新日本
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スポーツ 2016年02月22日 18時00分
俺たちの熱狂バトルTheヒストリー〈ド迫力の外国人“頂上決戦”〉
「出る前に負けることを考えるバカがいるかよ!」(アントニオ猪木) 「時は来た。それだけだ…」(橋本真也) 今ではこれらセリフとともに振り返られることの多い1990年2月10日の新日本プロレス東京ドーム大会。当初、大会の目玉とされていたのは、米国WCWで看板スターとなったグレート・ムタの凱旋マッチだった。 対戦相手も新日初参戦となるリック・フレアーという豪華カードで、新日ファンに限らず注目を集めていた。しかし、これが突如、一方的にWCW側からキャンセルされる。 「同年4月に開催予定のWWF興行『日米レスリングサミット』に新日が協力することになり、これに対し米国でWWFと興行戦争を繰り広げていたWCWが難色を示したのです」(プロレスライター) 最大の売り物を失ったのでは、大会開催そのものが危うい。新日の社長に就任したばかりの坂口征二にとっては、最初の大仕事でミソをつけることにもなる。 そこでひねり出したのが全日本プロレスへの協力要請という、当時としては誰も想像すらしていない離れ業だった。これにジャイアント馬場は二つ返事でOKを出す。 しかも、坂口の申し出は、かつて新日でも人気を誇ったスタン・ハンセンを借り受けたいというものだったが、馬場からの返答は「ジャンボ鶴田や天龍源一郎も貸し出す」という予想外の大盤振る舞いだった。 「表向きには“坂口の社長就任祝い”でしたが、その裏には馬場なりの計算もありました」(同) 実はフレアーの新日参戦が決まったとき、これに先立って新日と全日との間で結ばれた『引き抜き防止協定』に引っ掛かるとして、問題が生じていたのだ。 日本においては全日側が権利を持つフレアーを新日が招聘するにあたり、馬場が代償として要求したのはスティーヴ・ウィリアムスの移籍だった。 「フレアーの新日参戦がなくなれば、その移籍話も消えてしまう。しかし、馬場としては以前から目をつけていたウィリアムスを、どうしても獲得したかった。そのため、新日に恩を売るにしても、ハンセンの1回きりの貸し出しでは釣り合わないと考え、鶴田や天龍もと言い出したわけです」(同) 思惑はどうあれ、初の全日と新日による本格対抗戦は、ファンにとってムタの凱旋以上のインパクトを与えることになった。 発表と同時にチケットは完売。試合当日には東京ドーム周辺に、入場できないファンが層をなした。 水道橋駅からドームへ向かう陸橋では、大勢のダフ屋が「5万!」「7万!」と威勢のいい声を上げていた。 大会も中盤となる第7試合。花道に鶴田が登場すると、ドームが割れんばかりの大歓声で迎えられ、日本のプロレス界では初めてとなる観客席でのウエーブも巻き起こった。 ただし、試合そのものはやや低調に終わる。鶴田&谷津嘉章vs木村健吾&木戸修は、格の違いから鶴田組の圧勝。続く天龍&2代目タイガーマスクvs長州力&ジョージ高野は、どこかチグハグで噛み合わない試合となった。 顔合わせの新鮮さ以外に見どころの少ない展開に、やや冷めかけたファンの気分を再度燃え上がらせたのは、続いてのビッグバン・ベイダーvsスタン・ハンセン。両団体トップ外国人の激突であった。 試合開始早々、両者殴り合いの中で、ベイダーは右目眼窩底骨折の重傷を負う。その痛みからマスクを脱ぎ捨てると、場内ビジョンに、ベイダーの腫れ上がったまぶたが映し出された。 しかし、どよめく観客席をよそに試合は続行! 負傷のハンデもなんのその、ベイダーはコーナー最上段からのベイダー・アタックとボディーへの重爆パンチで畳み掛け、ハンセンの予告ラリアットもドロップキックで迎撃してみせる。 これにハンセンもブルファイトで応戦。一瞬の隙をついた不意打ちラリアットで両者場外へ転落すると、果てをも知らぬ乱闘へとなだれ込んでいった。 結果、両者リングアウトとなったが、平成版トップ外国人対決のド迫力は、大いに観客を満足させたのだった。
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スポーツ 2016年02月21日 16時00分
小橋建太「青春の握り拳」インタビュー いま蘇る四天王時代と全身全霊のプロレス愛!
90年代の全日本プロレスのリングには、「四天王」と呼ばれる男たちがいた。三沢、川田、田上、小橋。男たちが命を削って繰り広げた激しい闘いは「四天王プロレス」と呼ばれ、多くのファンを感動させ、勇気づけた。あれから約20年−−。四天王の一角であった小橋建太(当時、健太)が、あの“熱狂の時代”を、アツく振り返る−−。 −−発売されたばかりの『小橋健太、熱狂の四天王プロレス』(ワニブックス刊)、読み応え抜群でした! 小橋(笑顔で)ありがとうございます。 −−「四天王プロレス」の時代から、既に20年近くが経過していますが、なぜ今、四天王プロレスをクローズアップしたのでしょうか? 小橋 最近、プロレス人気が復活したといわれていますけど、四天王プロレスを知らない世代も増えている。その人たちにも「今のプロレス界全体に多大な影響を与えた、こういうプロレスもあったんだよ」ということを知ってほしかったのが一番ですね。今はユーチューブでも試合が見れますし、とにかく僕たちが“命を懸けてやっていたプロレス”を風化させたくないという気持ちが強かった。 −−実際、四天王プロレスは、今見ても色あせない激しい試合ばかりです。 小橋 でも、中には「危な過ぎた」とか「やりすぎだった」という声もあるんです。現在、四天王は誰もリングに上がっていないため、四天王時代のプロレスが選手寿命を短くしたという人もいますが、僕は結局25年やったし、まったくそんなことはない。「あのときのプロレスのせいで」と言われるのがすごく嫌なんです。だいたい、プロレスに「やりすぎ」なんてない。 −−やり切ってこそのプロレスだと。 小橋 はい。じゃあ、やりすぎないのがプロレスだというなら、なんのためにリングに上がっているんだって話ですよね。選手がリングに上がって一生懸命やれば、試合はどんどん激しくなるし、それを見てファンも熱狂する。この熱狂が生まれてこそ、選手と観客の間に一体感が生まれて、試合も白熱するわけですよ。四天王プロレスはそういう熱狂を生むプロレスだったし、僕たちも誇りと自信を持ってやっていた。そこに後悔はまったくないんです。 −−なるほど。時を超えるアツさが伝わってきます。 小橋 昔、ある方が「こんなプロレスを続けていたら10年持つ選手生命が1年で終わってしまう」と言っていましたけど、僕は長く続けることより、自分の思いをぶつけられるプロレスをして、悔いを残さないことの方が何倍も有意義じゃないかと思ってやっていました。 −−ただ、小橋さんは四天王の中では一番若手で、なかなか結果が伴わない時期もありましたね。 小橋 そうなんですよ。この本の巻末で対談した(レフェリーの)和田京平さんにも「負けてるイメージの方が強い」って言われたくらい(苦笑)。四天王時代の最初の頃は、勝てませんでした…。 −−そういう時期もあったからこそ、小橋さんに強い思い入れを持って見ていたファンも多かったのでは。 小橋 やっぱりファンの声援が何よりも力になりましたし、背中を押してくれました。だからなのか、逆に四天王時代の後半は負けてない。僕は四天王同士の三冠戦では、田上(明)さんには2戦2勝。川田(利明)さんには1勝2分けなんです。ただ、三沢(光晴)さんにだけは、三冠戦では一度も勝てませんでした…。 −−話は変わりますが、なんでも四天王時代の小橋さんのトレードマークでもあったオレンジのタイツは、松山千春さんに薦められたんだとか。 小橋 そうですね。最初は、赤いタイツをはいてたんですよ。馬場さんに「オマエ、赤はけ」って言われて。その頃、僕は馬場さんの付き人だったので、控え室に行ったら、そこに来ていた千春さんが「オマエ、若いんだからさぁ、オレンジの蛍光色とかそういうのはいた方が恰好いいよ〜」って言ってくれてね(笑)。オレンジにしたのは、そこからなんです。 −−オレンジというと、新日本時代の武藤(敬司)さんのイメージも強いですが、武藤さんよりも先だとか。 小橋 そうなんです! 武藤さんは「俺の方が早い」って勘違いされていたので、以前、トークショーで一緒になったときに、ちゃんとそこは言いました。「ムーンサルトは武藤さんの方が早いけど、オレンジタイツは俺の方が早いんです」って(笑)。 −−そんな会話もされているんですね(笑)。ところで小橋さん、今のプロレス界で、もし自分が現役だったら闘ってみたい選手はいますか? 小橋 そうですね…この答えは面白くないかもしれませんが、誰と闘いたいというよりも、今の全日本であったり、ノアを盛り返したい。やっぱり最近の新日本さんのブレイクぶりと比べると、あまりにも寂しいものがあるので。 −−やはり古巣が気になりますか? 小橋 というよりも、もっと昔の新日本と全日本のように、対抗勢力同士がお互い元気になってくれないと、プロレス界全体が繁栄しないですからね。 −−では、最後になりますが、本誌の読者にメッセージをお願いします。それこそ、現役時代は幾度もの手術からカムバックし、腎臓がんも克服するなど、不屈の闘志で復活を遂げられた小橋さんから、何かアドバイスをいただければと。 小橋 はい。僕ががんになったのは39歳。働き盛り、まだまだこれからってときで、なんとか復帰できたものの、本調子に戻ることは二度とありませんでした…。まして40、50代というのは、これまでの無理が体に出てくる時期。だから、そういう現実を一度受け止めて、その上で、また前に進めばいいと思います。「俺は若いんだ、俺は大丈夫」という気持ちは分かるんですよ。僕もそうでしたから。でも、大丈夫じゃないんですよね。 −−もう若くはないですからね。 小橋 ただ、40代、50代っていっても、まだまだこれからも青春ですから! −−いくつになろうと常に青春はできると? 小橋 はい。40、50代になっても楽しみはまだまだあります。 −−小橋さんは今、何をされているときが楽しいですか? 小橋 今は、娘と一緒に笑ってるときが一番ですかね。 −−女の子なら、プロレスラーにはなる可能性は低そうで一安心ですね(笑)。 小橋 男の子だったとしても、あまりプロレスラーにしたくはないんです。だって、僕が命を懸けてやってきた世界じゃないですか。プロレスに命を懸けられる覚悟がなければ、プロレスはやれないですから。 −−確かに、小橋さんの試合にはその覚悟がありありと見えていました。本の中で、「試合のフィニッシュのときに意識が飛んでいた」とありましたが、あらためてその映像を見ると、完全に意識がないのが分かります。 小橋 そうなんですよ。レフェリーのカウントが「ワン、ツー、スリー」と入った後に、京平さんに手を上げられたんですが、僕は朦朧としていたそうです。勝ち名乗りを受けて、(秋山)準に肩車されたあたりで、やっと意識が戻ったというか、状況が把握できた。 −−あれこそ覚悟というか、小橋さんのプロレス人生における背景を本で読んでから見ると、感情移入ができて泣けてしまいました。だから、この本はそういう楽しみ方もできるのかなと。 小橋 いいですね。みなさんにも、そういう楽しみ方をしてもらえたら素晴らしいですし、この本が、僕らが誇りを持ってやっていたプロレスを見てもらうキッカケになってくれればうれしいです。小橋建太=1967年3月27日生まれ。京都府出身。90年代後半から一世を風靡した元プロレスラー。『全日本三冠ヘビー級王座』『世界タッグ王座』『GHCヘビー級王座』など、多くのタイトルを獲得。現在は大学講師、スポーツ救命協会講師にも就任し、スポーツ全般の普及に努めている。2月14日13時〜女子レスラーの宝城カイリと、17時〜現役レスラーの潮崎豪とのトークイベントを開催。詳しくは公式HP=http://www.fortune-kk.com/まで。
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スポーツ 2016年02月21日 12時00分
新日本プロレス2・11大阪&2・14新潟に軍団再編の春一番が吹いた!
1・4東京ドーム大会が終わってから初のビッグマッチとなった『THE NEW BEGINNING』2・11大阪大会、2・14新潟大会。ともに超満員の大観衆が会場に詰めかけ、大盛況のうちに幕を閉じたが、そこでしばらく止まっていた軍団再編の波が一気に動き出した2大会だった。 「後藤さん! CHAOS入ったらどうですか?」 2・11大阪大会のメインで、IWGPヘビー級王座に通算8度目の挑戦となった後藤洋央紀を相手に“完封勝利”を収めたオカダ・カズチカの口から飛び出したのは、自身が所属する軍団への勧誘だった。すべてを懸けてこの試合に挑んだ後藤は、白使や鬼神ライガーを彷彿とさせる顔面から上半身にかけてのボディペイントで入場し、場内をざわつかせたが、この姿からはIWGPヘビー級のベルトを巻く姿が想像できなかったのも確か。挑戦表明から徹底したオカダへの襲撃でオカダを振り向かせることができただけに、そのままの姿で挑戦した方が新チャンピオン後藤の画をスムーズに想像できた気がする。 これで後藤はIWGPヘビー級選手権試合0勝8敗。いつも最後に空回りしているイメージが強い。もう後がなかった今回は、過去最高の空回りだったのではないだろうか。オカダも「まだ変われるでしょ。あんなんですべてを懸けるなんて言っちゃダメっすよ」と語り、後藤の強さを認めた上で「CHAOSで環境を変えれば、さらに変わることができるのではないか」と勧誘した理由について説明した。 一方の後藤は「このまま消えてしまいたい」と弱気になっており、14日の新潟大会で再びオカダと6人タッグで当たったが、明らかに精彩を欠いていた。オカダの握手は拒否したが、CHAOS入りはIWGPヘビー級王座からは遠くなってしまう可能性が高いものの、後藤がトップで生き残っていくためには悪い話ではない。棚橋弘至&柴田勝頼vsオカダ&後藤というカードには夢がある。 オカダは後藤に任せるとしているが「後藤さんの他にもう1人CHAOSに入れたい人がいる」と、さらなる補強(引き抜き)を示唆している。そして、新潟大会の試合後、自分自身に対して不満を述べたのはなんとキャプテン・ニュージャパンだった。「気分だけ変わるんじゃなくて、すべてが変わらんとな」とコメント。キャプテンは大阪大会で後藤のセコンドに付いていたが、まさか…? 中邑真輔が抜けた穴を補強するのは当然のことだけに、『NEW JAPAN CUP 2016』(3月3日、大田区総合体育館で開幕)から今後に向けた動きがあるかもしれない。 「今度はバレットクラブのニューメンバーを連れて来て、俺が挑戦する」 2・14新潟大会で、カール・アンダーソン&ドク・ギャローズ組が真壁刀義&本間朋晃組とのIWGPタッグ選手権試合(1・4ドームのリターンマッチ)に敗れると、タマ・トンガがマイクを掴み、真壁&本間の王者組を挑発。王者組も受諾した。その後、アンダーソンとギャローズ、そしてバッドラック・ファレとトンガがリングに上がり「Too Sweet」ポーズを交わして友情を確かめ合うと、アンダーソンとギャローズだけが残り、ファンへ深々と一礼をした。これは1・5後楽園ホール大会でAJスタイルズが見せたものと同じ意味を持つと言ってもいい。アンダーソンはバックステージで新日本や真壁&本間組を称賛した上で、「ザ・マシンガン(アンダーソンのニックネーム)とギャローズはおまえらの前から去る」と、かねてから噂されていた新日本マット離脱を明言した。WWEへの移籍が濃厚だ。 メインではバレットクラブの新リーダー、ケニー・オメガがバレットクラブ内ユニットThe ELITEの助けを借りながらも最後は実力で棚橋を下し、IWGPインターコンチネンタル王座に載冠した。ケニーのセコンドにはバッドラック・ファレや、ケニーとの今後の関係が気になるタマが付いていなかったのが気になるところ。そして、中邑の退団に際して木谷高明オーナーにもストレートに噛み付いた内藤哲也が、ロス・インゴベルナブレス・デ・ハポンの新たなるパレハ(仲間)の存在について沈黙を守っているのも不気味である。 毎年4月の両国では何らかの事件が起きているが、今年はブシロード体制になって最大の軍団再編が起こる可能性が高い。タマが言っているように、新戦力も加わってくるだろう。大阪で決起した第三世代と、それに噛み付いた柴田勝頼によるNEVER戦線も見逃せない。優勝すれば、3つのベルトのいずれかに挑戦権が与えられる“春のG1”こと『NEW JAPAN CUP 2016』は、まったく予想不可能なトーナメントになりそうだ。 新日本マットにも軍団再編という春一番が吹いた今年の『THE NEW BEGINNING』だった。 (増田晋侍)<リアルライブ・コラム連載「新日Times」VOL.6>
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スポーツ 2016年02月14日 12時00分
「両国に連れていきます」飯伏、ケニーを撃破! IWGPジュニア王者KUSHIDAのブレない気持ち
今から遡ること2年前の2014年。「ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア」6.6京都大会でKUSHIDAに敗れた“ジュニアヘビーのレジェンド”獣神サンダー・ライガーはマイクを掴みこう叫んだ。 「オイ、KUSHIDAよ! おまえ、強くなったな〜! おまえ、俺から3カウントじゃなく、タップ(ギブアップ)獲ったんだよ。この調子で、準決勝とは言わねぇよ、決勝まで行って、新日本プロレスのジュニアを引っ張ってみろよ!」 ライガーから新日ジュニアを託されたKUSHIDAは「ライガーさん! 『スーパージュニア』に向けて、『ジュニアが主役の季節』とか言われるのが、僕は悔しくてたまらないです。ジュニアはヘビー級の脇役なんかじゃないですよね? ライガーさんならよく知ってますよね? 僕が代々木の決勝で優勝して、その先の両国国技館にライガーさんをお連れします!」と応え、会場に詰めかけた観客はもちろん、CSの生中継を見ていたファンからも称賛の声が数多く上がった。 決勝では当時ドラゴンゲートから参戦していたリコシェに敗れ準優勝。この流れに乗ることができなかったが、アレックス・シェリーとのタッグチーム「タイム・スプリッターズ」で、タッグ屋のイメージが付きつつあったKUSHIDAがシングルプレーヤーとしてアピールすることに成功した大会だった。 そんなKUSHIDAに早くもチャンスが訪れた。同年6・21大阪でリコシェ相手にベストバウト級の試合を制し、IWGPジュニアヘビー級王座の防衛を果たした飯伏幸太への挑戦が決まったのだ。新日本に所属してからずっと追っかけていた飯伏の存在。2011年に飯伏が王者だったときにも挑戦するチャンスがあったが、飯伏が怪我により欠場。王座を返上したため対戦が流れた経緯がある。 2014年7・4後楽園で行われたこの試合は、途中飯伏の意識が飛ぶアクシデントがあったものの、KUSHIDAが試合の主導権を握り、飯伏からホバーボードロックでギブアップ勝ちを収めて、第68代IWGPジュニア王者になる。KUSHIDAは当時シェリーとIWGPジュニアタッグ王座を保持していたため2冠王となり、試合後改めて「ジュニアをヘビーに負けないものにする」ことと「両国でのスーパージュニア開催」を宣言した。 同年9月の神戸大会で田口隆祐に敗れ王座陥落。チャンピオンとして年を越すことはできなかったが、昨年のスーパージュニアではリーグ単独首位で決勝に進出した。 「去年、準優勝で、代々木からもっと大きな会場でやりたいって言って、それができなくて…もちろん、ライガーさんに誓った。ライガーさんも、それを聞いていたお客さんも、今日見ていたお客さんも、全員。KUSHIDAが代々木よりももっと大きな、もっともっと大きな両国国技館、もっともっと大きな明るい未来に連れて行きたいですね」 こう誓って臨んだカイル・オライリーとの決勝戦は、ライガー戦からちょうど1年後となる2015年6月6日に代々木第二体育館で行われた。試合は前年のリコシェ戦と同じく劣勢の場面が多く見られたが、“ブレない心”が勝り、見事に勝利。初優勝を果たした。続く7・5大阪城ホール大会では、IWGPジュニア王者ケニー・オメガに挑戦。セコンドの介入に苦しむもKUSHIDAの勢いは止められず、王座奪還に成功。KUSHIDAがライバル視しているヘビー級の祭典「G1クライマックス」の優勝決定戦が行われた8・16両国大会では、リコシェ相手に防衛。1年越しのリベンジを果たす。 「ずっと『スーパージュニア』の決勝をね、ここ(両国)にもってきたいと。で『G1クライマックス』は3日間も満員にしちゃったわけで。全国まわって、やっぱりジュニアとヘビー、今日現在とてつもなく大きな差があると、ボクは自覚してますよ。ただ俺がここまでね、新日本プロレスの中で、そして外で、海外で歩んできた道が証明してるでしょ。一歩一歩、一歩一歩、みんなが思ってる価値観を必ずや逆転させます」 満員の両国で防衛を果たしたKUSHIDAはこのように語った。9・23岡山大会では前回以上のセコンドの介入に苦しみ、ケニーのリターンマッチに敗れ王座を陥落してしまったが、今年の1・4東京ドーム大会では再びケニーに挑戦し、しっかりベルトを取り戻している。 「やっぱりもう口では散々言ってきましたから、2016年は実行の年でしょ。2015年言いまくって、言いまくって、ウザいほど言いまくって、それでも実現できなかったから。残すは、皆さんの目に見える形で東京ドームのメインだったり、『スーパージュニア』、去年『G1』の決勝でもできたこと、今年もやりたいですし。ジュニアもKUSHIDAも、可能性の塊ですよ。やっと年が明けました。2015年チャンピオンが前哨戦にいなかったり、タイトルマッチに誰かの介入があったり、ヘビー級使ったり、『スーパージュニア』出なかったり、そんなもんもうクソくらえですよ。新しいスタート、2016年スタートですね。期待してください、これからのジュニア。期待と可能性しかないっす」 KUSHIDAの言葉からは、昨年12月のシリーズにケニーが出場しなかったことではなく、IWGPジュニア王者時代に「スーパージュニア」に出場しなかったプリンス・デヴィットや飯伏への不満も込められていた。KUSHIDA自身もタイム・スプリッターズを主軸に置いていた頃があったように、ここ数年ジュニアは外国人を中心としたタッグ戦線が盛り上がっていた。しかし、パートナーのシェリーが欠場中ということもあり、KUSHIDAはしばらくシングルに集中することになるだろう。 2・14新潟でKUSHIDAに挑戦するBUSHIは、ロス・インゴベルナブレス・デ・ハポンに加入したことにより、ジュニアのパートナーがいないことから、新潟の結果に関わらずIWGPジュニア王座に照準を合わせてくるのは間違いない。また、ファンタスティカマニア1・24後楽園で、初代タイガーマスクのデビュー戦を彷彿とさせる衝撃的な一時凱旋マッチを行ったカマイタチ(高橋広夢)も、本格凱旋後はIWGPジュニア王座を一発で獲ると明言しており、KUSHIDAの狙いどおり今年は新日ジュニアのシングル戦線が活発化していくのではないだろうか。 IWGPジュニア王座から陥落した飯伏とケニーは、ともにKUSHIDAに敗れてからヘビー級に転向している。それだけ現在の新日ジュニアは、ヘビー級にも負けない力を持っているのは確かだ。今年の「スーパージュニア」は6・6&7に仙台サンプラザホール2連戦を行う。かつては両国のほかに日本武道館や大阪府立体育会館でも優勝決定戦が行われていた「スーパージュニア」だが、今年は地方での連戦という形で、代々木第二からスケールアップした。本人の考えがブレない限り、必ずやKUSHIDAが両国に連れていってくれる日が来るはずだ。(増田晋侍)<リアルライブ・コラム連載「新日Times」VOL.5>
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スポーツ 2016年02月13日 15時00分
俺たちの熱狂バトルTheヒストリー〈神格化されたカール・ゴッチ〉
「カール・ゴッチは本当に強かったのか?」とは、プロレスや格闘技ファンの間でたびたび起こる議論である。ゴッチの技術は“互いに組み合ってから闘う”という、レスリングのグレコローマンスタイルをベースとしたものであった。 よってそれだけを頼りとしたときには、打撃やタックルで相手との間合いを詰めることから始まる総合格闘技において、その技術を発揮する前に制される公算が高い。 だが、仮に全盛時のゴッチが総合に挑むことになれば、これに対応する新たな技術を習得することもあるわけで、結局「ゴッチの技術だけでは勝てないが、ゴッチ自身が通用したかどうかは不明」としか言いようがない。 ゴッチの強さを問うならば、それよりも“同時代における突出性”から見るべきだろう。ルー・テーズが「サブミッション技術では私の上をいく」と認め、力道山はその初来日時に「強けりゃいいってもんじゃねえ」と愚痴りながらも、以後、日本プロレスの若手育成コーチとして招聘した。 一時期はリングを離れてハワイで清掃員として働いていたゴッチを、再び呼び戻したのは国際プロレスの吉原功社長。その理由は「当時、世界屈指のテクニックを誇るビル・ロビンソンを招聘したものの、張り合える強豪がいないから」というものだった。 こうした“状況証拠”からしても、ゴッチの当時における優越性はうかがえるが、それでも疑問の声が上がるのは、良くも悪くもアントニオ猪木との関係によるものではないか。 旗揚げ当時の新日本プロレスは、外国人選手の目玉がいなかったことから、猪木と師弟関係にあったゴッチを“プロレスの神様”と持ち上げた。これは相対的に直弟子である猪木の評価を高めるのと同時に、“世間はNWA王座を最高峰というが本当に強いのはゴッチ”と、間接的に対抗団体の日本プロレスや全日本プロレスの脚を引っ張る意図があってのものだった。 「もちろん、ゴッチ自身は“神様”を自称したことなど一度もなく、新日と猪木を誇大に見せるため、ゴッチを実態以上に神格化して宣伝に使った部分はあるでしょう」(プロレスライター) では、実際の試合ぶりはどうだったか。前出の国際プロレスにおけるロビンソン戦では、現代の視点からするとやや地味ながらも、テクニックを競い合う好勝負を展開。5度の対戦はいずれも時間切れの引き分けに終わっている。 「フルネルソンを力で強引に外したり、逆エビで絞り上げたりと、ゴッチのパワーファイターとしての一面も垣間見られます」(同) 新日での猪木戦はどうか。こちらも5度の対戦で、ゴッチは3勝2敗と猪木に勝ち越している。 中でも有名なのは1972年3月6日、大田区体育館での新日旗揚げ戦で、ゴッチ必殺のジャーマン・スープレックスに対しては、辛うじてロープに逃れた猪木だが、直後の卍固めを力で外したゴッチは、そのまま猪木を持ち上げてリバース・スープレックスで3カウントを奪っている。当時、ゴッチは48歳。猪木は旗揚げによる心身の疲労があったとはいえ、29歳と旬を迎えたレスラーである。 また、自身の伝授したジャーマンを弟子の猪木が返し、直後にやはり自らが伝授した卍固めを破ってみせるという、師弟ならではのストーリーを演じたあたり、決して強さだけを追求する頑固一徹のレスラーではなかったようだ。 続くシングル第2弾、同年10月4日、ゴッチの持つ“世界最強ベルト”を懸けて行われた蔵前国技館での一戦も、場外でゴッチの放ったジャーマンを猪木がかわしてのリングアウト勝ちと、結果こそやや不透明ながら、全体的には見せ場はたっぷりだった。 「激しいバックの取り合いなどレスリングのムーブもありながら、ゴッチとしては珍しいワンハンド・バックブリーカーやダブルアーム・スープレックスなどを披露しています。キーロックを仕掛けた猪木をゴッチがそのまま持ち上げるという、のちにおなじみとなるムーブも見られました」(同) 神格化されたストーリーばかりが後付けで語られるものの、いい意味で“普通のレスラー”の一面も持っていたのだ。
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スポーツ 2016年02月07日 12時00分
「今度こそ俺のベルトに仕上げる」棚橋弘至インターコンチへの思いを胸に2・14新潟へ
「リスタート、さぁどこへ向かおうかな」 今年の1・4東京ドーム大会のメインイベントで、オカダ・カズチカが保持するIWGPヘビー級王座に挑戦した棚橋。1・4東京ドームで6年連続メインに名を連ね5連勝中だったが、激戦のすえ敗北。しかし「ドームの棚橋さんだからか、わからないですけど、率直に強かったです」と、これまで棚橋を意地でも認めることがなかったオカダに「強かった」と言わしめた。 翌1・5後楽園ホール大会で発表された芸能事務所アミューズとの業務提携に関する囲み会見には、選手代表として出席。木谷高明オーナーは「棚橋さんが一番座りがいい」と語り、棚橋も前日の敗戦を引きずったような様子を見せることなく、終始笑顔だった。そしてロス・インゴベルナブレス・デ・ハポンとの6人タッグに敗れ、バックステージに引き上げて来ると、含み笑いを浮かべながら冒頭のコメントを出し、控室へ引き上げた。 そして棚橋の「運命のライバル」中邑真輔の退団が発表される。次なるビッグマッチ2・11大阪(エディオンアリーナ大阪)、2・14新潟(アオーレ長岡)に向け、たくさんの選手がアクションを起こし、カードが決まっていく中、棚橋の「向かう先」は明らかにされぬまま、中邑の新日本ラストマッチとなる1・30後楽園大会を迎えた。 中邑の壮行試合に臨む棚橋の両隣りには、2・11大阪でオカダのIWGPヘビー王座に挑戦が決まっている後藤洋央紀と、同じく大阪で石井智宏のリターンマッチを受けるNEVER無差別級王者の柴田勝頼が立った。そう、この試合が始まるまで新日本マットでの「ネクスト」が定まってないのは、この試合で退団しWWEのリングで世界に挑戦する中邑と棚橋だけだったのだ。【インターコンチを中邑に託される】 中邑の壮行試合は、1・4ドームでベルトを奪われたリベンジに燃える石井が、その相手である柴田を垂直落下式ブレーンバスターで仕留めた。この試合が壮行試合でありながら、2・11大阪大会の前哨戦でもあることは、試合後大ブーイングの中、執拗にオカダを攻撃し続ける後藤の姿からも見て取れた。 そこに1・5後楽園で行われたタッグマッチ(中邑&YOSHI-HASHI対AJスタイル&ケニー・オメガ)でIWGPインターコンチネンタル王者だった中邑(1・25に返上)から完璧なスリーカウントを奪って、所属しているバレットクラブからAJを追放し、新リーダーとなったケニーが現れた。リング下で中邑に何やら英語でまくし立てたケニーは、2・14新潟で中邑が返上したインターコンチ王座決定戦を「X(未定)」と行うことが発表されている。恐らく返上した中邑に対して納得できなかったのだろう。リング上を見ると中邑の他には「ネクスト」が定まっていない棚橋しかいない。棚橋は見かねた表情でケニーと中邑の間に割って入り「シャラーーーップ!」と絶叫すると、ケニーに言い聞かせるようにこう続けた。 「いいか? 説明してやるよ。寂しいけどな、中邑は、今日はラストマッチなんだ。わかるか?」 棚橋と中邑が同じ方向を向いている。答えはひとつしかない。 「だから…だから…インターコンチ! 俺しかいねぇだろ!」 後楽園ホールに足を運んだ1806人(超満員札止め)のファンが抑えられない感情を爆発させるのを見た棚橋は、指を鼻にあて「シーッ」と観客を黙らせた。 「アイ、アム、Xー!」 両手をクロスさせながらこう叫び、2・14新潟でケニーと闘うXに名乗りをあげたのだ。背後から中邑が近付き、棚橋の肩を掴む。この時、客席には号泣しているファンがたくさんいた。中邑が愛し、新しい価値と創造を築き上げたインターコンチの運命は棚橋に託された。ケニーが引き下がるのを見届けた棚橋はリングを降りる前、中邑の方を一瞬振り返ったが、目が合うことはなかった。それはそれで、また再会した時の楽しみにとっておけばいい。 「ファンも俺たちレスラーも、前に進んでいかないといけない。中邑がいなくなるという喪失感はデカすぎる。ただ、まず中邑がいないという現実を受け止める。それがまず俺たちができる第一歩。時間がかかるかもしれないけど、これに慣れていくしかない。忘れるぐらいに盛り上げていくしかない。もしこれで、『新日本、オイ大丈夫か?』ってなるようなことがあったら、中邑も思い切って活躍できないでしょ? それは、俺たちにとっても本意ではない。新日本プロレス、まだまだ盛り上げていきますよ」【前回歩めなかった棚橋のインターコンチロード】 バックステージに引き上げて来た棚橋は、中邑退団による新日本のダメージについて冷静に分析しながらコメントした。さすがはエースである。その腰にIWGPヘビーのベルトはないが、新日本の象徴が棚橋であることは揺るがない。そんな棚橋にこんな質問をぶつけてみた。 −−今度こそ、インターコンチで、前回できなかった棚橋さんの新たな物語が始められるんじゃないですか? すると棚橋は「そう、そう、そう!」と軽く拳で壁を叩きながら「前は何ともできなかったから、鬼の居ぬ間に、俺のベルトに仕上げますよ」と晴れやかな表情で語り、控室に戻っていった。 棚橋は2014年の1・4ドームで中邑を破りインターコンチ王座を奪取すると「白いエース」宣言。そして「ベルトっていうのは、共有した時間の長さの分だけ思い入れが生まれるから、このインターコンチも俺のいい相棒になってくれると信じてます」と語り、また多くのファンが棚橋のインターコンチロードはどんなものになるのだろうかと期待していた。しかし、2月に中邑相手に初防衛に成功するも、4月の中邑との3度目の対決に敗れ、棚橋のインターコンチロードは見られぬまま終わっている。この時の悔しさが「そう、そう、そう!」という最初に出た言葉に詰まっていたのは間違いない。 だが、バレットクラブの新リーダーになって最初のビッグマッチとなるケニーは、ある意味棚橋よりも敗れたときのリスクがあるのではないだろうか。ヘビー級転向後、初のシングル。勝利のためなら当然セコンドを介入させて来ることも十分考えられるだけに、苦戦が予想される。試合後に中邑は棚橋について「『あとは任せたぜ』って言える仲間の一人」と語った。中邑から託されたインターコンチの運命、そしてあの頃歩めなかったインターコンチロード。様々な思いを胸に、2・14新潟から棚橋のリスタートが幕を切る。(増田晋侍)<リアルライブ・コラム連載「新日Times」VOL.4>
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スポーツ 2016年02月05日 18時00分
俺たちの熱狂バトルTheヒストリー〈小橋vs健介“伝説の剛腕対決”〉
“科学的トレーニング”や“合理的ゲームプラン”が推奨される昨今のスポーツ界だが、こと日本においては、今なお精神論がもてはやされる傾向にある。 幼少時からマンガやドラマ作品で「努力」「忍耐」「根性」を打ち出した、いわゆる“スポ根もの”に親しんできた影響もあるのだろう。これをリング上で再現してみせたのが、プロレスラー・小橋建太である。 高校卒業後にいったんサラリーマンとして就職するも、プロレスラーになるため退職。新弟子試験では書類審査で落選するが、それでも諦めることなく全日本プロレスの事務所へ直談判。通っていたトレーニングジムの会長で、プロレス界に知己の多い遠藤光男の紹介を得て、なんとか全日本プロレスへの入門を果たした。 「実のところ、当時は大相撲十両・玉麒麟(田上明)の入門が決まっていて、20歳すぎで特別な格闘技経験もない小橋は、完全に“いらない子”でした」(プロレスライター) それでも小橋は、並外れた練習を積み重ねることで徐々に周囲に認められ、ついにメーンイベンターまで上り詰めた。 「ウエイトトレーニングには否定的だったジャイアント馬場が、小橋の練習ぶりに感化されてそれを取り入れたそうです」(同) 一方、佐々木健介も小橋同様、努力と根性でのし上がったプロレスラーである。 長州力に憧れてジャパンプロレス入りしたものの、決して体は大きくなく、格闘歴も目立ったものではなかった。そのため、健介に対する長州の方針は、「適当にしごいて追い出してしまえ」だったが、そんなパワハラ稽古に耐え切ったことで、目をかけられる存在となっていった。 「長州の直弟子として、新日本プロレス入団後は優遇されたように見えましたが、弟子だからこその使い勝手のよさから、重要な試合では損な役回りをさせられることも多かった」(同) UWFインターナショナルとの対抗戦での垣原賢人戦や、新日初登場時の大仁田厚戦などは、健介にとってきっと不本意なものだったろう。しかし、それにもめげず、与えられた役回りを全力で尽くすことで、トップの一角を担うまでに成長していった。 そんな小橋と健介の初対戦となったのが、2005年7月18日、プロレスリング・ノアの2度目となる東京ドーム大会であった。 いずれもラリアットを得意とするパワーファイターと、スタイルも似た両者。健介オフィス(のちにダイヤモンドリング)を立ち上げたばかりでノア初参戦となる健介と、直前にGHC王座を力皇に明け渡すまで“絶対王者”と称された小橋が、いったいどんな試合を繰り広げるのか。 勝敗への興味は自ずと高まったが、4月のノア武道館大会でカードが発表されて以降、健介は一切、コメントを口にしなかった。 これについて健介は、試合後「コメントを口にしないことで己の緊張感を高めていた」と語っている。それほど特別な試合だったというわけだ。 これは小橋も同様で、入場テーマ曲にはGHC王座戴冠前まで使っていた『グランド・ソード』を選んだ。健介戦での原点回帰を期していたのだ。 6万2000人の大歓声の中、いきなりの健介のバックドロップで始まった試合は、手探りなしの一直線。互いの得意技を惜しげもなく繰り出していく。 山場は、今なお語り継がれる伝説のチョップ合戦。5分以上にもわたって互いに繰り出した逆水平チョップの総数は、なんと218発を数えた。 衝撃から逃れることなく体を前に突き出して、相手のチョップを受け続ける。1発ごとに飛び散る汗のミストが、ライトに照らされてキラキラと輝く。2人の厚い胸筋は、ドームのスタンド席から分かるほど、ドス黒く変色していった。 この試合に影響され、闇雲にパンチやエルボーの打ち合いをするレスラーが増えたが、このときの2人とは1発ごとの重みが違う。チョップだけで試合が終わったとしても、きっと観客は満足する。それだけの迫力は、おいそれと真似できるものではない。 最後はローリング袈裟切りチョップの連発からのラリアットで、小橋が健介を抑え込んだが、もはや勝敗など関係ない。両者の激闘を讃えるファンの大歓声は、いつまでもやむことがなかった。
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スポーツ 2016年01月31日 12時10分
KING OF STRONG STYLEを胸に…中邑真輔“世界”に挑戦!
「悩んでいたのは、2年ぐらい前からですかね」 25日に新日本プロレス本社で行われた退団記者会見で「決意した時期」について質問されると、中邑はこう明かした。最終的に決意したのは昨年11月だったと語っているが、今にして思えば2014年からは「中邑真輔サヨナラツアー」だったと言っても過言ではない。それぐらいこの2年というのは、中邑とゆかりがある選手との対戦が多い期間だった。その軌跡を振り返ってみよう。【棚橋、柴田との再会、グレイシーに12年越しのリベンジ】 2014年は、まず1・4東京ドーム大会で“運命のライバル”棚橋弘至に敗れ、IWGPインターコンチネンタル王座(以下インターコンチ)を失う形でスタート。2月の広島大会でのリターンマッチにも敗れた。しかし、3月のNEW JAPAN CUP 2014では決勝に進出。対戦相手であるバッドラック・ファレのパワー殺法に苦しみ、流血するハンデを背負いながらも逆転勝利を果たし優勝。試合後にはIWGPヘビー級王座ではなく、インターコンチへの挑戦を表明した。 4月の両国国技館大会で棚橋からベルトの奪還に成功すると、中邑がINOKI BOM-BA-YE 2002にて総合格闘技ルールで対戦し、敗れた相手であるダニエル・グレイシーが挑戦表明してきた。バックステージでは「ダニエルもホーレス(・グレイシー)もいつか、こっちから突っついてやろうかって思ってたんスよ。それが向こうから来るとはね」と感慨深い表情でコメントしている。 桜庭和志とのタッグで臨んだ5・3福岡大会では敗れてしまったが、5・25横浜アリーナ大会でダニエル相手にインターコンチの防衛に成功。自身が語った「出世試合」のリベンジを新日本のリングで果たした。 6月の大阪大会でファレに敗れインターコンチを明け渡すが、7月から開幕した“空前絶後”のG1クライマックスでは決勝に進出。決勝の舞台となった8・10西武ドーム大会で行われたオカダ・カズチカとのCHAOS同門による決勝戦は名勝負だったが、惜しくも敗れ準優勝に終わる。 9月の神戸大会でファレを破り再びインターコンチ王者に返り咲くと、10月の両国大会ではタッグで対決した柴田勝頼を次期挑戦者に逆指名。棚橋とともにかつて“新・闘魂三銃士”と呼ばれた柴田との危険な再会は話題を呼んだ。その柴田を11月の大阪大会で退けると、飯伏幸太の襲撃と挑発に遭い、2015年の闘いに続いていく。【飯伏との激戦、同期対決、棚橋との惜別マッチ】 「2015年の新日本プロレスにおける自分の試合というのは、常に100%以上のモノを求めて、かつ自分にとっては特別な、今の中邑真輔を形成する上で特別だった人間とやり合えた。1月4日の飯伏君、12月の後楽園での田口(隆祐)に至るまで」 中邑は退団を決意したポイントについて質問されると、このように2015年の闘いを例に挙げた。2015年は1・4東京ドームで飯伏との激戦を制すと、2月の仙台大会では中邑が新日本本隊を離れてからも一目置いていた“ミスターIWGP”永田裕志を相手に防衛。そして5月の福岡大会では、中邑が仕掛ける形で“同期”の後藤洋央紀と防衛戦を行うも敗れ、7月の大阪城ホール大会でのリターンマッチにも連敗。 同月から開幕したG1クライマックスでは、怪我で戦線離脱してしまったものの途中復帰し、2年連続で決勝まで駒を進めた。決勝の相手は棚橋となり、2人のシングル戦の集大成のような試合を繰り広げたが中邑は惜敗し、2年連続で準優勝。試合後には中邑から手を差し伸べて握手を交わし、手を挙げて棚橋を称えた。もしかしたら、中邑の中で「これが棚橋との最後のシングル」という思いがあったのかもしれない。 9月の神戸大会では、後藤に再び挑戦し、インターコンチを三たび奪取。11月の大阪大会では、デビュー後にLA道場で練習を積み、苦楽をともにしたカール・アンダーソンを相手に防衛に成功する。そして、試合後に挑戦表明したAJスタイルズとの対決が、今年の1・4東京ドームで組まれることになった。 中邑が語っているように、昨年末の後楽園大会では後藤と同じく同期で、中邑を意識した“オヤァイ”でブレイク中の田口ともシングルを行っており、同期という点で言えばヨシタツ(長期欠場中)とリング上で再会できなかったのが悔やまれるが、改めてこの2年間を振り返ってみると、AJとのシングル初対決というのは新日本マットで残された最後のピースだったことがよく分かる。 「今後は新たな刺激、環境、舞台を求めて、挑戦し続ける所存であります」 退団会見で中邑が表情を崩すことはほとんどなかった。しかし、菅林直樹会長から激励の花束を渡されると、数秒間深々と頭を下げ、握手。その姿からは、新日本を“旅立つ”のではなく、新日本の“KING OF STRONG STYLE”中邑真輔が“世界”に挑戦する決意が感じられた。 新日本のプロレスが世界に通用することを証明するため、中邑は世界へと旅立つ。(増田晋侍)<リアルライブ・コラム連載「新日Times」VOL.3>
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スポーツ 2016年01月24日 12時00分
「新日本の図式をブッ壊す」2・11大阪で後藤革命の集大成が見られるか?
「それはもちろん、ひとつしかないでしょ! わかるでしょ?」 1・4東京ドーム大会で、昨年末から散々挑発されていたロス・インゴベルナブレスの内藤哲也に完勝し、コメントブースに入って来た後藤洋央紀は、「具体的に狙いを定めているベルト」について質問されると、いきり立ちながらこのように答えた。そして、翌5日の後楽園ホール大会でIWGPヘビー級王者オカダ・カズチカ率いるCHAOSと8人タッグで激突。オカダのパートナーであるバレッタから昇龍結界でギブアップを奪うと、マイクを掴んだ。 「内藤とは昨日で終わりだ! オカダー! 次はおまえだ。俺がおまえからベルトを獲る!」 内藤との抗争終結宣言に、ファンは「エーッ」と残念がるリアクションを見せた。これに対してオカダは「内藤さんと昨日で終わりでも、みんながそれを聞いて『エーッ』と言っても、僕には関係ない」と前置きした上で、「去年のG1(クライマックス、8・1大阪大会)であなたに負けたことは覚えてますよ。あともうひとつ覚えていることがあります。『インターコンチ(当時後藤が保持していたIWGPインターコンチネンタル王座)と(オカダが保持するIWGPヘビー級王座の)統一戦をやりたい』って言ってましたよね? やりましょう統一戦!」と挑発。 しかし、会場に微妙な空気が流れ、「すみません! (その後、後藤がインターコンチのベルトを)獲られたこと忘れてました」と言うと、場内は爆笑に包まれた。後藤はオカダにバカにされた形となり、怒りの表情でバックステージに引き上げてきたが「去年のG1を忘れてないようで良かった。今の新日本の図式をブッ壊すのは俺の役目」と改めて挑戦を表明した。【オカダの「恥男」発言に後藤が会見乱入】 6日に新日本プロレス本社で行われた「1・4ドーム大会2夜明け会見」にオカダが出席。ドームで棚橋弘至の挑戦を退けたIWGPヘビー級王座戦を振り返るとともに、前日に挑戦表明してきた後藤について「『何回挑戦するんだろう?』と思います。僕も『東京ドームでは恥をかきたくない』って言いましたけど、何回も挑戦して、何回も獲れなくて…恥男っていうんですかね(笑)。よくもあんなに恥をかけるなと思います」と呆れた表情で語る一方で「G1が終わって(インターコンチとの)統一戦ってずっと言ってたじゃないですか。僕も(G1大阪大会でのIWGP王者同士の対決で)負けたことは忘れてないし、中邑さんに連勝したのは評価できるんじゃないかと。統一戦やりたかったですよ」と、リベンジしたい本音もにじませていた。 ここで「なめんなよ! コノヤロー!」と怒鳴りながら後藤が会見場に乱入、オカダを襲撃した。新日本本隊所属という後藤の立場から考えると信じられない行動だが、それこそ「図式をブッ壊す」手始めだったのかもしれない。これを受けてオカダは挑戦を受諾。「やるんなら自分で盛り上げてくれ」と後藤に注文をつけつつ、2・11「THE NEW BEGINNING in OSAKA」大阪府立体育会館(現エディオンアリーナ大阪)大会での防衛戦が決定した。【2・11大阪で後藤革命の集大成を!】 後藤が前回IWGPヘビー級王座に挑戦したのは、ちょうど2年前の2月11日。時のチャンピオンは同じくオカダ、そして会場も大阪府立体育会館で、その時はオカダの必殺技・レインメーカーの前に敗れている。しかし、昨年8月に大阪で実現したG1クライマックス公式戦では、完全無欠の昇天・改で後藤がオカダに快勝し、大阪のファンは歓喜した。 このように大阪にゆかりがある両者の対戦だが、オカダが指摘するように後藤は2007年に初挑戦して以来、一度もIWGPヘビー級王者になれずにいる。今回ばかりは後がないと言っても過言ではないだろう。今月末で中邑真輔が退団、また一昨年の4月からオカダ、棚橋とともにIWGPヘビー級戦線を賑わせていたAJスタイルズも次期シリーズのカードに名を連ねていない。ここで後藤が悲願のIWGPヘビー級王座初戴冠を果たせば、今後の新日本プロレスの勢力図が大きく変わるのは間違いない。2・11大阪では後藤革命の集大成に期待したい。(増田晋侍)<リアルライブ・コラム連載「新日Times」VOL.2>
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スポーツ 2016年01月17日 12時00分
1・4東京ドームにももクロ起用、アミューズとの業務提携から見る新日本プロレスの2016年戦略
「また1月4日は東京ドームでプロレスやるんですね」 昨年末、普段プロレスを見ていないたくさんの知人が新日本プロレス最大のビッグイベント、“イッテンヨン”を話題にしていた。2012年にブシロードが新日本プロレスを買収してから行ってきたプロモーション活動は、着実に実を結びつつある。 買収時にブシロード代表取締役社長(新日本プロレスオーナー)の木谷高明氏は「まずは新日本プロレスを知っていただくことからやっていきたい」と語り、巨額の広告費を投入して広報戦略を開始。夏のG1クライマックスと1・4ドームの開催時期には、JR山手線にラッピング車両を走らせたり、JR総武線の中吊り広告をジャックするなど、派手なプロモーションが恒例化した。 ブシロード体制5年目を迎えての今大会「WRESTLE KINGDOM 10 in 東京ドーム」もその例に漏れず、ブシロードのホームタウンとも言えるJR秋葉原駅構内のエスカレーター壁部には様々なバリエーションの広告を、原宿の明治通り沿いにはロング看板を掲出した。新宿では西武新宿駅前のユニカビジョンを連夜ジャックしたり、東口のステーションスクエアに巨大看板を掲出。巨大アドトラックが都内を巡回するなど、全対戦カードが出揃った昨年12月上旬から過去最大級のプロモーションを行っていた。【東京ドームに“ももクロ”杏果が登場!】 今年のイッテンヨンは、プロレスファン以外の層にも会場に足を運んでもらうための試みとして、ももいろクローバーZの有安杏果がゲスト参加。モノノフレスラーである邪道のセコンドとして、第0試合の時間差バトルロイヤル『ニュージャパンランボー』に登場することが、ももクロからのコメント動画とともに事前にアナウンスされていた。 2年前の1・4ドーム大会でも、ももクロの参戦が噂されたが(ももクロのライブの演出を担当している佐々木敦規氏が同大会の演出をプロデュースしたため)、ももクロは同日に前橋でライブがあり実現しなかったという経緯もあって、ドームにももクロの登場曲『overture 〜ももいろクローバーZ参上!!〜』が流れると、緑のサイリウムと共に大歓声が木霊した。 試合後の会見で有安が「東京ドームはまだ単独ではやったことがない会場」と語っていたが、今年行われるももクロの5大ドームツアーの中にも東京ドーム“大会”は含まれていない。「『overture』が東京ドームで流れたのは今日がはじめてらしいです」と邪道が話すと、有安も「『overture』は(プロレスの入場テーマみたいに)イントロが流れたのと同時に盛り上がる曲を作りたくてできた曲なので『overture』が東京ドームに響き渡ったことは感無量でした」と続けた。 プロレスをオマージュしているももクロだからこそ実現したコラボ企画ゆえ、プロレスファンは終始歓迎ムード。試合後のバックステージは報道陣でごった返しており、有安目当てで取材に来ていたマスコミが多数いたのは言うまでもない。“杏果効果”でイッテンヨンの記事が芸能ニュースとしても発信されたため、世間に対して「新日本プロレスを知ってもらう」効果はかなりあったのではないだろうか。【アミューズとの業務提携を発表】 翌1月5日の後楽園ホール大会では、芸能事務所アミューズと新日本プロレスの業務提携が発表された。木谷オーナーは「日本のザ・ロック(ドウェイン・ジョンソン)を作りたい」とリング上で宣言。アミューズの相馬信之常務取締役も「レスラーは表現力の才能がある」と全面的なバックアップを明言した。すでにアミューズが制作に携わっている海外映画に後藤洋央紀の出演が決まって撮影済みだといい、棚橋弘至も「有名になりたいですね」と目を輝かせた。 また、アミューズ所属アーティストとのコラボレーションについて囲み会見で質問したところ、相馬氏は「まだ何も決まっていませんが、ウチにはプロレス好きなミュージシャンがたくさんいるので彼らのアイデア次第では十分に考えられる」と語り、木谷オーナーは「なんの前触れもなくコラボをしても(お互いのファンに)受け入れられないが、選手がPVに出演したうえで野外フェスなどで絡んだりするのは自然な流れだと思う」と可能性を示唆した。 新日本とアミューズが業務提携したニュースは各媒体で報じられ、大きな話題になっている。2016年の新日本はアミューズの全面バックアップにより、選手のメディア露出がさらに増えるだろう。知名度の高さは会場に足を運ぶキッカケとなる。来年のイッテンヨンに向けた戦略は、すでに始まっているのだ。(増田晋侍)<リアルライブ・コラム連載「新日Times」VOL.1>
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