の存在がクローブアップされてきた。原監督がインフルエンザB型に感染し、その留守を預かった間の成績は4勝1敗。首位戦線浮上の足場を作ったと言っても過言ではない。それに対抗するように、原監督から“来年以降”の意識がにじみ始めた。 「4月18日の阪神戦、川相監督代行は1点ビハインドで迎えた7回表、先頭打者の村田が四球を選ぶと、迷わず代走のスペシャリストである鈴木尚広を投入しました。次打者の犠打失敗などで得点にはつながりませんでしたが、早めに仕掛けた作戦は間違っていない。守護神の呉昇桓が出てきてからでは、得点のチャンスはますます少なくなりますからね」(ベテラン記者) 読売内部には少数だが、原監督から一気にゴジラ松井への継承を不安視する声もないわけではない。 「小林誠司、大田泰示、岡本和真らの若手野手が一人前に育っていません。阿部、村田、井端、高橋らのベテランにまだ頼りきった状況にあり、世代交代の過渡期を松井氏に託すのは気の毒な話です」(球団関係者) そうなると二軍監督も歴任し、中堅、若手をよく知る川相ヘッドの存在が注目されてくる。川相ヘッドの昇格なら、「次はスムーズにゴジラ松井へ」の図式も消えない。川相ヘッドが世代交代を進め、本命・松井氏で長期政権−−なる継承も見えてくる。ところが…。 「昨季、米大リーグのトロント・ブルージェイズでプレーしていたホアン・フランシスコ内野手の緊急獲得は、明らかに原監督の意向に沿ったものです。原監督は左バッターの加入を以前から求めていました」(前出・ベテラン記者) 次世代のクリーンアップを担う大田、岡本は右打者だ。27歳とまだ若いフランシスコの獲得は“次”を見越してのビジョンでもあり、同時に現有戦力に対しても意味のあることだという。 「守備位置は一塁か、三塁。スタメン落ちの煽りを食うのは、村田修一か、阿部慎之助。村田の不振が長引くようなら、5月2日の阪神戦からスタメンで使ってくるでしょう」(同) 次期指揮官ではなく、原監督自らがベテラン切りのかじ取りを始めたとも言えるのだ。
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スポーツ 2015年04月30日 13時00分
USA発 新聞、テレビではわからないMLB「侍メジャーリーガーの逆襲」 悲観派、楽観派それぞれの主張を徹底比較 NYで巻き起こる「田中将大論争」の真実
ヤンキースの田中将大がふざまなピッチングを見せているため、ニューヨークでは田中に対する悲観論が噴出している。しかし、それ一色というわけではなく、スポーツメディアや論客の中には、過剰な心配は無用とする楽観論もある。 田中将大を巡る両者の論争で特に意見の隔たりが大きいのは、以下の3点だ。(1)球威が低下した理由 悲観派は、ヒジの腱の部分断裂が完治しないまま投げているのが原因だと見ている。 悲観派の急先鋒ペドロ・マルチネス(MLBコム解説者、レッドソックスの元エース)は「田中は65%くらいの状態で投げているように見える。レベル的にはマイナーから上がってきたばかりのルーキーより多少マシといった程度だ。その程度のピッチングしかできないのは、故障を引きずりながら投げているからだと思う」と語っている。 これに対し、楽観派の一人であるFOXスポーツの解説者CJニカウスキーは、 「データを見ると速球のスピードはそれほど落ちてない。落ちているのは速球の球威ではなく制球力だ。速球のコントロールミスが原因で打たれているのに、ヒジを痛めた前歴があるから、速球の威力が低下したと勘違いされている」と主張している。(2)スプリッターで空振りを取れなくなった理由 悲観派は、威力のある速球を高目に投げ込むことができなくなったことが最大の要因だと見ている。 スプリッターは速球を高目に投げ込んで打者の目線を上げてから、低目に投げ込むと面白いように空振りを取れる。いまの田中は速球の威力が低下しているので、その打者の目線を上げるための速球を投げ込むことができない。ちょっとコントロールを間違うと一発を食う恐れがあるからだ。 そのためスプリッターを単独で使うケースが多くなった。それだと打者は目線が上っていないので、バットに当てることができる。今季、空振りが激減しているのはこれによるものだ。 スプリッターが機能しないのは、打者が振ってくれなくなったことも大きな要因になっている。悲観派のもう一人の旗頭であるカート・シリング(ESPN解説者、レッドソックスの元エース)は4月12日のヤンキース対レッドソックス戦で実況中継の解説を務めた際「田中将大は速球を投げるときとスプリッターを投げるときのアームアングル(腕を振り出す角度)がちょっと違う。レッドソックス打線はそのことに気が付いているから、スプリッターに手を出さないのかもしれない」と指摘している。 これに対し楽観派は、打者がスプリッターに手を出さなくなったのは、今年は制球難で投げた瞬間にボール球とわかるケースが多いからで、リリースポイントがぶれなくなれば、威力を発揮しだすと見ている。(3)トミージョン手術の必要性 悲観派は、田中が今のようにヒジの状態がよくない中で投げ続けても、いい結果は得られないので、トミージョン手術を受けるべきだと主張している。それを声高に主張しているのがペドロ・マルチネスだ。 ペドロは彼自身が肩を痛めて試行錯誤をした経験があるので、いま田中が「打たせて取るピッチング」を模索していることには一定の理解を示しながらも「長い目で見ればそれは無駄な努力なので、早くトミージョン手術を受けて球威を取り戻すことが、復活への近道だ」と語っている。 それに対し楽観派は、田中のような10%程度の部分断裂はPRP療法(昨年田中が受けた治療法)で9割近くが治癒しているので、性急にトミージョン手術に走る必要はない。ヒジの状態は時間の経過とともに少しずつ良くなっていく可能性が高いので、焦りは禁物だと主張している。 このように田中将大をめぐる論争は両者の主張に大きな隔たりがあるが、優勢なのは悲観派の方だ。こちら側には、ペドロ・マルチネスとシリングという超大物がいて「田中はシーズン中に投げられなくなる」「田中のトミージョン手術は時間の問題だ」といった並の解説者には言えないことをズバッと言ってのけるからだ。この2人は日本でもよく知られた存在なので、田中に関する大胆なご宣託が、日本のスポーツ紙に取り上げられることもある。 ペドロが「田中のトミージョン手術は時間の問題だ」と予言していることを知れば、日本の田中将大ファンは心穏やかではいられないが、それを額面通りに受け取る必要はさらさらない。 なぜならペドロとシリングが田中将大にシビアなご宣託を下す背景には、ヤンキース対レッドソックスの対立の構図が潜んでいるからだ。この2人はレ軍側の利益代表のような存在なので、ヤンキースのエースである田中将大に対しては、発言がシビアになる。だから発言を額面通りに受け取ってはいけないのだ。 トミージョン手術は実際にはかなりリスクが高い。日本人投手では斎藤隆がトミージョン手術を拒否してPRP療法でヒジの部分断裂を克服し、42歳までメジャーのマウンドで投げ続けた。田中もできることなら、PRP療法だけで部分断裂を克服し、投手人生を全うして欲しいものである。スポーツジャーナリスト・友成那智ともなり・なち 今はなきPLAYBOY日本版のスポーツ担当として、日本で活躍する元大リーガーらと交流。アメリカ野球に造詣が深く、現在は各媒体に大リーグ関連の記事を寄稿。'04年から毎年執筆している「完全メジャーリーグ選手名鑑」(廣済堂出版)は日本人大リーガーにも愛読者が多い。
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スポーツ 2015年04月29日 13時00分
プロ野球くじ導入に隠された「巨人包囲網」全内幕
超党派の国会議員による『スポーツ議員連盟』は4月14日、スポーツ振興くじの対象競技を見直し、サッカーに続いてプロ野球を軸に他の競技の導入を検討することを決めた。プロジェクトチーム(座長=自民党・遠藤利明衆院議員)を設置して議論を煮詰め、関連法を改正するという。 totoは昨年度、1107億円を売り上げ、153億円をスポーツ施設の改修費用などに充てている。対象競技を拡大するのは、2020年東京五輪・パラリンピックでメーン会場となる新たな国立競技場の改修費などの財源を確保するためで、併せて現行では売り上げの5%を建設費に充てられることになっている法律を改正し、10%まで引き上げる方針も打ち出している。 「これまではどちらかと言うと、2019年にW杯が日本で開催されるラグビーや、川淵三郎氏を新会長に迎えたバスケットボールへの導入が先行していた。プロ野球では過去に賭博が八百長につながった“黒い霧事件”が1969年に起きており、反対する声が強かったからです。しかし、事前にコンピューターが無作為に勝敗を予想したくじを購入してもらう方式を採用することで、八百長が入り込む隙が消えた。全て運任せだからです。ラグビー、バスケにするよりファンが比較にならないくらい多いプロ野球に導入しよう、という流れになったのです。新国立競技場建設のためという大義もあり、法整備は決まったも同然。カジノ法案の成立が進んでいないことも追い風になっています」(全国紙政治部記者) 球界ではtoto参戦賛成派が大勢を占めている。ヤクルトの真中満監督は「野球界が注目されるのはいいこと」と歓迎し、千葉ロッテの山室晋也球団社長なども「野球の裾野を広げるという意味でも有意義。現時点で反対する理由はない」と語っている。プロ野球の視聴率低下に頭を抱える各テレビ局も「これでお茶の間にプロ野球ファンが戻ってくる」と大歓迎だ。 totoのプロ野球導入には、実はもう一つ大きな思惑が秘められている。球界の盟主として大戦力をほしいままにする巨人、そして財力を背景に球界の新盟主になりつつあるソフトバンクへの抑止である 「今回の降って湧いたtoto導入の真の狙いは、12球団の戦力均衡にある。くじの性格上、八百長防止のため、コンピューターが無作為に勝敗を選ぶ『非予想系くじ』とする。この方式が最も有効に働くのはチーム間の戦力の均衡。差が少ないほど楽しみが拡大し、購入者が増える。どんなくじを引いても当たる予感を感じさせるからです。そこに巨人以外の各球団が導入に積極的な理由がある。これを機に本来のプロ野球の姿を取り戻そうというのです」(スポーツ紙デスク) 推進派がtoto導入と引き換えに取り組もうとしているのが、ドラフト制度の改革だ。現在の入札抽選制度を改め、前年度最下位球団から順番に指名するウエーバー制度に戻す。これが実現すれば、10年経てば自然と戦力は均等になる。 「全国に本拠地が分散したことで人気が分散し、パ・リーグ球団の観客数が増えた。ただ、いまだに戦力面では巨人との差はある。しかし、ドラフトが完全ウエーバー方式に戻れば、お金を掛けずして戦力差が縮まる。無駄な競争が姿を消し、契約金の高騰も抑えられる。上限1億円などと強調しておきながら、あれやこれや上乗せをしている球団がほとんどで、これが球団赤字の一因にもなっている…。toto参入はもってこいの球界改革、粛正の転機。ジャイアンツ以外の全球団が一致団結して巨人包囲網を敷こうとしているのです」(パ球団幹部) FA制度にもメスを入れる。現行ではFA制度で恩恵を受けることができるのは、巨人と阪神、資金力のあるソフトバンク、オリックスなどに限られる。 「職業選択の自由がある以上、選手が希望球団を選べないドラフト制度とセットで、好きな球団に移れるFAの権利は認められるべきです。ただ、その場合、利益を享受した側は何らかの損出を被ってしかるべき。そこで検討されているのが、FA選手を獲得した球団はバーターとして、送り出した球団にドラフト1位、または2位の指名権を譲渡する。そうすれば、自然と12球団の戦力は均等になるし、安易なFAも姿を消す。もっともこの方式は米メジャーで採用されているFA制度で、MLBのルールで野球規則を作っているNPBが、これまで頬かぶりしていただけのこと。読売ジャイアンツに遠慮していたのでしょうが、こちらもtoto参戦で見直しが本格的に始まる。これもまた巨人包囲網です」(セ球団OBの野球解説者) 戦力均衡は球界が「フェアプレーの精神」に基づき、真摯さをアピール、五輪での実施競技復帰を目指そうとしていることも背景にある。しかし、本来なら後押しして当然の労組組織、プロ野球選手会は、失策、勝敗の責任投手などの記録が残ることからtoto参加を危惧しており、慎重な姿勢。巨人擁護という歪な構図となっている。 2020年東京五輪の影響で、10代の運動能力の高い子どもたちは野球より五輪競技志向が高い。これだけでも巨人には痛手だが、toto導入がさらに追い打ちをかける。 どこの誰が仕掛けたのかはわからないが、究極の巨人包囲網が整いつつあるのは確かなようだ。
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スポーツ 2015年04月29日 12時00分
【甦るリング】第5回・日本プロレス界の歴史を変えた藤波辰爾
還暦を過ぎても、なおリングに上がり続ける藤波辰爾(61)。その藤波は3月には、世界最大のプロレス団体WWE(旧名=WWWF→WWF)から、日本人ではアントニオ猪木以来2人目となる殿堂入りを果たし、同29日(現地時間)には、米カリフォルニア州サンノゼで行われたWWE殿堂記念式典「ホール・オブ・フェーム」に出席。改めて、ワールドワイドなプロレスラーであることを再認識させられた。 藤波といえば、新日本プロレス創業者であり、絶対的なエースであった猪木の正統的な後継者であり、その座をライバル・長州力と争った。長州が遅咲きだったため、藤波がエリートで、長州は雑草とやゆされることもあった。だが、実際のところ、藤波は叩き上げから這い上がった選手であり、逆にミュンヘン五輪出場の実績を引っ提げて、新日本に入団した長州はエリートだったのだ。 大分県東国東郡武蔵町(現・国東市)出身の藤波は熱狂的なプロレス少年で、猪木に憧れていた。中学卒業後、いったんは地元の自動車整備工場に就職するも、プロレスラーになる夢をあきらめ切れず、同郷のプロレスラー・北沢幹之(魁勝司)に直談判。なかばもぐりこむような形で、1970年6月、日本プロレス入りした。 プロレスラーとしては、決して体が大きくない藤波は、現在公称しているプロフィールで身長183センチ、体重105キロ。当時まだ16歳だった藤波は体も小さく、なにかスポーツで実績があったわけでもなく、よく入門が許可されたものである。 あこがれの的だった猪木の付き人となった藤波は、71年5月9日にデビューを果たす。ところが、直後に猪木のクーデター事件がぼっ発し、同年12月に日プロを追放された。猪木は新日本を旗揚げし、藤波は行動をともにする。 メキメキと力を付けた藤波は74年12月、若手の登竜門である「第1回カール・ゴッチ杯」を制し、75年1月に海外武者修行に出発。西ドイツ遠征を皮切りに、米国に渡ってゴッチのもとで修業を積み、米国、メキシコでファイトした。そして、藤波の運命を変えたのが、78年1月23日、“WWWFの聖地”米ニューヨーク州MSG(マジソン・スクエア・ガーデン)で開催された定期戦。藤波はWWWFジュニア・ヘビー級王者のカルロス・ホセ・エストラーダに挑戦し、ドラゴン・スープレックスで見事勝利し、王座を奪取した。この実績がWWE殿堂入りに当たって、評価されたのはいうまでもない。 同年3月、勇躍凱旋帰国を果たした藤波は、ブリッジの効いたドラゴン・スープレックス、ドラゴンロケットと称された空中殺法を武器に、王座防衛を積み重ねた。ビルドアップされた見事な体は誰も見ても、カッコよく、大人の男性ファンのみならず、女性、子どものファンのハートを射止め、ドラゴンブームを巻き起こした。 それまで、日本プロレス界において、軽量級は浸透しなかった。しかし、藤波がチャボ・ゲレロ、エル・カネック、ダイナマイト・キッド、木村健吾、剛竜馬らのライバルと名勝負を繰り広げたことで、日本プロレス界に「ジュニア・ヘビー級」を確立させた。 ヘビー級にこだわったオポジションの全日本プロレスも、ジュニア・ヘビー級の導入をせざるを得なくなり、後にこの階級は日本プロレス界において、なくてはならないものになった。その意味で、藤波は日本プロレス界の歴史を変えた大功労者なのだ。 80年2月には、NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座も奪取し、ジュニア2冠王者となった藤波だが、81年10月にヘビー級転向のため、ジュニア・ヘビー級王座を返上。82年8月には、再び、MSGでジノ・ブリットを破り、WWFインターナショナル・ヘビー級王座を奪取した。同年10月には、藤波に反旗を翻した長州力との一連の抗争がスタート。2人の闘いは、このベルトを巡る闘いでもあった。 ただ、ヘビー級転向後の藤波は決して順風満帆とはいかなかった。トップに君臨する猪木の壁はなかなか切り崩せなかったが、85年12月、IWGPタッグリーグ戦決勝戦(猪木&坂口征二対藤波&木村)で、タッグながら、初めて猪木からピンフォールを奪い、世代交代の予感を感じさせたのだった。しかし、後にも先にも藤波が師・猪木をフォールしたのは、この1度だけで、シングルではついぞ、猪木超えは果たせなかった。 88年4月、控室で自ら前髪を切るパフォーマンスで猪木に現状改革をアピール、これは「飛龍革命」と称された。直後の同年5月、空位となっていたIWGPヘビー級王座決定戦でビッグバン・ベイダーを破り初戴冠。同年8月8日、神奈川・横浜文化体育館で挑戦者となった猪木と闘い、60分時間切れドローで防衛。試合後には猪木が藤波の腰にベルトを巻いてやり、両者ともに涙を流す感動の一幕があった。この伝説に残る一戦が、事実上新日本の世代交代となった試合だった。 この後、新日本は藤波エース路線を敷いたが、好事魔多し。89年6月、藤波は椎間板ヘルニアを発症し、1年3カ月にわたる長期欠場となり、長州がエースの座に就く。藤波は90年9月の復帰を機に、リングネームを本名の辰巳から辰爾に改名。同年12月にはIWGP王座を奪還するなどしたが、武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也の闘魂三銃士の台頭もあり、じょじょに影が薄くなっていく。99年6月に坂口社長が退任し、後を引き継ぐと第一線から退くようになり、引退カウントダウンが始まる。折しも、橋本がZERO−ONEを旗揚げ、長州、佐々木健介らは新団体WJプロレスに参加、武藤は全日本に転じるなど、主力選手の離脱が相次ぎ、新日本は苦境に陥る。そんななか、藤波の発言は一貫性がなく、猪木が何か言うと前言を翻すなどしたため、“風見鶏”と称されることもあった。 04年6月に社長を退任した藤波は引退カウントダウンを撤回し、06年6月に新日本を退団し、無我ワールド(現ドラディション)を旗揚げ。現在はドラディション、初代タイガーマスク(佐山聡)主宰のリアル・ジャパン・プロレス、レジェンド・ザ・プロレスリングなどでファイトしている。リングを降りたら、極めて温厚な紳士で、ファンを大事にする藤波だが、新日本という業界最大手の社長職には向いていなかったようだ。 また、「飛龍革命」もそうだったが、部屋別制度を唱えて結成した「ドラゴン・ボンバーズ」や、新日本から独立した興行「無我」など、どこか中途半端に終わることが多かった。 ジャンボ鶴田(全日本)がジャイアント馬場を倒さない形でエースの座に就いたように、藤波もまた猪木を力でねじ伏せて団体のトップに立ったわけではないだけに、ファンにとっては、いまひとつ説得力に欠ける世代交代だったかもしれない。リング上や、その発言においても人の良さが見え隠れする藤波だが、それもまたキャラクター。リングに立っただけで絵になるプロレスラーは、そうそういない。現役を続ける以上、1年でも長く、元気な姿を見せてほしいものだ。(ミカエル・コバタ=毎週水曜日に掲載)
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スポーツ 2015年04月28日 15時00分
俺たちの熱狂バトルTheヒストリー〈ヒクソン・グレイシーvs高田延彦〉
今となっては“世紀の激突”とも称される1997年10月11日の『PRIDE1』。ヒクソン・グレイシーと高田延彦の一戦だが、当時のファンの関心は、さほど高くなかった。 主催者発表では「観衆4万6863人」とされたものの、当日の東京ドームには空席も目立つありさま。新日本プロレスの大会ならば、常に超満員が当たり前の時代である。 「プロレスや格闘技の専門誌でも、この試合を盛り上げようという気運は薄かった。主催のKRSは“元・小室哲也のスーパーバイザー”なる人物が代表を務める格闘畑とは無縁の組織で、これを宣伝することは既存団体への裏切りに当たるという考えがあったのです」(格闘技ライター) 高田の立ち位置も、どこかはっきりとしなかった。 '92年、UWFインターナショナルの旗揚げ後には北尾光司やスーパー・ベイダーを撃破して「最強」を名乗ったものの、'95年には「近い将来の引退」をリング上から宣言。その直後には参院選に出馬し、落選。新日本との対抗戦では新日勢や天龍源一郎らと勝った負けたを繰り返し、Uインター末期にはアブドーラ・ザ・ブッチャーと対戦するなど、いわば“格闘風プロレス”の色合いを濃くしていた。 Uインター解散後、所属選手らの立ち上げた新団体『キングダム』にも正式参加はせず、現役選手であるのかどうかも含めてあやふやだった。 片やヒクソンはバーリトゥードジャパン大会で連戦連勝。高田と同じUインターの安生洋二を道場で血祭りに上げるなど、その確かな実力は格闘ファンの間に浸透していた。 当時、プロレスラーのバーリトゥード挑戦においては“ケンカ最強”といわれたケンドー・ナガサキが一敗地にまみれるなど、苦戦が続いてもいた。 「それでも、まだプロレスファンの間では“一流選手なら勝てる”との思いが強く、そのため高田をプロレス代表として応援するというよりも“ヒクソンにとっての試金石”ぐらいの認識が主流でした」(同・ライター) 高田の入場曲『トレーニングモンタージュ』が場内に響き、リングに上がった高田はヒクソンに一礼。セコンドの安生と長く抱き合っていた。 後に高田はこのときの心境を「死刑台に上るようだった」と語っている。 ヒクソンの強さへの畏怖はもちろんだが、加えて主催者の都合から試合開催そのものが二転三転したために精神面でも前向きになれず、また練習中には腰を痛めるなどアクシデントもあったという。 だが、それらが皆目言い訳にならぬほど、バーリトゥードという試合形式においてのヒクソンと高田の実力差は圧倒的だった。 アップライトの構えで顎を上げ、挑発するかのように前に出した脚を踏み鳴らすヒクソンに対し、高田はその周りをグルグルと回るばかり。ときおりキックを放つようなアクションを起こすが、これにヒクソンは全く動じない。 そんな膠着状況に「耐え切れない」とばかり高田が組みかかり、両者もつれるようにマットに倒れ込むと、そこから立ち上がろうとする高田の脚をすかさず捉えたヒクソンは、一息に抱え上げてテイクダウン。 高田は下からヒクソンの頭を抱え、脚を絡めて懸命にマウントポジションを防ごうとするも、ヒクソンはその一つひとつに冷静に対処していく。 そうして高田を制圧したヒクソンはセコンドに時間を確認すると、5分間のラウンドが残り25秒となったところで腕十字固めを仕掛けた。残り時間がそれぐらいならば、万が一、技を返され不利な体勢になったとしても、しのぎ切れるという計算ずくの攻撃だった。 試合後、アントニオ猪木は「一番弱いヤツが出て行った」と高田の敗戦を斬って捨てた。これには「高田最強」とは認めていないファンですら「負け惜しみなのか業界擁護のためなのか、いずれにしても妙なことを言う」と首を傾げるしかなかった。 だが猪木からすれば、この結果によってプロレス界の危機を感じた故の言葉であり、その感性の正しさは程なく「プロレスラーの連戦連敗」という形で証明されることになった。
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スポーツ 2015年04月28日 13時00分
「前半戦絶望」情報が流れるソフトバンク・松坂大輔「右腕の重傷度」(2)
松坂不在でも、工藤ホークスはびくともしない。先発陣は攝津正、スタンリッジ、中田賢一、大隣憲司、武田翔太らがおり、救援陣も森福允彦、飯田優也の両左腕をはじめ、サファテ、森唯斗など、バラエティーに富んだスタッフが控えている。 こうした戦力層の厚さがあったからだろうが、工藤監督は松坂の調整遅れについて質問される度に、こう答えてきた。 「時間がかかってもいい。しっかり投球ができる態勢ができるまでは…」 その方針は“右腕の異常”が報告された後も変わっていないという。工藤監督自身、左肩や肘の故障で長期離脱した経験があり、それを乗り切ったからだろうが、こんな見方もある。 「松坂と交渉に入る前の編成会議で、大半が復活に悲観的でした。それを一変させたのは王貞治会長でした。王会長は松坂獲得が可能であることを孫正義オーナーに報告し、了承を取り付けました。このまま復活できなければ、王会長に恥をかかせることになる」(在阪スポーツ紙記者) 松坂も王会長の立場はわかっている。高額年俸で入団した責任感もある。先発投手として輝きを取り戻す自分自身に、期待していた面もあっただろう。 だからこそ、開幕一軍メンバーから外されることが決まった途端に“ブルー”になり始めた。 「開幕一軍の夢が破れたショックでしょう。同時に日本球界に復帰しても、アメリカと変わらない二軍暮らしの現状に打ちのめされたようです。向こうでもマイナー暮らしが長く続いたため、精神面でもつらい思いをしていましたから」(ホークス担当記者) 不振の原因は、これまで投球フォームの乱れとされてきた。メジャーの固いマウンドと投げ込み量を減らす調整法が合わず、上半身だけで投げるフォームに落ちぶれてしまったわけだが、ホークス入り後、2つ目の不振原因も判明した。 「ストレートには往年のスピードはなく、変化球もウイニングショットにならない。カーブ、シュート、スライダーはどれも平均点。バッターに狙い球を決められたら、それでおしまい」(ライバル球団スコアー) これは、オープン戦2度目の登板(対巨人/3月10日)の際、各球団スコアラーが口にしていたもの。広島カープの黒田博樹は新兵器・ツーシームを引っ下げて帰還し、他球団の偵察部隊を悩ませた。同じメジャー帰還投手でも、松坂は相手チームに脅威を全く与えられなかったのだ。 「オープン戦での不振を首脳陣に聞かれたとき、松坂は『想定内』みたいな返事をしていました。その場では注意されませんでしたが、あんな物言いをしていたら、今の右腕の異常も自己責任ということになりますよ」(前出・球界関係者) 優勝を狙う以上、工藤監督に温情はない。松坂のことを『平成の怪物』と呼ぶ者は、もういない。
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スポーツ 2015年04月28日 12時00分
【記憶に残るプロ野球選手】第2回・代打屋稼業貫いた“浪速の春団治”川藤幸三
プロ野球界で脚光を浴びるのは、必ずしもスタープレーヤーだけではない。ベンチを温める控え選手でも、“記憶”に残るプレーヤーがいるのだ。そのひとつが、“代打屋”だ。 代打屋といえば、古くは高井保弘(阪急)、大島康則(中日→日本ハム)、淡口憲治(巨人→近鉄)、川又米利(中日)、藤波行雄(中日)といった面々が頭に浮かぶ。高井はパ・リーグで指名打者制が採用されたことによりレギュラーとなり、大島は外野から三塁へのコンバートをきっかけに日本を代表する長距離砲となった。 近年では、八木裕(阪神)、桧山真次郎(阪神)、浅井樹(広島)、町田公二郎(広島→阪神)、立浪和義(中日)、前田智徳(広島)らが記憶に新しいところ。立浪や前田は通算2000安打も達成した名選手だったが、晩年は代打の切り札として活躍した。 現役では、小笠原道大(日本ハム→巨人→中日)が、その筆頭だろう。昨季は、ほぼ代打のみで3割の好打率をマーク。今季もまた、高い成功率を誇っている。小笠原もまた2000安打を達成した後、代打屋に転向した例だ。立浪や前田、小笠原のように、スタープレーヤーとして活躍した後、若手にレギュラーの座を譲って、晩年に代打専門になった選手もいるが、現役生活のほとんどを代打屋として活躍した選手もいる。そのなかで、最も記憶に残る選手が、“浪速の春団治”こと、川藤幸三(阪神)だ。 川藤が19年における現役生活で残した生涯成績は、771試合出場、895打数211安打16本塁打108打点、通算打率は.236。正直、大した成績を残していないにもかかわらず、ファンの心に深く刻み込まれた選手だったのだ。イメージ的にコテコテの関西人の印象がある川藤だが、意外にも出身は北陸の福井県出身。県立若狭高等学校時代には2度、甲子園に出場。高校時代は投手、遊撃手、外野手としてプレーした。67年にドラフト9位で指名され、阪神に入団。その指名順位が示すように、決して大きな期待を受けてのプロ入りではなかった。 入団後は外野手としてプレー。晩年では考えられないことだったが、当時は俊足、強肩を売りにした選手で、事実、2年目の69年にはウエスタン・リーグで盗塁王を獲得している。当初は守備固め、代走での起用が多かったが、73年から出場機会も増え、74年には自己最多の106試合に出場し、レギュラーへの足掛かりをつかんだ。 しかし、75年にアキレス腱断裂の大ケガを負ったことで軌道修正を余儀なくされる。それまで、川藤の売りだった足を故障したことで、活路を見出したのは代打屋稼業。もともと、1軍での打撃成績は良くなかったが、猛練習の末、78年から4年連続で打率3割をマークするまでになった。その言動やキャラクターから、人気も上昇。控え選手ながら、阪神には欠かせない存在となっていったのだ。 83年オフには球団から戦力外通告されるも、「給料はいくらでもいいから野球をやらせてくれ」と懇願。当時の最低保証年俸で契約して残留し、前年を上回る成績を収めて、球団上層部に認めさせて、85年には年俸も元の金額に戻した。 同年は阪神のセ・リーグ優勝、日本一に貢献。現役生活最後の年となった86年には、吉田義男阪神監督の粋な計らいで、監督推薦でオールスター戦に初出場。左中間に長打性の当たりを打ち、二塁を狙うも、鈍足のため楽々とアウトにされたシーンは伝説となっている。オールスター戦出場を花道にするように、同年限りで引退。残した通算代打成績は、318打数84安打11本塁打58打点、打率.264だった。 引退後は解説者となったが、技術的なことを実況アナウンサーから聞かれても、「ワシには分からん」といったような受け答えが多く、解説者としての適性に欠くシーンもしばしばあった。90年、中村勝広が監督に就任すると、外野守備コーチとして阪神に復帰。翌91年には総合コーチに昇格したが、与えられた役割は現役時代同様、ベンチのムードメーカーだった。同年を最後に阪神を退団し、その後は評論家、タレントとして活動。05年には夫人の父親が経営していた建設会社の後を継ぎ、社長としての顔ももっている。 むずかしいことはいわず、豪放らい落。関西人にこよなく愛された川藤は、阪神OB会長職も務める。レギュラーではなく、代打屋としてまっとうしたにもかかわらず、これだけのインパクトを与えた選手は、そうはいないだろう。決して、スタープレーヤーではなかったが、川藤もまた伝説に残っている選手だ。(ミカエル・コバタ=毎週火曜日に掲載)
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