新日本
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スポーツ 2014年02月11日 11時00分
俺達のプロレスTHEレジェンド 第9R 完璧レスラーは英国紳士か? 変人か? 〈ビル・ロビンソン〉
プロレスで重要なのはパワーやテクニックなどの“強さ”だけではない。キャラクターやマイクパフォーマンス、さらに王者となれば“人格”までも求められる。 「まだアメリカで地域ごとのプロモーターが力を持っていた時代、テリトリー内を転戦する際に、各地の有力者とトラブルを起こすような人間ではチャンピオンは務まらなかったわけです」(プロレスライター) AWAの帝王バーン・ガニアの後継と目されていたビル・ロビンソンが、ついに同タイトル獲得とならなかったのは、そのためだ。 「実力では文句なしだったロビンソンですが、とにかくプライドが高く、どこかアメリカンプロレスを見下しているようなところもありました。レスラー仲間や関係者との間ではトラブルが絶えず、そのため実力ではロビンソンに一歩譲るものの、人格者だったニック・ボックウィンクルが長期王者になったんです」(同・ライター) 国際プロレスに外国人エース格で参戦していた当時も、巡業先でピーター・メイビアとストリートファイトを繰り広げたとの逸話を残している。またカール・ゴッチとの試合が引き分けに終わった後には「あんたの脚を折らなかったのは“武士の情け”だ」と語り、ゴッチをして「プロレスは殺し合いじゃない」と呆れさせたとも巷間伝えられる。 わずかな日本滞在の間だけでもそうなのだから、本拠とするアメリカとなれば推して知るべしだろう。プロレスファンの間では“華麗なテクニシャン”として語られることの多いロビンソンだが、決してそれだけのレスラーではなかったのである。 全日本プロレスではキラー・トーア・カマタやアブドーラ・ザ・ブッチャーとのラフファイトも互角以上にこなしてみせた。また「手首をキメるだけでも100種類以上の技がある」と語る本格派のシューターでもあった。 ベースにあったのはイギリスの『ランカシャー・スタイルレスリング=キャッチ・アズ・キャッチ・キャン(CACC)』。これは簡単に言えば“関節技ありのレスリング”で、ロビンソンが基礎を学んだビリー・ライレージムは、ねちっこく相手に絡みつくそのレスリングスタイルが蛇のようだとして『スネーク・ピット(蛇の穴)』とも称された。 そこでロビンソンは「勝った方が賞金を得る」賞金マッチだった時代の欧州プロレスを勝ち抜くための、あらゆる術を体得した。 「彼は19歳と若くしてプロデビューした分、一世代前のレスラーたちとも多く対戦しています。プロレスがショーとガチンコの間だった時代を戦ってきた、その経験が高いプライドの源泉になっていたのでしょう」(同) ロビンソンの全盛時−−速く鋭いタックルから流れるようにキメていく関節技などは、現代の総合格闘技においても通用するのではないかと思わせるだけのものがある。 「ダブルアーム・スープレックスを日本初披露したことから“人間風車”の呼び名が付けられましたが、それによって逆にロビンソンのイメージが限定されてしまったところはあります」(同) 名勝負との誉れ高きアントニオ猪木とのシングルマッチが行われたのは、1975年12月11日、新日本プロレス蔵前国技館大会。この日、同じ東京の日本武道館では、全日主催の『力道山十三回忌追善特別大会』が、日米豪華メンバーにより開催されていた。 「全日による新日つぶし」とも言われたが、それでも猪木vsロビンソンの“一枚看板”は、満員の観客を集めてみせた。当時のファンはロビンソンのことを「モハメド・アリとの格闘技世界一決定戦を間近に控えた最高潮の猪木が、雌雄を決するにふさわしい相手」と認めていたし、実際「カーニバル色の濃い大会より“本物の勝負”が見たいから蔵前に行った」という全日ファンも多くいた。 ロビンソンはその後、全日へ移籍。対日本人としては初の敗戦をジャイアント馬場に喫するなど「既に全盛期は過ぎていた」と自ら語った。それでもジャンボ鶴田を連戦による“実践教育”でエースに育て上げるなど、日本マット界に多大な影響を残したのだった。〈ビル・ロビンソン〉 1938年、イギリス・マンチェスター出身。'68年、国際プロレスに初来日。'75年、猪木と伝説の60分フルタイムドローの試合を経て、以後は全日本プロレスに参戦。'85年に引退後は日本でトレーナーなどを務める。
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スポーツ 2014年02月07日 15時00分
俺達のプロレスTHEレジェンド 第8R その死が日本プロレス界を激変させた〈ジャイアント馬場〉
ジャイアント馬場が亡くなったのは、1999年1月31日のこと。 「それ以降、元子夫人は『G馬場記念館を作りたい』と言ってきましたが、来年の17回忌には何か動きがあるかもしれません」(元・全日本プロレス関係者) 昨年8月、今の全日から三冠ベルトが馬場家へ返還されたのは、それに向けての準備だったか。その本名をとって“正平寺”なる寺院を建立するという噂もあるようだが、いずれにせよ昭和のプロレスファンにとって、その象徴である馬場を追悼する施設ができるとすれば喜ばしいことだ。 「馬場が生きていれば日本のプロレス界がこれほど様変わりすることはなかった」というのは、多くの関係者の口にするところだ。 「まず馬場さんが存命なら、三沢光晴たちが独立してノアを立ち上げることはなかったでしょう。義理人情の男・三沢が恩義ある馬場さんの下を離れることはあり得ませんから」(同・関係者) そうであったなら、三沢も一選手としてリングに集中できて、不幸な禍を避けられたかもしれない。 「ノア独立後、『馬場家がケチだから選手たちが大量離脱した』なんて言われましたが、それは誤解。馬場さんは、ただ本場アメリカと同じように団体運営をしただけです。“選手を保険に入れてなかった”と言うけれど、そもそも手本にしたアメリカという国自体に国民皆保険制度がありません。『選手個人のキャラクターグッズのインセンティブを渡さなかった』というのも、昔はそんな概念自体がなかったわけです」(同) それらは“知らないことはやらない”という慎重居士だった馬場の性格の表れであろう。所属選手の故障欠場時にも、きちんとファイトマネーを払い続けたり、近い関係者にはポケットマネーから高級料理をふるまったり、マスコミ操作のため週刊プロレス編集長だったころのターザン山本氏に裏金を渡したりといったエピソードからしても、決してケチだったわけではない。 「馬場の死で一番影響を受けたのは、むしろ猪木と新日本プロレスではないか」(元・新日本プロレス関係者)との声もある。 「猪木のプロレス人生は“打倒馬場”とイコールであり、常に猪木の先を行っていた馬場の全日が順調なままであったなら、新日がそれに遅れを取ることなどは猪木にとって耐え難い。そのため新日に専念し、PRIDEなど格闘技の世界に向かうこともなかっただろう」(同・関係者) そうであれば、新日の選手が格闘技のリングで惨敗を繰り返すこともなかったわけで、やはり馬場の死が日本のプロレス界に及ぼした影響はとてつもなく大きいといえる。 経営者として、人格者として高い評価をされてきた馬場だが、レスラー・馬場に対するファンの見方は決してそうではなかった。猪木からの対戦要求にも「馬場が避けている」という見方が主流を占めていた。「ガチンコで馬場が猪木に勝てるわけがない」と。 さらに亡き後は、物まねなどでスローモーな形態模写をされるなど“イロモノ扱い”の風潮すらある。 しかし馬場の全盛期は全くそんなものではなく、その動きはむしろ躍動的ですらあった。 「ハーリー・レイスから3度目のNWA王座を獲得したのは1980年、馬場42歳のとき。すでに選手としては下り坂でしたが、あらためて映像を見ると、ジャンプしながらの脳天唐竹割りを連発したり、代名詞である十六文キックにしても、ただ足を上げて相手を待っているのではなく、しっかり踏み込んで放っている。コーナーポストに素早く駆け上がる姿など、とても2メートル越えの巨人の動きとは思えません」(プロレス記者) 何といっても馬場は、投手としてプロ野球のマウンドまで踏んだスポーツエリート。その後の衰えは、年齢を考えれば仕方あるまい。 1982年、スタン・ハンセンとのPWF戦のころは、糖尿病の影響なのかほとんど汗もかかなくなり、全盛時と見比べれば極端にパフォーマンスを落としていることがわかる。しかし、それでもその年のプロレス大賞ベストバウトを受賞しているのだから、やはり馬場は選手としても最上級だったのだ。〈ジャイアント馬場〉 1938年、新潟県出身。プロ野球選手を経て、'60年に日本プロレス入団。力道山の死後はエースとして活躍。'72年、全日本プロレスを旗揚げし、王道プロレスを展開する。'99年、肝不全により死去。享年61。
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芸能ネタ 2014年02月01日 17時59分
レイザーラモンRGが棚橋のお笑いセンスにノックアウト
1月31日、タワーレコード新宿店でDVD「激情プロレスリング〜激突!! 吉本芸人軍団VS新日本プロレス軍団 全面戦争」の発売記念イベントが行われ、吉本芸人のレイザーラモンHGとレイザーラモンRG、新日本プロレスの棚橋弘至と天山広吉が登場。 オープニングでRGが玉置浩二の「田園」の楽曲に乗せて、「プロレスDVDは、オープニングがカットされがち」という“プロレスDVDあるある”を披露するも会場の反応は微妙で、スベッた相方に対してHGは何のフォローもせず、苦笑。 トークではHGが棚橋との大喜利対戦で負けた事について聞かれると「大喜利が得意だったら、ハードゲイになっていない(笑)」と本音をポロリ。一方のRGも棚橋との“あるある”対戦を振り返り「“カレーライスあるある”が上手い。俺がもし死んだら二代目“あるある”芸人を棚橋に譲りたい」と語り、レイザーラモンの二人は完全に白旗を振っていた。●DVD「激情プロレスリング〜激突!! 吉本芸人軍団VS新日本プロレス軍団 全面戦争」絶賛発売中●価格/3,990(税込)●発売元・販売元/よしもとアール・アンド・シー●DVD特典「試合後のバックステージ・インタビュー」完全収録
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スポーツ 2014年01月20日 11時00分
俺達のプロレスTHEレジェンド 第6R “アメリカン・ドリーム”に憧れた時代〈ダスティ・ローデス〉
“ラテンの魔豹”ペドロ・モラレス、“狼酋長”ワフー・マクダニエル…。アメリカではトップを張りながら日本でいまひとつ活躍できなかったレスラーが少なからず存在する。それらは「プエルトリコ移民」「インディアン」といった、そもそもの出自が人気の主要因となっているケースが多く、そのあたりの文化理解に乏しい日本で通用しなかったのも仕方あるまい。 そんな中にダスティ・ローデスを並べることには異論もあろう。しかしながら日本でのローデスが、アメリカほどにはスーパースター的存在として認知されていないのもまた事実である。 日本で紹介されるローデスは、そのニックネーム『アメリカン・ドリーム』にちなんだ“ゴージャス”“スタイリッシュ”といった類いのものばかりで、そのころに本国ではおなじみだった「俺は配管工の息子!」との決めゼリフがテレビ等から聞かれることは、まずなかった。 「そのときにローデスの話す言葉がまたコテコテの南部訛りなんですね。そんな田舎者の不良アンちゃんがプロレス界のトップに上りつめて大金を稼ぐという“成り上がりストーリー”。実のところ、これがアメリカではウケていたんです」(当時の米マット事情に詳しいプロレスライター) 日本では、そのニュアンスまで理解してローデスに声援を送っていたファンはまずいなかっただろう。それでいて、なぜ一定以上の人気を得られたのか。そこには当時の日本の文化事情が深く関わってくる。 日本にマクドナルドが初出店したのが1971年。くしくもローデスの国際プロレスへの初来日と同じ年である(まだこのときはディック・マードックとの『テキサス・アウトローズ』として知られる“ダーティ”ダスティ・ローデスではあったが)。アメリカでは庶民の食であるハンバーガーが日本で高級外食と受け止められていたように、日本におけるローデスはうわべだけの豪華さを“本場の高級品”としてありがたがられていた。日本人選手なら「真面目にやれ!」と罵倒されるだろう“腰振りダンス”もヤンヤの歓声で受け入れられたのだ。 ウマいのかマズいのかもわからずにハンバーガーを食していたように、何だかよくわからないが、とにかく“アメリカの象徴”として日本のファンはローデスを歓迎した。新日本プロレスへの来日時、あえて一週間程度の特別参戦としていたことも、ローデスの高級感を増すことになった。 ちなみに、その当時には「アメリカで引っ張りダコだから長く日本滞在ができない」などと特別参戦の理由が語られていたものだが、後になって「ローデスのギャラが他に比べて高過ぎたので全戦参加させられなかった」と新間寿氏は真相を明かしている。 そうはいっても、ただ舶来品を押し頂く感覚だけでは長く人気を集めることはできない。やはり重要なのは試合内容になるわけだが、その点においてもローデスは一流だった。繰り出す技はエルボースタンプにエルボードロップ、パンチと4の字固めぐらい。それでいながらパフォーマンスに偏ることなく、見応えある試合を繰り広げた。 「中でも猪木とのNWF戦などは両者の持ち味が出た名勝負と言えるでしょう。試合での間の取り方がうまく、観客への見せ方を熟知しているんですね」(前出のプロレスライター) 流血時にはあえて額よりも上部をカットすることで、遠目には白髪にも見える薄いブロンドヘアに血の赤が鮮やかに映える。そんな見た目の細かな部分にまでもこだわりが感じられた。 ジャイアント馬場は「こんな腰振りがはやるなんて」とローデスを酷評したという。しかし、ショーマンスタイルとは真逆であるはずの新日においては、これが受け入れられることになった。 「新日の緊迫感に満ちた雰囲気の中で、あのどこかコミカルな存在感が一服の清涼剤となったのでしょう。猪木は'95年に北朝鮮で行われたイベントでのリック・フレアー戦でもそうだったように、意外とアメリカン・スタイルと手が合うんですね」(同前) 猪木の“燃える闘魂”を際立たせるという意味においても、ローデスの存在は貴重だったのだ。
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スポーツ 2014年01月13日 11時00分
俺達のプロレスTHEレジェンド 第5R 現代に蘇る1人ガリバー旅行記〈アンドレ・ザ・ジャイアント〉
デカいというだけなら、もっとデカいレスラーは何人もいる。身長だけならエル・ヒガンテの方が10センチ近く上回るし、デカくて動けるというのならWWEのスーパースター、ビッグ・ショーがいる。 しかし、その存在感でアンドレ・ザ・ジャイアントに匹敵する者は今に至るまで現れていない。巨人レスラーの代表といえば、アンドレをおいて他にない。 「あえてアフロヘアのかつらをかぶることで自分のデカさと怪物性を強調するなんて発想は、誰もができるものではないよ。“ロープにもたれ込んだ際に腕が絡まって動けなくなる”というムーブも、アンドレほどに上手なレスラーは、他にはいなかったな」(ベテランプロレス記者) まさに、ただの“見世物”の枠には収まりきらないエンターテイナーであった。だからこそ、全盛時には世界中のマットで主役を張ることができた。『年間ファイトマネー40万ドル』(1974年度のギネスブックに記載)は、ダテではないのである。 ちなみに当時の円ドル為替レートは、1ドル300円程度。現在の物価は当時の約3倍ほどだから、換算して年間3億円以上を稼いでいたことになる。 そうして世界的にベビーフェースとして成功していたアンドレだが、新日へ来日したときはヒール役を与えられることになった。 「いつも不機嫌そうにワインを飲んでいる印象だったけど、それは慣れない役回りに不満があったからかもしれないね」(前同) “猪木に乗り越えられる敵役のモンスター”にすぎなかった−−。そんなアンドレを、今もファンの記憶に強く残るレジェンドにまで昇華させたのは、何といってもテレビ実況を務めた古舘伊知郎の存在だろう。 『現代に蘇る1人ガリバー旅行記』『1人民族大移動』『1人というには大き過ぎる。2人と言ったら人口のつじつまが合わない』…。 これら数々の名フレーズによってアンドレのキャラクターは、ただの怪物にとどまらない物語性を身にまとった存在として、ファンの心にしっかりと焼き付けられていった。今でこそニュースキャスターとして何かと言われることの多い古舘だが、長きにわたるプロレスファンからすれば、彼もまた昭和プロレスを彩るレジェンドのひとりなのである。 猪木との戦い以外にも、スタン・ハンセンとの伝説の一騎打ち('81年、田園コロシアム)や覆面姿のジャイアント・マシーンへの変身('85年、チャレンジスピリット・シリーズ)など、強烈なインパクトを放ち続けたアンドレ。しかし、生来の巨人症とアルコール多飲による不摂生は徐々にその身体をむしばんでいった。 「若いころと比べて体重が激増したこともあって、'80年代中盤には、もう膝や腰がパンク寸前だったらしい」(前同) アメリカでの主戦場であったWWF(現WWE)でも、一時はハルク・ホーガンを破って王座に就くが、その後はアルティメット・ウォリアーなどの次世代レスラーを売り出すための“かませ犬”的な扱いを受けるようになり、徐々に出場機会を減らしていった。 そんなときに、日本において新日から全日への円満移籍となったのは、アンドレにとっても、またファンにとっても幸いだった。 最初にジャイアント馬場と“大巨人コンビ”を組んだのは、'90年4月に行われた『日米レスリングサミット』(東京ドーム)のリング。両者初タッグのこのとき、入場テーマ曲こそ馬場のものが使用されたが、先に入場したのも試合に先発したのも馬場。フィニッシュも、馬場の十六文キックで相手が倒れたところにアンドレがエルボードロップを放ち試合を決めるという、馬場流の“おもてなし”にあふれたものとなった。 同年暮れに行われた世界最強タッグ決定リーグ戦では、やはりジャイアント馬場とのコンビで、当時売り出し中のテリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムスの殺人魚雷コンビを破るなど“絶好調”が再来。観客からの声援は新日時代と異なって、完全にベビーフェースに対するそれに様変わりした。 アンドレ自身もまた、かつて日本では見せたことのないような満面の笑顔で、ファンからのコールに応えてみせたのだった。アンドレ・ザ・ジャイアント 1946年、フランス出身。'70年、モンスター・ロシモフの名で国際プロレスに初来日。以降はアンドレ・ザ・ジャイアントとして新日本、全日本両団体に参戦する。'93年1月27日、急性心不全で死去。享年46。
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芸能ニュース 2014年01月11日 17時59分
坂口憲二がデキちゃった結婚!!
俳優の坂口憲二が都内で飲食店を経営する32歳の一般人女性とデキちゃった結婚することを各スポーツ紙が報じている。 各紙をまとめると、坂口は昨年春、交際していたモデルの桜井裕美と破局したが、結婚することになった女性と出会ったのは昨年夏。プライベートでも親しい俳優の伊藤英明に女性の経営する都内の飲食店に連れて行かれ、坂口と女性はすぐに意気投合。 女性は162センチの京都出身でスレンダーな和風美人。落ち着いた大人の雰囲気が話しやすさを醸しだし、会話を重ねるうちに互いにひかれ合い、自然と結婚を前提とした交際に発展したというが、女性は現在妊娠2〜3カ月だという。 年明けには両家へのあいさつも済ませ近日中にも婚姻届を提出する予定だという。 憲二の兄で総合格闘家の征夫にはすでに3人の子供がいて、子供好きの憲二は3人と仲良く遊ぶ姿がたびたび目撃されていたというが、憲二の父で「世界の荒鷲」こと新日本プロレス相談役の坂口征二は一部に「夏には子供もできるようだし、二重の喜びだよね。早く元気な子供、4人目の孫に会えることを楽しみにしているよ」とコメントを寄せている。 とはいえ、このタイミングでデキ婚の事実が発覚したのには、それなりに所属事務所の思惑があったようだ。 「9日に主演のシリーズドラマ第4弾となるフジテレビ系『医龍4〜Team Medical Dragon〜』がスタートしたが、視聴率が11.6%でこれまでのシリーズの初回としては最低の視聴率だった。第2話以降の視聴率アップを狙い、視聴者の“ご祝儀”を期待して発表に踏み切ったようだ」(芸能記者) 果たして、ドラマの視聴率アップなるか。
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スポーツ 2014年01月08日 11時00分
俺達のプロレスTHEレジェンド 第4R “善戦マン”から“日本人最強”へ〈ジャンボ鶴田〉
最近では「試合の勝ち負けよりも内容が大事」なんてことを言うプロレスファンも少なくない。しかし、果たして本当にそうなのか。 星条旗柄〜赤パンツ時代のジャンボ鶴田は、ジャック・ブリスコ、ハーリー・レイス、テリー・ファンク等々、歴代NWA王者と互角の勝負を繰り広げながら、結果勝ち切れなかった。そのためについた呼び名は“善戦マン”。ここに、憧れや尊敬の念は一切感じられなかった…。 「NWA王者はアメリカプロレス界の最大派閥だった同団体の利益の象徴なのだから、日本人の鶴田が長期王者となることは難しかった」などと、今になって言う向きもあろう。しかし当時のファンの多くが、大事な試合に勝ち切れない鶴田をどこか侮蔑の目で見ていたことに間違いはない。 コスチュームをストロングスタイルのシンボルとされる黒パンツに変更してからも、しばらくそうした見方は変わらなかった。そもそも、いつから鶴田が黒パンツに替えたかを覚えている人は、どれほどいるだろうか(正解は1982年、リック・フレアーとのNWA戦から)。 では試合で勝てばいいのかといえば、プロレスはそんなに単純ではない。 '83年にはブルーザー・ブロディを破り、伝統のインター王座獲得、その翌年には世界三大王座の一つ、AWA王者としてアメリカツアーを行った。 かのブロディが「鶴田と好勝負するために身体を絞った」というぐらい(渕正信のブログ『酔々ブルース』より)、日本人の中では図抜けた力量を見せてはいた。 しかし、このとき鶴田にとっての“敵”となったのが、新日本プロレスをめぐるスキャンダル報道である。 先述ブロディ戦の直前には初代タイガーマスクが突如の引退宣言、猪木の社長解任クーデターなどが重なり、それらに話題を奪われてしまう。また、日本人初のAWA王座戴冠も、長州力の「維新軍旋風」の前にどこか霞んでしまった。 鶴田へのファンの関心が集まりはじめたのは、その長州との戦いからだった。'85年、60分フルタイムドローとなったシングルマッチでは、長州の身体の小ささやスタミナ不足が際立ち、対する鶴田の怪物性を目立たせるものとなった。 '80年代後半からの天龍源一郎との抗争もまた、鶴田株の上昇に一役買った。中でも'89年4月、大阪での三冠ヘビー級選手権試合。天龍を急角度パワーボムで完全失神させた試合は今も語り草となっている。 そうした日本人対決の中で鶴田は、何人かの選手を病院送りにしている。今のファンの基準からすれば「相手を怪我させる=下手クソの三流レスラー」ということにもなろう。だが、これらは鶴田の怪物ぶりを修飾する逸話となり、いつしか入場時にはファンからの「ツ・ル・タ! オー!」コールが巻き起こるまでになっていた。 こうした鶴田の歴史が証明するのは「やはりプロレスは内容だけではなく、話題性のある試合において勝利することが重要だ」ということではなかったか。 鶴田の評価がいよいよ“日本最強”レベルにまで上昇したのは、三沢光晴ら超世代軍の壁となってからであった。若手たちがいくらぶつかっていってもビクともしない。ジャンピングニーパット一閃で三沢を吹き飛ばし、川田利明の顔面を踏みつぶし、菊地毅を頭上高くまで持ち上げて雑作なく投げ飛ばす。まさに鬼神のごとき戦いぶりで、見る者全てがその天性の才を感じずにはいられなかった。 鶴田が対戦希望相手としてアントニオ猪木、前田日明、藤波辰爾、ハルク・ホーガンらの名を挙げても、誰も「ビッグマウス」などと陰口を叩くことはない。むしろファンからは「鶴田に勝てるわけがない。名前を出された相手がかわいそう」と見られるまでになっていった。 惜しむらくは、最初の三沢とのシングルマッチからわずか2年半ほどにして、病のためセミリタイアとなったことであろう。 当時鶴田は42歳。師匠の馬場が同年齢のときにはスタン・ハンセンとの抗争を始めたばかりで、それを思えば鶴田もまだまだファンの心に残る名勝負を残せたはずである。ジャンボ鶴田 1951年、山梨県出身。'72年、ミュンヘン五輪レスリング100キロ超級代表に。卒業後、全日本プロレスに入団すると、一躍エースにまで上り詰める。2000年、肝移植手術時、出血多量により死去。享年51。
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スポーツ 2013年12月27日 16時00分
俺達のプロレスTHEレジェンド 第3R 吹けよ風、呼べよ嵐! 〈アブドーラ・ザ・ブッチャー〉
プロレスファンにとって年の瀬の風物詩といえば、何といっても全日本プロレスの『世界最強タッグ決定リーグ戦』だった。中でもアブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シーク組vsザ・ファンクスをベストバウトとして挙げる人は多いだろう。 この4人による公式リーグでの対戦は、最強タッグの前身である世界オープンタッグリーグ選手権と合わせて3度実現しており、ブッチャーが無慈悲なフォーク攻撃でテリーの上腕を切り裂く姿は、日本のプロレス史の中でも1、2を争う残虐シーンとして今なお多くのファンの記憶にとどめられている。 初来日は1970年の日本プロレス。当時、日本のマット界ではほぼ無名の選手であったが、徹底した悪役ぶりによりシリーズ途中から外人側のエースに抜擢されると、それから以後40年以上にわたり、日本のさまざまな団体においてトップヒールとして人気を博し続けた。 会場にピンク・フロイドの『吹けよ風、呼べよ嵐』が流れれば、そこからはもうブッチャーの世界。先のファンクスはもちろんのこと、ジャイアント馬場、ミル・マスカラス、高田延彦から、ストーカー市川、レイザーラモンRGまで、相手が誰であろうとも、観客からは興奮をもって迎えられた。 そんなブッチャーにとっての唯一の“黒歴史”とでも言うべきものが、約4年間の新日本プロレス参戦ではなかったか。 1981年、最初に新日の会場へ登場した際のインパクトこそは強烈だった。掟破りの移籍劇。アントニオ猪木の提唱したIWGPを巡って、一体どんな名勝負を繰り広げるのかと期待に胸躍らせたファンは多かった。“プロレスの味方”村松友視も、その著書の中で、黒シャツに白いジャケットを羽織ったブッチャーのたたずまいを絶賛したものだ。 だがブッチャーは結局IWGPにエントリーすることはなく、また、わずか2回しか行われなかった猪木とのシングルマッチでも、さしたる印象を残せないまま新日のリングを後にした。 誰が相手でも名勝負を作ってきたブッチャーが、なぜ猪木との対戦においてはそうならなかったのか。 「それは仕方ないよ。そもそもファイトスタイルがかみ合わないんだから」(当時を知る新日関係者) 相手の猛攻を耐えに耐えたところから地獄突き一閃(猪木ならナックルパートか)。そこからの攻守逆転を見せ場とする“受け”のスタイルを持ち味とするだけに、そんな両者が戦えばどうしても試合は手詰まり気味に進行することになる。 「やるとすればブッチャーの反則攻撃を猪木が受けまくってから逆転するというパターンだろうけど、当時の猪木は体調が最悪だったから、フォークで刺されて大流血なんて試合はしたくなかったんじゃないかな。それにブッチャーは自分から動き回るタイプじゃないから、猪木の方から試合を動かすのも体力的にキツかったんだろう」(同・関係者) また、別の理由をスタン・ハンセンが自著『魂のラリアット』の中で、こう記している。 「“ブッチャー引き抜きは全日つぶしのために梶原一騎を介してやったことで、新日の看板外人にする気はない”との説明を、新間寿氏から受けた」 それが事実であれば、新日でのブッチャーの扱いがいまひとつだったことにも合点がいくというものだ。 ただ、猪木戦こそは振るわなかったが、ブッチャーの移籍自体が失敗だったかといえば、そうでもない。 「当時のブッチャー人気は全国区で、地方会場でも出ると出ないではチケットの売れ行きが段違い。だからあえて主要シリーズには呼ばないで、その谷間を埋める役割を担ってもらうことにしたんだ」(前出・関係者) そうであれば、会社経営上は、しっかりと新日に恩恵をもたらしていたということになる。 晩年になってインディ団体への参戦が増えたブッチャーは、試合に対するモチベーションを問われて一言、「マネー」と答えている。 カネ次第で誰とでも戦うし、観客もクライアントも十分に満足させる。ブッチャーの、そんな高いプロ意識が感じられる言葉ではないか。アブドーラ・ザ・ブッチャー 1941年、カナダ出身。'70年、日本プロレスに初来日。'72年からは全日本の常連に。'81年、新日に移籍するも、'87年に全日復帰。'96年、東京プロレスに引き抜かれて以後は、さまざまなインディ団体へ出場する。
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スポーツ 2013年12月17日 11時00分
俺達のプロレスTHEレジェンド 第2R 秘めたるエンタメ魂〈ラッシャー木村〉
「UWFはもともと、ラッシャー木村がエースになる予定の団体だった」というと、眉にツバするプロレスファンも多いだろう。 しかし、これは事実だ。 「当初UWFは、アントニオ猪木が新日本プロレスを離れ、フジテレビかTBSを中継スポンサーにして新団体を立ち上げようという計画から始まったものでした。そうして新日を中継するテレビ朝日とダブルで放映権料を得ようという皮算用だったのです。ところがいろんなシガラミから猪木は新日=テレ朝を離れられないということになり、そこで新団体のエースとして白羽の矢が立ったのがラッシャーでした」(当時を知る新日関係者) 後にUWFの絶対エースとなる前田日明もこの当時は一介の若手にすぎず、テレビ局からカネを引っ張るためには、元・国際プロレスのエースで猪木との抗争で名前を売ってきたラッシャーの看板が必要だったというわけだ。 しかし結局テレビ局との交渉は不調に終わり、UWFは将来を前倒しする形で、前田をエースとして旗揚げすることになる…。 そのUWFからラッシャーが早々に離脱したことについて「格闘色の強いファイトスタイルについていけなかったから」と見る向きもあるようだが、それは明らかな誤りである。もともとラッシャーの所属した国際は、社長の吉原功が早大レスリング部出身ということから、毎日レスリングの練習を欠かさなかった。よって格闘技の下地としては全日、新日の所属選手たちよりも、しっかりとしたものを持っていたのだ。 さらにラッシャーは、ビクトル古賀からサンボを、ビル・ロビンソンからキャッチ・レスリングを学んでいた。そうして見れば、むしろ格闘技的な試合においては当時国内トップクラスだったものと思われる。 かの鉄人ルー・テーズも猪木、馬場との比較で「相撲とレスリングをマスターしているラッシャーが一番強い」と評している。 国際の招きで来日していたときのコメントだけに多少の割引は必要だろうが、ルー・テーズともあろう者が、まるっきりのデタラメを言うとも思えない。少なくとも、第一次UWFの当時はプロレス流の練習しかしていなかった前田に比べて、ラッシャーが技術面で遅れをとることはなかっただろう。 では、なぜラッシャーはUWFにおいて、そうした能力を発揮しようとしなかったのか。 国際時代は「地方プロモーターのウケがいいから」との理由から、エースとして日本各地で金網デスマッチを繰り広げた。 新日では国際時代のエースから一転してヒールに徹し、猪木と国際軍団による1対3の屈辱の試合にも臨んだ。 全日では、衰えを隠せなくなった馬場にお共して『義兄弟コンビ』『ファミリー軍団』としてマイクパフォーマンスを売りにした。 いずれもクライアントや雇い主の意に従った振る舞いであり、ならばUWFにも継続参戦してよさそうなものなのだが、なぜそれをしなかったのか。 実はそこに、プロレスラー・ラッシャー木村の真の姿がうかがえる。 ラッシャーは、プロレス入りする以前の力士時代、十両目前まで昇進しながら「プロレスラーになりたいから」と周囲の反対を押し切って廃業している。つまり、それほどまでのプロレス愛を持っていたということである(ちなみに力士時代の所属は、当代きっての大横綱・白鵬と同じ宮城野部屋。つまり白鵬の兄弟子ということになる)。 力士廃業後、国際で本格デビューする前にはアメリカ遠征しており、そこで時にはマスクマンにもなるなど、エンターテインメントとしてのプロレスを身に付けてきた。 つまり、朴訥な外見からは想像し難いが、ラッシャーの本質は、実は筋金入りの“アメリカン・エンターテインメントプロレス”なのである。 だからこそ、金網からヒール役、お笑いまでこなすことができた。そして、そんなラッシャーのプロレス哲学、レスラーとしてのプライドからすると、UWFの格闘風プロレスは興味の対象外だったというわけである。ラッシャー木村 1941年、北海道出身。大相撲から日本プロレス入りした後、東京プロレスを経て国際プロレス入り。国際崩壊後は新日、全日、ノアに参戦した。2010年、誤嚥性肺炎のため死去。享年68。
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スポーツ 2013年12月12日 11時00分
俺達のプロレスTHEレジェンド 第1R 死を招いた計算高さ〈ブルーザー・ブロディ〉
“超獣”ブルーザー・ブロディが亡くなったのは1988年7月。それから、はや四半世紀が過ぎた。 死因は、プエルトリコでの興行最中、控え室で腹部をナイフで刺されたことによる出血多量。「あのブロンズ像のような体躯を誇るブロディが、たかが一本のナイフで絶命した」という事実に、多くのプロレスファンは言葉を失った。 ちまたでは、同地プロモーターとの間でトラブルのあったブロディを、その配下選手が制裁の意味で刺したと伝えられている。ただし、この事件における加害選手はその後の裁判で「正当防衛による無罪」の判決を得ていることには留意しておくべきだろう。 「プロモーターの意向を汲んだ目撃者たちが黙秘を貫いたため、加害側の主張が通って無罪となった」ともいわれるが、さて、ブロディ側に明白な正義があったならば、そうした結果にはなっただろうか。また、プロモーターが商品である選手を「言うことを聞かないから」と意図的に制裁を加えたのでは、自らの評判を落とすことにもなる。気に入らないなら契約しなければいいだけで、その点にもいささかの疑念は残る。 ブロディにまつわる明らかな誤解としては、1985年、新日本プロレスに“引き抜かれた”というものがある。 当時を知るスポーツ紙記者は語る。 「全日本プロレス側がギャラや勝敗にうるさいブロディを持て余していたのを見て、全日担当記者が新日担当記者に紹介したというのが実際のところ。選手の大量離脱で苦しんでいた新日からすれば渡りに船の話で、すぐに飛び付くことになったのです」 いわば全日が自ら放出したような形だったのだ。 そうであれば、ブロディが新日を離れた後、1年も待たずしてスムーズに全日復帰となったことにも説明がつく。復帰の際には以前よりも契約条件が下がったというから、「安く済むなら使ってもいい」という判断が全日側にあったのだろう。 一方のブロディは、なぜファイトマネーが下がっても全日参戦を選んだのかといえば、それは「馬場への信頼」があったからだった。契約条件や試合のアングルなど、全て事務方に任せた上で時に勝手な変更もする猪木=新日と、自ら選手に全て説明をする馬場=全日の違いは、当時来日参戦した多くの外国人レスラーが口にするところだ。 多少条件は落ちても働きやすいところで…というと、まるで一般人の会社選びのようだが、ブロディがそういった、いわゆる常識的な考えの持ち主であったと当時の関係者たちは口をそろえる。 「一度は馬場を裏切ったことをブロディは後悔していた」と、盟友スタン・ハンセンも後に語っている。 またブロディ自身も全日復帰後のインタビューで、その理由を問われたときには馬場の名を挙げて「相互の信頼によって成り立った典型的なビジネスの例かもしれない。馬場と私は1回もお互いを疑ったことはないし、だからこそ20年も全日本にいられたんだ」と語った。 新日で藤波辰爾に負けることより、多少ギャラが下がっても、全日でのジャンボ鶴田との互角の戦いを選んだ。ブロディがIWGPタッグリーグ戦欠場から全日復帰に至るまでの要点はそこにある。 自身の望む働き方と長期の安定収入を求め続けたブロディが、ようやく日本でその場所をつかんだ。全日復帰後のインター王座選手権で鶴田に勝ち、涙を流してまで喜んだのは、そうした心情の表れだったといえそうだ。 そんなブロディが、日本での歓喜の涙から半年も経たずしてプエルトリコの地で客死するとは、何とも皮肉な話である…。ブルーザー・ブロディ 1946年、米国ミシガン州デトロイト出身。初来日は'79年の全日本。'85年、新日本に移籍するも、翌年離脱。'87年に全日復帰となる。'88年7月、興行中の控え室で腹部を刺され死亡。享年42。