「それ以降、元子夫人は『G馬場記念館を作りたい』と言ってきましたが、来年の17回忌には何か動きがあるかもしれません」(元・全日本プロレス関係者)
昨年8月、今の全日から三冠ベルトが馬場家へ返還されたのは、それに向けての準備だったか。その本名をとって“正平寺”なる寺院を建立するという噂もあるようだが、いずれにせよ昭和のプロレスファンにとって、その象徴である馬場を追悼する施設ができるとすれば喜ばしいことだ。
「馬場が生きていれば日本のプロレス界がこれほど様変わりすることはなかった」というのは、多くの関係者の口にするところだ。
「まず馬場さんが存命なら、三沢光晴たちが独立してノアを立ち上げることはなかったでしょう。義理人情の男・三沢が恩義ある馬場さんの下を離れることはあり得ませんから」(同・関係者)
そうであったなら、三沢も一選手としてリングに集中できて、不幸な禍を避けられたかもしれない。
「ノア独立後、『馬場家がケチだから選手たちが大量離脱した』なんて言われましたが、それは誤解。馬場さんは、ただ本場アメリカと同じように団体運営をしただけです。“選手を保険に入れてなかった”と言うけれど、そもそも手本にしたアメリカという国自体に国民皆保険制度がありません。『選手個人のキャラクターグッズのインセンティブを渡さなかった』というのも、昔はそんな概念自体がなかったわけです」(同)
それらは“知らないことはやらない”という慎重居士だった馬場の性格の表れであろう。所属選手の故障欠場時にも、きちんとファイトマネーを払い続けたり、近い関係者にはポケットマネーから高級料理をふるまったり、マスコミ操作のため週刊プロレス編集長だったころのターザン山本氏に裏金を渡したりといったエピソードからしても、決してケチだったわけではない。
「馬場の死で一番影響を受けたのは、むしろ猪木と新日本プロレスではないか」(元・新日本プロレス関係者)との声もある。
「猪木のプロレス人生は“打倒馬場”とイコールであり、常に猪木の先を行っていた馬場の全日が順調なままであったなら、新日がそれに遅れを取ることなどは猪木にとって耐え難い。そのため新日に専念し、PRIDEなど格闘技の世界に向かうこともなかっただろう」(同・関係者)
そうであれば、新日の選手が格闘技のリングで惨敗を繰り返すこともなかったわけで、やはり馬場の死が日本のプロレス界に及ぼした影響はとてつもなく大きいといえる。
経営者として、人格者として高い評価をされてきた馬場だが、レスラー・馬場に対するファンの見方は決してそうではなかった。猪木からの対戦要求にも「馬場が避けている」という見方が主流を占めていた。「ガチンコで馬場が猪木に勝てるわけがない」と。
さらに亡き後は、物まねなどでスローモーな形態模写をされるなど“イロモノ扱い”の風潮すらある。
しかし馬場の全盛期は全くそんなものではなく、その動きはむしろ躍動的ですらあった。
「ハーリー・レイスから3度目のNWA王座を獲得したのは1980年、馬場42歳のとき。すでに選手としては下り坂でしたが、あらためて映像を見ると、ジャンプしながらの脳天唐竹割りを連発したり、代名詞である十六文キックにしても、ただ足を上げて相手を待っているのではなく、しっかり踏み込んで放っている。コーナーポストに素早く駆け上がる姿など、とても2メートル越えの巨人の動きとは思えません」(プロレス記者)
何といっても馬場は、投手としてプロ野球のマウンドまで踏んだスポーツエリート。その後の衰えは、年齢を考えれば仕方あるまい。
1982年、スタン・ハンセンとのPWF戦のころは、糖尿病の影響なのかほとんど汗もかかなくなり、全盛時と見比べれば極端にパフォーマンスを落としていることがわかる。しかし、それでもその年のプロレス大賞ベストバウトを受賞しているのだから、やはり馬場は選手としても最上級だったのだ。
〈ジャイアント馬場〉
1938年、新潟県出身。プロ野球選手を経て、'60年に日本プロレス入団。力道山の死後はエースとして活躍。'72年、全日本プロレスを旗揚げし、王道プロレスを展開する。'99年、肝不全により死去。享年61。