スポーツ
-
スポーツ 2009年06月17日 15時00分
三沢さんを偲ぶ 全日・渕取締役が三沢さんとの知られざるエピソードを語った
全日本プロレスの渕正信取締役が16日、故・三沢光晴さんとの思い出の地・東京体育館を訪れ、亡き後輩レスラーを偲んだ。王道マットで共に歩んだ1980年から栄光の90年代。かつて三沢さんと交わしたある男の約束から、ふたりで編み出したフェースロックの開発秘話など、袂を分った三沢さんとの知られざるエピソードを語った。 −−三沢さんが13日に亡くなりました。 渕 いまだに信じられない。まさか俺が三沢についてこうやって喋ることになるなんて思わなかったから。もう会えないっていうのは、本当にはかないよ。 −−最後にお会いしたのはいつですか。 渕 2005年に橋本選手の葬儀を青山でやったときに会ったのが最後。2004年に俺の父親が亡くなったんだけど、そのときに三沢が花を贈ってくれたから、それのお礼を「ありがとな」って言って、言葉を交わしたのを覚えてる。そういうところを律儀にちゃんとやってくれる真面目なヤツだったよ。ああいう真面目な性格、男気があるところは昔からだったけどね。 −−全日本時代の三沢さんはどんな方でしたか。 渕 真面目な性格って部分でいえば、三沢がタイガーマスクを取ったころ(1990年)にこんな事があった。当時は飲みに行った後によくポーカーとか花札をしてたんだけど、あるとき三沢が「渕さん、俺もうギャンブルやめます。俺こういうので運を使いたくないんで。一緒に渕さんもやめましょう」って言ってきたから「俺たちは金がないから、こういうところで運を使わなきゃしょうがないじゃないか」って諭したんだよ。でも最後は意志の強い三沢に俺は根負け。結局「じゃあ二人でやめよう」って約束して、それ以降ずっと三沢はポーカーしなかったから、俺とは違って真面目だったよな。 −−三沢さんとの男の約束は守っているのですか。 渕 いやいや。俺は半月もたなかったよ。まあ、アイツの前ではやめてるってことにしてたけどさ。三沢は一度決めたらブレないし、決心が固かったよね。まあ良い意味で意地っ張りだったし、ああいう性格だったからケガをしても、絶対に弱音を吐かなかった。(ジャンボ)鶴田さんがいなくなった後に(ジャイアント)馬場さんが三沢をエースとして信頼してたのも、そういう部分がアイツにあったからじゃないかな。三沢自身にも全日本のエースとしての自覚が生まれてたしね。 −−当時は超世代軍を率いていたエース三沢さんと、鶴田軍の一員として抗争していた。 渕 三沢と毎日のように闘ってたね。100試合以上はしたんじゃない。絶対的なベビーフェースの三沢と対戦すると、尋常じゃないくらいブーイング浴びせられて、エルボーも浴びせられて、とにかく痛かった。よくタイガースープレックスで3カウント取られたしね。あとフェースロックでギブアップしたこともあったけど、一番あれは悔しかったな。 −−フェースロックといえば、渕さんの得意技でもありますが。 渕 いや、あれは俺と三沢が二人で練習していた時に発明した技なんだよ。フェースロック掛け合ってどっちが先にギブアップするか試したりした。そのとき「じゃあ試合でどっちがフェースロックを使って先にギブアップ取れるか勝負しよう」って話してたら、アイツ忘れたころに後楽園の試合でいきなり掛けてきて、俺がギブアップしちゃった。 −−一杯食わされたワケですか。 渕 そう。しかも(試合が)終わった後に三沢から「フェースロックは地味な技だから、やっぱり渕さんにピッタリですよ」とか言われて、悔しかった(笑)。確かに、俺がやると地味な技でファンの方からの反応はないんだけど、同じ技を三沢がやると沸いたもんな。三沢人気はズバ抜けてた。ハンセンや鶴田さんにも真っ向勝負だったから人気だったし、俺もアツくなるわけだよ。 −−今後は追悼への動きも出てくると思うが。 渕 いまは現実を受け止めるのでいっぱい。三沢との思い出があまりに多過ぎるから。ただ、ああいうスーパースターがいなくなると、今後のプロレス界が心配だよ。◎あの日も雨だった 土砂降りの雨が降る夕刻に東京体育館で待ち合わせした。「この場所に来るのは、あのとき以来。ここで三沢がタイガーマスクを脱いだあの大会(1990年5月)から、ずっと来てなかった」。そう言って渕さんが感慨にふけっていた。 人間は故人を偲ぶとき過去をフラッシュバックするもの。「そういえばここで三沢がマスクを取ったあの日も雨だったな」。当時の事を回顧しながら、あれから19年という歳月を振り返り、気持ちの整理をしているようだった。 全日本プロレスで苦楽を共にした渕さんは「睡眠薬を飲まないと眠れない」ほどだったという。衝撃の出来事から3日。まだ長年三沢さんと連れ添った当事者の心に降る雨はやんでいない。
-
スポーツ 2009年06月17日 15時00分
三沢さんを偲ぶ 大学の恩師が切実な思いを告白
13日に急死したプロレスリング・ノアの三沢光晴さんと最後の対面を。足利工業大学付属高校で当時監督だった大島大和さんは教え子の突然の訃報に、ショックを受けており「荼毘にふされる前にひと目会いたい」と切実な思いを告白した。さらに、レスラーとしての功績を称え、追悼企画が検討されている。 大島さんは中学卒業後、全日本プロレス入門を熱望する三沢さんを説得し、同校レスリング部にスカウトした。 当時の印象を「体操の選手で大変体が柔らかく、適応力があった。(高校に)入った直後からプロレス入りを希望していて、とにかく体を大きくしようとしていた」と語る。 早くからプロ入りに向けて準備を進めていた三沢さんだが、高校3年生の時には、団体戦に向けて減量を強いられることになってしまう。それでも「必死になって減量に取り組んでいた」(大島さん)という。 さらに、高校の先輩で現在同校レスリング部の監督を務める石川利明監督は「合宿などで同じ釜の飯を食った仲。本来は87キロ級の選手なんですけど、その時は団体戦のために75キロに減量しなくちゃいけなくなって」と証言。高校時代から相当な努力家だったようだ。 同校は昭和55年に地元で行われた栃の葉国体での優勝を目指し朝、昼、夕と1日6、7時間の猛練習。階級も本来の87キロ級に戻し見事優勝を果たした。大学からの誘いもあったが断り、そのままプロの道へ。 プロに入ってからも体調面を心配し「体が資本だから」とアドバイスを送っていた。かねてより体調を気にかけていた中でのあまりにも突然の出来事。石川監督は「マジメな性格で、常に全力投球。無理をしていたんじゃないですかね」と語った。 恩師の大島さんも「知人からいくつも電話がかかってきて。現実は受け止められない」とショックは計り知れない。 それだけに「荼毘にふされる前に一度会いたい。『よく頑張った。もうちょっと我々を頼ってくれてもよかったんじゃないか』とひと言声をかけてやりたい」と、悲痛な思いで“最後の対面”を訴えた。 もちろんそれだけではない。三沢さんの数々の偉業を称え「私は5年前に職を退いた身ですが、学校側と相談して何かやるのであれば」と語れば、石川監督も「学校側は私に一任されているのでOBや関係者の間でそういう話が出てくれば考えます」とコメント。慰霊碑の建立や追悼イベントの開催も視野に入ってくるという。
-
スポーツ 2009年06月17日 15時00分
新日・菅林社長が献花
新日本プロレス菅林直樹社長がディファ有明にあるノア事務所に献花に訪れた=写真。 遺影の前で合掌し、哀悼の意を捧げた菅林社長は「言葉が出なかったですね。時間が経つにつれてショックの度合いが大きくなっています。会社どうし、私どもは協力する準備はあります」と、コメントして事務所を後にした。
-
-
スポーツ 2009年06月17日 15時00分
リアルジャパン 今夜後楽園ホールで何かが起こる
初代タイガーマスク(佐山サトル)が率いる「リアルジャパン」がきょう17日、東京・後楽園ホール大会を開催。メーンイベントではレジェンドトリオVS黒のカリスマ軍団による超ビッグな6人タッグ戦が行われる。 「プロレスオールスター戦」を目標に掲げるリアルジャパンでは、これまでもファンが熱望する顔合わせが次々と実現。昨年12月には初代タイガーと元2代目タイガーマスクこと故・三沢光晴さんによる時空を超えた虎対決が行われている。 新世代の旗手からレジェンドまで豪華な顔ぶれがそろった今回のメーンでも、初対決や初タッグ結成が続出。中でも注目は80年代前半に新日本プロレスマットで虎旋風を巻き起こした初代タイガーと、90年代後半にnWo JAPANを立ち上げ、社会現象となった蝶野正洋の初顔合わせだ。 共に若手時代にヨーロッパ遠征を経験しているという共通点はあるものの、ファイトスタイルはいわば真逆。“新・虎ハンター”と化した蝶野のヒールファイトやケンカキックが炸裂すれば、初代タイガーも黙って引き下がるわけにはいかない。 また、そのド真ん中にいるのが長州力だ。初代タイガーとの連係はすでに経験済みで不安はないだろう。 さらに、蝶野のパートナーのザ・グレート・サスケや関本大介も、自らが「鉄砲玉」となってレジェンド狩りに特攻することを予告しており、単なるお祭りでは終わらない、とんでもない事が起こる気配が充満した危険な一戦となりそうだ。
-
スポーツ 2009年06月17日 15時00分
“流星仮面”16年ぶり来日
1970年代後半から80年代にかけて新日本プロレスの常連外国人レスラーとして活躍した“流星仮面”マスクド・スーパースターが16年ぶりに来日。7.4新木場1stRINGで開催される「流星仮面FIESTA=写真」にて、久々にその雄姿を日本のファンに見せる。 81年にアントニオ猪木と賞金3万ドル&覆面剥ぎマッチを行うなど、数々の名勝負を残した流星仮面。現在は全米各地で青少年を非行から更正させるためのチャリティーイベントを開催しており、今大会でもサイン会やマスク販売の売り上げが更生施設に寄付される。 出場選手はスーパー・ストロング・マシン、タイガーマスクの他、風香や栗原あゆみがマスクウーマンに変身する。問い合わせはDEPO MARTまで。
-
-
スポーツ 2009年06月17日 15時00分
野球 クルーン離脱で巨人大失速!?
セ・リーグ首位を独走する原・巨人に“爆弾”。その火薬庫は、あのクルーンだ。“守護神”クルーンは現在、左手中指脱臼の修復手術で登録抹消中。リリーフ投手陣の負担はますます増えることになり、登板過多による疲弊がさらに進む。セ・リーグ首位を独走中の巨人だが、ペナントレース正念場の夏場を前に大失速となりかねない現状だ。 こんな数字がある。今季の巨人は、14日のソフトバンク戦を含めて延べ227人の投手を登板させている。そのうち先発投手の完投はたったの3人しかいない。 投手起用数でいうとセ・リーグ最多で、12球団でもオリックスの228人についで多いが、戦績では巨人がここまでダントツの首位。チーム防御率も2.98である。これはひとえにリリーフ陣の頑張りが大きいことを意味している。 とくに両リーグ最多の32試合登板の山口、リーグ2位の29試合登板の越智ら登板過多の投手らの継投策で勝ってきたところが多い。原監督も十分認識しており「彼らがいるとどうしても使いたくなる。長いシーズンを考えると休ませないと…」とシーズン中盤では異例ともいえる「越智、山口の積極的休養」を口にした。 ところが、その矢先のクルーンのリタイア。当然、戦略の練り直しが求められることになり、守護神の代役には越智が指名された。4月末から約10日間、右手中指けんしょう炎で登録抹消されたクルーンに代わって抑えに回り、5セーブを上げた経験がある。 問題は越智の疲労によるコンディションだ。「これまでも登板過多を言われてきたのにストッパー役。先発の完投が少ないし、厚い戦力の巨人は勝ちパターンに持ち込むことが多い。越智の出番が多くなるのは必然だ。精神面でも中継ぎとは大違いだし、春先に経験していると言ったって状況は全然違う。大変だよ」(巨人OB評論家) クルーンが復帰、再登録できるのは早くても7月の下旬。それまでフル回転しなければならないリリーフ陣は夏場を前にきつい日が続く。38歳の豊田を筆頭にM中村、西村健、4年目深田…と顔ぶれは豊富だが、M中村に日本ハム時代の球威が戻らない上、西村も首脳陣の信頼にもう一つ応えきれない。 先発陣も、ゴンザレスが颯爽と登場。調子の波に乗れないグライシンガーに代わって大活躍だが、そろそろ相手チームに研究され始め、これまでのように勝てるかどうか。 内海、高橋尚もイマイチ信頼に欠ける内容で、決して巨人の先発は安定しているとはいいがたい。交流戦を戦ったパの現場首脳は「巨人にはツキ、ラッキーさがある。相手が黙っていてもコケル試合が結構あるんだよ」という。 巨人が最大のライバルとしている落合中日とは、開きがまだかなりある。だが、敵将・落合監督は強気を捨てていない。「巨人は必ず失速する。そこが狙い目だ。WBC組は夏場過ぎに疲労が出る。投手も酷使しているし、余裕のない試合をしている。5ゲーム差なら射程圏内、10ゲームぐらいなら追いかけていけば向こうから落ちてくる」。 交流戦は間もなく終わる。その後に待ち受ける長いペナントレースの中を、巨大戦力の原巨人のカジとりは不安だらけである。
-
スポーツ 2009年06月17日 15時00分
球界因縁のライバル(17) 大沢VS広岡
「喝」「アッパレ」。毎週日曜朝のテレビ番組で張本勲氏と共にスポーツ界を一刀両断する、親分こと大沢啓二氏。球界のご意見番としてお茶の間にすっかり定着しているが、同じ1932年生まれの広岡達朗氏とは因縁のライバル関係にある。同時期に大沢氏は元祖・球界大親分の鶴岡一人監督が率いる黄金期の南海ホークス、広岡氏の方は水原茂、川上哲治両監督と、これまた大監督の下の名門巨人軍でプレーしている。 が、2人がファンを沸かせたのは、大沢氏が日本ハム監督、広岡氏が西武の監督に就任してからだ。大沢監督の「草ばっかり食ってヤギさんじゃあるめえし」という、ヤギさん発言が因縁対決に発展していったのだ。82年に西武監督に就任した広岡氏は4年間でリーグ優勝3回、日本一2回という実績を残している。その前にはヤクルトでも78年に日本一監督になっている。広岡野球は私生活まで徹底してチェックする超管理野球で、「アルコール厳禁。飲むなら豆乳。肉を食べるよりも野菜を採れ」と食事面までコントロールしていた。現在は試合前にはサンドイッチやウドンなどの消化の良い軽食は常識になっているが、当時は験を担いで「カツ丼」などヘビーな食事は当たり前だった。広岡管理野球はそうした前近代的な食事面まで踏み込み、選手の反発にも涼しい顔で健康管理まで厳しくコントロールした。 そんな広岡流に噛みついたのが大沢監督だった。日本ハムのハムという意味から背番号『86』を付けた、親会社思いの? 大沢監督とすれば、営業妨害の「肉よりも野菜」という広岡発言は無視できなかったのだ。 広岡西武誕生1年前の81年には日本ハムになってから初のリーグ優勝を果たし、敗れたものの話題となった巨人との史上初の後楽園球場シリーズを戦ったばかりだけに、大沢親分の鼻息も荒かった。結果的には、ヤギさんチームの方が強かったのだが、広岡監督にも大きな声で言えない楽屋裏話がある。 痛風で戦線離脱したことがあるのだ。「痛風という病気は、肉を食べ、酒を飲むからなるんじゃなかったっけ?」。西武ナインは「他人に厳しく、己に甘い」広岡管理野球を陰で揶揄したものだ。 痛風話はさておくとして、ヤギさん論争に勝利した広岡管理野球は森祇晶監督に引き継がれ、日本球界に一時代を画し、ユニホームを脱いだ後も、広岡氏は球界ご意見番としての地位を確立した。95年にはロッテのゼネラルマネージャーに就任している。この時にメジャー監督経験者のバレンタイン監督を招へいして、チームを2位に引き上げたが、メジャー流練習を巡り、広岡GMとバレンタイン監督は正面衝突。ケンカ両成敗で2人ともにロッテを去ることになった。 「ヒロさんはこと野球に関しては正しい指導をするが『オレが、オレが』が強すぎるから、最後は誰とでもケンカ別れになる」と巨人OBが苦笑するが、その通りの野球人生を送っている。 「ベンチがアホやから」発言で有名な、反骨が売り物の江本孟紀氏が「名球会に対抗して無名会、1年でもプロ野球界で飯を食べたOBなら入れるOBクラブを作ろう」と立ち上げた日本プロ野球OBクラブ(社団法人・全国野球振興会)の会長に就任したこともあるが、長続きしない。 奇しくも現在、このポストに就いているのが大沢氏だ。広岡氏に試合で負けても野球人生の勝負で勝っているというべきか。「球界ご意見番」「日本プロ野球OBクラブ会長」という立場を、広岡氏からバトンタッチされた格好になっているのだから。
-
スポーツ 2009年06月16日 15時00分
女子ゴルフ界に奇妙なジンクス!?服部道子に迫る“鬼門”
結婚後の女子プロゴルファーは軒並み成績が落ちるといわれる。元祖・天才少女、賞金女王、ツアー優勝18回の服部道子にとっても結婚は“逆効果”になってしまうのか。 日本女子ゴルフツアーの元賞金女王、服部道子(40=三共生興)が年内に結婚することが分かった。お相手は亡き父・弘道さんと同じ医師。都内の日本医大記念病院に勤務する38歳の内科医である。 服部は、7日閉幕したリゾートトラストレディース(滋賀、ザ・CC)に参戦、15オーバーの最下位に終わったが、結婚を明かした大会だっただけに終始ニコヤカ。「今週は予選を通過しただけでもよかった」と軽やかに語った。 既に結納を済ませ、入籍も近日中に済ませる予定だという。今年になって知り合い、5か月足らずのスピード婚だったが、「ビビッと来た感じ?」の質問に「そうですね。同じ空気でいられるんです。子供は1人以上欲しい」と語るなど、明るく幸せそうな笑みは絶えなかった。 しかし、このおめでた報の一方でこんな声も。 「服部が結婚? これで彼女の華麗なプレーも見納めになるのかなぁ。結婚するとほとんどの女子プレーヤーは勝てなくなって、最後は引退…。ファンとしては寂しい限りだよ」(20年来の服部ファン) 女子プロのツアー選手の結婚が5、6年前から目立つようになった。03年には原田香理、元木佳代子、平尾名芳子らの結婚が相次ぎ、話題を集めた。いずれも一時期ツアーで活躍した選手だ。 古いところではピンクのウエアに身をつつみ、颯爽と優勝さらっていく姿に“ピンクパンサー”の異名が付いた台湾のトアギョク選手(54=ミズノ)。いまだに日本人ファンが多い。 74年に東海クラシックでの初来日V。81年からJLPGAに正式入会してから、日本ツアーに本格参戦。それ以後は大活躍。82年からの5シーズだけで計41勝を挙げる驚異的な強さを見せ、賞金女王に5年連続、7回王座についた。 そのトアギョクも88年2月、恩師の四男と結婚した。しかしその後、手首のケガなどで参加機会が減り、同時に華々しい活躍もなく、“ピンクパンサー”の名も忘れさられ…。 また永久シード権を獲得している森口裕子(53=ゴールドウイン)、塩谷育代(46=伊藤園)藤井かすみ(41=スポーツビズ)らも結婚した後もツアーに参戦しているが、主婦業や子育てなどの問題もあって出場機会は徐々に減り、活躍の場面が少なくなっている。 森口は、ツアー3年目の73年のワールドレディースで初優勝、94年までに43勝を上げているが、40歳を過ぎた頃から過労から来る体調不良でツアー参戦が大幅に減少。06年には2試合、昨年はついに未参戦だった。 塩谷は現在、2児のママさんプレーヤーだが、育児期間(約5年)後の01年から03年まで3回優勝するなど頑張っている。賞金女王に2度、ツアーなど21度優勝の経験者だ。 その意味では、結婚後も活躍する希少なプレーヤーとして人気があるが、最近では上位に名を連ねることはなかなかない。 新しいところでは、宮里藍とペアを組んで「第1回ワールドカップ」の世界一になった北里瑠衣(27)も06年に結婚、奥さんプロゴルファーになっている。しかし、近年は故障などでシード権落ちするなど不調が続く。 女子ゴルファーと結婚について、ベテランのゴルフジャーナリストはこう解説する。 「男子ゴルファーは、結婚した翌シーズンに成績を上げる選手が多い。食生活を含めた充実した家庭形成がメリットとして現れているんでしょうね。しかし女子は結婚後のシーズンで成績がよくなった顕著な例はほとんどない。塩谷育代が頑張っている以外、目立ちません。“結婚効果”はまだ見られないということです」。 服部は「今後のツアーについては(夫)と相談して決めます」というが、さて。 ◆服部道子(はっとりみちこ)1968年(昭43)9月8日、愛知県日進市生まれ。11歳からゴルフを始めた元祖天才少女。淑徳高から米テキサス大に進学、85年全米女子アマに日本人として初優勝。91年プロテスト1位合格。93年ミズノオープンで初優勝。98年は5勝を挙げ初の賞金女王。ツアー通算18勝。今季は現在賞金ランキング63位。168センチ、59キロ。
-
スポーツ 2009年06月16日 15時00分
球界因縁のライバル(16) 森VS長嶋(下) 巨人監督人事に大きな功績を残した長嶋
生涯の夢と言ってもいい巨人監督の座をあと一歩で失った森氏は、西武時代の実績を買われ、2001年から2年間、横浜の指揮を執ったが、3位、最下位で3年契約を全うできずに解任されている。 最初の1シーズンだけ巨人・長嶋監督との因縁対決もあった。初めてオープン戦で顔合わせの時には、天敵同士があいさつをかわし、マスコミを驚かせた。 森監督に請われて、王監督率いるダイエー・ホークスの助監督から横浜のヘッドコーチに就任した黒江透修氏が仲介したからだ。巨人長嶋第一次政権下で一軍コーチを務めたり、ロッテ・広岡ゼネラルマネージャー体制では二軍監督を経験している。誰からも「クロちゃん」と呼ばれ、全方位外交ができる類いまれな存在だ。 「天敵同士の広岡さんと森さん、さらに森さんと長嶋さん、そのすべてに行けるのは黒江さんだけですよ」と球界関係者に言われ、「そう言われれば、そうかもしれないな」と照れずに答えられるのが黒江氏の持ち味だろう。 画期的な長嶋監督と森監督の再会もその後は球界の新たな看板カードにはならなかった。結局はチーム再建の期待に応えられずに、2年間で横浜を去った森氏はいま、グリーンカードを取得してハワイに永住している。日本に戻るのは年に数回だ。 巨人・森監督を阻止した長嶋監督の方は、00年に球史に残るダイエー・王監督とのONシリーズを実現。王ダイエーを破って2度目の日本一監督に輝いている。あの時、長嶋監督が巨人の敷いた勇退既定路線に乗せられていたら、ファンは20世紀最後を飾った夢のONシリーズを見られなかったのだ。勇気ある長嶋監督の居直り続投に感謝感激するしかないだろう。 いや、ファンだけではない。読売新聞グループ東京本社会長、巨人球団会長の渡辺恒雄氏をはじめ読売、巨人首脳が全員、長嶋氏に頭を下げる必要がある。自らの不明を恥じて。世紀のONシリーズを制して、翌01年のシーズンをもって勇退、後任に原ヘッドコーチを昇格させた政権禅譲の監督交代劇も長嶋氏の功績だろう。 第一次長嶋政権後の巨人の監督交代劇は、世間を騒がせてばかりいたからだ。長嶋電撃解任。王本格政権への藤田の中継ぎ政権。が、その王政権も5年で終わらせ、再び藤田政権の再登板。「藤田永久政権だ。後継者も藤田監督に決めてもらう」と当時の読売新聞社社長の渡辺氏が言いながら2シーズン低迷すると、藤田監督解任。長嶋再登板というように、目先の利益でクルクル変わるのが、巨人監督人事だった。 それだけに、長嶋監督から原ヘッドコーチへのスムーズな政権禅譲劇は異例のことだった。この後に2年間ずつで、原政権→堀内政権、さらに原政権の復活と目まぐるしく政権交代。「グループ内人事異動」なる言葉まで飛び出しているのだから、なおさら長嶋→原禅譲政権が光っている。 もしも、あの時に森政権が誕生していたら、世紀のONシリーズがなかっただけでなく、その後の球界、巨人監督人事はどうなっていたのか。「ONは神様だ」とは、今回のWBC日本代表監督人事に際しての巨人・渡辺球団会長の言葉だが、都合の良いときだけの神頼みでは、神様だって怒るだろう。
-
-
スポーツ 2009年06月16日 15時00分
藤波&三沢 天界タッグ結成へ!
ドラディション藤波辰爾代表が15日、羽田空港で取材に応じ、プロレスリング・ノアの故・三沢光晴さんを偲んだ。かねてから三沢さんとの一騎打ちを熱望していたドラゴンは「ちょうどうちのリングに参戦をお願いしようと思った矢先でした」と悲痛な思いを吐露。大黒柱が不在となり、激震の箱舟マットには「残った選手にがんばってほしい。ボクならいつでも参戦する」とドラゴン流エールを送った。 「今度会うときは無我のリングでねって、約束したのに…。いま自分にできることがあれば協力します」。三沢さんとの果たせなかった思いを胸に、ドラゴンが箱舟マットに全面支援を打ち出した。 藤波は新日本プロレス社長時代の2005年5月14日に、新日プロの東京ドーム大会で三沢さんと初のタッグを結成(三沢&藤波組VS蝶野正洋&獣神サンダーライガー組)。その後は無我ワールド・プロレスリング(当時)を立ち上げた後の07年9月9日に、ノア武道館大会で西村修と組み、三沢&潮崎豪組とタッグ戦で初対戦した。 「三沢選手とは2005年の新日本のドームではタッグを組んで、その2年後の2007年にはノアさんの武道館大会にボクが出て行ってタッグで対決した。あれから2年経ったので、今年はうちに来てもらってシングルでやりたかった。ちょうどうちのリングに参戦をお願いしようと思った矢先でした」 かねてから三沢さんとの一騎打ちを熱望してきた。理由は「ボクの中で三沢選手は王道を継ぐ最後の選手だった」から。それだけに「何としてでもシングルで闘いたかった」「オレより10歳も下でいなくなるなんて、若すぎる。プロレスラーとしてこれからというときなのに…」と、いまでも心残りは多分にある。 「ボクは昔から(ジャンボ)鶴田さんや(ジャイアント)馬場さんといったあの時代の全日本プロレスの選手とやりたかったんだけど、当時は周りの状況や時代もあって叶わなかった。だからボクの中では三沢選手っていうのは、そういう王道を継ぐ最後の選手だったので、常々シングルでやりたいって言ってきた。いまボクの中では王道が無くなった感じ」 しかし、偉大な王道継承者がいなくなったからこそ、三沢さんが遺したノアマットは気がかりでならない。 藤波は「秋山選手や小橋選手、それと百田さんにはがんばってもらいたい。ボクが三沢選手と最初で最後の対決をしたときに横にいた潮崎選手にもがんばってほしいよね。(GHCヘビー級の)チャンピオンになったんだし」とエールを送る。 今後は追悼興行などへの動きが出てもおかしくないが、その際に協力は惜しまない。「三沢選手が社長とレスラーを一緒にやってきた大変さは、ずっとボクもやってきたからよくわかる。だからこそ残った選手にはがんばってほしい。必要とされれば、ボクだって向こうのマットに参戦するし。そういうのはやぶさかじゃないから」。そう言ってドラゴンは箱舟マットへの全面バックアップを誓った。 日本プロレス界の盟主アントニオ猪木(IGF社長)が15日、滞在先のニューヨークから帰国、ノアの三沢さん急死の報にびっくりしながら重い口を開いた。 「三沢さんとはリング上で交わることはなかったが、2度ほど挨拶した程度だが、社長を兼任したエースの立場は苦労が多いもの。彼もよく頑張って日本プロレス界を引っ張ってきたね。心労がたまっていただろうし肉体的にも限界に来ていたのかも知れない。後は冥福を祈るばかりです」三沢との接点は周囲の状況もあって、ほとんどなかったが、日本マット界を引っ張ってきた者同士だけに突然の訃報に表情は曇りっ放しだった。
-
スポーツ
ハッスル消滅!? 小川H軍休止宣言
2006年12月27日 15時00分
-
スポーツ
大みそかボビー弟と対戦 金子賢 前田道場入り
2006年12月14日 15時00分
-
スポーツ
珍指令 KID 秒殺禁止
2006年12月12日 15時00分
-
スポーツ
生還小橋に捧ぐ 三沢 GHC奪還
2006年12月11日 15時00分
-
スポーツ
猪木 緊急提言 想定外プロレスをやれ!
2006年12月05日 15時00分
-
スポーツ
1・4東京D「レッスルキングダム」 新日本 全日本“乗っ取り”へ秘策 長州3冠戦出撃
2006年11月16日 15時00分
-
スポーツ
復活1・4東京D大会へ秘策 新日本最終兵器サイモン猪木 IWGP挑戦!?
2006年11月07日 15時00分
-
スポーツ
来春ビッグマッチ パンクラス芸能人最強決定戦 坂口憲二 今田耕司 押尾学
2006年10月31日 15時00分
-
スポーツ
大みそか参戦ほぼ決定 芸能人対決 金子賢vs押尾学
2006年10月10日 15時00分
特集
-
岡平健治「19」解散は「お金の問題じゃない」 岩瀬敬吾、地元に戻るのを「止められてよかった」 今後はバラエティーで「ポンコツっぷりを見て笑ってほしい」
芸能
2025年08月05日 23時00分
-
野球人生“燃え尽きた”元プロ野球選手・宮國椋丞氏 今後は「周りの人に頼られたり、笑顔にしたい」
スポーツ
2025年07月25日 23時30分
-
-
豊ノ島、YouTubeチャンネルで若乃花とコラボ熱望 タレントとして相撲番組で「冠番組」持ちたい
芸能
2025年07月21日 12時00分
-
宮迫博之「雨上がり決死隊」再結成は「蛍原さん次第」 ドジャース始球式の裏話も明かす
芸能
2025年07月14日 17時00分
-
元ザブングル松尾陽介、沖縄で芸人のセカンドキャリアサポート 芸人引退に「心境の変化」
芸能
2025年04月28日 19時03分