スポーツ
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スポーツ 2020年06月08日 12時00分
張本勲氏、大谷翔平に「今年は大した成績を残せない」 数十秒の練習動画への発言に「何がわかるのか」批判の声も
7日放送の『サンデーモーニング』(TBS系)で、張本勲氏がアナハイム・エンゼルスの大谷翔平に「ダメ出し」をしたことが、物議を醸している。 番組では、大谷が自身のInstagramにピッチング動画を公開したことを紹介。わずか数十秒だったが、マウンドから打者相手に投げる様子が『サンデーモーニング』でも取り上げられた。 関口宏はこの様子を見て、「大谷くんの絵はあれしかないんですよ。あれでなんかわかります?ハリさん」と張本氏に話を振る。すると、同氏は「いやあ、本調子じゃないね。あんまりね、今年やってもそんなに大きな成績残せないと思うよ」と苦言を呈す。 そして、「なぜならばね、人気者だからあちこち出てるわね、タレントじゃないんだからね。練習と身体を鍛えてもらいたいわねえ」と持論を展開する。 関口は「僕なんかああいう絵だけだけど、いいんじゃないかと思っちゃうんだけど…」と話すが、張本氏は「いやいや。決して良くないですよ。躍動力がないもん」とバッサリと切った。 この発言に、一部視聴者が猛反発。「数十秒の動画で何がわかるのか」「言うほどそんなにメディアに出ている印象はない」「身体はしっかりと鍛えている。事実、かなりビルドアップしている」「全力に投げている動画じゃない」など、批判の声が相次ぐことになった。 張本氏は大谷について、メジャリーグ移籍前から「大した成績を残せない」と厳しい評論を浴びせており、右肘を痛めた際には以前から「走り込み不足」を再三指摘。さらに、「ウェイトトレーニング」にも否定的な立場を取り、一部から猛反発を受けている。 メジャーでも二刀流を続け、その類まれなる才能を見せつけた大谷。彼なら張本氏の酷評を、投手・野手の両面で跳ね返してくれることだろう。
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スポーツ 2020年06月08日 11時40分
西武・松坂、客寄せパンダじゃなかった? 1週間前の評価から一転、辻監督が開幕ローテ「無理」と断言したワケ
一週間余りで評価が一変した。6月7日の対中日戦後、埼玉西武・辻発彦監督から正反対のコメントが出た。 本拠地・メットライフドームで行われた中日戦で、注目の松坂大輔が3番手としてマウンドに上った。先頭バッターには四球を与えたが、その後はノラリクラリと変化球を内外角に散らし、無失点に抑えてみせた。昨季まで在籍していた中日の元同僚たちは一同に賛辞を送り、松坂も笑顔でベンチに下がって行った。 しかし、辻監督だけは違った。試合後の共同会見で「松坂の開幕ローテーション入りは?」と聞かれるなり、 「いや、無理でしょう、まだ」 と、言い切った。さらに、「ここで1イニングしか投げられないぐらいだったら、無理だと思います。悪くはないけど、良い時の松坂ではない。下(二軍)の方でローテーションを組めるようになれば」とも言った。 その言葉の通りなら、開幕一軍メンバーから脱落したことになる。当の松坂は「今日は試合カンを取り戻す、バッターと対戦することで感覚を思い出す作業がメインでした」と球団を介し、投げ終わった直後の笑顔からややトーンダウンしたコメントを発表した。 話は、5月27日に遡る。同日、50球弱だが、松坂はブルペンでの投球練習を行っている。辻監督もそれを見守り、「しっかり放れている。これだけ投げられているというのは、肩のトレーニングができているから」と評価していた。この時点で“開幕ローテーション入りは確定”と思われたが、一週間余りで指揮官の評価はガタ落ちしたわけだ。 また、辻監督は「1イニングしか投げられないようなら」とも言っていた。松坂は2イニング以上の登板が予定されていて、故障個所である右膝が“悲鳴”を上げたのか。こんな情報も聞かれた。「当初から1イニングの登板予定でした。右膝以外はほぼ万全なので、調整の一環で投げさせたんです」(球界関係者) とは言え、辻監督は「二軍でローテーション入りすれば」とも語っていた。この課題をこなすのはちょっと難しそうだ。 松坂が復活勝利を挙げた2018年、その登板間隔は“特別待遇”だったと言っても過言ではない。森繁和監督(当時)が投手コーチなどに状態を聞き、登板イニング数も松坂と話し合っていた。ローテーション入りとは、「中6日」の間隔で投げ続けること。2、3度ならともかく、今年40歳になるベテランにそれを継続させるのはかなり厳しいと思うが…。 「辻監督の松坂評を聞いて、西武は優勝を狙うチームなんだと再確認させられた関係者も少なくありません。エコ贔屓、特別待遇はしないという宣言ですよね」(前出・同) 19-20年オフ、辻監督は松坂の西武帰還について、「男気を感じる」とも話していた。右膝は回復に向かっているという。7日のピッチングは結果だけ見れば、ゼロに抑えたのだから、一軍で投げさせようと思えばできないこともないだろう。あえて、「良い時の松坂ではない」と言い切ったのは、中途半端な状態で投げさせて恥をかかせたくないとする指揮官の温情かもしれない。(スポーツライター・飯山満)
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スポーツ 2020年06月08日 11時00分
オリックス、開幕投手は予定通り2年連続で山岡泰輔!
19日に本拠地、京セラドーム大阪で東北楽天を相手に今シーズンをスタートさせるオリックスの開幕投手が、山岡泰輔に決定した。山岡は当初予定されていた3月20日の開幕戦でも、開幕投手として指名されており、新型コロナウイルスの影響で、シーズンが3か月延期されたが、オリックスは予定通り、山岡が2年連続の大役を務める。<オリックス練習試合成績>▼6月2日〜4日 大阪・京セラドーム大阪オリックス(山本) 1-2 (二保)ソフトバンクオリックス(アルバース) 5-10 (石川)ソフトバンクオリックス(荒西) 3-3 (バンデンハーク)ソフトバンク▼6月5日〜7日 大阪・京セラドーム大阪オリックス(山岡) 5-0 (大瀬良)広島オリックス(田嶋) 6-10 (床田)広島オリックス(山本) 6-3 (森下)広島(カッコ)内は先発投手※6試合2勝3敗1分け 山岡は5日の広島との練習試合に登板。7回を被安打1、奪三振5、無失点の好投を披露。「新しい球種のシュートを試すこともできましたし、久しぶりに打者相手に抑えられたということはよかったと思います。しかし、抜けたボールも多かったと思いますので、もう一試合の登板でしっかりと調整できたらと思います。開幕投手を伝えられたのは、全体練習が再開したころだったと思います。昨年の開幕戦は一球の大切さを感じましたし、悔しい思いもしました。リベンジの機会を与えていただいて嬉しく思います。そういった部分も含めて、慌てすぎず、しっかりと準備したいですね」と開幕に向けた意気込みを語っていた。 9日からは、福岡に乗り込みPayPayドームで、再びソフトバンクと3連戦、そして12日からは、京セラドームに戻り、阪神と3連戦を行い、最後の練習試合6連戦で、開幕ローテーション、開幕スタメン、開幕一軍選手の絞り込みを行っていく。ボーダーラインにいる選手にとっては、毎日が勝負の試合になることだろう。(どら増田)
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スポーツ 2020年06月07日 11時00分
ストライクど真ん中の球がなぜかボールに! 西武・渡辺が「やってられない」と激怒した大誤審、開き直った審判の末路は
6月19日の開幕に向け、2日から各地で練習試合が行われている今シーズンのプロ野球。練習試合では選手だけでなく審判も、来たる開幕に向け選手のプレーを注意深く見極めている。 4日の阪神対広島戦では阪神・ボーアが放った左翼ポール際への打球を、“ポールに直撃したから本塁打”と主審・塁審全員で確認し合うなど、誤審がないように努めている審判たち。今から約20年前のこの時期には、審判が取り返しのつかない誤審をしてしまった試合がある。 1997年6月7日、千葉マリンスタジアム(現ZOZOマリンスタジアム)で行われた西武対ロッテの一戦。この日西武の先発を務めたのは、当時プロ14年目の32歳・渡辺久信(現西武GM)。前年までに通算124勝を挙げた好投手だが、1997年はここまで未勝利が続いていた。 シーズン初勝利へ向け3回裏まで無失点だった渡辺だが、西武1点リードの4回裏に思いもよらない事件が起こる。この回渡辺は1点を失いなおも2死満塁とピンチを背負うも、迎えたロッテ・松本尚樹を2球で追い込む。3球目に投げたストライクゾーンど真ん中の球を松本が見逃したため、三球三振でピンチを脱したと誰もが思っていた。 しかし、この日球審を務めた村越茶美雄審判が、この3球目をなぜかボールと判定。これを受けた渡辺や西武捕手・伊東勤(現中日一軍ヘッドコーチ)は猛抗議するも、村越審判は判定を覆さなかった。 仕方なく判定を受け入れた渡辺だが、動揺があったのか松本に5球目を打たれ2点を失ってしまう。結局、これが決勝点となり渡辺は初勝利どころか敗戦投手となってしまった。 見逃した松本も「ストライクだと思った」という渡辺の3球目がなぜボールと判定されたのか、その真相は試合後の報道で判明する。実は4回裏終了直後に、当時西武の指揮官だった東尾修監督が改めて村越審判に抗議したとのこと。すると、村越審判は「本来ストライクと言うところをボールと間違えた」と言い間違えによる誤審であることを認めたという。 しかし、村越審判は同時に「ボールと言った以上判定は変わらない。その後まで責任は取れない」と、ともすれば開き直りのような言葉も口にしたとのこと。野球規則には「審判員の判断に基づく裁定は最終のものである」と一度審判が下した判定は覆らない旨が記載されていることもあり、東尾監督もそれ以上抗議はしなかった。ただ、誤審の“被害者”となってしまった渡辺は「やってられない」と試合後も怒り心頭だったという。 自身の誤審が勝敗を揺るがしてしまった村越審判は同戦直後から一軍の試合での審判を外され二軍降格となり、同月10日からは2週間の再研修を課せられている。なお、その後も一軍の試合で審判を務めることはめっきり減ってしまった上、2003年1月には「技術不足」を理由に審判部から解雇されている。 プロ野球の世界では、“審判が目立つ試合は残念な試合”とよくいわれている。間もなく開幕する予定の今シーズンでは、今回取り上げたような大誤審が1つもないことを願いたいところだ。文 / 柴田雅人
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スポーツ 2020年06月07日 08時00分
一度は使っってみたいプロレスの言霊 「1年半、UWFとしてやってきたことがなんであるか確かめに来ました」発言者・前田日明
今もなおカリスマ的人気を誇る前田日明。現役時代にはファイトぶりはもちろんのこと、強固な信念から発せられる数々の言葉においても、多くのファンの心を鷲づかみにしてきた。今回取り上げるのは新日復帰時のあの言葉だ。※ ※ ※ 前田日明が「UWF軍」として新日本プロレスに参戦していた当時、実況の古舘伊知郎が「黒髪のロベスピエール」と連呼するのを、意味も分からず聞いていた人も多いのではないか。 正式な名前はマクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール。フランス革命における代表的な革命家の1人であるが、世界史の授業でようやく名前が教科書に出てくるくらいだから、少年ファンなどは「何が何やら」となっても仕方のないところだ。「ロープに飛ばない」「場外乱闘をしない」「打撃から入って関節技で極める」というUWF流のファイトスタイルが、従来のプロレスと比べて革命的だということで古舘はロベスピエールと形容したわけである。それもあってか前田は、時代の改革者として熱狂的な支持を集めることになり、現役引退から20年以上がすぎた今もなお、「前田信者」と呼ばれるファンを中心に高い人気を誇っている。★理想を追求するより現実を重視 では、前田は本当にプロレス界の革命家だったのか。 1985年12月、業務提携の名目で新日マットに復帰した前田は、「1年半、UWFとしてやってきたことが何であるか確かめに来ました」とリング上であいさつしている。 これまでにやってきたスタイルが新日や観客に受け入れられるのかどうかを試しにきたという言葉自体は、極めて常識的なものであり、ここに「体制をぶっ壊す」「プロレスを変革する」というような過激な意図は感じられない。 そもそもUWFスタイルからして、そのすべてを前田が発想したものではない。遅れて加わった佐山聡が新日退団後に試行錯誤していた新たな格闘術と、UWFの主流を占めたカール・ゴッチ門下生たちによるゴッチ流プロレス、この2つが融合したものがUWFスタイルの原点で、前田にしてみれば意識してこれを採用したというよりも、自然の流れということであろう。 新日からUWFへ移籍したのも何か理想を追い求めて独立したわけではなく、実際は実母がケガで入院してまとまった費用が必要だったときに新間寿から声をかけられ、移籍金目当てのことだったと、のちに前田自身が語っている。 そのUWFの旗揚げ前にはWWFのリングに上がり、WWFインターナショナルヘビー級王座を獲得(藤波辰爾がMSGで獲得したのとは別物の新設タイトル。フィニッシュはコブラツイスト)。ベルトには大きくUWFの文字が刻まれていたことからも、新間の仕込みであったことに疑いはなく、前田は新間の描くストーリーにそのまま乗っかってUWFに参加したわけである。 師匠アントニオ猪木のように夢を追いかけるよりも、現実主義の色が濃いのが前田の特徴だ。 第1次UWFで佐山と対立したのは、佐山が「格闘競技としての試合を月1回の開催」という意向を示したのに対して、前田が「選手やスタッフ、その家族の生活を考えればもっと試合を増やすべき」と引かなかったことが原因だった。 団体継続が困難となったときには、ジャイアント馬場が前田と髙田延彦だけを好待遇で獲得しようとしたものの、前田は「仲間全員でなければ受けられない」として新日との業務提携に舵を切った。★前田こそ生まれながらの革命家 また、団体の長となったプロレスラーの多くは、団体運営において多かれ少なかれ金銭トラブルを抱えるものだが、前田に限ってはそうした噂が聞かれず(第2次UWFの金銭問題は前田とは関係のないフロントによるもの)、引退後の’09年に民主党から参院選への出馬の要請があったときにも、当初は選挙活動費について、党が援助するといっていたものが覆されたことを主な理由として出馬辞退している。 基本的には堅実かつ常識的なのだ。 ところが、試合においては特に相手を傷つけるような意図がなくとも、打撃の当たり具合や関節の極めの強さのせいで、対戦相手から「シュートを仕掛けているのではないか」と思われてしまう。 その思想信条が常識的なところから発したものであっても、これを曲げることなく徹底するから周囲との軋轢を生むことになる。 新日との提携時の試合を改めて見直してみても、UWF代表者決定戦での藤原喜明との首と脚の取り合いや、藤波とのダブルKOなど調和を意識した結果も多く、伝説のアンドレ・ザ・ジャイアント戦も最初に仕掛けたのはアンドレのほうである。また、新日離脱の原因となった長州への蹴撃は、あくまでも事故的なものだった。 本人としては特別な意識のないままに自然と革命が起こってしまったわけで、ということは、既存の革命家をも上回る「生まれながらの革命家」というのが前田の実像だったのかもしれない。 今もなおカリスマ的人気を誇る前田日明。現役時代にはファイトぶりはもちろんのこと、強固な信念から発せられる数々の言葉においても、多くのファンの心を鷲づかみにしてきた。今回取り上げるのは新日復帰時のあの言葉だ。※ ※ ※ 前田日明が「UWF軍」として新日本プロレスに参戦していた当時、実況の古舘伊知郎が「黒髪のロベスピエール」と連呼するのを、意味も分からず聞いていた人も多いのではないか。 正式な名前はマクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール。フランス革命における代表的な革命家の1人であるが、世界史の授業でようやく名前が教科書に出てくるくらいだから、少年ファンなどは「何が何やら」となっても仕方のないところだ。「ロープに飛ばない」「場外乱闘をしない」「打撃から入って関節技で極める」というUWF流のファイトスタイルが、従来のプロレスと比べて革命的だということで古舘はロベスピエールと形容したわけである。それもあってか前田は、時代の改革者として熱狂的な支持を集めることになり、現役引退から20年以上がすぎた今もなお、「前田信者」と呼ばれるファンを中心に高い人気を誇っている。★理想を追求するより現実を重視 では、前田は本当にプロレス界の革命家だったのか。 1985年12月、業務提携の名目で新日マットに復帰した前田は、「1年半、UWFとしてやってきたことが何であるか確かめに来ました」とリング上であいさつしている。 これまでにやってきたスタイルが新日や観客に受け入れられるのかどうかを試しにきたという言葉自体は、極めて常識的なものであり、ここに「体制をぶっ壊す」「プロレスを変革する」というような過激な意図は感じられない。 そもそもUWFスタイルからして、そのすべてを前田が発想したものではない。遅れて加わった佐山聡が新日退団後に試行錯誤していた新たな格闘術と、UWFの主流を占めたカール・ゴッチ門下生たちによるゴッチ流プロレス、この2つが融合したものがUWFスタイルの原点で、前田にしてみれば意識してこれを採用したというよりも、自然の流れということであろう。 新日からUWFへ移籍したのも何か理想を追い求めて独立したわけではなく、実際は実母がケガで入院してまとまった費用が必要だったときに新間寿から声をかけられ、移籍金目当てのことだったと、のちに前田自身が語っている。 そのUWFの旗揚げ前にはWWFのリングに上がり、WWFインターナショナルヘビー級王座を獲得(藤波辰爾がMSGで獲得したのとは別物の新設タイトル。フィニッシュはコブラツイスト)。ベルトには大きくUWFの文字が刻まれていたことからも、新間の仕込みであったことに疑いはなく、前田は新間の描くストーリーにそのまま乗っかってUWFに参加したわけである。 師匠アントニオ猪木のように夢を追いかけるよりも、現実主義の色が濃いのが前田の特徴だ。 第1次UWFで佐山と対立したのは、佐山が「格闘競技としての試合を月1回の開催」という意向を示したのに対して、前田が「選手やスタッフ、その家族の生活を考えればもっと試合を増やすべき」と引かなかったことが原因だった。 団体継続が困難となったときには、ジャイアント馬場が前田と髙田延彦だけを好待遇で獲得しようとしたものの、前田は「仲間全員でなければ受けられない」として新日との業務提携に舵を切った。★前田こそ生まれながらの革命家 また、団体の長となったプロレスラーの多くは、団体運営において多かれ少なかれ金銭トラブルを抱えるものだが、前田に限ってはそうした噂が聞かれず(第2次UWFの金銭問題は前田とは関係のないフロントによるもの)、引退後の’09年に民主党から参院選への出馬の要請があったときにも、当初は選挙活動費について、党が援助するといっていたものが覆されたことを主な理由として出馬辞退している。 基本的には堅実かつ常識的なのだ。 ところが、試合においては特に相手を傷つけるような意図がなくとも、打撃の当たり具合や関節の極めの強さのせいで、対戦相手から「シュートを仕掛けているのではないか」と思われてしまう。 その思想信条が常識的なところから発したものであっても、これを曲げることなく徹底するから周囲との軋轢を生むことになる。 新日との提携時の試合を改めて見直してみても、UWF代表者決定戦での藤原喜明との首と脚の取り合いや、藤波とのダブルKOなど調和を意識した結果も多く、伝説のアンドレ・ザ・ジャイアント戦も最初に仕掛けたのはアンドレのほうである。また、新日離脱の原因となった長州への蹴撃は、あくまでも事故的なものだった。 本人としては特別な意識のないままに自然と革命が起こってしまったわけで、ということは、既存の革命家をも上回る「生まれながらの革命家」というのが前田の実像だったのかもしれない。前田日明***************************************PROFILE●1959年1月24日生まれ。大阪府大阪市出身。身長192㎝、体重115㎏。得意技/キャプチュード、フライング・ニールキック。文・脇本深八***************************************PROFILE●1959年1月24日生まれ。大阪府大阪市出身。身長192㎝、体重115㎏。得意技/キャプチュード、フライング・ニールキック。文・脇本深八
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スポーツ 2020年06月06日 17時00分
打球が東京ドームのスピーカーに直撃! 上回ったのは球史で1人だけ? “近鉄史上最強助っ人”が放った170メートル弾
6月19日の開幕へ向け、同月2日から各地で練習試合が行われている今シーズンのプロ野球。新型コロナウイルス感染拡大防止のため無観客で行われている試合では、複数の選手が本塁打を放つなど順調な調整ぶりをアピールしている。 現地の歓声やネット上などに寄せられるファンの反応が、最も多いプレーの1つである本塁打。今から30年前のこの時期には、球場のファンが歓声を上げるどころか、呆然としてしまった一発が生まれた試合がある。 1990年6月6日、東京ドームで行われた近鉄対日本ハムの一戦。4回表、同戦に「3番・指名打者」で先発出場していた近鉄・ブライアントが、日本ハム・角盈男が投じた4球目を強振。打球はセンター方向に向かって一直線に飛んで行った。 すると、この打球が東京ドームの天井に吊り下げられていたスピーカーに直撃。その後打球は右翼付近へ落下したが、“外野のフェア地域に設けられた懸垂物に当たった場合はホームラン”という球場特別ルールにより本塁打と認定された。 プロ野球の試合で本塁打が出た際は推定飛距離もあわせて伝えられるのが一般的だが、ブライアントが放ったこの打球の推定飛距離はなんと170メートル。ブライアントは在籍8年間で本塁打王を3度獲得し、今でも“球団史上最強助っ人”の1人に数えられるほどの強打者だったが、その本人も試合後には「まさか当たるとは思わなかった」と驚いていたという。 プロ野球における本塁打の平均推定飛距離は110メートル中盤前後といわれており、推定130メートル付近からは“特大アーチ”と表現されることが多い。これらを踏まえるとブライアントの170メートル弾は他の追随を許さない“超特大アーチ”にもみえるが、実はプロ野球の歴史の中ではブライアントと同等以上の推定飛距離をマークした選手が2名のみだが存在する。 ブライアントと同じ推定170メートル弾を放ったのが、戦後の球界で強打者として名をはせた東急(現日本ハム)・大下弘。大下はまだプロ野球が1リーグ時代だった1949年8月18日、円山球場で行われた東急対大映戦で場外への推定170メートル弾を記録。日本人打者が放った推定飛距離としては歴代1位といわれている。 ブライアント、大下すら超える180メートル弾を記録したのが、2000年代初頭の西武で絶対的4番として君臨したカブレラ。カブレラは2005年6月3日、インボイスSEIBUドーム(現メットライフドーム)で行われた西武対横浜(現DeNA)戦で放った打球が左翼上方の屋根の鉄骨部分に直撃。当時の伊東勤監督(現中日一軍ヘッドコーチ)も「もう野球じゃないね」とあ然とした一発で、現在でも打球が直撃した部分には記念の幕が掲げられている。 開幕が当初予定された3月20日から約3カ月延期された影響で、今シーズンのプロ野球は通常の143試合ではなく120試合で行われる予定。試合が減った分本塁打の数も減少することが予想されるが、果たして今回取り上げた3名と肩を並べるようなアーチは生まれるのだろうか。文 / 柴田雅人
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スポーツ 2020年06月06日 07時00分
既に2度当てられた選手も! 恐れられていた事態が現実に? プロ野球練習試合で死球禍が勃発したワケ
6月19日の開幕に向け、同月2日から各地で練習試合が行われている今シーズンのプロ野球。試合の多くはテレビやネットで生中継されており、開幕を待ちわびる多くのファンが熱心に観戦している。 練習試合で飛び出た選手のプレーを受け、ネット上には連日多くの反応が寄せられている。その多くは本塁打やタイムリー、奪三振といったプレーに対する反応だが、中には「練習試合での死球がちょっと多すぎないか?」、「こんな状態で開幕して大丈夫なんだろうか」といった死球への反応も少なくない。 2日から5日まで22試合が行われている練習試合の内訳を見ると、ここまでの試合で計17個の死球が記録されている。1試合平均で見ると「0.77個」となるが、これは昨シーズンのリーグ全体の1試合平均である「0.37個」に比べ2倍以上も多い数字となっている。 球団別に見ると、ここまで死球を与えていないチームは巨人だけで、その他のチームは相手チームに1~3個死球を与えている。また、選手別に見るとDeNA・平田真吾が全投手で唯一2個の死球(3日楽天戦、5日日本ハム戦)を出している一方、楽天・藤田一也が全打者の中でただ1人2回(3日DeNA戦、5日ロッテ戦)死球を受けている。 死球が続出する中で、当てられた打者が負傷交代や欠場を強いられたケースも複数起こっている。さらに、2日のソフトバンク対オリックスの試合では、ソフトバンク・松田宣浩の頭部に死球を当てたオリックス・鈴木優が危険球で退場処分を受けるというまさかの出来事もあった。 以上のように死球禍が続いている練習試合だが、その背景には投手の調整不足が関係しているとみられている。新型コロナウイルスの影響で2カ月ほど外出自粛期間が続いたことにより、各球団の選手は長らく自宅での調整を強いられた。ただ、自宅に広めの部屋があれば1人でも素振りなどのトレーニングができる打者に比べ、自宅に特別な設備やスタッフなどがいない限りキャッチボールやブルペンでの投げ込みなどができない投手は状態の落ち込みが激しいのではとの見方は強い。 実際、これまでの各種報道を見ると、「キャンプで一番最初に対外試合で投げる感覚と似ている」と語ったDeNA・今永昇太など複数の投手が状態を不安視している。また、開幕ローテ確実と言われた阪神・高橋遥人が、自粛期間による調整の遅れにより一転して開幕絶望となったこともファンに衝撃を与えた。投手が置かれた厳しい状況が、死球続出の要因となっている可能性は決して低くはないだろう。 6月19日の開幕が発表された5月25日時点で「調整期間をもう少し設けないと試合で死球や怪我が続出する」と危惧する声は一部あったが、その危惧が現実のものとなっている現状。練習試合は今後6月16日まで全49試合が予定されているが、この間に1人でも多くの投手が調子を戻してくれることを願うばかりだ。文 / 柴田雅人
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スポーツ 2020年06月05日 18時45分
元中日・岩瀬氏「誰も助けてくれない」 抑え転向で感じた重圧を告白 落合監督の異例の方針にも苦労していた?
元中日で野球解説者の岩瀬仁紀氏が、4日放送の『ドラゴンズステーション』(東海ラジオ)に生出演。2004年から2011年にかけて共に戦った元中日監督・落合博満氏や、自身が長年務めた抑えについて言及した。 番組内で岩瀬氏は、5年ぶりのセ・リーグ優勝を果たした2004年の中日をテーマにトークを展開。その中で同年が就任初年度だった落合氏や、当時プロ6年目の29歳だった自身が同年から転向した抑えについて語った。 落合氏は当時、就任会見で「現有戦力を10%底上げすれば優勝できる」と宣言し、春季キャンプ初日からいきなり紅白戦を組むなど話題を呼んだ。キャンプ初日の紅白戦には自身も驚いたという岩瀬氏は、「(紅白戦は)だいたい(キャンプ初日から)2週間ぐらい後なんですけど、それが2週間前倒しになったのでまあ大変でしたよ」と調整面の苦労を明かした。 落合氏の異例の方針のかいもあり、同年の中日は「79勝56敗3分・勝率.585」といった成績を残し落合氏の言葉通りにセ・リーグを制覇。岩瀬氏は「その(結果の)インパクトが強すぎて、それ以降落合監督が何を言っても信頼できた」と、有言実行の優勝を実現させたことで落合氏への尊敬の念が高まったという。 落合氏の就任1年目となった2004年の春季キャンプ開始前日、岩瀬氏は落合氏の指示によりそれまで務めていたセットアッパーから抑えに転向している。岩瀬氏は「自分の部屋に来た落合監督から直接『お前は抑えだ』と言われた」という。 監督直々の言葉を受けやる気満々で転向を受け入れたという岩瀬氏だが、実際に抑えをやってみるとセットアッパーの時とは感じる重圧が全く違ったと明かす。岩瀬氏は「『誰も助けてくれない』という感覚が強かった。セットアッパーの時はピンチになったら英二さん(落合英二/現韓国・サムスン二軍監督)が助けてくれたりとかはありましたけど、9回の抑えっていうのはその人間で(試合が)終わらないといけないので」と当時の重圧を明かした。 一般的には中堅と言われる29歳で過酷な抑えに転向しながらも、その後44歳で引退するまでにプロ野球記録となる407セーブを挙げた岩瀬氏。「もっと前から抑えをやっていたら何セーブ挙げていたのか」と言われることも多いというが、「実際に(2004年以前から抑えを)やっていたらできていなかったかもしれない」とも語っていた。 今回の放送を受け、ネット上には「キャンプの紅白戦懐かしいなあ、当時は調整失敗する選手が続出すると思ってた」、「就任時に優勝宣言して本当に優勝したら、そりゃ選手も『この人は凄い監督だ』ってなるだろうな」、「岩瀬は毎試合そこまで強い悲壮感を胸にマウンドに上がってたのか」、「岩瀬は抑え転向前からセットアッパーとして活躍してたけど、確かにこの経験が無ければ潰れてたかも」といった反応が多数寄せられている。 現役時代に中日(1999-2018,2019)一筋で活躍した45歳の岩瀬氏と、監督時代に中日(2004-2011)を率いた66歳の落合氏。両者は2004~2011年にかけて共に中日に所属し、同期間内にリーグ優勝を4回、日本一を1回経験している。 「落合氏が岩瀬氏を抑えに転向させた背景には、当時のチーム事情が関係しています。2003年までチームの抑えはギャラードや大塚晶則といった面々が務めていましたが、同年途中にギャラードが横浜へ移籍し、大塚もシーズンオフにボスティングでメジャーに移籍。また、両名の退団を受けた補強もなかったため、落合氏はセットアッパーとして場数を踏んでいた岩瀬に白羽の矢を立てています」(野球ライター) セーブ記録保持者ということもあり抑えとしてのイメージが強い岩瀬氏だが、抑え転向以前からセットアッパーとして計294試合に登板するなどフル回転している。こうした経験があったからこそ落合氏は岩瀬氏に抑えを託し、託された岩瀬氏も期待に応えることができたのかもしれない。文 / 柴田雅人
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スポーツ 2020年06月05日 18時00分
角界の名門『井筒部屋』後継者候補が“3人”もいたのに消滅の悲劇…
先ごろ、井筒3兄弟の長男で元十両・鶴嶺山の福薗好政さんが、去る3月28日に急性心不全で亡くなっていたことが明らかになった。60歳だった。葬儀、告別式はすでに近親者で行っている。 鶴嶺山は“もろ差しの名人”といわれ、技能賞を史上最多の10回、金星も10個獲得している先々代井筒親方(元関脇・鶴ケ嶺)の長男だった。「先々代は、鶴嶺山を『オレの後継者』と公言し、中学卒業と同時に自分の部屋に入門させた。でも、後を追って入門した次男の逆鉾、三男の寺尾が関脇まで駆け上り、人気力士になったのと対照的に、十両に上がるのがやっとでした。末弟の寺尾が新十両のとき、付け人としてマワシを締める手伝いをしていました。その心中たるや、察するに余りありますね。引退後は両国でちゃんこ店を開き、亡くなる前日も店に立っていたそうです」(担当記者) この鶴嶺山の挫折が、井筒部屋の“悲劇”の始まりだった。結局、名門・井筒部屋は次男の逆鉾が継承。横綱・鶴竜を育てたものの、生来のわがままな性格が災いし、部屋はすっかり衰微。去年9月、逆鉾がすい臓がんにより58歳で亡くなったときには、力士3人、床山1人という、見る影もない小部屋になり果てていた。 筋論から言えば、残された力士たちを引き取り、本家に当たる「井筒」を継承するのは、すでに分家し、錣山部屋を興している三男・寺尾(錣山親方)の役目だった。しかし、錣山親方は3年前に一門に反旗を翻して元貴乃花親方のもとに走り、元貴乃花親方が相撲協会を退職後は二所ノ関一門に合流している。つまり、“派閥”が違うため、次兄の遺志を継ぐことができなかったのだ。鶴竜らは先々代井筒の弟子で、3兄弟とは兄弟弟子にあたる元大関・霧島の陸奥親方が引き取ったが、ついに名門井筒部屋は、息子3人もいながら消滅してしまった。「現在、井筒の名跡は、4月17日に引退した元関脇・豊ノ島が襲名しています」(協会関係者) 相撲部屋も、有為転変である。
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スポーツ 2020年06月05日 16時00分
コロナで苦境のバドミントン界、チーム経営破綻でフクヒロペアが移籍発表
バドミントン女子日本代表の福島由紀・廣田彩花ペアが4日、オンライン記者会見を開き、これまで所属していたアメリカンベイプ岐阜から、岐阜市を拠点とする丸杉Bluvicに移籍したことを発表した。 「フクヒロ」の愛称で親しまれる福島・廣田ペアは、現在、女子ダブルス世界ランキング2位の実力を持つ。前所属先が経営破綻し、給与も支払われない状態が続いている中、30年に渡って男女のバドミントンチームを運営する丸杉が岐阜県、岐阜県バドミントン協会などの要請を受ける形で、ペアの引き取りを決めた。会見にはその株式会社丸杉の杉山忠国社長と、ラグビーの山田章仁選手も出席した。 >>全ての画像を見る<< 福島選手は「東京オリンピックが延期になり、モチベーションを維持することに悩んだりしたりもしたのですが、丸杉への入社をいいチャンスと捉えて、これからも頑張っていきたい。ここから東京オリンピックのメダルを獲得できるよう再スタートしたい」と冒頭に意気込みを述べ、廣田選手も「福島先輩とわたしは岐阜に来て2年。岐阜に来た当初から、岐阜県バドミントン協会にお世話になって来ました。東京オリンピックまで約1年。来年開催されるか不安もあるのですが、丸杉という新しい環境の中で、メダル獲得を目標にこれから頑張っていきたいと思います」と心境を語った。 東京オリンピック延期については、「延期が発表された時は予想していたところもあったんですが、一年後というのがモチベーションの維持が難しいなと思いました。開催がわからないけど、開催されたら楽しんで二人でコートに立ちたい」と福島。廣田も「今年の夏に向けてやって来ていたので残念に思いました。でも、プラスに受け止めようって、準備期間があるって思って今取り組んでいます。二人の目標は金メダル。二人で楽しんでいるみなさんにプレーを見てもらいたい」と話していた。(取材・文:名鹿祥史)
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