当初、この大会の目玉とされたのは小川直也だった。前年にはPRIDEで佐竹雅昭を破るなど、総合格闘技界の日本人エースとしてファンや関係者からの期待は大きく、プロレスにおいては猪木の直弟子でもあり、猪木軍の大将となるのは当然のことと思われた。
しかし、これを小川が拒否したことで、大会自体の雲行きが怪しくなる。
「交渉にあたったK-1石井和義館長の8000万円のファイトマネー提示に対し、小川は1億円を要求。これが決裂の要因とされたが、それ以前に当時の小川は『強さを競うなら柔道時代にやった』と総合格闘技自体に興味を示していなかった」(格闘技ライター)
さらには副将格の藤田和之も、タイでの合宿練習中にアキレス腱断絶の大けがを負ってしまう。同年9月に藤田が敗れたミルコ・クロコップへのリベンジマッチは、当然ながら不可能となり、カード編成は一からの見直しを余儀なくされた。
また、小川と藤田を欠いたことで、猪木軍はまともなメンバーが揃うかすら危ぶまれてたが、なんとか藤田の代役は、新日本プロレスの先輩にあたる永田裕志に決まった。
しかし、これをメーンイベントとすることには各所から難色が示される。
「大会を中継するTBSとしては、新日=テレビ朝日の色が付いている永田を主役にするのは面白くない。猪木事務所にしても、新日所属選手の永田ではマネジメント料が発生せず、ギャラの高いメーンには自分たちの子飼いを出したかったのです」(テレビ関係者)
そこで抜擢されたのが安田忠夫であった。大相撲時代は孝乃富士の四股名で活躍し、北勝海や北尾、寺尾、小錦らと並んで“花のサンパチ組”と称され、小結まで昇進した。
28歳で廃業して新日へ入団。プロレスラーとしても大成を期待されたが、生来の無気力、練習嫌い、バクチ好きなど素行の悪さから、中堅どころに甘んじていた。
'01年には心機一転、猪木事務所入りして総合格闘家に転向。デビュー戦こそ佐竹に判定勝ちを収めたものの、2戦目にはレネ・ローゼのハイキックで壮絶なKO負けを喫している。
一方、相手のジェロム・レ・バンナは総合初挑戦とはいえ、その草分けであるケン・シャムロックの下で練習を積み、K-1四天王の実績からも将来を嘱望されていた。もちろん下馬評はバンナ一色。
「試合に期待できない分、他のところで盛り上げなければと、離婚で母方にいた娘まで引っ張り出して試合会場に招くなど、安田が負けた後の演出のことばかりを考えていました」(同)
だが、試合は予想外の展開を見せる。安田はバンナの牽制の右ジャブに構うことなく、真正面から体ごとぶちかましていくと、その勢いのままグラウンドへとなだれ込む。
ただ突っ込むだけなので、安田がバンナの上になる場面もあったが、実戦でのグラウンド経験がないために、たまたま袈裟固めの体勢に入っても極めることができない。セコンドの指示を受けマウントへ移行しようにも、動きに隙が出て解けてしまう。スタンドに戻っても安田の突進の前に、バンナはどうしても下がることが多くなり、そこからパンチを放ってもダメージを与えられない。
そんな中、安田が一世一代の根性を見せる。コーナーに詰まり上から浴びせられるピンチを、バンナの腰にしがみついて耐えると、2Rに入り何度目かの体当たりで上になったところで、がむしゃらに覆いかぶさっていく。力任せに腕を喉元に差し込んでギロチンチョークの形をつくると、同時に密着した安田の体がバンナの口をふさぎ、ここでついにバンナがタップした。
技術は拙く、格でも劣っていたが、根性一本で勝ち名乗りを上げた安田。リングに駆け上がって祝福する娘を肩に担ぐその姿は、格闘技を超えたヒューマンドラマであった。