新日本
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スポーツ 2015年07月03日 14時00分
俺たちの熱狂バトルTheヒストリー〈アントニオ猪木vsモハメド・アリ〉
“世紀の一戦”と称されるものは数あれども、その中でも筆頭に挙がるのがアントニオ猪木vsモハメド・アリ、格闘技世界一決定戦だろう。試合当時は悪評紛々だった猪木の寝転んでの戦いぶりも、今になっては“格闘技的に正しい戦術”との理解が進んでいる。 「どちらも傷つかない形で引き分けに持ち込むために猪木があのような戦法を取ったという見方から“茶番”と言われたりもしましたが、現実にはアリは帰国後、試合中に蹴られた脚に血栓症を起こし入院。それで引退を早めたともいわれています」(格闘技ライター) 試合に際し、アリ側はWWFで鳴らした敏腕マネージャーのフレッド・ブラッシーを帯同するなど、あくまでもプロレスの範疇としてのエキシビションマッチを意識していたことがうかがえる。 アメリカ各地では同時開催で“プロレス”のビッグマッチが組まれており、これも猪木アリ戦が“プロレス界の出来事”と捉えられていた故だろう。 だが、猪木とその片腕である新間寿氏だけは違い、一貫してアリに真剣勝負を求め続けた。 「ビッグイベントとして見栄えのする試合を求めるのであれば、むしろ段取りを決めた八百長をする方が良かった。しかし、そうでなかったことが真剣勝負の証とも言えるでしょう」(同ライター) 試合内容について“猪木は戦いが実現した時点で満足だったから、あえて危険を冒さずに安全運転をした”との見方もあるが、これも正しいとは言えない。勝つためにスライディングキックを採用したのが、格闘技理論的に正しい手段の一つであったことは前述の通りである。 試合後半、ロープ際で両者もつれて倒れ込んだ際に「反則負けになってもいいからアリをつぶしにかかるべきだったし、そうして見せ場を作るのがプロレスラーというものだ」との論もあったが、これも現実的には不可能だ。 それこそ、文字通りの“命懸け”−−。アリの腕一本、折ることはできたかもしれないが、アリの取り巻きには拳銃を所持した連中もいたというまことしやかな噂もあった。そんな中で反則の暴挙に出たとき、その代償は猪木自身の“命”となった可能性は十分に考えられる。 いくら観客でも猪木に「命を捨てよ」という権利はない。それとは逆に、むしろ“いくら見栄えが悪くとも、勝ちを追求したことこそプロレス的だった”とは言えまいか。 プロレスとはすなわち格闘興行であり、一戦毎の盛り上がりも重要ながら、それ以上に興行として後につなげていくことが求められる。こう考えたとき、猪木にとって、アリ戦での「負け」は何の意味もない。 いくら見世場たっぷりであっても、結果、猪木が負ければ「プロレスなどボクシング世界王者の敵ではない」との世間からの評価が下されることになる。試合そのものが“アリのお遊び”の一環としか受け取られなかっただろう。 アリへのファイトマネー支払いのため大借金を背負ってまで実現させた以上、これをその後の興行に生かすことこそがプロレスラーにとっての命題であり、そうとなれば勝ち、もしくは最悪でも引き分けに持ち込まなければならなかった。 どんな手を使ってでも相手を退け、後の興行につなげていくというのは、アメリカンプロレスのダーティーチャンプの系譜に連なるものであり、それに猪木も則ったという見方もできるのではないか。 「実際、アリ戦では不興を買った猪木ですが、その一方でジャイアント馬場を差し置き“日本のトップレスラー”と世間一般から認識されるようになったのも事実です。このことが、'80年代の新日本プロレス黄金期にもつながったと言えるでしょう」(スポーツ紙記者) 猪木のキャリア最晩年、イラクや北朝鮮での興行を実現できたのも、猪木が“偉大なるアリと引き分けた男”であることの影響は大きかった。そのころ参議院議員の肩書があったとはいえ、スポーツ平和党のような弱小野党党首というだけでは、イラクや北朝鮮との直接交渉の場に立てるはずがない。 1976年6月26日−−。大借金と世間の不興という代償はありながら、結果的に猪木は大博打に勝ったのである。
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スポーツ 2015年07月01日 12時00分
【甦るリング】第13回・報道陣も恐れるほどヒールに徹したタイガー・ジェット・シン
プロレスは勧善懲悪の方が分かりやすい。ベビーフェイス(善玉)が光るためには、究極のヒール(悪役)が必要だ。日本ではタイガー・ジェット・シン、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シークが外国人の3大ヒールとして、伝説に残っているが、なかでも、シンは特別な存在だった。 ヒールといっても、それはリング上でのことであり、リングを下りたら話は別。ヒールをやっている選手ほど、ふだんは温厚な人物であることが多かったりするのだが、シンの場合はちょっと事情が違った。シンはリング上だけではなく、ヒールを貫くため、報道陣の前でも徹底的に悪役に徹していたのだ。試合後、マスコミはシンの後を追って、バックステージへ向かうのだが、シンはリング同様、サーベル片手に報道陣を追い掛けてくるのだから怖いのなんの!なかには、シンに手を出されるマスコミもいたほど。それが、ヒールに徹するシンのやり方だと分かっていても、それでも怖かったのだ。 日本では全く無名だったシンは、新日本プロレス、そしてアントニオ猪木が育てたといっていい選手だ。ジャイアント馬場の米国修行時代の師匠だったフレッド・アトキンスから、正統派レスリングの手ほどきを受けたシンは、1960年代後半から、カナダ・トロントでベビーフェイスとして活躍していた。豪州遠征で知り合ったスティーブ・リッカードの紹介で、73年5月に初来日。観客席に座っていたシンは、試合中の山本小鉄を襲撃し、これをきっかけに、新日本のリングに上がるようになる。 当時、旗揚げ間もない新日本は、オポジションの全日本プロレス、国際プロレスのように、大物外国人選手を招へいすることができなかった。だが、シンという究極のヒールの誕生で、流れが変わった。猪木とシンの抗争はヒートアップ。同年11月には、夫人(倍賞美津子)とともに買い物中だった猪木を、新宿伊勢丹前の路上でシンが襲撃。警察沙汰になる事件が起きた。猪木は「リングで制裁する」との理由で被害届は出さなかった。結局、新日本への厳重注意で収まり、ことなきを得たが、プライベートで猪木を襲ったシンの悪名はまたたく間にとどろいた。両者の遺恨は深くなり、74年6月の対戦では、猪木がシンの腕を折る事態にまで発展した。 75年3月には、シンは猪木を破って、NWFヘビー級王座を奪取するなど、新日本のトップ外国人として君臨した。しかし、スタン・ハンセンの登場で、その立場は微妙なものになっていく。81年に入ると、新日本と全日本の仁義なき引き抜き戦争がぼっ発。同年5月に新日本が全日本のトップヒールだったブッチャーを引き抜くと、同年7月、全日本は報復としてシンを引き抜いた。シンは上田馬之助とのタッグで暴れ回り、ジャイアント馬場&ジャンボ鶴田からインタータッグ王座を奪取したこともあった。 ただ、シンの全日本移籍直後の同年12月にはハンセンも全日本に移籍。リング上の闘いはハンセン、ブルーザー・ブロディ、ドリー・ファンク・ジュニアとテリー・ファンクのザ・ファンクスらがメーンとなることが多く、シンの影は薄かった。88年には全日本に出戻ったブッチャーと凶悪タッグを結成するも、主役に躍り出ることはなかった。 全日本での役目を終えたシンは、90年9月、9年ぶりに新日本に復帰。猪木のデビュー30周年記念イベントで、恩讐を超え、猪木と一夜限りのタッグを結成した。その後も、新日本に参戦し続けたが、猪木より下の世代との対戦は大きなムーブメントとはならず、フェードアウトしていった。 新日本を去ったシンに触手を伸ばしたのは、新興団体FMWの大仁田厚だった。大仁田は関ヶ原(ノーピープル)、横浜スタジアムで2度、シンと電流爆破デスマッチを行うなど、シンの再生に成功した。その後、第2次NOWを経て、IWAジャパンに参戦。IWAではVIP待遇の扱いを受け、ベビーフェイスの役回りを与えられ、グッズ売店でサイン会を行ったりもした。昔とはファンの気質も変化しており、ファンもベビーフェイスのシンを歓迎。ただ、ファイトスタイルが変わることはなく、バックステージで報道陣を追い掛けるのは相変わらずだった。 晩年には、エンターテインメントプロレス団体ハッスルに参戦。小川直也、曙、ボブ・サップらとも対戦。ブッチャーとタッグを組んだり、一騎打ちを行うなどした。09年10月、同団体は活動を休止。シンが日本でファイトしたのは、これが最後となった。 自宅のあるカナダ・トロントに戻れば、シンは実業家、慈善事業家として有名な地元の名士であり。そこでは、ヒールとしての顔はなく、私生活では紳士として通っている。とはいえ、シンは日本のファンにとって、永遠にヒールであり、報道陣にとっては、限りなく“怖い”存在だった。(ミカエル・コバタ=毎週水曜日に掲載)
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芸能ネタ 2015年06月26日 11時45分
チュートリアル・徳井 最上もがに告白するも撃沈
25日、「大覚寺カフェ」プロジェクトのオープン記念イベントが都内で行われ、イメージキャラクターを務めるチュートリアルが登壇した。 会場には他に、ピース、おかずクラブ、スイーツ親方こと芝田山康氏、新日本プロレスリングの真壁刀義、パティシエの田中二朗氏らが登壇。さらに、チュートリアル・徳井義実がファンだと公言している、でんぱ組.incの最上もがも、サプライズ登場し、徳井は、「直視できない」とテレた様子を見せ、腕組み2ショットを提案されると、硬直しながら腕を組んでいた。 さらに徳井は囲み取材で、「ずっと前から好きでした。フェイスブックをやっているのでメッセージを頂ければ、表には出さないようにしますので」とマジ告白。しかし、最上から「残念ながらフェイスブックをやっていないので、遠目から見ていてください」と断られ、相方の福田充徳から「うわ、フラれおった!」とからかわれた。 またピースの綾部祐二は、先日マネージャーから米作りに興味はないかと聞かれたとそうで、相方・又吉直樹の文学に対抗して、「来年、僕は米作りの方に専念します」と話し爆笑を誘った。 「大覚寺カフェ」は、2018年に行われる式年事業を控える大覚寺(京都市右京区)と吉本興業がコラボレートしたスイーツやグッズなどを展開する新プロジェクト。ウェブや雑誌などを中心に、さまざまな形で大覚寺の伝統と価値を伝えるために誕生し、京都出身のチュートリアルの2人が、イメージキャラクターを務める。(斎藤雅道)
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スポーツ 2015年06月17日 12時00分
【甦るリング】第12回・再々ブレイク果たした大仁田厚 繰り返した引退、復帰は自分に正直に生きた証し
決して活況とはいえない現在のプロレス界にあって、フリーの立場ながら、再々ブレイクを果たしているのが、“邪道”大仁田厚(57)だ。本項で取り上げている“レジェンド・プロレスラー”の年齢はおおむね50代後半から60代。今も現役としてリングに上がっていても、第一線を退いているケースがほとんどだが、大仁田はバリバリの選手として活躍しているのだから驚くばかり。 故橋本真也さんの流れを汲むZERO1で運営されている超花火実行委員会が主催する「超花火シリーズ」では、毎月3〜5回程のペースで、“お家芸”の電流爆破デスマッチを敢行。同シリーズは、“地方創生”をテーマに掲げ、全国の田舎町を回り、ファミレス(ファミリー・レスリングの略)と称して熱戦を繰り広げ、ファミリー層やおじいちゃん、おばあちゃんたちを大いに喜ばせている。つい最近では、5月23日、東京・大田区総合体育館で、引退している女子プロレス界のカリスマ・長与千種を復帰させて、タッグを組んで電流爆破デスマッチを行うなど、オールドファンを巻き込んで、話題を振りまいたばかり。また、この4月にはかつて大仁田が創設したFMWという名の団体(超戦闘プロレスFMW)が13年ぶりに復活。大仁田は同団体の象徴として、全国を巡業中。 ストロングスタイルのプロレスを掲げ、全くポリシーが異なる初代タイガーマスク(佐山聡)主宰のリアルジャパン・プロレスにも戦争を仕掛け、タイガーとの異次元マッチを実現させ、元関脇・貴闘力(元大嶽親方)をリングに引っ張り上げることにも成功した。さらには、メジャー団体のプロレスリング・ノアを始め、大小さまざまな団体から声が掛かるなど、引っ張りだこで、まさに、縦横無尽にいろんなリングで暴れ回っている。 凄いところは、57歳という年齢にして、全盛期とそれほど変わらない動きをキープ。どこのリングに行っても、ゲスト的な顔見せではなく、“主役”として登場している点である。大仁田は60歳で還暦電流爆破デスマッチを行って、プロレスにひと区切りつけるつもりでいる。10月25日で58歳となる大仁田に残された期間はあと2年4カ月。その間、突っ走って幕引きを図ろうというのだ。 大仁田は引退、復帰を繰り返したことで有名だ。その回数はもはやマスコミ、ファンはおろか、本人もよく把握できていないが、正確には4回のようだ。 全日本プロレス時代、試合後のアクシデントで左膝蓋骨を粉砕骨折。完治しないまま見切り発車的に復帰したものの、満足なファイトができず。84年12月2日、引退を懸けたマイティ井上との一戦で敗れ、85年1月3日に引退式を行い、リングを去った。引退後、タレントや実業家として活動したが、88年12月3日、ジャパン女子プロレスのリングでのグラン浜田戦で復帰。89年10月、所持金5万円でFMWを設立。当時、格闘路線のスポーツライクなプロレスで隆盛を築いた新生UWFのアンチテーゼとして、ノーロープ有刺鉄線デスマッチなどを敢行。電流爆破デスマッチが大ヒットし、大仁田は大ブレイク。試合後のマイクアピールで感極まって泣くことから、“涙のカリスマ”として、一躍、プロレス界の風雲児となった。 95年5月5日、川崎球場での愛弟子・ハヤブサ戦を最後に2度目の引退。タレント活動は順調だったが、かつてのライバルだったミスター・ポーゴから「引退試合で大仁田とタッグを組みたい」とのラブコールを受け、96年12月11日、限定復帰。その後、古巣のFMWへスポット参戦を続けたが、98年11月、FMWを離脱し、新日本プロレスをターゲットに定める。 単身で新日本に乗り込んだ大仁田は、蝶野正洋、グレート・ムタとの電流爆破デスマッチを実現させた。たった一人で、メジャー団体に立ち向かった姿がファンの共感を得て、再ブレイクを果たしたのだ。大仁田は当時、引退して現場監督だった長州力戦を叫び続けた。当初は完全拒絶していた長州だが、その熱意に負ける形で、大仁田の挑戦を受諾。00年7月30日、神奈川・横浜アリーナで大仁田対長州のノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチが実現した。長州はその後、復帰し、今でもリングに上がっているのだから、人の人生は分からぬものだ。 プロレスのみならず、タレントとしてもブレイクしていた大仁田は01年7月29日投開票の参議院選挙に自民党から出馬し、当選。公務に専念するため、05年3月26日、「プロレス卒業試合」を行い、3度目の引退。06年4月1日、「国のために死んでいった方々に礼を尽くす記念すべき大会。もし良かったら参加させてほしい」として、ZERO1の靖国神社奉納プロレスで限定復帰。07年、6年の任期をもって、政界は引退。その後もリングに上がり続けたが、10年2月の長崎県知事選に出馬するにあたり、周囲のアドバイスもあり、「当選したら知事職に専念する」として、引退を表明。同21日投開票の同知事選では、9万8200票を得るも落選。当選しなかったため、もはや引退する必要性はなくなっていたが。選挙前の約束通り、同年5月5日、新FMW(現スーパーFMW)の興行で引退試合を行った。 その後、4度目の復帰を果たしたものの、表立った活動はしていなかったが、12年初頭、「もう一度プロレスを真剣にやりたい」と宣言。ターゲットに初代タイガー、元横綱・曙の名を挙げた。何度も浮き沈みを繰り返した大仁田だが、当時は底。ここから、再々ブレイクを果たすとは、どれほどの人が思っただろうか? よもやと思われた初代タイガー、曙との抗争を実現させた行動力はさすがだった。この2人をデスマッチの世界に引きずり込むと、曙とは電流爆破デスマッチも実現。同年8月にスタートした「大花火シリーズ(現・超花火)」で、3度、曙と電流爆破で相まみえた。曙が全日本の所属となって、対戦が困難になると、ターゲットを3冠、IWGP、GHCを制したグランドスラム男の高山善廣に変えて、名勝負を展開。メジャー3団体のヘビー級のベルトを巻いた高山をも、電流爆破の世界に引き込んでしまった。 気が付けば、再びプロレス界の中心人物となった大仁田。何度も引退、復帰を繰り返したが、それは、その時の自身の感情に正直に従った結果だった。突拍子もない行動をすることや、“邪道”と呼ばれるプロレスのスタイルから、大仁田を嫌う人も多いが、自分を慕ってくる人間に対しては、極めて好意的で、後輩の面倒見もいい。リングを下りたら、年下の選手でも、「さん」づけする心配りも持ち合わせているし、マスコミへの気配りも決して忘れない。 全日本時代に負傷した左膝は悲鳴を上げているが、還暦電流爆破デスマッチ実現まで、全速力で突っ走ることだろう。(ミカエル・コバタ=毎週水曜日に掲載)★超花火プロレスhttps://www.z-1.co.jp/zero1/★超戦闘プロレスFMWhttp://www.fmwjapan.com/
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スポーツ 2015年06月10日 12時00分
【甦るリング】第11回・周囲に流され過ぎた高田延彦
現在、テレビ朝日「サンデースクランブル」にレギュラー出演するなど、タレントとして活躍する高田延彦(旧名・伸彦)も、プロレスラー、格闘家として名を残したレジェンドだ。プロレスラーで、引退後、芸能人として成功した稀有な例の一人だ。その高田なのだが、現役時代、あまりにも周囲に流され過ぎて、自分の意思を貫けなかった印象が強い。 少年時代、アントニオ猪木に憧れていた高田は、中学卒業後、高校進学はせず、プロレスラーになるべく自己流で体を鍛え、1980年に新日本プロレスに入門。道場では師匠格の藤原喜明、兄貴分の前田日明に徹底的にしごかれる。 81年5月にデビューした後は、細い体ながら、抜群のプロレスセンスとガッツあふれるファイトで頭角を現し、離脱した初代タイガーマスク(佐山聡)の後釜として期待を懸けられる。甘いマスクであることから、女性ファンにも人気が出た。しかし、84年4月に前田らが参加した旧UWFが旗揚げすると、師である藤原に誘われるまま、同団体に移籍してしまう。その理由は「藤原さんが新日本からいなくなると強くなれない」とのものだった。あの時、高田が新日本にとどまっていたら、そのプロレス人生は違うものになっていただろう。 その旧UWFは格闘路線を標ぼうし、新たなプロレスのスタイルを模索したが、興行不振のため、85年9月、志半ばで活動停止。タイガーはプロレス界から去ったが、前田、高田ら、他のメンバーは業務提携の名のもとに、新日本に復帰する。当初は新日本対UWFの対抗戦が主軸となったが、高田はジュニア・ヘビー級戦線に駆り出され、第2代IWGPジュニア・ヘビー級王座に君臨。全日本プロレスから移籍した越中詩郎と伝説の名勝負数え唄を繰り広げる。高田は前田とのタッグで、IWGPタッグ王座にも就いている。 87年になって、長州力らのジャパン勢が新日本にUターンすると、UWFの立場はなし崩し的になっていき、長州の呼び掛けにより、旧世代軍対新世代軍による世代闘争に転換される。そんな中、同年11月19日に行われたUWF軍対維新軍の6人タッグマッチで、前田は木戸修にサソリ固めをかけていた長州の背後に回り込み、その顔面を蹴って、長州の右目に大ケガを負わせる。プロレスの暗黙のルールに反したとして、前田は出場停止処分を受ける。解除条件として、メキシコ遠征を言い渡されるが、これを前田が拒否したため、88年2月、新日本から解雇される。 新日本から追放された前田は新生UWFの旗揚げに動き、高田は兄貴分に誘われて、山崎一夫らとともに移籍。高田は新日本で、それなりのポジションを確保していたが、また新たな道を進むことになる。新生UWFは格闘路線をまい進し、従来のプロレスに満足できなくなった層のファンから絶対的な支持を得て、一大ムーブメントを形成。高田は前田に次ぐナンバー2の座に就く。その後、新日本から、藤原、船木誠勝、鈴木実(後にみのる)が合流し、戦力アップを図り、89年11月に東京ドームに進出するなど隆盛を極めた。 しかし、選手とフロント間に不協和音が発生。前田がフロントの不正経理疑惑を糾弾したことに対し、背任行為として出場停止処分を下すなど、両者間の激しいあつれきが発生。結局、新生UWFは90年12月にあっけなく解散した。前田は残った選手で新団体設立を目指したが、話し合いは決裂。前田は孤立し、船木、鈴木は藤原に付いていくことになり、高田らはUWFインターナショナル設立に動く。高田はついに団体トップの座に就き、社長に祭り上げられることになるが、果たして、それが良かったのかどうか…。 91年5月に旗揚げしたUインターは、新生UWFよりプロレス寄りのスタンスを取り、スーパー・ベイダー(ビッグバン・ベイダー)、元横綱・北尾光司、プロボクシング元WBC世界ヘビー級王者のトレバー・バービック、サルマン・ハシミコフ、ダン・スバーン、ゲーリー・オブライトらを招へい。タッグバウト(タッグマッチ)を導入したりした。 だが、新生UWFが三派に分裂したことで、集客に苦労し、経営はひっ迫していくことになる。95年6月、「近い将来、引退します」と宣言した高田は、同年7月の参議院選挙で、さわやか新党に担がれて出馬するなど迷走(落選)。このあたりにも、「NO」と言えない高田がいたようだ。落選により、引退の話はどこかに消えて行ってしまった。 いよいよ、経営が厳しくなったUインターはポリシーを捨て、新日本との対抗戦に踏み切る。同年10月9日、東京ドームで開催された新日本対Uインターの全面対抗戦は、興行的には空前の大ヒットとなったが、エースの高田は武藤敬司に敗れ、大きなイメージダウンを被る。その後も新日本との対抗戦は継続し、その流れからWARとの対抗戦にも飛び火。基本的に、技を受けないスタイルだったUの高田と、典型的な受けのプロレスの天龍源一郎との異色対決は、意外にも名勝負を奏でた。だが、反面、Uのポリシーはどんどんあってないようなものになっていく。 その一方、方向性が違ってきたこともあり、所属選手が次々に退団。96年10月には、交流のあった東京プロレスからのオファーを断り切れず、高田がアブドーラ・ザ・ブッチャーと対戦するという仰天カードが実現。団体を守るため、高田はもはや、なりふり構わぬ姿勢を取ったが、ついにギブアップ。同団体は、同年12月で解散し、5年半に及ぶ活動に終止符を打った。高田は団体のトップとして、それなりの役割を果たしたが、経営者には向いているとはいえなかった。同団体のほとんどの選手は、新団体キングダムに移行したが、高田は参加しなかった。高田対ヒクソン・グレイシー戦を実現させるためのプランが進行していたからだ。高田は自らの道場を設立し、“400戦無敗の男”との対戦に向かうことになる。 そして、97年10月11日、東京ドームで開催された総合格闘技興行「PRIDE.1」(当時はKRS主催)で、高田対ヒクソン戦が実現するも、高田は完敗を喫し、プロレスファンの夢を打ち砕くことになる。その後、「PRIDE」シリーズは継続し、その代表選手となった高田はプロレスを封印し総合に専念。そのあたりから、「プロレスラー」と呼ばれることを嫌い、「ファイター」と称するようになる。 1年後の98年10月11日(東京ドーム)では、ヒクソンと再戦するも、またも敗退。高田の控え室は、マスコミ用のインタビュースペースの隣りに設置されていたが、試合後、大声で号泣する高田の嗚咽が漏れたのが記憶に生々しい。そもそも、「PRIDE」はプロレスファンを当て込んだ興行で、高田の存在は欠かせないものとなり、総合を継続。しかし、マーク・ケアー、ホイス・グレイシー、イゴール・ボブチャンチンに敗れるなど、戦績はかんばしいものではなかった。階級は違うが、弟子の桜庭和志が“グレイシー・ハンター”として、総合で大ブレイクを果たしたが、正直、高田は総合に適性があるとは思えなかった。 02年11月24日、東京ドームでの「PRIDE.23」で、高田はかつての弟子・田村潔司を相手に引退試合を行い、右フックで失神KO負け。Uインター時代、田村からの挑戦表明を高田が拒否した経緯があったが、二人はその遺恨をこの試合で水に流した。 引退後、高田はPRIDE統括本部長に就任し、運営会社のDSEが旗揚げしたエンターテインメントプロレス団体「ハッスル」に参画し、悪の高田モンスター軍を率いる高田総統に扮した。「ハッスル」では高田総統の化身の触れ込みで、ザ・エスペランサーとして復帰したが、これまた本人の意思だったのかどうか…。 09年7月をもって、「ハッスル」から撤退した高田は、リングと決別。その後、道場経営をしながら、タレントとして活動している。何度も大きなターニングポイントがあった高田だが、常に周囲の意見に流されてしまったイメージはぬぐえない。(ミカエル・コバタ=毎週水曜日に掲載)
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スポーツ 2015年06月03日 12時00分
【甦るリング】第10回・超大物プロレスラーのオーラが凄かった橋本真也
“破壊王”橋本真也が、この世を去って早10年が経とうとしている。 その死は、あまりにもショッキングだった。05年7月11日、知人宅で倒れた橋本は病院に救急搬送されたが、死亡が確認された。死因は脳幹出血とされた。享年40歳の若さで、プロレスラーとしては、まだまだこれからという年齢であった。 後に明らかになったが、橋本は同年3月に夫人のかずみさんと離婚。その後、03年3月19日に亡くなったプロレスラー・冬木弘道さんの未亡人・薫さんと交際。2人は結婚の約束もしていたというが、知人宅というのは、その愛の巣だった。恋愛は自由ではあるが、交際相手は冬木さんの奥さん。ちょっと、スキャンダルチックな最期にショックを覚えたファンも少なくなかっただろう。生きていれば、新たな伝説もたくさん残しただろうし、その意味では、あまりにも早すぎる死だった。 私はZERO-ONE時代に、1度だけ、単独でインタビューさせていただく機会に恵まれたが、その発するオーラはすさまじく、ただならぬものがあった。質疑応答のなかで、激しい感情を見せる場面もあり、今でも昨日のことのように覚えている。橋本はまさに、超大物プロレスラーの貫録、威厳を漂わせた男だった。 橋本にとって、ZERO-ONEとは何だったのか? 新日本プロレスにいれば、苦労することもなかったろう。逆に、独立したからこそ、新日本時代には見られなかった一面が引き出されたともいえる。 独立の遠因となったのは、柔道からプロレスに転向した小川直也のライバルに仕立て上げられたことだった。一連の小川との抗争がなければ、新日本を辞めることはなかったかもしれない。 新日本の象徴であるIWGPヘビー級王座に3度君臨し、通算20回の防衛に成功した橋本は“ミスター・IWGP”と呼ばれた。しかし、小川のデビュー戦の対戦相手に起用されたことで、その歯車が狂い出す。97年4月12日、東京ドーム。当時、IWGP王者だった橋本は、プロデビュー戦の小川に敗れた。同年5月3日、大阪ドームでの再戦にはタイトルが懸けられ、橋本がリベンジを果たす。 99年1月4日東京ドームでの3度目の対戦では、小川がケンカマッチを仕掛けた。不意を突かれた橋本は終始劣勢に回り、試合は無効試合の裁定が下った。同年10月の4度目の対戦では、小川に完敗。後がなくなった橋本は、00年4月に小川と5度目の対戦をすることになる。この一戦は、テレビ朝日の企画として、「橋本真也34歳小川直也に負けたら即引退スペシャル」と題して、ゴールデンタイムで放映されたが、橋本は再び敗れて引退を余儀なくされた。しかし、テレ朝の番組企画で、熱心なファンからのラブコールに心を動かせた橋本は引退撤回を決意。半年後の同年10月9日、東京ドームで復帰する。 カムバックした橋本は新日本内に別組織「新日本プロレスリングZERO」を設立したが、長州力ら団体上層部と対立し、同年11月に完全独立を宣言。これを受けて、新日本から解雇された。 新日本から大谷晋二郎、高岩竜一も追随し、ZERO-ONEを設立した橋本は、01年3月2日、両国国技館で旗揚げ戦を行った。メーンイベントは橋本&永田裕志(新日本)vs三沢光晴&秋山準(ノア)という夢のカード。それまで接点がなかった新日本系の選手とノア勢との対戦を実現させたのは画期的で、伝説の興行となった。試合後には、小川、藤田和之が現れ、ノア勢を挑発し、乱闘騒ぎとなった。同年4月の日本武道館大会では、三沢と小川の禁断の初対決(三沢&力皇猛vs小川&村上和成)を実現させた。 その後、かつてのライバル小川とは共闘の形を取って、「OH砲」を結成。同期生・武藤敬司率いる全日本プロレスとの対抗戦にも乗り出し、橋本は3冠ヘビー級王座にも就いた。よもやと思われた長州のWJプロレスとの対抗戦に臨んだこともあった。04年に設立されたハッスルにも、旗揚げから参戦し、エンターテインメントプロレスにも挑戦。メジャー団体と違って、フットワークが軽い点を生かして、様々な団体との交流や企画を実現させたのは、ZERO-ONEの功績でもある。 しかし、団体運営は決して楽なものではなかった。橋本が04年8月から古傷である肩の治療のため欠場に入ると、興行不振に陥り、経営難に拍車を掛けた。団体内での意見の対立も表面化してしまい、橋本は同年11月、負債約1億円を背負う形で団体の活動を停止した。その後、肩の手術に踏み切った橋本は、リハビリをしながら、フリーのプロレスラーとして復帰を目指していたが、そのさなかに帰らぬ人となった。 リングを下りると、その性格は破天荒でハチャメチャな性格で、いかにも昔気質のプロレスラーらしいタイプ。それでいて、子どもっぽい茶目っ気もあって、“破壊王”は憎めない愛すべきキャラクターだった。今さらながら、その早すぎる死は残念でならない。(ミカエル・コバタ=毎週水曜日に掲載)
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スポーツ 2015年05月27日 12時00分
【甦るリング】第9回 “タイガーマスクブーム”巻き起こした佐山聡の人柄
近代プロレス史において、ジャイアント馬場、アントニオ猪木は“別格”として、まさに強烈なインパクトを残したのが、初代タイガーマスク(佐山聡)だ。タイガーマスクのデビューは、そりゃもうプロレス界の常識を覆すような鮮烈なものだった。時は81年4月23日、場所は蔵前国技館。対戦相手はジュニア・ヘビー級の雄であったダイナマイト・キッド。 もちろん、タイガーの正体は不明とされていた。そこに現れた虎の覆面の男は、アニメの「タイガーマスク」をはるかに上回る四次元殺法を披露し、強豪のキッドに勝ってしまったのである。とても、常識では考えられないような空中殺法に私は魅了された。いや、多くのプロレスファンが、そのとりこになったのだ。 私的なことで恐縮だが、当時、私は大学生。飲食店でアルバイトしていたのだが、タイガー見たさもあって、新日本プロレスのテレビ中継「ワールドプロレスリング」がある金曜日は休みにしてもらったりしていた。その頃、ビデオデッキなどという高価なものを、大学生ごときが所有できるような時代ではなく、リアルタイムで見るしかなかったからだ。飲食店といえば、金曜夜は稼ぎ時で、バイト先の社長からは「忙しいのに…」と苦言を呈されたものだ。 タイガーはキッド、ブラック・タイガー(マーク・ロコ)、小林邦昭といったライバル相手に、名勝負を繰り広げたうえで、連戦連勝。WWFジュニア・ヘビー級王座、NWA世界ジュニア・ヘビー級王座に君臨。シングルマッチはおろか、タッグマッチにおいても、1度もフォールやギブアップを奪われたことはなかった。敗れたのは1試合だけで、キッド戦での反則負けだった。 当時の新日本は人気絶頂の頃。テレビ視聴率はゆうに20%を超え、どこに行っても連日超満員の観衆が集まっていた。タイガーがその新日ブームに大いに貢献したのは、いうまでもない。ところが、タイガーはあっけなく、その覆面を脱ぎ捨ててしまう。83年8月、新日本に対して、契約解除を一方的に通告し、引退を宣言した。タイガー側によると、その人気で得られた収益を、猪木が経営難の個人事業であった「アントン・ハイセル」に流用させていたとして批判。さらに、営業本部長だった新間寿氏と、タイガーの個人マネージャーが対立していたとの背景もあった。 その直後に、一部スポーツ紙が素顔の写真を掲載し、その正体が佐山であることを報じた。タイガーはテレビ出演した際にも、迷うことなく素顔を公開した。こうして、大ブームを巻き起こしたタイガーマスクは、わずか2年4カ月でリングを去った。 そして、引退したタイガーは「タイガージム」を設立し、ジム生を集めて格闘技の指導にあたる。引退から約1年後の84年7月、同年4月に旗揚げした新団体・旧UWFで復帰。もともと、格闘技志向が強かったタイガーは、従来のプロレスとは一線を画し、新たなルール作りに着手した。ところが、タイガーの方向性を疑問視する選手も多く、団体のエースであった前田日明との確執もあって、85年10月に離脱した。これ以降、タイガーはプロレス界と絶縁し、新格闘技・シューティング(後の修斗)を設立。プロレス界の暴露本を出版したこともあった。むろん、プロレス界からの反発も強く、もはや2度とプロレス復帰はあり得ないと思われた。 一から立ち上げたシューティングは徐々に普及し、日本の総合格闘技の礎となった。あの“400戦無敗の男”ヒクソン・グレイシーを選手として、初めて招聘したのもタイガーだった。その存在がなければ、その後の日本での総合格闘技ブームはなかったわけで、その意味でも大功労者である。タイガーは96年に修斗の運営から手を引いたが、プロレス記者となった私が初めて、単独インタビューを行ったのは、まだ修斗時代。ファンだった頃、魅了された存在であり、かなり、緊張して赴いた記憶があるが、現れたタイガー、いや佐山さんはとても腰が低く、気さくで柔らかい人当たりの好人物でホッとしたのだった。とにかく、タイガーの話は面白く、その後、何度もインタビューさせていただいたが、その人当たりの良さは今でも変わらない。 94年5月には、永島勝司取締役のオファーを受け、古巣・新日本のリングに上がり、獣神サンダー・ライガーとエキシビションマッチを行い、9年ぶりにプロレス界と接点をもったタイガーは、翌95年に、まさかの復帰を果たす。プロレス界に舞い戻ったタイガーは、猪木とも和解し、98年に創設されたUFOに参画。プロレスに転向した小川直也を指導したが、猪木との方向性の違いから離脱。99年5月には、再び新たな格闘技・掣圏真陰流を設立し、桜木裕司や瓜田幸造らを育てる。その一方で、05年6月にはリアルジャパン・プロレスを旗揚げした。 全盛期はビルドアップされた体をしていたが、大の“甘党”が災いしてか、復帰後は常に体重オーバー。本人はことあるごとに、「○○キロまで減量する」と言うのだが、実現できたことはないのでは? かつては、変幻自在の空中殺法を繰り出していたが、今はキックや関節技が主体。たまに、飛ぶこともあるが、もう57歳だ。バリバリの20代の頃と比較するのは野暮ってものだ。プロレスを一度捨てていなかったら、新日本の大エースになっていたかもしれない。しかし、タイガーがプロレスを離れたからこそ、日本に総合格闘技が根付いた。いろんなことがあったタイガーだが、リングに上がっただけでも、“華”がある。“初代”タイガーマスクの名は絶対的なもので、レジェンドであることに変わりはない。 なお、リアルジャパン・プロレスでは6月11日(木)に、東京・後楽園ホール(18時半開始)で10周年記念興行を開催する。ただし、タイガーは現在、心臓疾患を抱えており、出場できるかどうかは微妙だという。(ミカエル・コバタ=毎週水曜日に掲載)
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スポーツ 2015年05月20日 12時00分
【甦るリング】第8回・寡黙で硬派だった川田利明がエンターテイナーに大変貌した驚がく
川田利明…“全日四天王”と称され、三沢光晴、小橋建太、田上明とともに、全日本プロレスで一時代を築いた伝説のプロレスラーである。現在は、東京都世田谷区に飲食店「麺ジャラスK」を開店したこともあり、プロレス活動は休止状態となっている。 全日本時代の川田の印象は、とにかく寡黙で硬派。とはいえ、無口というわけでは決してなく、あまり試合のことを口でしゃべりたがらないタイプ。ジャイアント馬場が嫌ったこともあるが、リング上でマイクアピールをすることもほとんどない。従って、記者としては、非情に原稿が書きづらい選手であった。その反面、時として、試合後、冗舌になって、立て板に水のごとくコメントすることもあった。そんな時は、原稿を書くのもスラスラとはかどったものだ。リング上のイメージと反するが、川田は大のお笑い好きで、ダチョウ倶楽部とも親交があり、タレント活動する際は太田プロダクションの所属となっている。 そんな寡黙で硬派の川田が、エンターテインメント性を追求したプロレス団体・ハッスルに身を投じ、まさしくエンターテイナーに大変貌を遂げたのには正直驚きを隠せなかった。ハッスル参戦に至るまで、紆余曲折があった。99年1月に馬場が亡くなると、全日本では三沢が社長、川田が副社長を務めていたが、三沢と馬場元子夫人との意見が対立。三沢ら大半の選手が00年6月に離脱し、プロレスリング・ノア設立に動いた。残されたフル参戦の日本人選手は、川田とベテランの渕正信の2人だけだった。 全日本は川田らが新日本プロレスとの対抗戦などに活路を見出していたが、02年9月に元子夫人から、元新日本の武藤敬司に禅譲された。川田は参戦を続けたが、05年3月に無所属を宣言した。馬場の死後、正式な契約は交わしておらず、事実上フリーの状態だった。後に川田は当時、長期間に渡って、ギャラが支払われていなかったことを明かしている。その後、全日本への参戦も続けたが、主戦場はハッスルに移す。それは好んで、そうしたわけではなく、食っていくための選択だったようだ。ハッスルではハッスルK、モンスターKとして、エンターテインメント・プロレスにまい進する。 ふだんはガチガチのハードな試合を展開する川田だが、ハッスルではタレントのインリン様(インリン・オブ・ジョイトイ)や、大食い王のジャイアント白田を始め、タレントとの絡みも多く、歌や踊りを披露するなど、硬派な川田しか知らないファンをあ然とさせたものだ。私自身も、「何が川田をこうさせたのか?」と驚くしかなかった。 「ポリシーを変えてほしくない」と思ったりもしたものだが、今思えば、当時の川田にとっては、エンターテインメントをまっとうするのが仕事であり、生きていくためにはやむを得ないことだったのだろう。 そんな川田に相次いで、ショッキングなことが起きる。09年6月、足利工業大学附属高校レスリング部の1年先輩である三沢が、リング禍により死去。川田は三沢の後を追って全日本入りし、ずっと三沢の後ろ姿を見続けていた。不幸にして、上がるリングは変わったが、05年7月18日、ノア初の東京ドーム大会では、シングルマッチで三沢と対戦。その後、三沢存命時に再びノアのリングに上がることはなかったが、川田自身は再戦を熱望していたのだ。 川田にとって、立場が変わっても、ずっと目標であった三沢が亡くなったことで、プロレスを続けるモチベーションに変化があったのは確かのようだ。さらに、主戦場のハッスルは09年10月に事実上の活動停止に陥る。 転機となった川田は10年6月、世田谷区に飲食店「麺ジャラスK」を開店。オープン当初はプロレス活動もしており、三沢没後のノアのリングにも上がったが、同年後半からはフェードアウトし、店の経営に専念。ふたつのことを同時にこなすのが苦手で、ひとつのことに集中するタイプの川田は、店を軌道に乗せるために汗を流し、トレーニングをする暇もなく激ヤセしてしまった。今ではリングに上がれるようなコンディションではない。なお、同店はラーメン屋と思われがちだが、川田曰く居酒屋。客には唐揚げなどのつまみで酒を飲み、締めでラーメンを食べてもらうのが理想だという。 現在51歳の川田。このままプロレスラーとしては終わってしまうのか? 中途半端なことはしない性分なだけに、ちょっとやそっとのことでリングに上がることはないだろうが、いつか、もう1度、“デンジャラスK”の勇姿をリング上で見たいものである。(ミカエル・コバタ=毎週水曜日に掲載)
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スポーツ 2015年05月06日 12時00分
【甦るリング】第6回・“痛みの伝わるプロレス”を体現した天龍源一郎
R30世代以上のプロレスファンにとって、絶対に忘れることができないプロレスラーが天龍源一郎だ。今年2月2日で65歳になった天龍だが、今なお現役を続け、トップレスラーの威厳を保っているが、残念ながら、デビュー39周年となる11月で引退する。天龍は腰部脊柱管狭窄症の治療のため、11年12月から長期欠場に入り、2度の手術を乗り越えて復帰したが、引退理由については、腰の故障ではなく、「夫人の病気のため」としている。 福井県勝山市の農家に育った天龍は幼少期から体が大きく、それがきっかけで相撲界に入ることとなり、中学2年の時に上京。63年(昭和38年)12月に二所ノ関部屋に入門した。64年初場所(1月)で初土俵を踏み、71年秋場所(9月)で新十両、73年初場所で新入幕を果たした。メキメキと力を付けていった天龍は74年初場所で、自己最高位の前頭筆頭まで番付を上げるが、部屋の騒動に巻き込まれてしまう。師匠が亡くなり、押尾川親方が天龍らを引き連れて独立を目論んだが、師匠の未亡人が反対。結局、独立自体は認められたが、希望者全員を連れて行くことはかなわず、天龍は金剛が後継した二所ノ関部屋に戻されたのだ。 金剛とソリが合わなかったとされる天龍は嫌気が差して、相撲を辞めることを決断。76年秋場所(番付は前頭13枚目)で勝ち越しながら、場所後に廃業した。そして、同年10月、全日本プロレスに入門。関取が年を取って引退した後、プロレスに転向した例は少なくないが、まだバリバリの幕内力士がプロレス入りするのは異例なことだった。 入団後はジャンボ鶴田と同じように、米国に渡って、ファンク道場で修行。同年11月13日には、テッド・デビアスを相手にデビューを果たす。同年12月、帰国して日大講堂で断髪式を行うと、再び修行に入る。76年6月11日、ジャイアント馬場と組んで、マリオ・ミラノ&メヒコ・グランデと対戦。天龍がグランデをフォールして、日本デビュー戦を白星で飾る。馬場は天龍を鶴田に次ぐ“全日本第3の男”として期待したが、なかなか殻を破ることができなかった。 そんななか、天龍のプロレス人生を左右する試合があった。81年7月30日、ビル・ロビンソンと組み、馬場&鶴田が保持するインタータッグ王座への挑戦の機会を得たのだ。結果的にベルトは獲れなかったものの、この試合での奮闘ぶりが関係者、ファンに評価され、一気にブレイク。まさに、天龍の出世試合となったのだ。 長州力らが新日本プロレスを離脱して、ジャパン・プロレスを設立し、全日本に乗り込むと、その最前線に立ったのが天龍だった。全日本vsジャパン軍の対抗戦において、天龍は欠かせない存在となり、鶴田との「鶴龍コンビ」として活躍。ジャパン軍が新日本にUターンすると、鶴田に反旗を翻し、天龍革命を決行。阿修羅・原、サムソン冬木(冬木弘道)、川田利明、小川良成らと天龍同盟を結成し、全日本正規軍に対抗。それまで、ジャパン軍などの外敵はいたが、団体内に初めて対立の構図を持ち込み、ライバル・鶴田との闘いは黄金カードとなった。 90年4月、天龍は新団体SWSに参加するため、全日本を離脱。そのSWSは内部分裂のため、あっけなく崩壊。天龍は92年7月、WARを設立し、自身のロマンを追及することになり、新日本との闘いにも挑んだ。94年1月4日の東京ドーム大会では、アントニオ猪木とのシングルマッチでフォール勝ちを収めた。89年11月には、タッグマッチながら、馬場からピンフォールを奪っており、日本人で唯一、馬場、猪木からフォールを奪った選手として、プロレス史に、その名を刻むことになる。残念ながら、WARはクローズしたが、天龍は新日本、大量離脱後の古巣・全日本、WJプロレス、プロレスリング・ノア、ハッスルなどでファイト。10年4月に終着駅といえる天龍プロジェクトを設立し、現在に至っている。 天龍といえば、最も“痛みの伝わるプロレス”を体現した男といえる。受けの強さを発揮して、受けに回った時は徹底して、相手の技を受ける。いったん、攻めに回ると、強烈無比。喉元へのチョップ、グーパンチや顔面へのキックなどで対戦相手を悶絶させ、見ている側にも説得力は抜群だ。ファイトスタイルが無骨であるため、頭も固そうに見えるが、実は正反対。WARを旗揚げ後は、柔軟な発想で、“邪道”大仁田厚と電流爆破デスマッチを行なったり、受けのプロレスの対極にあるUWFインターの高田延彦らと抗争を繰り広げたり、女子プロレスラーの神取忍とミクスドマッチに臨んだり、エンターテイメントプロレス(ハッスル)にチャンレンジしたりと、その振り幅は限りなく広い。インディー団体からオファーがあれば、積極的に参戦する度量の大きさも持ち合わせる。 私生活ではとかく後輩の面倒見がいいことで知られ、後輩を引き連れて、酒を飲みに行くのが好きである。喉にチョップを受けた影響からか、声はかすれて聴き取りづらいが、最近では逆にそれがウケて、バラエティ番組に引っ張りだことなっている。 日本プロレス界の歴史において、欠かすことができぬ存在である天龍。その勇姿が見られるのも、あと半年しかない。思い残すことなく、リングを下りてほしいものである。(ミカエル・コバタ=毎週水曜日に掲載)
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スポーツ 2015年04月29日 12時00分
【甦るリング】第5回・日本プロレス界の歴史を変えた藤波辰爾
還暦を過ぎても、なおリングに上がり続ける藤波辰爾(61)。その藤波は3月には、世界最大のプロレス団体WWE(旧名=WWWF→WWF)から、日本人ではアントニオ猪木以来2人目となる殿堂入りを果たし、同29日(現地時間)には、米カリフォルニア州サンノゼで行われたWWE殿堂記念式典「ホール・オブ・フェーム」に出席。改めて、ワールドワイドなプロレスラーであることを再認識させられた。 藤波といえば、新日本プロレス創業者であり、絶対的なエースであった猪木の正統的な後継者であり、その座をライバル・長州力と争った。長州が遅咲きだったため、藤波がエリートで、長州は雑草とやゆされることもあった。だが、実際のところ、藤波は叩き上げから這い上がった選手であり、逆にミュンヘン五輪出場の実績を引っ提げて、新日本に入団した長州はエリートだったのだ。 大分県東国東郡武蔵町(現・国東市)出身の藤波は熱狂的なプロレス少年で、猪木に憧れていた。中学卒業後、いったんは地元の自動車整備工場に就職するも、プロレスラーになる夢をあきらめ切れず、同郷のプロレスラー・北沢幹之(魁勝司)に直談判。なかばもぐりこむような形で、1970年6月、日本プロレス入りした。 プロレスラーとしては、決して体が大きくない藤波は、現在公称しているプロフィールで身長183センチ、体重105キロ。当時まだ16歳だった藤波は体も小さく、なにかスポーツで実績があったわけでもなく、よく入門が許可されたものである。 あこがれの的だった猪木の付き人となった藤波は、71年5月9日にデビューを果たす。ところが、直後に猪木のクーデター事件がぼっ発し、同年12月に日プロを追放された。猪木は新日本を旗揚げし、藤波は行動をともにする。 メキメキと力を付けた藤波は74年12月、若手の登竜門である「第1回カール・ゴッチ杯」を制し、75年1月に海外武者修行に出発。西ドイツ遠征を皮切りに、米国に渡ってゴッチのもとで修業を積み、米国、メキシコでファイトした。そして、藤波の運命を変えたのが、78年1月23日、“WWWFの聖地”米ニューヨーク州MSG(マジソン・スクエア・ガーデン)で開催された定期戦。藤波はWWWFジュニア・ヘビー級王者のカルロス・ホセ・エストラーダに挑戦し、ドラゴン・スープレックスで見事勝利し、王座を奪取した。この実績がWWE殿堂入りに当たって、評価されたのはいうまでもない。 同年3月、勇躍凱旋帰国を果たした藤波は、ブリッジの効いたドラゴン・スープレックス、ドラゴンロケットと称された空中殺法を武器に、王座防衛を積み重ねた。ビルドアップされた見事な体は誰も見ても、カッコよく、大人の男性ファンのみならず、女性、子どものファンのハートを射止め、ドラゴンブームを巻き起こした。 それまで、日本プロレス界において、軽量級は浸透しなかった。しかし、藤波がチャボ・ゲレロ、エル・カネック、ダイナマイト・キッド、木村健吾、剛竜馬らのライバルと名勝負を繰り広げたことで、日本プロレス界に「ジュニア・ヘビー級」を確立させた。 ヘビー級にこだわったオポジションの全日本プロレスも、ジュニア・ヘビー級の導入をせざるを得なくなり、後にこの階級は日本プロレス界において、なくてはならないものになった。その意味で、藤波は日本プロレス界の歴史を変えた大功労者なのだ。 80年2月には、NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座も奪取し、ジュニア2冠王者となった藤波だが、81年10月にヘビー級転向のため、ジュニア・ヘビー級王座を返上。82年8月には、再び、MSGでジノ・ブリットを破り、WWFインターナショナル・ヘビー級王座を奪取した。同年10月には、藤波に反旗を翻した長州力との一連の抗争がスタート。2人の闘いは、このベルトを巡る闘いでもあった。 ただ、ヘビー級転向後の藤波は決して順風満帆とはいかなかった。トップに君臨する猪木の壁はなかなか切り崩せなかったが、85年12月、IWGPタッグリーグ戦決勝戦(猪木&坂口征二対藤波&木村)で、タッグながら、初めて猪木からピンフォールを奪い、世代交代の予感を感じさせたのだった。しかし、後にも先にも藤波が師・猪木をフォールしたのは、この1度だけで、シングルではついぞ、猪木超えは果たせなかった。 88年4月、控室で自ら前髪を切るパフォーマンスで猪木に現状改革をアピール、これは「飛龍革命」と称された。直後の同年5月、空位となっていたIWGPヘビー級王座決定戦でビッグバン・ベイダーを破り初戴冠。同年8月8日、神奈川・横浜文化体育館で挑戦者となった猪木と闘い、60分時間切れドローで防衛。試合後には猪木が藤波の腰にベルトを巻いてやり、両者ともに涙を流す感動の一幕があった。この伝説に残る一戦が、事実上新日本の世代交代となった試合だった。 この後、新日本は藤波エース路線を敷いたが、好事魔多し。89年6月、藤波は椎間板ヘルニアを発症し、1年3カ月にわたる長期欠場となり、長州がエースの座に就く。藤波は90年9月の復帰を機に、リングネームを本名の辰巳から辰爾に改名。同年12月にはIWGP王座を奪還するなどしたが、武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也の闘魂三銃士の台頭もあり、じょじょに影が薄くなっていく。99年6月に坂口社長が退任し、後を引き継ぐと第一線から退くようになり、引退カウントダウンが始まる。折しも、橋本がZERO−ONEを旗揚げ、長州、佐々木健介らは新団体WJプロレスに参加、武藤は全日本に転じるなど、主力選手の離脱が相次ぎ、新日本は苦境に陥る。そんななか、藤波の発言は一貫性がなく、猪木が何か言うと前言を翻すなどしたため、“風見鶏”と称されることもあった。 04年6月に社長を退任した藤波は引退カウントダウンを撤回し、06年6月に新日本を退団し、無我ワールド(現ドラディション)を旗揚げ。現在はドラディション、初代タイガーマスク(佐山聡)主宰のリアル・ジャパン・プロレス、レジェンド・ザ・プロレスリングなどでファイトしている。リングを降りたら、極めて温厚な紳士で、ファンを大事にする藤波だが、新日本という業界最大手の社長職には向いていなかったようだ。 また、「飛龍革命」もそうだったが、部屋別制度を唱えて結成した「ドラゴン・ボンバーズ」や、新日本から独立した興行「無我」など、どこか中途半端に終わることが多かった。 ジャンボ鶴田(全日本)がジャイアント馬場を倒さない形でエースの座に就いたように、藤波もまた猪木を力でねじ伏せて団体のトップに立ったわけではないだけに、ファンにとっては、いまひとつ説得力に欠ける世代交代だったかもしれない。リング上や、その発言においても人の良さが見え隠れする藤波だが、それもまたキャラクター。リングに立っただけで絵になるプロレスラーは、そうそういない。現役を続ける以上、1年でも長く、元気な姿を見せてほしいものだ。(ミカエル・コバタ=毎週水曜日に掲載)