新日本
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芸能 2014年03月02日 17時00分
次は代々木第一体育館!? 夢アド3月定期公演はサプライズ発表満載
春の夢アドはうれしい発表がてんこ盛り! 国民的大女優を目指すガールズユニット「夢みるアドレセンス(通称=夢アド)」が2日(日)、東京・渋谷の「マウントレーニアホール」で3月定期公演を行った。前売りチケットが発売数日でソールドアウトした人気の本公演で、夢アドの5人は新曲2曲を含む計7曲を歌い上げた。 この日は「サプライズ発表祭り」。まず、4月19日(土)に日本最大級のファッション&音楽イベント「GirlsAward 2014 SPRING/SUMMER」(国立代々木第一体育館)のアーチスト出演が決定。リーダーの荻野可鈴は「今までにない大きなステージで夢アドとして出ることができてうれしい」と、すでにきゃりーぱみゅぱみゅに剛力彩芽、THE SECOND from EXILEや、オープニングアクトとして美少女プロジェクト「X21」らの豪華出演陣に加わることになることへの抱負を語った。 またライブでは、4月22日(火)にリリースされる新曲を初お披露目。新曲のタイトルは「マワルセカイ」。音楽監修にYUKIやFlumpool、superfly、いきものがかりなどをプロデュースする気鋭の音楽制作集団「agehasprings」が担当するという力の入った作品だ。カップリングの1曲「JUMP!」もあわせて披露された。 ライブMCでは、先月誕生日を迎えた志田友美にステージ上でバースデーケーキが贈られるサプライズも。これには志田も「先月は定期公演がなかったので、こんなことがあるとは!」と涙目に。 サプライズ発表はまだまだ続く。5月6日(祝・月)、東京・歌舞伎町の「新宿BLAZE」での5月定期公演もアナウンスされ、次回からは「定期公演」あらため「夢コレ(夢コレクション)」と呼ばれることに。さらに“ダメ押し”発表は、今年タイで開催されるジャパンコンテンツフェスティバル「Comic-con」に出演することも! 日本から参加するグループは2組! ということは実質、日本代表としてアジア進出するということだ!(ちなみに、もうひと組は新日本プロレスリング)。今後いろいろな場所で夢アドがますます露出していくことになりそうだ。 3月定期公演後、夢アドは同所でサプライズ的な無料新曲発売イベントも敢行。急な発表にもかかわらずライブ&握手会に多くのファンが押し寄せた。■「夢みるアドレセンス」公式サイト http://yumeado.com/アドレセンスとは「思春期」のこと。人気ティーンファッション誌モデルを中心として2012年にグループ結成された。メンバーはリーダー荻野可鈴、山田朱莉、志田友美、小林玲、京佳。子供じゃないけど大人でもない「アドレセンス」5人による等身大の演劇ステージやダンスに歌が、単なるアイドルファンだけでない幅広い層にファンを広げている。
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スポーツ 2014年02月20日 11時00分
俺達のプロレスTHEレジェンド 第10R “新日最強の男”が本領を発揮するとき〈坂口征二〉
かつて新日本プロレスのレフェリーだったミスター高橋は、その著書などでたびたび「新日最強はアントニオ猪木ではなく坂口征二」との旨の発言をしている。柔道全日本王者という肩書きもさることながら、身長194センチ(柔道時の登録データ。プロレス入り後のプロフィールは196センチ)、体重100キロ超という、外国人にも全く引けを取らない体躯。肥満体や巨人症ではなく、均整の取れた身体でのその数値は、今現在の目で見ても日本人としてはズバ抜けている。 競技人口の多い柔道界においても、これだけの体格を誇る選手はそうそう見当たらず、そんな坂口がなぜプロレス入りしたのかといえば、これはもう時代の巡り合わせとしか言いようがない。 1964年の東京五輪で初の正式種目となった柔道だが、日本勢は重量級でアントン・ヘーシンクに完敗。そこから決死の巻き返しを図るも、次のメキシコシティ五輪では競技自体が実施されなかった。日本柔道界の将来には暗雲が垂れ込め、それはまた坂口にとっても同じだった。 そんなとき、日本プロレスからの誘いがかかる。スカウトの席で分厚いステーキが振る舞われ、「こんないいものが食えるのか」と心揺らいだとの逸話からも、当時の坂口および日本柔道界の不遇の様子がうかがわれる。 しかし、坂口は同時に弱点も抱えていた。柔道時代に痛めた腰の不安である。 「ブリッジなどの練習は、ほとんどしなかったと聞きます。身体を反るスープレックス系の技もまず使わない」(古参プロレス記者) たまに繰り出したブレーンバスターも相手を後ろに投げ放つのではなく、頭上に抱え上げたところで自ら尻もちをつくように落とすもので、まさしく和名通りの“脳天砕き”。あまりにも危険だからと、いつしか封印されてしまった。 「相手にボストンクラブをかけられそうになれば、やはり腰の不安から慌てて跳ねのける。互いに使える技が限られてしまうから、どうしても試合が単調になりがちでした」(同・記者) アメリカでUN王座を獲得した試合('72年、対キング・クロー)でも、「アトミック・ドロップ6連発でフォール」と、いかにも大味なものであった。 坂口のそんな“粗さ”も、相手次第では“荒々しさ”となってプラスに転じた。坂口自身も名勝負として挙げるドリー・ファンク・ジュニアとのNWA王座戦('71年)は、ドリーのテクニックと坂口のパワーが実にうまくかみ合った試合となった。 坂口は柔道で寝技の基礎ができているからグラウンドでの攻防もスムーズで、そこが他の単純なパワーファイターとは異なる点だ。両者はよほど手が合ったようで、坂口の修行時代のアメリカでも、ドリーとは60分フルタイムの試合を行っている。 また因縁、遺恨のある相手との対決というのも、坂口の本領が発揮される舞台となる。 日プロ末期の因縁を引きずる大木金太郎戦−−。 互いに“裏切り者”と憎み合うリング上に、多彩な技など必要ない。大木の原爆頭突きに坂口が力任せのラフ殺法で立ち向かい、新日での都合3度の対決は、いずれも無効試合などの不透明決着。それでも、2人の感情ほとばしる試合は今も伝説として語り継がれている。 イデオロギー対決となった新日対UWFの5対5勝ち抜き戦−−。 次鋒として登場した坂口は、当時としては格下だった高田伸彦(現・延彦)、山崎一夫を次々と蹴散らし、「坂口強し!」をあらためて印象付けた。そんな坂口の姿に新日ファンは快哉を叫んだものだった。 「おやじは強かった。でも優しすぎた」 坂口の息子で俳優の坂口憲二が、テレビの企画でカール・ゴッチを訪れた際に掛けられた言葉である。 坂口が、そんな優しさのリミッターをリング上で常に外すことができれば、もしかすると猪木以上のスターとなったのかもしれない。 「それでも、サカさんが常に猪木さんより一歩引いて事務方に専念してくれたからこそ、新日本は幾度ものピンチにもつぶれずに存続することができた。その意味では、新日本の一番の恩人なんです」(元・新日関係者)。〈坂口征二〉 1942年、福岡県久留米市出身。'65年、全日本柔道選手権優勝。'67年、日本プロレス入団。'72年、新日本プロレスへ移籍し、猪木に次ぐスター選手に。'90年、社長業に専念するため引退。次男は俳優の坂口憲二。
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スポーツ 2014年02月11日 11時00分
俺達のプロレスTHEレジェンド 第9R 完璧レスラーは英国紳士か? 変人か? 〈ビル・ロビンソン〉
プロレスで重要なのはパワーやテクニックなどの“強さ”だけではない。キャラクターやマイクパフォーマンス、さらに王者となれば“人格”までも求められる。 「まだアメリカで地域ごとのプロモーターが力を持っていた時代、テリトリー内を転戦する際に、各地の有力者とトラブルを起こすような人間ではチャンピオンは務まらなかったわけです」(プロレスライター) AWAの帝王バーン・ガニアの後継と目されていたビル・ロビンソンが、ついに同タイトル獲得とならなかったのは、そのためだ。 「実力では文句なしだったロビンソンですが、とにかくプライドが高く、どこかアメリカンプロレスを見下しているようなところもありました。レスラー仲間や関係者との間ではトラブルが絶えず、そのため実力ではロビンソンに一歩譲るものの、人格者だったニック・ボックウィンクルが長期王者になったんです」(同・ライター) 国際プロレスに外国人エース格で参戦していた当時も、巡業先でピーター・メイビアとストリートファイトを繰り広げたとの逸話を残している。またカール・ゴッチとの試合が引き分けに終わった後には「あんたの脚を折らなかったのは“武士の情け”だ」と語り、ゴッチをして「プロレスは殺し合いじゃない」と呆れさせたとも巷間伝えられる。 わずかな日本滞在の間だけでもそうなのだから、本拠とするアメリカとなれば推して知るべしだろう。プロレスファンの間では“華麗なテクニシャン”として語られることの多いロビンソンだが、決してそれだけのレスラーではなかったのである。 全日本プロレスではキラー・トーア・カマタやアブドーラ・ザ・ブッチャーとのラフファイトも互角以上にこなしてみせた。また「手首をキメるだけでも100種類以上の技がある」と語る本格派のシューターでもあった。 ベースにあったのはイギリスの『ランカシャー・スタイルレスリング=キャッチ・アズ・キャッチ・キャン(CACC)』。これは簡単に言えば“関節技ありのレスリング”で、ロビンソンが基礎を学んだビリー・ライレージムは、ねちっこく相手に絡みつくそのレスリングスタイルが蛇のようだとして『スネーク・ピット(蛇の穴)』とも称された。 そこでロビンソンは「勝った方が賞金を得る」賞金マッチだった時代の欧州プロレスを勝ち抜くための、あらゆる術を体得した。 「彼は19歳と若くしてプロデビューした分、一世代前のレスラーたちとも多く対戦しています。プロレスがショーとガチンコの間だった時代を戦ってきた、その経験が高いプライドの源泉になっていたのでしょう」(同) ロビンソンの全盛時−−速く鋭いタックルから流れるようにキメていく関節技などは、現代の総合格闘技においても通用するのではないかと思わせるだけのものがある。 「ダブルアーム・スープレックスを日本初披露したことから“人間風車”の呼び名が付けられましたが、それによって逆にロビンソンのイメージが限定されてしまったところはあります」(同) 名勝負との誉れ高きアントニオ猪木とのシングルマッチが行われたのは、1975年12月11日、新日本プロレス蔵前国技館大会。この日、同じ東京の日本武道館では、全日主催の『力道山十三回忌追善特別大会』が、日米豪華メンバーにより開催されていた。 「全日による新日つぶし」とも言われたが、それでも猪木vsロビンソンの“一枚看板”は、満員の観客を集めてみせた。当時のファンはロビンソンのことを「モハメド・アリとの格闘技世界一決定戦を間近に控えた最高潮の猪木が、雌雄を決するにふさわしい相手」と認めていたし、実際「カーニバル色の濃い大会より“本物の勝負”が見たいから蔵前に行った」という全日ファンも多くいた。 ロビンソンはその後、全日へ移籍。対日本人としては初の敗戦をジャイアント馬場に喫するなど「既に全盛期は過ぎていた」と自ら語った。それでもジャンボ鶴田を連戦による“実践教育”でエースに育て上げるなど、日本マット界に多大な影響を残したのだった。〈ビル・ロビンソン〉 1938年、イギリス・マンチェスター出身。'68年、国際プロレスに初来日。'75年、猪木と伝説の60分フルタイムドローの試合を経て、以後は全日本プロレスに参戦。'85年に引退後は日本でトレーナーなどを務める。
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スポーツ 2014年02月07日 15時00分
俺達のプロレスTHEレジェンド 第8R その死が日本プロレス界を激変させた〈ジャイアント馬場〉
ジャイアント馬場が亡くなったのは、1999年1月31日のこと。 「それ以降、元子夫人は『G馬場記念館を作りたい』と言ってきましたが、来年の17回忌には何か動きがあるかもしれません」(元・全日本プロレス関係者) 昨年8月、今の全日から三冠ベルトが馬場家へ返還されたのは、それに向けての準備だったか。その本名をとって“正平寺”なる寺院を建立するという噂もあるようだが、いずれにせよ昭和のプロレスファンにとって、その象徴である馬場を追悼する施設ができるとすれば喜ばしいことだ。 「馬場が生きていれば日本のプロレス界がこれほど様変わりすることはなかった」というのは、多くの関係者の口にするところだ。 「まず馬場さんが存命なら、三沢光晴たちが独立してノアを立ち上げることはなかったでしょう。義理人情の男・三沢が恩義ある馬場さんの下を離れることはあり得ませんから」(同・関係者) そうであったなら、三沢も一選手としてリングに集中できて、不幸な禍を避けられたかもしれない。 「ノア独立後、『馬場家がケチだから選手たちが大量離脱した』なんて言われましたが、それは誤解。馬場さんは、ただ本場アメリカと同じように団体運営をしただけです。“選手を保険に入れてなかった”と言うけれど、そもそも手本にしたアメリカという国自体に国民皆保険制度がありません。『選手個人のキャラクターグッズのインセンティブを渡さなかった』というのも、昔はそんな概念自体がなかったわけです」(同) それらは“知らないことはやらない”という慎重居士だった馬場の性格の表れであろう。所属選手の故障欠場時にも、きちんとファイトマネーを払い続けたり、近い関係者にはポケットマネーから高級料理をふるまったり、マスコミ操作のため週刊プロレス編集長だったころのターザン山本氏に裏金を渡したりといったエピソードからしても、決してケチだったわけではない。 「馬場の死で一番影響を受けたのは、むしろ猪木と新日本プロレスではないか」(元・新日本プロレス関係者)との声もある。 「猪木のプロレス人生は“打倒馬場”とイコールであり、常に猪木の先を行っていた馬場の全日が順調なままであったなら、新日がそれに遅れを取ることなどは猪木にとって耐え難い。そのため新日に専念し、PRIDEなど格闘技の世界に向かうこともなかっただろう」(同・関係者) そうであれば、新日の選手が格闘技のリングで惨敗を繰り返すこともなかったわけで、やはり馬場の死が日本のプロレス界に及ぼした影響はとてつもなく大きいといえる。 経営者として、人格者として高い評価をされてきた馬場だが、レスラー・馬場に対するファンの見方は決してそうではなかった。猪木からの対戦要求にも「馬場が避けている」という見方が主流を占めていた。「ガチンコで馬場が猪木に勝てるわけがない」と。 さらに亡き後は、物まねなどでスローモーな形態模写をされるなど“イロモノ扱い”の風潮すらある。 しかし馬場の全盛期は全くそんなものではなく、その動きはむしろ躍動的ですらあった。 「ハーリー・レイスから3度目のNWA王座を獲得したのは1980年、馬場42歳のとき。すでに選手としては下り坂でしたが、あらためて映像を見ると、ジャンプしながらの脳天唐竹割りを連発したり、代名詞である十六文キックにしても、ただ足を上げて相手を待っているのではなく、しっかり踏み込んで放っている。コーナーポストに素早く駆け上がる姿など、とても2メートル越えの巨人の動きとは思えません」(プロレス記者) 何といっても馬場は、投手としてプロ野球のマウンドまで踏んだスポーツエリート。その後の衰えは、年齢を考えれば仕方あるまい。 1982年、スタン・ハンセンとのPWF戦のころは、糖尿病の影響なのかほとんど汗もかかなくなり、全盛時と見比べれば極端にパフォーマンスを落としていることがわかる。しかし、それでもその年のプロレス大賞ベストバウトを受賞しているのだから、やはり馬場は選手としても最上級だったのだ。〈ジャイアント馬場〉 1938年、新潟県出身。プロ野球選手を経て、'60年に日本プロレス入団。力道山の死後はエースとして活躍。'72年、全日本プロレスを旗揚げし、王道プロレスを展開する。'99年、肝不全により死去。享年61。
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芸能ネタ 2014年02月01日 17時59分
レイザーラモンRGが棚橋のお笑いセンスにノックアウト
1月31日、タワーレコード新宿店でDVD「激情プロレスリング〜激突!! 吉本芸人軍団VS新日本プロレス軍団 全面戦争」の発売記念イベントが行われ、吉本芸人のレイザーラモンHGとレイザーラモンRG、新日本プロレスの棚橋弘至と天山広吉が登場。 オープニングでRGが玉置浩二の「田園」の楽曲に乗せて、「プロレスDVDは、オープニングがカットされがち」という“プロレスDVDあるある”を披露するも会場の反応は微妙で、スベッた相方に対してHGは何のフォローもせず、苦笑。 トークではHGが棚橋との大喜利対戦で負けた事について聞かれると「大喜利が得意だったら、ハードゲイになっていない(笑)」と本音をポロリ。一方のRGも棚橋との“あるある”対戦を振り返り「“カレーライスあるある”が上手い。俺がもし死んだら二代目“あるある”芸人を棚橋に譲りたい」と語り、レイザーラモンの二人は完全に白旗を振っていた。●DVD「激情プロレスリング〜激突!! 吉本芸人軍団VS新日本プロレス軍団 全面戦争」絶賛発売中●価格/3,990(税込)●発売元・販売元/よしもとアール・アンド・シー●DVD特典「試合後のバックステージ・インタビュー」完全収録
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スポーツ 2014年01月20日 11時00分
俺達のプロレスTHEレジェンド 第6R “アメリカン・ドリーム”に憧れた時代〈ダスティ・ローデス〉
“ラテンの魔豹”ペドロ・モラレス、“狼酋長”ワフー・マクダニエル…。アメリカではトップを張りながら日本でいまひとつ活躍できなかったレスラーが少なからず存在する。それらは「プエルトリコ移民」「インディアン」といった、そもそもの出自が人気の主要因となっているケースが多く、そのあたりの文化理解に乏しい日本で通用しなかったのも仕方あるまい。 そんな中にダスティ・ローデスを並べることには異論もあろう。しかしながら日本でのローデスが、アメリカほどにはスーパースター的存在として認知されていないのもまた事実である。 日本で紹介されるローデスは、そのニックネーム『アメリカン・ドリーム』にちなんだ“ゴージャス”“スタイリッシュ”といった類いのものばかりで、そのころに本国ではおなじみだった「俺は配管工の息子!」との決めゼリフがテレビ等から聞かれることは、まずなかった。 「そのときにローデスの話す言葉がまたコテコテの南部訛りなんですね。そんな田舎者の不良アンちゃんがプロレス界のトップに上りつめて大金を稼ぐという“成り上がりストーリー”。実のところ、これがアメリカではウケていたんです」(当時の米マット事情に詳しいプロレスライター) 日本では、そのニュアンスまで理解してローデスに声援を送っていたファンはまずいなかっただろう。それでいて、なぜ一定以上の人気を得られたのか。そこには当時の日本の文化事情が深く関わってくる。 日本にマクドナルドが初出店したのが1971年。くしくもローデスの国際プロレスへの初来日と同じ年である(まだこのときはディック・マードックとの『テキサス・アウトローズ』として知られる“ダーティ”ダスティ・ローデスではあったが)。アメリカでは庶民の食であるハンバーガーが日本で高級外食と受け止められていたように、日本におけるローデスはうわべだけの豪華さを“本場の高級品”としてありがたがられていた。日本人選手なら「真面目にやれ!」と罵倒されるだろう“腰振りダンス”もヤンヤの歓声で受け入れられたのだ。 ウマいのかマズいのかもわからずにハンバーガーを食していたように、何だかよくわからないが、とにかく“アメリカの象徴”として日本のファンはローデスを歓迎した。新日本プロレスへの来日時、あえて一週間程度の特別参戦としていたことも、ローデスの高級感を増すことになった。 ちなみに、その当時には「アメリカで引っ張りダコだから長く日本滞在ができない」などと特別参戦の理由が語られていたものだが、後になって「ローデスのギャラが他に比べて高過ぎたので全戦参加させられなかった」と新間寿氏は真相を明かしている。 そうはいっても、ただ舶来品を押し頂く感覚だけでは長く人気を集めることはできない。やはり重要なのは試合内容になるわけだが、その点においてもローデスは一流だった。繰り出す技はエルボースタンプにエルボードロップ、パンチと4の字固めぐらい。それでいながらパフォーマンスに偏ることなく、見応えある試合を繰り広げた。 「中でも猪木とのNWF戦などは両者の持ち味が出た名勝負と言えるでしょう。試合での間の取り方がうまく、観客への見せ方を熟知しているんですね」(前出のプロレスライター) 流血時にはあえて額よりも上部をカットすることで、遠目には白髪にも見える薄いブロンドヘアに血の赤が鮮やかに映える。そんな見た目の細かな部分にまでもこだわりが感じられた。 ジャイアント馬場は「こんな腰振りがはやるなんて」とローデスを酷評したという。しかし、ショーマンスタイルとは真逆であるはずの新日においては、これが受け入れられることになった。 「新日の緊迫感に満ちた雰囲気の中で、あのどこかコミカルな存在感が一服の清涼剤となったのでしょう。猪木は'95年に北朝鮮で行われたイベントでのリック・フレアー戦でもそうだったように、意外とアメリカン・スタイルと手が合うんですね」(同前) 猪木の“燃える闘魂”を際立たせるという意味においても、ローデスの存在は貴重だったのだ。
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スポーツ 2014年01月13日 11時00分
俺達のプロレスTHEレジェンド 第5R 現代に蘇る1人ガリバー旅行記〈アンドレ・ザ・ジャイアント〉
デカいというだけなら、もっとデカいレスラーは何人もいる。身長だけならエル・ヒガンテの方が10センチ近く上回るし、デカくて動けるというのならWWEのスーパースター、ビッグ・ショーがいる。 しかし、その存在感でアンドレ・ザ・ジャイアントに匹敵する者は今に至るまで現れていない。巨人レスラーの代表といえば、アンドレをおいて他にない。 「あえてアフロヘアのかつらをかぶることで自分のデカさと怪物性を強調するなんて発想は、誰もができるものではないよ。“ロープにもたれ込んだ際に腕が絡まって動けなくなる”というムーブも、アンドレほどに上手なレスラーは、他にはいなかったな」(ベテランプロレス記者) まさに、ただの“見世物”の枠には収まりきらないエンターテイナーであった。だからこそ、全盛時には世界中のマットで主役を張ることができた。『年間ファイトマネー40万ドル』(1974年度のギネスブックに記載)は、ダテではないのである。 ちなみに当時の円ドル為替レートは、1ドル300円程度。現在の物価は当時の約3倍ほどだから、換算して年間3億円以上を稼いでいたことになる。 そうして世界的にベビーフェースとして成功していたアンドレだが、新日へ来日したときはヒール役を与えられることになった。 「いつも不機嫌そうにワインを飲んでいる印象だったけど、それは慣れない役回りに不満があったからかもしれないね」(前同) “猪木に乗り越えられる敵役のモンスター”にすぎなかった−−。そんなアンドレを、今もファンの記憶に強く残るレジェンドにまで昇華させたのは、何といってもテレビ実況を務めた古舘伊知郎の存在だろう。 『現代に蘇る1人ガリバー旅行記』『1人民族大移動』『1人というには大き過ぎる。2人と言ったら人口のつじつまが合わない』…。 これら数々の名フレーズによってアンドレのキャラクターは、ただの怪物にとどまらない物語性を身にまとった存在として、ファンの心にしっかりと焼き付けられていった。今でこそニュースキャスターとして何かと言われることの多い古舘だが、長きにわたるプロレスファンからすれば、彼もまた昭和プロレスを彩るレジェンドのひとりなのである。 猪木との戦い以外にも、スタン・ハンセンとの伝説の一騎打ち('81年、田園コロシアム)や覆面姿のジャイアント・マシーンへの変身('85年、チャレンジスピリット・シリーズ)など、強烈なインパクトを放ち続けたアンドレ。しかし、生来の巨人症とアルコール多飲による不摂生は徐々にその身体をむしばんでいった。 「若いころと比べて体重が激増したこともあって、'80年代中盤には、もう膝や腰がパンク寸前だったらしい」(前同) アメリカでの主戦場であったWWF(現WWE)でも、一時はハルク・ホーガンを破って王座に就くが、その後はアルティメット・ウォリアーなどの次世代レスラーを売り出すための“かませ犬”的な扱いを受けるようになり、徐々に出場機会を減らしていった。 そんなときに、日本において新日から全日への円満移籍となったのは、アンドレにとっても、またファンにとっても幸いだった。 最初にジャイアント馬場と“大巨人コンビ”を組んだのは、'90年4月に行われた『日米レスリングサミット』(東京ドーム)のリング。両者初タッグのこのとき、入場テーマ曲こそ馬場のものが使用されたが、先に入場したのも試合に先発したのも馬場。フィニッシュも、馬場の十六文キックで相手が倒れたところにアンドレがエルボードロップを放ち試合を決めるという、馬場流の“おもてなし”にあふれたものとなった。 同年暮れに行われた世界最強タッグ決定リーグ戦では、やはりジャイアント馬場とのコンビで、当時売り出し中のテリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムスの殺人魚雷コンビを破るなど“絶好調”が再来。観客からの声援は新日時代と異なって、完全にベビーフェースに対するそれに様変わりした。 アンドレ自身もまた、かつて日本では見せたことのないような満面の笑顔で、ファンからのコールに応えてみせたのだった。アンドレ・ザ・ジャイアント 1946年、フランス出身。'70年、モンスター・ロシモフの名で国際プロレスに初来日。以降はアンドレ・ザ・ジャイアントとして新日本、全日本両団体に参戦する。'93年1月27日、急性心不全で死去。享年46。
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芸能 2014年01月11日 17時59分
坂口憲二がデキちゃった結婚!!
俳優の坂口憲二が都内で飲食店を経営する32歳の一般人女性とデキちゃった結婚することを各スポーツ紙が報じている。 各紙をまとめると、坂口は昨年春、交際していたモデルの桜井裕美と破局したが、結婚することになった女性と出会ったのは昨年夏。プライベートでも親しい俳優の伊藤英明に女性の経営する都内の飲食店に連れて行かれ、坂口と女性はすぐに意気投合。 女性は162センチの京都出身でスレンダーな和風美人。落ち着いた大人の雰囲気が話しやすさを醸しだし、会話を重ねるうちに互いにひかれ合い、自然と結婚を前提とした交際に発展したというが、女性は現在妊娠2〜3カ月だという。 年明けには両家へのあいさつも済ませ近日中にも婚姻届を提出する予定だという。 憲二の兄で総合格闘家の征夫にはすでに3人の子供がいて、子供好きの憲二は3人と仲良く遊ぶ姿がたびたび目撃されていたというが、憲二の父で「世界の荒鷲」こと新日本プロレス相談役の坂口征二は一部に「夏には子供もできるようだし、二重の喜びだよね。早く元気な子供、4人目の孫に会えることを楽しみにしているよ」とコメントを寄せている。 とはいえ、このタイミングでデキ婚の事実が発覚したのには、それなりに所属事務所の思惑があったようだ。 「9日に主演のシリーズドラマ第4弾となるフジテレビ系『医龍4〜Team Medical Dragon〜』がスタートしたが、視聴率が11.6%でこれまでのシリーズの初回としては最低の視聴率だった。第2話以降の視聴率アップを狙い、視聴者の“ご祝儀”を期待して発表に踏み切ったようだ」(芸能記者) 果たして、ドラマの視聴率アップなるか。
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スポーツ 2014年01月08日 11時00分
俺達のプロレスTHEレジェンド 第4R “善戦マン”から“日本人最強”へ〈ジャンボ鶴田〉
最近では「試合の勝ち負けよりも内容が大事」なんてことを言うプロレスファンも少なくない。しかし、果たして本当にそうなのか。 星条旗柄〜赤パンツ時代のジャンボ鶴田は、ジャック・ブリスコ、ハーリー・レイス、テリー・ファンク等々、歴代NWA王者と互角の勝負を繰り広げながら、結果勝ち切れなかった。そのためについた呼び名は“善戦マン”。ここに、憧れや尊敬の念は一切感じられなかった…。 「NWA王者はアメリカプロレス界の最大派閥だった同団体の利益の象徴なのだから、日本人の鶴田が長期王者となることは難しかった」などと、今になって言う向きもあろう。しかし当時のファンの多くが、大事な試合に勝ち切れない鶴田をどこか侮蔑の目で見ていたことに間違いはない。 コスチュームをストロングスタイルのシンボルとされる黒パンツに変更してからも、しばらくそうした見方は変わらなかった。そもそも、いつから鶴田が黒パンツに替えたかを覚えている人は、どれほどいるだろうか(正解は1982年、リック・フレアーとのNWA戦から)。 では試合で勝てばいいのかといえば、プロレスはそんなに単純ではない。 '83年にはブルーザー・ブロディを破り、伝統のインター王座獲得、その翌年には世界三大王座の一つ、AWA王者としてアメリカツアーを行った。 かのブロディが「鶴田と好勝負するために身体を絞った」というぐらい(渕正信のブログ『酔々ブルース』より)、日本人の中では図抜けた力量を見せてはいた。 しかし、このとき鶴田にとっての“敵”となったのが、新日本プロレスをめぐるスキャンダル報道である。 先述ブロディ戦の直前には初代タイガーマスクが突如の引退宣言、猪木の社長解任クーデターなどが重なり、それらに話題を奪われてしまう。また、日本人初のAWA王座戴冠も、長州力の「維新軍旋風」の前にどこか霞んでしまった。 鶴田へのファンの関心が集まりはじめたのは、その長州との戦いからだった。'85年、60分フルタイムドローとなったシングルマッチでは、長州の身体の小ささやスタミナ不足が際立ち、対する鶴田の怪物性を目立たせるものとなった。 '80年代後半からの天龍源一郎との抗争もまた、鶴田株の上昇に一役買った。中でも'89年4月、大阪での三冠ヘビー級選手権試合。天龍を急角度パワーボムで完全失神させた試合は今も語り草となっている。 そうした日本人対決の中で鶴田は、何人かの選手を病院送りにしている。今のファンの基準からすれば「相手を怪我させる=下手クソの三流レスラー」ということにもなろう。だが、これらは鶴田の怪物ぶりを修飾する逸話となり、いつしか入場時にはファンからの「ツ・ル・タ! オー!」コールが巻き起こるまでになっていた。 こうした鶴田の歴史が証明するのは「やはりプロレスは内容だけではなく、話題性のある試合において勝利することが重要だ」ということではなかったか。 鶴田の評価がいよいよ“日本最強”レベルにまで上昇したのは、三沢光晴ら超世代軍の壁となってからであった。若手たちがいくらぶつかっていってもビクともしない。ジャンピングニーパット一閃で三沢を吹き飛ばし、川田利明の顔面を踏みつぶし、菊地毅を頭上高くまで持ち上げて雑作なく投げ飛ばす。まさに鬼神のごとき戦いぶりで、見る者全てがその天性の才を感じずにはいられなかった。 鶴田が対戦希望相手としてアントニオ猪木、前田日明、藤波辰爾、ハルク・ホーガンらの名を挙げても、誰も「ビッグマウス」などと陰口を叩くことはない。むしろファンからは「鶴田に勝てるわけがない。名前を出された相手がかわいそう」と見られるまでになっていった。 惜しむらくは、最初の三沢とのシングルマッチからわずか2年半ほどにして、病のためセミリタイアとなったことであろう。 当時鶴田は42歳。師匠の馬場が同年齢のときにはスタン・ハンセンとの抗争を始めたばかりで、それを思えば鶴田もまだまだファンの心に残る名勝負を残せたはずである。ジャンボ鶴田 1951年、山梨県出身。'72年、ミュンヘン五輪レスリング100キロ超級代表に。卒業後、全日本プロレスに入団すると、一躍エースにまで上り詰める。2000年、肝移植手術時、出血多量により死去。享年51。
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スポーツ 2013年12月27日 16時00分
俺達のプロレスTHEレジェンド 第3R 吹けよ風、呼べよ嵐! 〈アブドーラ・ザ・ブッチャー〉
プロレスファンにとって年の瀬の風物詩といえば、何といっても全日本プロレスの『世界最強タッグ決定リーグ戦』だった。中でもアブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シーク組vsザ・ファンクスをベストバウトとして挙げる人は多いだろう。 この4人による公式リーグでの対戦は、最強タッグの前身である世界オープンタッグリーグ選手権と合わせて3度実現しており、ブッチャーが無慈悲なフォーク攻撃でテリーの上腕を切り裂く姿は、日本のプロレス史の中でも1、2を争う残虐シーンとして今なお多くのファンの記憶にとどめられている。 初来日は1970年の日本プロレス。当時、日本のマット界ではほぼ無名の選手であったが、徹底した悪役ぶりによりシリーズ途中から外人側のエースに抜擢されると、それから以後40年以上にわたり、日本のさまざまな団体においてトップヒールとして人気を博し続けた。 会場にピンク・フロイドの『吹けよ風、呼べよ嵐』が流れれば、そこからはもうブッチャーの世界。先のファンクスはもちろんのこと、ジャイアント馬場、ミル・マスカラス、高田延彦から、ストーカー市川、レイザーラモンRGまで、相手が誰であろうとも、観客からは興奮をもって迎えられた。 そんなブッチャーにとっての唯一の“黒歴史”とでも言うべきものが、約4年間の新日本プロレス参戦ではなかったか。 1981年、最初に新日の会場へ登場した際のインパクトこそは強烈だった。掟破りの移籍劇。アントニオ猪木の提唱したIWGPを巡って、一体どんな名勝負を繰り広げるのかと期待に胸躍らせたファンは多かった。“プロレスの味方”村松友視も、その著書の中で、黒シャツに白いジャケットを羽織ったブッチャーのたたずまいを絶賛したものだ。 だがブッチャーは結局IWGPにエントリーすることはなく、また、わずか2回しか行われなかった猪木とのシングルマッチでも、さしたる印象を残せないまま新日のリングを後にした。 誰が相手でも名勝負を作ってきたブッチャーが、なぜ猪木との対戦においてはそうならなかったのか。 「それは仕方ないよ。そもそもファイトスタイルがかみ合わないんだから」(当時を知る新日関係者) 相手の猛攻を耐えに耐えたところから地獄突き一閃(猪木ならナックルパートか)。そこからの攻守逆転を見せ場とする“受け”のスタイルを持ち味とするだけに、そんな両者が戦えばどうしても試合は手詰まり気味に進行することになる。 「やるとすればブッチャーの反則攻撃を猪木が受けまくってから逆転するというパターンだろうけど、当時の猪木は体調が最悪だったから、フォークで刺されて大流血なんて試合はしたくなかったんじゃないかな。それにブッチャーは自分から動き回るタイプじゃないから、猪木の方から試合を動かすのも体力的にキツかったんだろう」(同・関係者) また、別の理由をスタン・ハンセンが自著『魂のラリアット』の中で、こう記している。 「“ブッチャー引き抜きは全日つぶしのために梶原一騎を介してやったことで、新日の看板外人にする気はない”との説明を、新間寿氏から受けた」 それが事実であれば、新日でのブッチャーの扱いがいまひとつだったことにも合点がいくというものだ。 ただ、猪木戦こそは振るわなかったが、ブッチャーの移籍自体が失敗だったかといえば、そうでもない。 「当時のブッチャー人気は全国区で、地方会場でも出ると出ないではチケットの売れ行きが段違い。だからあえて主要シリーズには呼ばないで、その谷間を埋める役割を担ってもらうことにしたんだ」(前出・関係者) そうであれば、会社経営上は、しっかりと新日に恩恵をもたらしていたということになる。 晩年になってインディ団体への参戦が増えたブッチャーは、試合に対するモチベーションを問われて一言、「マネー」と答えている。 カネ次第で誰とでも戦うし、観客もクライアントも十分に満足させる。ブッチャーの、そんな高いプロ意識が感じられる言葉ではないか。アブドーラ・ザ・ブッチャー 1941年、カナダ出身。'70年、日本プロレスに初来日。'72年からは全日本の常連に。'81年、新日に移籍するも、'87年に全日復帰。'96年、東京プロレスに引き抜かれて以後は、さまざまなインディ団体へ出場する。
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