「今度会うときは無我のリングでねって、約束したのに…。いま自分にできることがあれば協力します」。三沢さんとの果たせなかった思いを胸に、ドラゴンが箱舟マットに全面支援を打ち出した。
藤波は新日本プロレス社長時代の2005年5月14日に、新日プロの東京ドーム大会で三沢さんと初のタッグを結成(三沢&藤波組VS蝶野正洋&獣神サンダーライガー組)。その後は無我ワールド・プロレスリング(当時)を立ち上げた後の07年9月9日に、ノア武道館大会で西村修と組み、三沢&潮崎豪組とタッグ戦で初対戦した。
「三沢選手とは2005年の新日本のドームではタッグを組んで、その2年後の2007年にはノアさんの武道館大会にボクが出て行ってタッグで対決した。あれから2年経ったので、今年はうちに来てもらってシングルでやりたかった。ちょうどうちのリングに参戦をお願いしようと思った矢先でした」
かねてから三沢さんとの一騎打ちを熱望してきた。理由は「ボクの中で三沢選手は王道を継ぐ最後の選手だった」から。それだけに「何としてでもシングルで闘いたかった」「オレより10歳も下でいなくなるなんて、若すぎる。プロレスラーとしてこれからというときなのに…」と、いまでも心残りは多分にある。
「ボクは昔から(ジャンボ)鶴田さんや(ジャイアント)馬場さんといったあの時代の全日本プロレスの選手とやりたかったんだけど、当時は周りの状況や時代もあって叶わなかった。だからボクの中では三沢選手っていうのは、そういう王道を継ぐ最後の選手だったので、常々シングルでやりたいって言ってきた。いまボクの中では王道が無くなった感じ」
しかし、偉大な王道継承者がいなくなったからこそ、三沢さんが遺したノアマットは気がかりでならない。
藤波は「秋山選手や小橋選手、それと百田さんにはがんばってもらいたい。ボクが三沢選手と最初で最後の対決をしたときに横にいた潮崎選手にもがんばってほしいよね。(GHCヘビー級の)チャンピオンになったんだし」とエールを送る。
今後は追悼興行などへの動きが出てもおかしくないが、その際に協力は惜しまない。「三沢選手が社長とレスラーを一緒にやってきた大変さは、ずっとボクもやってきたからよくわかる。だからこそ残った選手にはがんばってほしい。必要とされれば、ボクだって向こうのマットに参戦するし。そういうのはやぶさかじゃないから」。そう言ってドラゴンは箱舟マットへの全面バックアップを誓った。
日本プロレス界の盟主アントニオ猪木(IGF社長)が15日、滞在先のニューヨークから帰国、ノアの三沢さん急死の報にびっくりしながら重い口を開いた。
「三沢さんとはリング上で交わることはなかったが、2度ほど挨拶した程度だが、社長を兼任したエースの立場は苦労が多いもの。彼もよく頑張って日本プロレス界を引っ張ってきたね。心労がたまっていただろうし肉体的にも限界に来ていたのかも知れない。後は冥福を祈るばかりです」三沢との接点は周囲の状況もあって、ほとんどなかったが、日本マット界を引っ張ってきた者同士だけに突然の訃報に表情は曇りっ放しだった。