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俺たちの熱狂バトルTheヒストリー〈格闘技を超えた人間ドラマ〉

 大みそかの地上波テレビで初めて本格的な格闘技番組が放送されたのは、2001年の『猪木ボンバイエ』だった。猪木軍vsK-1軍の対抗戦を目玉とし、PRIDEの母体であるドリームステージエンターテインメント(DSE)が運営するという、当時の日本格闘界が大同団結した一大イベントであった。
 当初、この大会の目玉とされたのは小川直也だった。前年にはPRIDEで佐竹雅昭を破るなど、総合格闘技界の日本人エースとしてファンや関係者からの期待は大きく、プロレスにおいては猪木の直弟子でもあり、猪木軍の大将となるのは当然のことと思われた。

 しかし、これを小川が拒否したことで、大会自体の雲行きが怪しくなる。
 「交渉にあたったK-1石井和義館長の8000万円のファイトマネー提示に対し、小川は1億円を要求。これが決裂の要因とされたが、それ以前に当時の小川は『強さを競うなら柔道時代にやった』と総合格闘技自体に興味を示していなかった」(格闘技ライター)
 さらには副将格の藤田和之も、タイでの合宿練習中にアキレス腱断絶の大けがを負ってしまう。同年9月に藤田が敗れたミルコ・クロコップへのリベンジマッチは、当然ながら不可能となり、カード編成は一からの見直しを余儀なくされた。

 また、小川と藤田を欠いたことで、猪木軍はまともなメンバーが揃うかすら危ぶまれてたが、なんとか藤田の代役は、新日本プロレスの先輩にあたる永田裕志に決まった。
 しかし、これをメーンイベントとすることには各所から難色が示される。
 「大会を中継するTBSとしては、新日=テレビ朝日の色が付いている永田を主役にするのは面白くない。猪木事務所にしても、新日所属選手の永田ではマネジメント料が発生せず、ギャラの高いメーンには自分たちの子飼いを出したかったのです」(テレビ関係者)

 そこで抜擢されたのが安田忠夫であった。大相撲時代は孝乃富士の四股名で活躍し、北勝海や北尾、寺尾、小錦らと並んで“花のサンパチ組”と称され、小結まで昇進した。
 28歳で廃業して新日へ入団。プロレスラーとしても大成を期待されたが、生来の無気力、練習嫌い、バクチ好きなど素行の悪さから、中堅どころに甘んじていた。
 '01年には心機一転、猪木事務所入りして総合格闘家に転向。デビュー戦こそ佐竹に判定勝ちを収めたものの、2戦目にはレネ・ローゼのハイキックで壮絶なKO負けを喫している。

 一方、相手のジェロム・レ・バンナは総合初挑戦とはいえ、その草分けであるケン・シャムロックの下で練習を積み、K-1四天王の実績からも将来を嘱望されていた。もちろん下馬評はバンナ一色。
 「試合に期待できない分、他のところで盛り上げなければと、離婚で母方にいた娘まで引っ張り出して試合会場に招くなど、安田が負けた後の演出のことばかりを考えていました」(同)

 だが、試合は予想外の展開を見せる。安田はバンナの牽制の右ジャブに構うことなく、真正面から体ごとぶちかましていくと、その勢いのままグラウンドへとなだれ込む。
 ただ突っ込むだけなので、安田がバンナの上になる場面もあったが、実戦でのグラウンド経験がないために、たまたま袈裟固めの体勢に入っても極めることができない。セコンドの指示を受けマウントへ移行しようにも、動きに隙が出て解けてしまう。スタンドに戻っても安田の突進の前に、バンナはどうしても下がることが多くなり、そこからパンチを放ってもダメージを与えられない。

 そんな中、安田が一世一代の根性を見せる。コーナーに詰まり上から浴びせられるピンチを、バンナの腰にしがみついて耐えると、2Rに入り何度目かの体当たりで上になったところで、がむしゃらに覆いかぶさっていく。力任せに腕を喉元に差し込んでギロチンチョークの形をつくると、同時に密着した安田の体がバンナの口をふさぎ、ここでついにバンナがタップした。
 技術は拙く、格でも劣っていたが、根性一本で勝ち名乗りを上げた安田。リングに駆け上がって祝福する娘を肩に担ぐその姿は、格闘技を超えたヒューマンドラマであった。

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