−−三沢さんが13日に亡くなりました。
渕 いまだに信じられない。まさか俺が三沢についてこうやって喋ることになるなんて思わなかったから。もう会えないっていうのは、本当にはかないよ。
−−最後にお会いしたのはいつですか。
渕 2005年に橋本選手の葬儀を青山でやったときに会ったのが最後。2004年に俺の父親が亡くなったんだけど、そのときに三沢が花を贈ってくれたから、それのお礼を「ありがとな」って言って、言葉を交わしたのを覚えてる。そういうところを律儀にちゃんとやってくれる真面目なヤツだったよ。ああいう真面目な性格、男気があるところは昔からだったけどね。
−−全日本時代の三沢さんはどんな方でしたか。
渕 真面目な性格って部分でいえば、三沢がタイガーマスクを取ったころ(1990年)にこんな事があった。当時は飲みに行った後によくポーカーとか花札をしてたんだけど、あるとき三沢が「渕さん、俺もうギャンブルやめます。俺こういうので運を使いたくないんで。一緒に渕さんもやめましょう」って言ってきたから「俺たちは金がないから、こういうところで運を使わなきゃしょうがないじゃないか」って諭したんだよ。でも最後は意志の強い三沢に俺は根負け。結局「じゃあ二人でやめよう」って約束して、それ以降ずっと三沢はポーカーしなかったから、俺とは違って真面目だったよな。
−−三沢さんとの男の約束は守っているのですか。
渕 いやいや。俺は半月もたなかったよ。まあ、アイツの前ではやめてるってことにしてたけどさ。三沢は一度決めたらブレないし、決心が固かったよね。まあ良い意味で意地っ張りだったし、ああいう性格だったからケガをしても、絶対に弱音を吐かなかった。(ジャンボ)鶴田さんがいなくなった後に(ジャイアント)馬場さんが三沢をエースとして信頼してたのも、そういう部分がアイツにあったからじゃないかな。三沢自身にも全日本のエースとしての自覚が生まれてたしね。
−−当時は超世代軍を率いていたエース三沢さんと、鶴田軍の一員として抗争していた。
渕 三沢と毎日のように闘ってたね。100試合以上はしたんじゃない。絶対的なベビーフェースの三沢と対戦すると、尋常じゃないくらいブーイング浴びせられて、エルボーも浴びせられて、とにかく痛かった。よくタイガースープレックスで3カウント取られたしね。あとフェースロックでギブアップしたこともあったけど、一番あれは悔しかったな。
−−フェースロックといえば、渕さんの得意技でもありますが。
渕 いや、あれは俺と三沢が二人で練習していた時に発明した技なんだよ。フェースロック掛け合ってどっちが先にギブアップするか試したりした。そのとき「じゃあ試合でどっちがフェースロックを使って先にギブアップ取れるか勝負しよう」って話してたら、アイツ忘れたころに後楽園の試合でいきなり掛けてきて、俺がギブアップしちゃった。
−−一杯食わされたワケですか。
渕 そう。しかも(試合が)終わった後に三沢から「フェースロックは地味な技だから、やっぱり渕さんにピッタリですよ」とか言われて、悔しかった(笑)。確かに、俺がやると地味な技でファンの方からの反応はないんだけど、同じ技を三沢がやると沸いたもんな。三沢人気はズバ抜けてた。ハンセンや鶴田さんにも真っ向勝負だったから人気だったし、俺もアツくなるわけだよ。
−−今後は追悼への動きも出てくると思うが。
渕 いまは現実を受け止めるのでいっぱい。三沢との思い出があまりに多過ぎるから。ただ、ああいうスーパースターがいなくなると、今後のプロレス界が心配だよ。
◎あの日も雨だった
土砂降りの雨が降る夕刻に東京体育館で待ち合わせした。「この場所に来るのは、あのとき以来。ここで三沢がタイガーマスクを脱いだあの大会(1990年5月)から、ずっと来てなかった」。そう言って渕さんが感慨にふけっていた。
人間は故人を偲ぶとき過去をフラッシュバックするもの。「そういえばここで三沢がマスクを取ったあの日も雨だったな」。当時の事を回顧しながら、あれから19年という歳月を振り返り、気持ちの整理をしているようだった。
全日本プロレスで苦楽を共にした渕さんは「睡眠薬を飲まないと眠れない」ほどだったという。衝撃の出来事から3日。まだ長年三沢さんと連れ添った当事者の心に降る雨はやんでいない。