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【甦るリング】第18回 反体制でスーパースターになった“夏男”蝶野正洋

 時代背景の変化もあろうが、“反体制”の立場で、スーパースターになったプロレスラーは、そうそういない。その意味で、蝶野正洋(51)は稀有なケースだろう。

 蝶野は高校時代、サッカーに熱中していたが、その一方でかなりの“ワル”だったといわれている。1984年4月、新日本プロレスに入門。武藤敬司、橋本真也(故人)と同期生に当たる。同期の武藤、橋本が柔道経験者であったのに対し、蝶野は格闘技の経験がなく、線も細かったため、練習生当時は目立つ存在ではなかった。同年10月5日、同期・武藤との一戦でデビュー(武藤もデビュー戦)。武藤は柔道の実力者で、運動神経やルックスも良かったことから、早くから期待されていた。旧UWFやジャパン・プロレスの設立に伴う大量離脱で、スター選手がごっそり抜けてしまったため、武藤はスター候補として、早々に米国武者修行に旅立ち、蝶野、橋本は、その後塵を拝することになる。

 87年3月、若手の登竜門である「ヤングライオン杯」決勝戦で、橋本を破り優勝。海外修行の切符をつかみ、ドイツを経て、北米大陸に渡り、米国、カナダでファイト。中南米のプエルトリコにも遠征した。ドイツ遠征時には、現夫人のマルティナさんと知り合っている。88年7月に一時帰国し、武藤、橋本と「闘魂三銃士」を結成して、売り出されることになり、89年10月に本格的に凱旋帰国を果たした。ただ、正直いって、個性の強い武藤、橋本に対し、蝶野は地味なオーソドックスなスタイルであったため、人気の点では2人に劣っていた。

 その立場を変えたのは、91年8月に初開催された“夏の祭典”「G1クライマックス」だった。最終戦の両国国技館大会で、蝶野はBブロック同点首位の橋本を破って決勝に進出すると、大方の予想を覆し、Aブロック首位の武藤を下して優勝を飾った。これを機に、蝶野は新日本のトップスターとして、ファンに認識されるようになる。また、第1回「G1」は三銃士が上位を独占し、長州力、藤波辰爾は予選リーグで脱落し、本格的な三銃士時代の幕開けとなった。

 翌92年の第2回「G1」はトーナメントで開催され、蝶野は決勝でリック・ルードを破り、2連覇を成し遂げるとともに、NWA世界ヘビー級王座を奪取した。これにより、蝶野は“夏男”と称されるようになる。蝶野は第3回(93年=トーナメント)こそ、準決勝で敗退したが、第4回(94年=リーグ戦)では、決勝戦でパワー・ウォリアー(佐々木健介)を破って、「G1」V3を達成。その後、長いブランクがあったが、蝶野は02、05年の「G1」も制し、通算5度優勝。今年で「G1」は区切りの25回目を迎えたが、長い歴史のなかで、V5は他の追随を許さず。まさに、“ミスターG1”といえる。

 94年夏、ヒールとしてファイトするようになると、95年には天山広吉、ヒロ斎藤と狼群団を結成し、本隊に対抗。96年には米WCWに遠征すると、帰国後、nWoジャパンを結成し、一大ムーブメントを巻き起こし、新日マットを席捲した。それほど悪いことをするわけではなかったが、ヒールの立場で、体制に噛みつく姿が、「かっこいい」として、ファンの共感を呼んだのだ。後にTEAM2000として活動するが、反体制の立場でスーパースターとなった蝶野は、日本プロレス史では異例なケースといえよう。

 「G1」を5度制した蝶野だが、IWGPヘビー級王座には縁がなかった。98年8月、実に8度目の挑戦で、藤波を下して同王座に初戴冠したが、首の負傷のため、1度も防衛戦を行うことなく王座返上している。古傷である首の治療のためもあり、10年1月をもって、新日本を退団し、フリーとなった。ただ、フリー転向後は、IGFのエグゼクティブプロデューサーや、全日本プロレスのアドバイザーを務めたが、プレイヤーとしては表立った活動はしておらず、むしろタレント活動がメーンとなっている。

 選手生活のかたわら、99年12月に夫人とともに、アパレルブランド・アリストトリストを設立し、東京都渋谷区では直営店を経営している。年齢的には、まだ51歳。老け込むには早い。プロレスラーにとっては、爆弾ともいえる首に故障を抱えているとはいえ、もう一花咲かせてほしい選手だ。

(ミカエル・コバタ=毎週水曜日に掲載)

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