大島さんは中学卒業後、全日本プロレス入門を熱望する三沢さんを説得し、同校レスリング部にスカウトした。
当時の印象を「体操の選手で大変体が柔らかく、適応力があった。(高校に)入った直後からプロレス入りを希望していて、とにかく体を大きくしようとしていた」と語る。
早くからプロ入りに向けて準備を進めていた三沢さんだが、高校3年生の時には、団体戦に向けて減量を強いられることになってしまう。それでも「必死になって減量に取り組んでいた」(大島さん)という。
さらに、高校の先輩で現在同校レスリング部の監督を務める石川利明監督は「合宿などで同じ釜の飯を食った仲。本来は87キロ級の選手なんですけど、その時は団体戦のために75キロに減量しなくちゃいけなくなって」と証言。高校時代から相当な努力家だったようだ。
同校は昭和55年に地元で行われた栃の葉国体での優勝を目指し朝、昼、夕と1日6、7時間の猛練習。階級も本来の87キロ級に戻し見事優勝を果たした。大学からの誘いもあったが断り、そのままプロの道へ。
プロに入ってからも体調面を心配し「体が資本だから」とアドバイスを送っていた。かねてより体調を気にかけていた中でのあまりにも突然の出来事。石川監督は「マジメな性格で、常に全力投球。無理をしていたんじゃないですかね」と語った。
恩師の大島さんも「知人からいくつも電話がかかってきて。現実は受け止められない」とショックは計り知れない。
それだけに「荼毘にふされる前に一度会いたい。『よく頑張った。もうちょっと我々を頼ってくれてもよかったんじゃないか』とひと言声をかけてやりたい」と、悲痛な思いで“最後の対面”を訴えた。
もちろんそれだけではない。三沢さんの数々の偉業を称え「私は5年前に職を退いた身ですが、学校側と相談して何かやるのであれば」と語れば、石川監督も「学校側は私に一任されているのでOBや関係者の間でそういう話が出てくれば考えます」とコメント。慰霊碑の建立や追悼イベントの開催も視野に入ってくるという。