新日本
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スポーツ 2015年11月08日 16時00分
俺たちの熱狂バトルTheヒストリー〈プロレス最強幻想が崩壊〉
今年の大みそかに、総合格闘技の地上波テレビ中継が5年ぶりに復活する。12月29日と31日に開催される新格闘イベント『RIZIN(ライジン)』は、元PRIDE代表の榊原信行がプロデューサーを務め、フジテレビ系では31日に放送されるという。 メーンは8選手出場のヘビー級トーナメントで、他に桜庭和志やエメリヤーエンコ・ヒョードルなど、レジェンドファイターの特別試合が発表されている。 「新団体の旗揚げではなく、とりあえずは今回のために立ち上げられた企画とのことで、単発で終わるか継続性のあるイベントとなるかは、関係者の努力と、どれほどの選手を集められるかで決まるでしょう」(格闘技ライター) 日本における格闘技ブームの最盛期といえば、やはり大みそかに民放3局がそれぞれ『K-1ダイナマイト』(TBS系)、『PRIDE男祭り』(フジテレビ系)、『猪木ボンバイエ』(日本テレビ系)を中継した2003年になるだろう。 3大会で計31試合(K-1のオープニングファイトを含む)が行われた中でも、とりわけ注目されたのは曙vsボブ・サップ(K-1)。視聴率で『NHK紅白歌合戦』を超えるなど国民的関心を集めたものだが、その後、ある意味で歴史的一戦として語られてきたのが、永田裕志vsヒョードル(猪木ボンバイエ)の一戦ではないだろうか。 “最強”の座に位置づけられていたヒョードルと、プロレス界で格闘センスを評価されながらも、'01年にミルコ・クロコップに惨敗を喫した永田。 すでにファンの間でも、総合格闘技に対するプロレスラーの適正には疑問符がつけられており、永田の雪辱への期待は低かったとはいえ、試合はわずか1R1分2秒で終了。まさに秒殺劇で、永田にせめてもの見せ場を期待したプロレスファンは、大いに落胆することとなった。 ゴングと同時にボクシングスタイルで前に出た永田だが、これはヒョードルにいなされ、次に右のミドルキックを放ったものの、そこへ右フックをカウンターで合わされて万事休す。 ヒョードル攻勢の中、大振りの左フックが永田の顔面をかすめると、そのままコーナー際に倒れ込み、キックとパウンドの連打であえなくTKOが宣せられた。 「この試合で“永田は何もできなかった”といえばその通りですが、あらためて映像を見直すと、格闘技戦向けの構えは堂に入っている。あの頃に永田が通っていたキックボクシングの伊原道場でも、同時期に練習していた小川直也より打撃センスは上で、伊原信一会長が太鼓判を押していたほどでした。だから、せめて相手が最強クラスのミルコやヒョードルでなければ、もう少しやれたのではないかと思います」(同) 対戦カードが決まるまでの経緯も、永田にとっては不幸だった。当初、この大会のメーンはミルコvs高山善廣と予定されていた。しかし、ミルコの欠場が決定的となり、代わる目玉としてブッキングされたのがヒョードルだった。 だが、そうしたゴタゴタに嫌気がさしたのか、高山も参戦を辞退してしまう。 「もともと大会プロデューサーが日本テレビに出した企画書には、ミルコだけでなく小川や吉田秀彦の名前もあったのですが、そのいずれにも参戦を拒否されて、少しでもネームバリューのある人間をということで選ばれたのが、永田だったのです」(テレビ関係者) 永田への参戦オファーがあったのは12月に入ってからで、試合まで1カ月を切っていた。これではロクに準備ができるはずもない。それでも試合を受けたのは、新日本プロレス会長であるアントニオ猪木の顔を潰さないためであったが、今度は試合前日までヒョードルが出場する、しないで、話は二転三転した。 ヒョードルの背後にいた権利関係者たちによる綱引きの結果であり、そのたびに気持ちを作り直すのだから、永田もたまったものではない。そんな裏事情を知らないファンにすれば、永田の惨敗という結果でしかないが…。 同日、K-1大会での中邑真輔vsアレクセイ・イグナショフでは、いったん中邑にKO負けの裁定が下った後、抗議によって無効試合となった。これもプロレス界にとっては悪印象となり、一気に冬の時代を迎えることとなった。
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スポーツ 2015年10月24日 14時00分
俺たちの熱狂バトルTheヒストリー〈団体存亡を懸けた全面戦争〉
第2次UWFの分裂後、Uの発展継承を目指す前田日明のリングスや、リアルファイトを志向した船木誠勝らのパンクラスに比べて、田延彦がトップを張るUWFインターナショナルが打ち出した“プロレスの原点回帰”なる理念は、ファンの目にはどこか不明瞭に映っていた。 「今となっては過度なショーアップを排し、真の意味でのプロフェッショナル・レスリングを目指していたと理解できるし、ルー・テーズを最高顧問に招くなどその方針は一貫していた。しかし、UWFルールのままタッグマッチ形式のダブルバウトを採用したことなどは、辛口のファンから『単に従来のプロレスに戻っただけだろう』と、批判を受けることもありました」(プロレス記者) UWFの存在を“進化したプロレス”と信じたファンは、原点回帰=退化と思った訳である。 北尾光司やスーパー・ベイダーなど、田が折々に話題性十分の好勝負を繰り広げていながら、Uインターに対してどこか冷ややかな視線が付いて回った理由は、それだけではない。 「下交渉もなされないままに、蝶野正洋が持つNWA王座への挑戦や各団体のトップ選手を招く1億円トーナメントの開催を発表し、結果、実現には至らなかった。これらはただの挑発行為と見なされ、他団体の関係者のみならず、ファンからも反感を買うことになりました」(同) ヒクソン道場に乗り込んだ安生洋二が、無残なまでに返り討ちに遭ったり、テレビキャスターや参院選出馬など、田がリング外の活動を精力的に行ったことも、ファンの信頼を損ねる一因となった。 そんな“プロレス業界の鬼っ子”Uインターと、新日本プロレスが、突如として全面対抗戦の開催を発表したのは、1995年8月のこと。Uインターを離れて新日参戦を決めた山崎一夫の処遇をめぐり、長州と田の電話会談が行われていた中で、激高した長州が10・9東京ドームでの大会開催をぶち上げたのだ。 後日談で両団体ともに合意済みだったことが明かされているが、この当時としては“犬猿の仲”と目されていた新日とUインターだけに、全面対抗戦がファンや関係者にもたらしたインパクトは絶大だった。 平日の開催にもかかわらず、チケットは販売と同時に即完売。当時の観客動員記録を一瞬にして塗り替えた。また、Uインター側では、次期エース筆頭の田村潔司や参謀として名をはせた宮戸優光が、この対抗戦に参戦拒否したことも、逆に抗争の生々しさを演出することになった。 試合当日。ドーム周辺には入りきれなかった大勢のファンが、漏れ聞こえる試合経過に一喜一憂していた。新鋭の垣原賢人が実力者の佐々木健介を破る波乱もあって、新日側の4勝3敗で迎えたメーンイベント。両団体の大将は、武藤敬司と田だった。 両者は同学年ながら、田が新日入門時期では4年先輩で、Uインターの一枚看板としての実績は文句なし。片や武藤も、この年の5月にIWGP王座を奪取。さらには夏のG1でも優勝を果たし、闘魂三銃士の横並びから一歩抜け出す存在感を示していた。 ベルトを高々と掲げ、会場を見渡しながら花道を進む武藤は、王者の風格に満ち、ここでも田に遜色はない。殺伐とした対抗戦ムードの中、固い握手で試合開始となった。 序盤、グラウンドの攻防では、柔道で日本代表クラスだった武藤の寝技が光り、引けを取らないどころかむしろ上。静かな展開の中でも、隙を見てフラッシング・エルボーや頭突きの連打を繰り出すセンスの良さで、観客を沸かせる。 もちろん、田も打撃や関節技では一日の長があり、ミドルやヒザ蹴りで反撃。しかし、その何度目かの蹴り脚を武藤がつかんだところで、まさかのドラゴン・スクリューが炸裂する。 それまでは単なるつなぎだった技が、武藤によって必殺技として新たな命を吹き込まれた。田の膝が、妙な方向にグニャリと曲がる。それを機に武藤が足4の字固めに入ると、「これで決めろ!」と新日ファンの大歓声が巻き起こった。 一度はロープに逃れ、二度目は蹴り脚を取られたところを延髄斬りでかわした田だったが、再三のドラゴン・スクリューから再び4の字を極められると、もうこれを返す力は残っていなかった…。
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スポーツ 2015年08月18日 12時00分
俺たちの熱狂バトルTheヒストリー〈長州力 心に染みる“名言”集〉
長州力ほど“ナマ”の感情をリングに持ち込んだレスラーはいない。自身の出世のきっかけとなった『かませ犬発言』は、その最たるものであろう。 藤波辰爾に向けられたこの言葉自体は、リング上ではなく後日報道や自身のインタビューで出てきたものであるが、そのころの長州の心情を如実に表したものには違いない。 「抗争アングルはプロレスに付きものですが、そのきっかけが一選手にすぎない長州の意思であったという点が当時としては珍しかった」(プロレス記者) くすぶっている現状を悲観して引退まで口にした長州に対し、社長である猪木がチャンスを与えたというのが真相だった。 「ただし、実際に長州が嫉妬心を抱いていたのは藤波ではなく、ジャンボ鶴田に対してでした」(同・記者) プロレス入りする前の'72年ミュンヘン五輪、日本と韓国、国は違えどレスリング代表として出場した鶴田と長州。その鶴田が全日本プロレスで着々と次期エースの座を築いていたのに対し、先の見えない自分自身にイラ立ちと不安を覚えていた。 「鶴田は入団会見の際に“プロレス界に就職する”と言ってファン関係者からの不興を買いましたが、実は長州も同じ。全日では入団時期の差で鶴田の後輩になってしまうため、八田一朗レスリング協会会長(当時)の計らいで新日入りしたという経緯があります」(同) 特にプロレスや猪木に憧れがあったわけではなかったからか、業界タブーも気にしない。 『プロレス界に非常ベルが鳴っているのに誰も気付かない』(衰えが目立つ猪木がメーンを張り続ける状況に加え、新日黄金期の利益が別事業に垂れ流されていることを憂いて) 『あいつらはプロレスの中にいるか外にいるのか。中だろ? なのに、あいつらは外にいるかのように振る舞っている』(UWFが純粋な格闘競技ではないことを喝破) 露骨にプロレスの“仕組み”を暴くことまではしなかったが、それでもどこか裏事情をにおわせる発言の数々は、プロレスの裏側までのぞこうとするマニア心をくすぐった。 そうした名言の中でも最も広く知られるのが、長州小力のモノマネにより一般にまで浸透した『キレてないですよ。俺をキレさせたら大したもんだ』であろう。 '95年10月9日、東京ドームでの安生洋二戦。 実際に長州が試合後発したのは「キレちゃあいないよ」で、また「俺をキレさせたら〜」は試合前の発言ではあるが、そこは大きな問題ではない。同じ試合後のインタビューにおいては「安生は俺をキラしたかったんじゃないか? 勇気ないよな」と、“安生はシュートを仕掛けてこなかった=あくまでもプロレスの範疇の試合だった”ことを思わせる言葉を残している。 日本中のプロレスファンの注目が集まる新日本vsUWFインターナショナルの団体対抗戦。最初の2戦では新日側が勝利するも、そこからUインターが連勝して迎えた第5試合。相手の安生はこれまで先頭に立って新日への挑発を重ね、前哨戦のタッグマッチでも長州組に勝利。新日ファンのフラストレーションは溜まりに溜まっていた。 長州に求められたのは単なる勝利ではなく、完膚なきまでに安生を叩きつぶすことだった。 ゴングと同時にヒザ蹴りとハイキックのコンビネーションで攻め立てる安生に対し、長州は一切動じる様子を見せずにゆっくりと前に歩みを進めると、コーナーに詰めてヘッドバットを連打。掌打に対しては激しいエルボーで応じ、実況の辻よしなりアナは「ついに長州がキレた〜!」と絶叫する。 そうして安生の蹴り脚を捕えると、無造作に持ち上げてスパインバスター。サソリ固めはかろうじて逃れた安生だが、バックドロップ→リキラリアットと喰らってはなすすべもなく、2度目のサソリでフィニッシュとなった。 試合時間わずか4分5秒−−。新日ファンの快哉に沸く東京ドーム。 これだけの試合をすれば、プロならば“キレたふり”を装うべきとの考えもあるだろう。しかし長州は本音のままに“キレてない”と言い切ってしまう。これが若手なら会社から大目玉を食らうことにもなりそうなものだが、ファンはそんな長州にこそ“リアル”を感じたのだった。
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スポーツ 2015年08月05日 12時00分
【甦るリング】第18回 反体制でスーパースターになった“夏男”蝶野正洋
時代背景の変化もあろうが、“反体制”の立場で、スーパースターになったプロレスラーは、そうそういない。その意味で、蝶野正洋(51)は稀有なケースだろう。 蝶野は高校時代、サッカーに熱中していたが、その一方でかなりの“ワル”だったといわれている。1984年4月、新日本プロレスに入門。武藤敬司、橋本真也(故人)と同期生に当たる。同期の武藤、橋本が柔道経験者であったのに対し、蝶野は格闘技の経験がなく、線も細かったため、練習生当時は目立つ存在ではなかった。同年10月5日、同期・武藤との一戦でデビュー(武藤もデビュー戦)。武藤は柔道の実力者で、運動神経やルックスも良かったことから、早くから期待されていた。旧UWFやジャパン・プロレスの設立に伴う大量離脱で、スター選手がごっそり抜けてしまったため、武藤はスター候補として、早々に米国武者修行に旅立ち、蝶野、橋本は、その後塵を拝することになる。 87年3月、若手の登竜門である「ヤングライオン杯」決勝戦で、橋本を破り優勝。海外修行の切符をつかみ、ドイツを経て、北米大陸に渡り、米国、カナダでファイト。中南米のプエルトリコにも遠征した。ドイツ遠征時には、現夫人のマルティナさんと知り合っている。88年7月に一時帰国し、武藤、橋本と「闘魂三銃士」を結成して、売り出されることになり、89年10月に本格的に凱旋帰国を果たした。ただ、正直いって、個性の強い武藤、橋本に対し、蝶野は地味なオーソドックスなスタイルであったため、人気の点では2人に劣っていた。 その立場を変えたのは、91年8月に初開催された“夏の祭典”「G1クライマックス」だった。最終戦の両国国技館大会で、蝶野はBブロック同点首位の橋本を破って決勝に進出すると、大方の予想を覆し、Aブロック首位の武藤を下して優勝を飾った。これを機に、蝶野は新日本のトップスターとして、ファンに認識されるようになる。また、第1回「G1」は三銃士が上位を独占し、長州力、藤波辰爾は予選リーグで脱落し、本格的な三銃士時代の幕開けとなった。 翌92年の第2回「G1」はトーナメントで開催され、蝶野は決勝でリック・ルードを破り、2連覇を成し遂げるとともに、NWA世界ヘビー級王座を奪取した。これにより、蝶野は“夏男”と称されるようになる。蝶野は第3回(93年=トーナメント)こそ、準決勝で敗退したが、第4回(94年=リーグ戦)では、決勝戦でパワー・ウォリアー(佐々木健介)を破って、「G1」V3を達成。その後、長いブランクがあったが、蝶野は02、05年の「G1」も制し、通算5度優勝。今年で「G1」は区切りの25回目を迎えたが、長い歴史のなかで、V5は他の追随を許さず。まさに、“ミスターG1”といえる。 94年夏、ヒールとしてファイトするようになると、95年には天山広吉、ヒロ斎藤と狼群団を結成し、本隊に対抗。96年には米WCWに遠征すると、帰国後、nWoジャパンを結成し、一大ムーブメントを巻き起こし、新日マットを席捲した。それほど悪いことをするわけではなかったが、ヒールの立場で、体制に噛みつく姿が、「かっこいい」として、ファンの共感を呼んだのだ。後にTEAM2000として活動するが、反体制の立場でスーパースターとなった蝶野は、日本プロレス史では異例なケースといえよう。 「G1」を5度制した蝶野だが、IWGPヘビー級王座には縁がなかった。98年8月、実に8度目の挑戦で、藤波を下して同王座に初戴冠したが、首の負傷のため、1度も防衛戦を行うことなく王座返上している。古傷である首の治療のためもあり、10年1月をもって、新日本を退団し、フリーとなった。ただ、フリー転向後は、IGFのエグゼクティブプロデューサーや、全日本プロレスのアドバイザーを務めたが、プレイヤーとしては表立った活動はしておらず、むしろタレント活動がメーンとなっている。 選手生活のかたわら、99年12月に夫人とともに、アパレルブランド・アリストトリストを設立し、東京都渋谷区では直営店を経営している。年齢的には、まだ51歳。老け込むには早い。プロレスラーにとっては、爆弾ともいえる首に故障を抱えているとはいえ、もう一花咲かせてほしい選手だ。(ミカエル・コバタ=毎週水曜日に掲載)
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スポーツ 2015年07月30日 17時00分
俺たちの熱狂バトルTheヒストリー〈藤田和之vsミルコ・クロコップ〉
2001年8月19日、『K-1アンディ・メモリアル2001』での藤田和之vsミルコ・クロコップ。およそ全ての格闘技ファンが、藤田の勝利を疑っていなかった−−。 猪木軍vsK-1軍の大将戦として組まれたこのカード。藤田はこの頃、新日本プロレスを主戦場としていたが、前年PRIDEグランプリでは“霊長類ヒト科最強”マーク・ケアーを下すなど、日本の総合格闘技におけるヘビー級のトップと目されていた。 片やミルコは総合初挑戦。この試合に向けてアメリカで総合用の特訓を積んだとはいうが、付け焼刃の感は拭えない。 選手の格で見ても、このころのミルコはK-1においてピーター・アーツ、ジェロム・レ・バンナらトップ勢に次ぐ2番手グループの扱いであった。 つまりミルコは、今後繰り広げられるであろう抗争の序章として猪木軍に捧げられた“生け贄”であり、藤田vsアーツや藤田vsバンナの前哨戦…これが偽らざる周囲の評価であった。 「さらに言えば、当時の総合格闘技においては日本なら桜庭和志、UFC(アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)でもティト・オーティズなどのレスリング出身選手がトップを張っていた。グレイシー柔術の神話も根強く残っていて“寝技有利、立ち技不利”が定説だったのです」(格闘技ライター) そのためK-1など立ち技の経験しかないミルコが、まさかレスリングベースの藤田に勝つなどとは、プロレスファンでなくとも想像していなかったのだ。 そうした予想の通り、ゴングが鳴ると藤田は特に警戒する様子もなく、何度かタイミングを計ったところでミルコの脚にタックルを決める。サイドポジションを取られたミルコはなすすべもない。 このまま勝負は決するかと思われたところで、レフェリーのストップがかかる。 「寝技から逃れようとしたミルコが、ロープをつかむ反則でも犯したのだろうと思ったのですが…」(スポーツ紙記者) 立ち上がった藤田の額からはマットに滴るほどの大出血。タックルが決まる直前に放たれたミルコのヒザ蹴りによるものだった。 結果、ドクターストップでミルコに凱歌が上がる。藤田は納得のいかない様子で抗議を続けるが、裁定が覆ることはなかった。 「完全に藤田の勝勢だっただけに“K-1にハメられた”というプロレスファンもいました。互いの身体が血で染まるような試合はテレビ向きではないという判断もあったかもしれない。だけど後に映像で確認すると、狙い済ましたヒザ蹴りがものすごい勢いで額を直撃している。あれを間近に見て、さらにおびただしい出血となれば、レフェリーがストップをかけたのも仕方がない」(同・記者) それでも、この試合に対する大方の見解は「アクシデントさえなければ藤田の勝ち」であった。 確かにあのまま試合が続いたならば、藤田がミルコを決めて勝つ可能性も高い確率であっただろう。しかし、それは“頭蓋骨の厚さが常人の2倍”ともいわれる藤田の頑丈さがあってのこと。普通の選手ならばヒザ一撃で失神KOとなっても不思議はなかった。 それを「ミルコに総合の技術なし」「くみしやすし」と判断したことが、プロレス界に悲劇を招くことになる。 「脚へのタックルに対し、ミルコは狙ってヒザを合わせてきたわけで、そうなると安易に飛び込むことはできない。ならば、まずパンチやキックでミルコの態勢を崩す必要があるけれど、立ち技はミルコの得意分野であり、普段本格的な打撃練習をしていないプロレスラーの手に負えるものじゃない。タックルもできない、立ち技でも勝てないとなれば、実はプロレスラー側には攻め手がないのです」(格闘誌記者) ところが、次にミルコと戦った高田延彦は、試合中に足を骨折したため終始グラウンド状態で引き分け。「寝転ぶ高田に何もできないミルコはやはり総合適正なし」と勘違いを増幅させることになった。 そうして迎えた大みそか。永田裕志はミルコのハイキックの前に一撃KOの敗北を喫する。 以後、プロレスは冬の時代を迎え、一方のミルコは総合格闘家としての才能を開花させていった。
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スポーツ 2015年07月24日 16時00分
俺たちの熱狂バトルTheヒストリー〈初代タイガーマスクvsダイナマイト・キッド〉
スポーツや格闘技の世界で「進化」「革命」なる言葉はよく見掛けるが、そのほとんどはメディアによる一時的な修飾語にすぎない。真に「革命的」な出来事などは、めったにお目にかかれるものではない。 そんな中にあって初代タイガーマスクの登場はまさしく「プロレス界の革命」であり、当時のファンは「進化したプロレス」を目の当たりにすることになった。 1981年4月23日、東京・蔵前国技館、タイガーマスクvsダイナマイト・キッド。前週のワールドプロレスリング中継において、その参戦が唐突に告知された。もちろんアニメにおいてはその名を知らぬ者のいない“超大物”である。 「ただ当時は既存キャラクターとのコラボという概念は薄く、マスクマン自体もイロモノ的に見られていました。そのため多くのファンは興味以上の期待は抱いていなかったように思います」(スポーツ紙記者) そのころの新日本プロレスの主役はあくまでもアントニオ猪木であり、当日来場したファンのほとんどの目当ても、メーンに組まれた猪木vsスタン・ハンセンのNWF王座戦であった。 試合開始直前には、原作者としてタイガーを激励するために梶原一騎がリングに上がると、観客からブーイングが起きる一幕も。その理由は、つい1年ほど前に猪木vsウィリー・ウィリアムスが行われたことから、梶原を極真側の人間と見るファンも多かったのだ。 実際は、このころの梶原と極真は対立状態にあり、そのため梶原がプロレス界に接近してタイガー誕生となったわけだが、事情を知らないファンからすれば、タイガーが新日にとっての敵か味方かすら分からない。さらに、マスクやコスチュームもどこかチープでマンガとは似つかわしくない…。 そうしたことから、決してタイガー初登場はファンから大歓迎されたわけではなかったが、試合開始のゴングと同時にそんなムードは一変する。 ブルース・リーのごとき軽快なステップからのローリングソバット。これは空振りとなったが、それまでプロレスのリングで見たことのない軽やかな動きに、会場の至るところから静かな驚きの声が漏れる。 相手にバックを取らせておいて、その場で自身の体をクルクルと回転させると、スライディングしてのカニ挟みで倒し、脚を取ってのレッグロック。 そうした動きのすべてにおいて、スピード、キレのいずれもが、これまでのプロレスとは別次元のものであり、観客はただただ見惚れるしかなかった。 対戦相手のキッドとて、藤波辰爾をはじめとする新日ジュニア勢と好勝負を繰り広げてきた実力者である。だがそんな強豪を、ひと回り身体の小さいタイガーが翻弄している。 「極め付けはキッドをコーナーに詰めてのサマーソルトキック。相手の胸板を踏み台にしてフワリと宙を舞うと、そのまま後方に一回転する。その姿のあまりの華麗さに、普段は闘いのライブ感を重視していたテレビ中継が、禁を破って試合途中でのリプレー映像を挟み込んだほどでした」(プロレスライター) タイガーに半信半疑だった観客も、いつの間にか大歓声を送り始めていた。 「見慣れたはずのドロップキックやフライングクロスチョップも、タイガーがやると見栄えが違う。言っては悪いが、それまでのジュニアヘビー級の闘いは、タイガーの出現と同時に鈍臭い過去の遺物になったのです」(同) そんなタイガーに対し、気迫とパワーで存在感を示したキッドもさすがだが、しかし、この日の主役にはかなわなかった。 タイガーが場外からリングに戻るところを捕えたキッドはロープ越しにブレーンバスターを仕掛ける。だが、タイガーは空中で身体を反転させてこれを逃れると、すかさずキッドのバックに回ってジャーマンスープレクス! 爪先までピンと伸びた完璧なブリッジが完成し、カウントが3つ数えられた。 「今の選手と比較したとき、ドロップキックならオカダ・カズチカ、フライング系の技なら飯伏幸太などはタイガー以上に高度なことをやっていますが、それでもトータルでは全盛時のタイガーを越えるレスラーはいまだ現れていない」(同) タイガーデビュー戦の衝撃は瞬く間に広まり、ほどなく、空前の新日ブームが巻き起こることになる。
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スポーツ 2015年07月22日 12時00分
【甦るリング】第16回 馬場三回忌興行舞台裏でタッグの大仁田と号泣したテリー・ファンク
大物外国人プロレスラーというと、どこか威厳があって、なかなか近寄りづらい雰囲気を醸し出しているものだが、とても気さくで陽気だったのが、兄ドリー・ファンク・ジュニアとのザ・ファンクスでおなじみのテリー・ファンク(71)だ。今ではNWA世界ヘビー級王座は有名無実化してしまったが、かつて、それはプロレス界の世界最高峰のベルトだった。プロボクシングでいえば、WBC、WBAに相当する王座であった。そのベルトを、ドリーとともに、兄弟で戴冠したのだから、テリーは世界のトップ中のトップのプロレスラーだったのだ。 私がテリーを本格的に取材するようになったのは、インディー団体に参戦するようになってからだ。IWAジャパン・プロレスに上がっていた当時は、カクタス・ジャックらとハードコアな試合を繰り広げていたが、その頃、単独インタビューをする機会に恵まれた(通訳付き)。その後、試合会場で会うと、とてもフレンドリーに接してくれたものだ。ドリーは沈着冷静なタイプだったが、テリーは好対照で、とても陽気な性格だった。 テリーといえば、忘れられない試合がある。それは、2001年1月28日、全日本プロレスが開催した「ジャイアント馬場三回忌追悼興行」でのこと。久しぶりの全日参戦となったテリーは、弟子筋にあたり、全日本での“最初の”引退以来、16年ぶりの古巣への登場となった大仁田厚と師弟タッグを結成。かつての怨敵アブドーラ・ザ・ブッチャー&ジャイアント・キマラと対戦した。試合はテリーが必殺技のスピニング・トー・ホールドで、キマラからギブアップを奪い勝利した。 テリーと大仁田は、1993年5月5日、FMWの川崎球場大会で、電流爆破デスマッチで相まみえた因縁もあったが、バックステージに戻った2人は、馬場の三回忌、そして古巣のリングに上がれた喜びから、抱き合って号泣。ファンの時代から、この2人を見てきた私にとって、このシーンはたまらないもので、思わずもらい泣きしそうになったほどであった。 日本プロレスにテリーが初来日したのが、70年6月のことで、もう45年も前の話。71年12月には、ドリーとのタッグで、馬場&アントニオ猪木のBI砲を破り、インターナショナル・タッグ王座を奪取している。馬場が日プロを離脱し、72年10月に全日本を旗揚げしてからは、ドリーとともに同団体の看板外国人選手として活躍。日本におけるテリーのポジションを決定付けたのは、77年12月に開催された「世界オープンタッグ選手権」。同リーグ戦には、馬場&ジャンボ鶴田を始め、ファンクス、ブッチャー&ザ・シーク、大木金太郎&キム・ドク、ラッシャー木村&グレート草津、ビル・ロビンソン&ホースト・ホフマンら、世界の強豪タッグチームが出場。同月15日、蔵前国技館での最終戦で、優勝を懸けて、ファンクスとブッチャー&シークの最凶コンビが対戦した。 悪の限りを尽くすブッチャー組は、凶器でテリーの腕をズタズタに切り裂いたのだった。その非道な攻撃を耐え抜いたテリーは、必死に反撃。結局、試合はファンクスの反則勝ちとなり、リーグ戦を制覇。この一戦をきっかけに、テリーは究極のベビーフェイスとして、日本人選手を上回る人気者となった。 馬場、鶴田も顔負けの興行人気を誇ったテリーは、全日本には欠かせない選手となるが、ヒザの状態がかんばしくなく、長期間にわたるサヨナラツアーの末、83年8月に引退し、リングに別れを告げた。しかし、1年後にあっさり復帰。85年には、まさかのWWF(現WWE)入りし、日本では考えられないヒールとして活躍。だが、ヒザの故障が悪化し、引退宣言して俳優に転身し、映画やドラマに出演した。ところが、リングの魔力には勝てなかったようで、再度復帰し、WCWやECWでファイトし、ハードコア・レスリングにトライ。日本では、FMWやIWAジャパンといったインディー団体に上がった他、95年5月には新日本プロレスのリングにも参戦した。 13年10月には、古巣・全日本のマットで、22年ぶりにファンクスを結成。昨年12月には、東京愚連隊の後楽園大会に参戦し、元気な姿を見せてくれた。今年5月31日には、天龍プロジェクト・大阪大会に出場予定だったが、肺炎のため、残念ながら来日中止。その病状が心配されるところではあるが、カムバックを果たして、その勇姿を再び見せてほしいものだ。 “テキサス・ブロンコ”の魂は永遠だ!(ミカエル・コバタ=毎週水曜日に掲載)
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スポーツ 2015年07月15日 12時00分
【甦るリング】第15回 生けるレジェンド“最強の外国人”スタン・ハンセン
1980、90年代に日本マット界で活躍した外国人のなかで、ヒール(悪役)として大成したのが、アブドーラ・ザ・ブッチャーとタイガー・ジェット・シンであるが、“最強の外国人”といえば、“不沈艦”と呼ばれたスタン・ハンセン(65)以外になかろう。なんせ、新日本プロレスではアントニオ猪木を、全日本プロレスではジャイアント馬場を破ったのだから、誰も異論はないだろう。 ブルロープを振り回し、立場的にはヒールではあったが、凶器攻撃を繰り出すわけではなく、純粋に強さを全面に押し出した選手だった。ハンセンは米ウエスト・テキサス州立大学を卒業後、プロフットボール・プレーヤーとなったが、解雇され、故郷に戻って、中学校の教師をしていたインテリだ。 そんな時、大学のフットボール部の先輩であったテリー・ファンクから誘いを受け、プロレスラーに転職した。教師の給料は決して、いいものではなかったようだ。 73年1月にデビューしたハンセンは、若手時代、日本から修行に来ていたジャンボ鶴田や、後にWWWF(後にWWF→WWE)ヘビー級王者となるボブ・バックランドとともに、トレーニングで汗を流し、将来を語り合う間柄となっていた。75年9月には、全日本に初来日するが、まだまだグリーンボーイで、パワーで押すだけの不器用な選手だった。76年にWWWFに登場し、当時のヘビー級王者であったブルーノ・サンマルチノとの対戦するチャンスを得たが、首を負傷させてしまい、同団体に定着することはできなかった。 77年、日本で闘うリングを新日本に変え、徐々に頭角を現していく。そして、80年2月には、ついに猪木を破って、NWFヘビー級王座を奪取。シンを追い抜いて、新日本の外国人エースの座に就く。ハンセンもまた、シン同様、猪木が闘いのなかで、育てた選手といえよう。81年に入ると、再びWWFマットに上がるようになり、旧友バックランドのもつWWF王座に何度も挑戦するなど、ライバル関係を築いた。同年、日本では新日本と全日本による仁義なき引き抜き戦争が勃発。新日本がブッチャーを引き抜くと、報復として全日本はシンを引き抜いた。さらに、全日本はハンセンにもターゲットを絞り、師匠格のテリーが仲介役となって、移籍が決定。同年12月の「世界最強タッグ決定リーグ戦」最終戦で、ブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカのセコンドで登場したハンセンは、対戦相手のザ・ファンクス(ドリー・ファンク・ジュニア&テリー)に弓を引き、ブロディ組の優勝をアシストした。 82年から本格参戦すると、馬場、鶴田、天龍源一郎らと激闘を展開。馬場からPWFヘビー級王座を奪取した他、インター・ヘビー級、インター・タッグ、PWFタッグ、UNヘビー級などあらゆるタイトルを獲得。後に統一された3冠ヘビー級、世界タッグ王座にも戴冠した。馬場が第一線から退き、天龍が離脱、鶴田が肝臓疾患のためトップ戦線から去った後も、三沢光晴、小橋健太(現・建太)、川田利明、田上明らの厚い壁となって立ちはだかった。 全日本に定着してからは、日本での活動をメーンにしていたが、85年12月には、リック・マーテルを破り、AWA世界ヘビー級王座を奪取した。これが、本国で残した唯一の大きな勲章となった。馬場の死後、00年6月に全日本から大量離脱騒動があったが、ハンセンは動かず。ただ、体力的な衰えは隠せなくなっていた。両ヒザの故障を理由に、ハンセンは引退を決断。01年1月28日、東京ドームでの「ジャイアント馬場三回忌追悼興行」で引退セレモニーを行い、プロレスラー生活にピリオドを打った。 私生活では、リング上でのキャラとは打って変わって紳士。外国人ながら、義理人情に厚く、世話になった馬場夫妻に忠誠を誓っていた。現夫人は日本で知り合った日本人女性(ユミさん)とあって親日家。今年6月には、プロレスリング・ノアからゲストとしてオファーを受け、三沢光晴7回忌追悼メモリアルツアーに帯同し、元気な姿を見せてくれた。長年にわたって、全日本、新日本の両団体でトップを張ったハンセンは、紛れもなく、生けるレジェンドだ。(ミカエル・コバタ=毎週水曜日に掲載)
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スポーツ 2015年07月08日 12時00分
【甦るリング】第14回・万年前座・藤原組長の運命を変えた長州テロ事件
“関節技の鬼”として知られる藤原組長こと藤原喜明(66)。映画やドラマ、CMなどにも多数出演していることから、プロレスファンでなくても、その存在を知る人は多いだろう。藤原といえば、忘れられないのが長州テロ事件だ。あれが、藤原のプロレスラーとしての運命を変えたといっていい。 岩手県出身の藤原は高校卒業後、サラリーマンなどをしていたが、1972年に新日本プロレスが旗揚げすると、23歳で入門。今でこそ、この年齢でのプロレス入りは珍しくなくなったが、当時では異例。同団体は当時、選手の数が足りず、藤原は柔道の経験があったとあって、同年11月にスピードデビューを果たす。 新人時代、“神様”カール・ゴッチにレスリングを学び、関節技を習得した藤原は、75年には若手の登竜門である「第2回カール・ゴッチ杯争奪リーグ戦」で優勝を果たすも、海外武者修行の機会は与えてもらえなかった。だが、グラウンドレスリングにたけていたため、アントニオ猪木に重宝され、スパーリングパートナー兼用心棒的役割を担い、道場では若手のコーチ役を務めた。 どんなにグラウンドでは強くても、その試合スタイルは関節技主体の地味なもので、なんせ華がなかった。風貌はあの通りのいかつい顔つきで、とても女性ファンから人気が出るようなタイプでもない。そんなわけで、キャリアを重ねても、藤原の役回りはもっぱら前座だった。 そんな万年前座選手の運命を変えたのは、84年2月3日、北海道・札幌中島体育センター大会。この日、藤波辰巳(現・辰爾)対長州力のWWFインター・ヘビー級選手権が組まれていたが、よりによって、藤原は入場時の長州を襲撃。金属状の凶器で長州を血だるまにしてしまったのだ。結局、長州は試合を行えるような状態ではなく、ビッグマッチでのタイトルマッチは不成立となってしまった。 この事件を機に、“テロリスト”と呼ばれるようになった藤原は、その後、前座戦線から抜け出し、長州率いる維新軍との抗争に駆り出されるようになり、一躍、大ブレイクを果たした。テロリストとなった藤原は、維新軍との闘いでは得意の関節技はあまり見せず、ヘッドバットや殴る蹴るといったケンカファイトが多かった。 一介の前座レスラーが、ある日、突然メインイベンターに大出世したわけだが、それは藤原が実力を備えていたからであって、そのバックボーンがなければ、一時的な話題作りで終わっていただろう。 テロリストとして名を売った藤原には、その直後に転機が訪れる。同年、旧UWFが設立され、弟子でもある前田日明が移籍。藤原は同年4月の旗揚げ戦に、新日本所属として参戦。6月には高田伸彦(現・延彦)を連れて、藤原も移籍した。同団体は格闘路線を標ぼうし、藤原も“関節技の鬼”の本領を発揮したが、経営難により、85年9月をもって活動を停止。新日本と業務提携する形となり、藤原も古巣に復帰した。 UWF軍が新日本のリングに上がるようになった86年初頭には、UWF勢による内輪のリーグ戦が行われ、藤原が優勝。藤原は同年2月6日、両国国技館で師・猪木と一騎打ちを行うが敗れた。その後、新日本とUWFのイデオロギー闘争は激化したが、前田が88年2月に新日本を解雇され、新生UWF設立に動くと、高田、山崎一夫らが追随。藤原は新日本に残ったが、89年に船木誠勝、鈴木実(現みのる)を伴って、同団体に合流した。 ところが、同団体はフロントと選手との衝突で、90年12月で活動停止。前田はリングス、高田らはUWFインターナショナルを設立。藤原は船木、鈴木らとともに、プロフェッショナルレスリング藤原組を旗揚げした。 かくして、団体の長となった藤原だが、それは険しい道だった。当初は、メガネスーパーがスポンサーとなって、SWSとも交流したが、試合は噛み合わず。後に、経営者・藤原と、所属選手の溝が深くなり、ほとんどの選手が離脱し、パンクラスを設立。藤原と石川雄規の2人だけになった藤原組には、池田大輔、モハメドヨネ、田中稔、アレクサンダー大塚らが入門し、所帯も大きくなったが、団体運営に窮するようになり、95年に活動を停止した。 藤原はその後、フリーとして活動していたが、07年には胃がんが見つかり手術を受ける。がんから奇跡の生還を果たした藤原は、66歳となった今でもなお、リングに上がり続け、健在ぶりをアピールしている。そのかたわら、学校法人・日本医科学総合学院「専修学校 朋友柔道整復専門学校」(東京都荒川区)で理事長を務めている。また、関節技セミナーを主宰し、一般の人に指導を行うなど、精力的に活動している。 あの長州テロ事件がなければ、生涯前座の実力者で終わっていたかもしれない藤原。それを思うと、人の人生とはどこでどうなるか分からぬものだ。(ミカエル・コバタ=毎週水曜日に掲載)
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芸能ネタ 2015年07月07日 16時00分
ウソ(仮面夫婦)、大げさ(売名) 痛々しい「嫌いな芸能人夫婦」リアルランキング(2)
また、仲の良さをアピールすればするほど胡散臭く見えてしまい、視聴者の反感を買っているのは、加藤茶(72)と、45歳年下の若妻・綾菜さんだ。 「パーキンソン症候群だった加トちゃんを支えてきたわけですから、その愛は本物なんでしょうけど、いつの間にかタレント然としてテレビに出るようになり、ネットショップをオープンしたり、ブログでセレブな生活ぶりを見せつけるなど、加トちゃんを利用して自分を売り出そうと躍起。上昇志向が強すぎるところが、不快指数を押し上げているんです」(芸能記者) しかし、これこそが多くの視聴者の本音なのではないだろうか。 「正直、あそこまで衰えた加トちゃんの姿は、もう見たくないね」(団体職員=48歳/埼玉・大宮市) 一方、北斗晶(47)と佐々木健介(48)に代表される鬼嫁、恐妻家夫婦も、テレビがもてはやすほど一般的な評価は高くないようだ。 「やっぱり、テレビの中とはいえ、妻に“おめぇ”呼ばわりされてる夫の姿は、子どもに見せたくはない」(公務員=40歳/東京・小平市) ごもっともな意見である。 「健介は、昨年、突如としてプロレスを引退したが、その直前に元弟子から暴行まがいの行き過ぎた“可愛がり方”について告発され、かつて新日本プロレスの道場で起きた、練習生の死亡事故への関与についても疑惑が浮上している。視聴者からも“説明責任を果たしていない”というクレームが入っているらしく、プロレス引退後は、テレビ出演の機会も下降気味なんです」(前出・番組関係者) 気は優しくて力持ち、愛妻家で恐妻家というテレビでのキャラクターからは想像もつかない二面性に、視聴者もなんとなく違和感を感じているのかもしれない。 また、一時は書道家に転身しようとするおさる(46)に、離婚までチラつかせ、番組出演を重ねていた山川恵里佳(33)が、昨年から急に夫を「本当のイクメン」と公言。そのあまりの節操のなさにも、批判が渦巻いている。 「あれだけ“最低夫”呼ばわりしていたのに、急に、〈子供と本気で向き合い、子供と本気で遊ぶ! 共に働いている家族として頼もしいパパです。なかなかできないことなんだなあと改めて感心しています〉などとブログに綴り、最後には〈そんなお仕事待ってます〉ですから、呆れるしかありません。さすがに、視聴者をナメているとしか思えませんよね。もはや滅多にテレビには出ませんが、彼らの言動に耳を傾ける者はいないでしょう」(テレビ雑誌記者)