新日本
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社会 2015年01月19日 12時00分
出光の昭和シェル買収で始まる石油元売り業界再編の内幕
出光興産が昭和シェル石油の買収に乗り出した。石油元売り2位と5位の組み合わせで、ガソリン販売シェアではトータル30%に達し、5年前に新日本石油と新日鉱ホールディングスが合併して誕生した業界トップJXホールディングスの34%を射程圏に捉える。 出光は東燃ゼネラル石油にも連携を呼び掛けている。東燃は連結ベースの売上高こそ業界4位とはいえ、ガソリン販売シェアは出光(14%)や昭シェル(16%)を上回る18%に達し、2位にランクされる。もし東燃が出光=昭シェル連合に参加すればシェアは単純計算で48%となり、一気に日本一へ躍り出る。 もう一つ目が離せないのがシェア約11%のコスモ石油だ。もしコスモがJX傘下に入ればトータルシェアは45%に達し、出光+昭シェル+東燃連合と拮抗することになる。ところがコスモは東燃と新年早々、千葉県市原市で隣接する製油所をパイプラインでつなぎ、生産効率向上に着手した。これは事実上の製油所統合に他ならず、従って東燃が出光=昭シェル連合に加わる場合はコスモがJXと組む可能性は極めて低い。 「とはいえ、東燃を介してコスモが出光連合に走れば、この4社トータルの市場シェアは59%にまで拡大し、JXを圧倒する。独禁法に目を光らせる公取委はもちろん、監督官庁の経済産業省が首を縦に振るわけがない」(担当記者) それも当然。出光による昭シェル買収の仕掛け人こそ、経産省なのだ。 「エコカーの普及でガソリン需要は落ち込んでおり、中長期的には石油元売り会社の経営が厳しくなる。規模拡大による原油買い付けコスト削減や事業の海外シフトを後押ししたい経産省だが、業界トップJXの屋台骨を揺るがしかねない東燃=コスモの出光相乗りは、さすがに容認しない」(同) “事実婚状態”の東燃とコスモが合併すれば市場シェアは計29%。これならば出光=昭シェルやJXと肩を並べる計算になる。役所の落としどころとしてはベストだろうが、業界再編のシナリオだけに、このまま“すんなり”とも思えない。
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スポーツ 2015年01月12日 15時00分
俺たちの熱狂バトルTheヒストリー〈橋本真也vs小川直也〉
1・4東京ドームはプロレスファンにとっての事始め。新年初出勤もそこそこに切り上げてJR水道橋駅を降りる会社員の姿が、かつては多く見られたものだった。 だが、1999年の大会では、そんな正月気分の抜け切らないファンを“目覚めさせる”事件が勃発する。 『小川直也VS橋本真也』 猪木が小川育成のために立ち上げた新団体UFO(世界格闘技連盟)と、新日との対抗戦として組まれたこの試合。大会前の話題の中心は大仁田厚の新日初参戦であって、過去に2度対戦しているこの顔合わせは、実はさほど注目されていなかった。 だが、小川の入場とともに会場の空気は一変する。 シェイプアップされた身体はかつての新日参戦時とまるで別人。さらには両の手にはめられたオープンフィンガーグローブ。この3カ月前には高田延彦がヒクソン・グレイシーに2敗目を喫したばかりで、そんなプロレスの敵ともいうべき総合格闘技スタイルは観客を当惑させるに十分だった。 一方の橋本もいつになく緊張した雰囲気で、観客席からはそれとわからないが、その上半身には組み付かれても逃げられるようにオイルが塗られていた…。 場内が緊張した空気に包まれる中、ゴングが鳴る。 小川が間合いを詰めてジャブを放つと、これがいきなり橋本の顔面にヒット。実質的にはこの一発で試合終了だった。 崩れるようにして後ずさりをした橋本は以後反撃らしい反撃を見せることなく、小川から一方的にマウントパンチ、顔面踏み付けと攻め立てられる。 試合時間6分58秒−−。結果こそはノーコンテストとされたが、誰の目にも橋本の惨敗は明らかだった。 この試合を「小川が仕掛けたセメント」と評する声は今も根強い。小川のセコンドに付いた佐山聡が後に「小川に興奮剤を使わせた」と語ったことも、セメント説を補強することになった。 だが、それとは異なる証言もある。 「小川は試合後、電話で“俺は何もやってませんから”と言ってきた」(新日、UFO双方と関わりのあったX氏) “何もやっていない”とはどういうことか。 「小川はあくまでもプロレスとしてリングに臨んだということ。それを橋本が一人で“仕掛けられた”と勘違いして怯んでしまったために、おかしなことになったんだ」(同) これまでも小川は、UFO自主興行において格闘技色の強い試合をしていたが、それはあくまでもプロレスの範疇のこと。そしてこの日もそれと同じ闘いをしただけだというのだ。 だが、それが真相だとしても、橋本だけを責めるわけにもいかない。 「試合前には誰が言うともなしに“猪木さんが何か仕掛けてくるに違いない”との噂が流れていて、新日勢はみんなピリピリしていました」(新日関係者) それもあって、試合後の両軍入り乱れての乱闘では新日勢が感情的になり、小川のセコンドに付いた村上一成を病院送りにするほどの過剰な暴行を加えることにもなった。 試合前日に予定されていたルールミーティングという名の“事前打ち合わせ”に小川が欠席したことも、橋本を疑心暗鬼にさせた。 とはいえ、小川と橋本は、ほどなくして互いに矛を収めている。 「橋本が小川を信用していなければ、その後の“負けたら即引退”なんていうバカげた試合など受けるはずないからね」(前出のX氏) 小川もまた橋本のそんな度量の広さを信頼し、橋本が『ZERO-ONE』を旗揚げするとこれに参戦。小川&橋本のOH砲として共闘も果たしている。 2人の関係はそうして丸く収まったが、しかし、収まらないのはプロレスファンの心中だ。「新日本プロレスのファンのみなさん、目を覚ましてくださ〜い」との小川の試合後のマイクは、まさしくその言葉の通り、プロレスファンの目を覚まさせた。格闘スタイルの小川に橋本が完敗したことは、プロレスラーの強さに疑念を抱かせることにつながったのだ。 そうしてみるとこの“1・4事変”こそが、プロレス界長期低迷のきっかけであったと言えるのかもしれない。
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スポーツ 2014年11月30日 15時00分
俺達のプロレスTHEレジェンド 第48R 愛すべき名悪役の名脇役〈キラー・トーア・カマタ〉
悪役らしい悪役レスラーが日本マットで見られなくなって久しい。 アブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シーク、タイガー・ジェット・シンといったトップヒールはもちろんのこと、見た目からして凶悪なキラー・コワルスキー、ブルート・バーナード、バロン・フォン・ラシク、ジプシー・ジョー、オックス・ベーカー…etc。インチキ丸出しのザ・ブラックハーツなども含めて、彼らは妖しい“悪のニオイ”を放ちつつ、マット上の闘い模様を豊かに彩ってきた。 キラー・トーア・カマタは、そんな中の代表的な一人に挙げられよう。 アメリカマットでは日系選手との触れ込みで、なるほど外見的には東洋系に見えなくもない。トーア・カマタという名前の響きも日本語的で、「東亜・蒲田」と漢字を当てればすんなり収まりがつく。 だがその実はポリネシア系カマカ族の出自で、カマカを日本風の発音にしてカマタ。またトーアは“岩山”を表す英語の語彙であって、つまり日本との血縁は何もない。 「そのファイトスタイルは反則暴走を繰り返しながらもどこか明るさがあって、他のヒールのような陰湿さを感じさせない。舌を出してペロペロと口の周りを舐め顔をしかめる、そんな表情はどこかユーモラスで、大物感こそはなかったものの攻めっぷりもやられっぷりも潔く、敵役としては“丁度いい具合”の選手でした」(プロレスライター) 体型的にはブッチャーよりひと回り小さく、その点でのインパクトは薄かったが、その分“動けた”のがカマタの強味。奇声とともにその場で跳び上がって放つジャンピング・トーキックに、フィニッシュホールドはロープ最上段からのフライングソーセージ(ボディープレス)。片足跳びのドロップキックなど、当時のあんこ型の選手には珍しく空中戦をこなし、またロープワークも軽快だった。 国際プロでラッシャー木村の好敵手として幾多もの過酷なデスマッチに挑み『流血大王』の異名を取ると、1978年に全日プロへ移籍した。すると、すぐにジャイアント馬場が連続防衛中だったPWF王座を奪取して2代目王座に就くという大仕事を成し遂げている。 「国際で木村に負け続けだったカマタに対し、反則裁定とはいえ馬場が敗れるというのは全日の歴史上でも異例のことでしょう。馬場としては、待遇にうるさいブッチャーをけん制するため、似たタイプのカマタをトップの一角に組み込もうというもくろみもあったようですが」(同・ライター) さらにいえば「国際崩壊よりも先に移籍してきた分、好待遇を得た」「PWF王座は外国人エース格だったビル・ロビンソンに渡すまでが規定路線で、馬場が直接ロビンソンに負けることを避けて一時的にカマタを王者とした」との説もある。 とはいえ、カマタもそうした扱いにふさわしいだけの実力を備えていた。 悪役スタイルには珍しく、どんな相手とも好勝負を繰り広げたのはその表れで、日本人相手はもちろんのこと外国人選手とも、ザ・ファンクスらのベビー勢だけでなく、ブッチャーとの抗争などヒール対決でもファンの耳目を集めている。 中でもディック・マードックとの大流血戦は、両者にとっての日本におけるベストバウトといわれるほどだ('80年3月、後楽園ホール)。 「結果はレフェリー・ジョー樋口への暴行による両者反則の無効試合となりましたが、試合はどちらも見せ場たっぷり。カマタは地獄突き、マードックはエルボー主体のいわゆるラフファイトなのですが、両者ともに技の合間に見せる表情や間の取り方が絶妙で、会場は大いに盛り上がりました」(プロレス記者) 自ら主役も張るだけでなく、ブッチャーのパートナーなどでもしっかり仕事をこなす。この時代の全日にはかかせない存在だった。 後に、とんねるずの石橋貴明が地獄突きを放ちながら「トーア・カマタ!」と叫ぶギャグをやったり、またフジテレビ『みなさんのおかげです』(当時)の仮面ノリダーのコーナーでも“トーア・カマタ男”なる怪人に扮するなどしたことで、プロレスファン以外の知名度も飛躍的に高まった。 そういう意味でも堂々、昭和の日本マット界を支えた名選手の一人として記憶されるべきレスラーといえるだろう。〈キラー・トーア・カマタ〉 1937年、米国ハワイ州出身。高卒後、米空軍に入隊した後、'58年プロレス入り。初来日は'72年の新日本プロレス。'75年の国際プロレス参戦から常連外国人となり、'78年に全日プロへ移籍。'82年心臓の不調により引退。2007年、心臓発作で死去。享年70。
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スポーツ 2014年11月24日 15時00分
俺達のプロレスTHEレジェンド 第47R マネジャーとしても名を成した銀髪鬼〈フレッド・ブラッシー〉
フレッド・ブラッシーの名が日本中に知れ渡ったのは1962年の初来日時。その代名詞であるかみつき攻撃をテレビで見た老人がショック死し、これが一大センセーショナルとして巷間伝えられた(一説には4人亡くなったとも)。 力道山とタッグを組むグレート東郷の額から血が滴り落ちるさまを、当時ようやく普及し始めたカラーテレビで見たことの刺激が強過ぎた…というのだが、しかし亡くなったのは第2次大戦中に現実の死を間近に見てきた人たち。それが額からの流血程度でなぜ? との疑念も起こるが、これはやはりブラッシーの卓越した表現力に起因するのだろう。 相手にかみつくその間際の表情は、映画『シャイニング』のジャック・ニコルソンをも凌駕するほどの狂気に満ち、まさに悪鬼に憑かれたかのごとし。 「食い殺さん」とばかりの形相にショックを受けたのは日本人だけではなく、当時アメリカでも死亡事故は多発していて、総計では数十名にも及んだという。今なら大きな社会問題ともなりそうだが、当のブラッシーは引退後「百人に到達しなかったのは残念だ」とうそぶいている。 ブラッシーはこのスタイルを取り入れる際に「ドラキュラ伯爵をイメージした」というが、結果として衝撃度では本家をも上回ったのではなかろうか。徹底したヒールぶりからファンに命を狙われることも度々。また衛生観念の行き届いていなかった時代ゆえ、かみついた相手からウイルス感染して肝炎を患ったともいうから、まさしく命懸けのレスラー生活だった。 「あと見過ごされがちなのが、その技術の高さです。額にかみつくという見せ場を作るためには、しっかり相手をコントロールしてその体勢にまで持っていかなければならない。もともとはジュニアヘビー級の正統派でしっかりレスリングのできる選手だったからこそ、抵抗する相手を抑え込んでかみつくまでの動きに不自然さがなく、説得力を持たせることができたのでしょう」(プロレスライター) そんなブラッシーに対し、力道山は「世界最強の選手」とまで評価している。 ただしこれには裏があり、日本を本拠とする力道山では当時ルー・テーズの持つNWA王座を獲得することがかなわなかったことから、「真の最強はブラッシーで、つまりそれを倒した力道山こそが最強だ」というロジック構築のために言ったことではあるのだが…。 引退は1973年。55歳のときだから選手寿命は長かったが、さらにその後もマネジャーとして長くリングをにぎわし続けた。 スタン・ハンセンやハルク・ホーガンを筆頭に、'70年代半ばから'80年代にかけてWWWF(現WWE)のヒールレスラーの多くはブラッシーが育てたと言っても過言ではない。 「当時は選手のキャラクターをつくるストーリーライターなどおらず、これはマネジャーの仕事でした。ブラッシーはその点で、自身の悪役マネジャーとしてのキャラ作りも含めて抜群のアイデアマンだったのです」(同・ライター) 初期のハルク・ホーガンの来日時、ハデなジャケットを羽織り、ステッキで日本人選手を挑発するブラッシーの姿を記憶するファンも多いだろう。そんなマネジャーとしてのキャリアの中でも究極の一つが、猪木との異種格闘技戦に挑んだモハメド・アリに付いた件だ。 「“ボクシング陣営にカネで雇われたプロレス界の裏切り者”などの誹りも受けましたが、これは実際にはWWWFが派遣したものではなかったか」(専門誌記者) 事実、アリは猪木戦の直前にWWWFのリングに上がり、ゴリラ・モンスーンと乱闘を繰り広げている。 「これは猪木戦の予行演習と見るのが自然で、WWWFとしてはプロレスとして猪木アリ戦を盛り上げ、その後もアリを絡めて商売にしようという考えがあったのでしょう。そうした中で盛り上げ役として、ブラッシーなら間違いないという信頼感があったのではないか」(同・記者) 結果として猪木アリ戦はプロレス的演出とはかけ離れたものになったため、ブラッシーの見せ場も少なかったが、成り行きによっては“試合中、アリと対峙する猪木の後ろからちょっかいを出すブラッシー”なんて構図もあったのかもしれないのだ。〈フレッド・ブラッシー〉 1918年、アメリカ出身。正統派として活躍した後、'59年にヒールに転向。かみつき攻撃で大ブレイクする。初来日は'62年の日本プロレス。以後全日本、新日本にも参戦。引退後はマネジャーとして幾多のヒールレスラーを育てる。2003年死去。享年85。
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社会 2014年10月25日 12時00分
病める巨象 新日鉄住金の内憂外患
新日本製鉄と住友金属が合併して新日鉄住金が発足したのは2012年10月だった。記念すべき合併2周年を目前にした9月26日、地球の裏側からトンデもない情報が飛び込んできた。ブラジルの鉄鋼大手で、新日鉄住金が発行済み株式の29.45%を保有し、持分法適用会社に組み込んでいるウジミナスが、現地時間の25日に開いた取締役会でフリアン・エグレン社長ら3人を突如解任したのだ。 日本では一部メディアが手短に報じ、有力紙はなぜか無視を決め込んだ。だから世間の関心度は極めて低いが、市場関係者は「新日鉄住金の命運を左右する。下手すると大量の返り血を浴びかねません」と声をひそめる。 ウジミナスは1958年に日本とブラジルの合弁で設立した同国第2位の鉄鋼会社。新日鉄住金(当時の八幡製鉄、富士製鉄)は設立当初から出資し、'06年に持分会社化。海外戦略の重要拠点に位置付けており、'08年のリーマンショクで業績が悪化した後は、役員や技術者を派遣するなど経営再建に尽力していた。 その会社で社長解任とは穏やかではない。現地報道や関係者の話を総合すると、解任された3人の取締役はウジミナスに27.66%出資する鉄鋼大手テルニウム(本社アルゼンチン)出身。解任理由は「お手盛りボーナス」が支給されていたことだ。後任社長に就いたロメル・ソウザ氏を新日鉄住金が支持したことから、仕掛け人は新日鉄サイドと見られている。 果たせるかな、テルニウムは社長解任決議の無効を訴えたばかりか、大株主であるブラジル銀行年金基金から「市場価格に82%のプレミアムを付けて買い取ることで合意した」(関係者)。結果、テルニウムの保有株は38.06%に高まり、新日鉄住金は第2位の株主に転落。これを機にテルニウムの本格的な逆襲が始まる図式だ。 「意外に思うでしょうが、新日鉄住金とテルニウムはメキシコで自動車向け鋼板の合弁事業を行う間柄。その関係から3年前にブラジルのナショナル製鉄(同国4位)がウジミナスの乗っ取りを画策した際には双方がタッグを組み、持ち株比率を高めることで防戦した。ナショナル製鉄はウジミナス株の15.91%を保有しており、もしこの株をテルニウムが取得すれば新日鉄は資本の論理で“無血開城”を迫られる。もう、これは屈辱です」(外資系証券アナリスト) むろん、新日鉄住金にも逆襲策はある。ナショナル製鉄の保有株を逆にソックリ肩代わりすれば、テルニウムの影響力を排除できる。しかし、いわく因縁のある相手である。そう簡単に商談が成立するわけがない。たとえ先方がその気になったところで、今度は相当のプレミアムが不可欠。それを極度に警戒するのか、進藤孝生社長は追加出資には及び腰だ。 これが日本を代表する巨大企業、新日鉄住金の“外患”ならば“内憂”は名古屋製鉄所での相次ぐトラブルだ。今年1月から9月までの間に停電でコークス炉のガスが処理できなくなり、黒煙が噴き出すトラブルが計4件も発生。9月3日にはコークス炉付近の石炭搭が炎上、15人が重軽傷を負った。相次ぐ停電トラブルの原因が解明されない中、生産を再開しての火災とあっては弁解の余地はない。 世間の集中砲火を浴びた同社は10月2日、酒本義嗣所長を11月1日付で解任し、後任に藤野伸司常務取締役が就くと発表した。常務執行役員兼所長の酒本氏よりも上席の役員が後任ポストに座るのは異例である。 進藤社長は10月4日、愛知県の大村秀章知事や名古屋製鉄所がある東海市の鈴木淳雄市長に“お詫び行脚”し、今回の火災事故について「石炭塔に一定期間、貯蔵されて発熱した石炭と、空気が反応して燃焼爆発したと聞いている」と釈明したが、例によって真相解明は先送りされたまま。同製鉄所は昭和33年の設立とあって設備の老朽化が指摘されるが、ライバル社OBは「それだけの理由とは思えない」と打ち明ける。 「鉄鋼業界はバブル崩壊後の大型リストラの影響で50歳代以上と30歳代以下の世代に集中している。しかも団塊世代が一気に退職した結果、事故を未然に察知して対応するなど技術の伝承がスムーズに進んでいない。新日鉄住金は合併を繰り返した分、お互いに遠慮があって余計な口出しを控え、マニュアルに書いてない問題に対応できない。所長が交代すれば簡単にクリアできる問題ではないのです」 リストラにまい進したとはいえ、新日鉄住金はグループの連結社員だけで9万人の大台に迫る。これをどう束ね“内憂外患”をどう乗り切るのか。『財界総理』の座から退いて久しい同社のかじを取る進藤社長には、まだまだイバラの道が続く。(注‥文中では新字体の「鉄」に統一しています)
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スポーツ 2014年10月19日 15時00分
俺達のプロレスTHEレジェンド 第42R 昭和プロレスを創った“神様”〈カール・ゴッチ〉
1971年当時、“プロレスの神様”は何とハワイで清掃員として働いていた。このときの年齢は40代半ば。既に全盛期を過ぎていたとはいえ、隠居するにはまだ早い。 そんな神様をリングに呼び戻したのは、国際プロレスの吉原功社長だった。同団体で売り出し中だったビル・ロビンソンの超絶テクニックに対応できる所属選手がいなかったために、その対抗馬としてゴッチを招聘したのだ。 そんな期待に応え、第3回IWAワールド・シリーズに参戦したゴッチは、ロビンソンとの5度の対戦において華麗な欧州式レスリングの技の応酬を披露し(結果はすべて時間切れ引き分け)、さらにはモンスター・ロシモフ…後のアンドレ・ザ・ジャイアントにジャーマンスープレックスを決めるという伝説も残した。 それほどの実力を持つゴッチが、なぜ一時的にもリングを離れることになったのか。 「最大の要因はルー・テーズとの一件ではないでしょうか」(プロレス研究家) '63年から'64年にかけて、ゴッチはテーズの持つNWA王座に都合9度挑戦しているが、その6戦目、ゴッチはバックドロップを仕掛けられた際に全体重を浴びせかけて、テーズに肋骨骨折の重傷を負わせている。 この試合自体は(事前のブック通りに?)テーズがダブルリストロックで勝利を収め、また試合後にはゴッチが「つい本気になってしまった」と正直に謝罪をしたこともあり、少なくとも表面上は大きな問題とはならなかった。その後も両者のタイトル戦が組まれたことからも、遺恨はなかったと見てよかろう。 ただ、いくら選手同士が納得しても、プロモーターとなると話は違う。「大事なチャンピオンにケガをさせるような選手は怖くて使えない」となるのは仕方のないところだ。 そのためゴッチはテーズとの一連のタイトル戦を終えるとNWAを離れ、日本に活路を見出そうとする。 「'68年には日本に移住までして、日本プロレスの若手のコーチ役に就任しています。ただ、当時エースのジャイアント馬場のスケールの大きな試合スタイルとテクニック主体のゴッチでは相性が悪く、試合で重用されることはなかった。その以前の来日で、いったんインターナショナル王座への挑戦が決まりながらゴッチの負傷のため中止になっていますが、この再戦が行われることもありませんでした」(同・研究家) そんな冷遇もあって選手生活に見切りをつけ、冒頭の清掃員ということになるわけだが、しかし日プロでのコーチ業という裏方仕事が“神様”としての復活につながることになる。国際プロレスへの参戦の後、新たに旗揚げした新日本プロレスが、かつて猪木に卍固めを授けた師匠格であるゴッチを大々的に売り出したのだ。 「もちろんそのテクニックへの信奉はあったのでしょうが、それ以上に、目玉の外国人選手のいなかった新日にとっての苦肉の策という意味合いが大きかったのではないでしょうか」(同) 旗揚げ興行、猪木戦の解説では早速、『ゴッチはかつてアメリカで王者になりながら強過ぎて相手がおらず王座返上した』などと“ゴッチ最強神話”を喧伝している。 「実際にはAWA系のローカル王者になっただけだし、挑戦者が名乗り出なかったなどという事実もない。そもそもテーズの王座に何度も挑戦して勝てなかったのに“無冠の帝王”と呼ぶのもおかしな話です」(同) だが、最強神話が宣伝によって作られたものだとしても、そのことはゴッチの実力をおとしめるものではない。テーズもゴッチに対しては「私を最も苦しめた挑戦者」と高く評価をしているし、そうした敬意がなければ、たとえ日本でのこととはいえ“世界最強タッグ”を名乗って同格のチームを組むわけがない。 そして何より、その教えを受けた面々の顔ぶれだ。 前田日明、藤原喜明、佐山聡、船木誠勝、鈴木みのる等々…。 宮本武蔵を敬愛したゴッチは、常在戦場の精神でいまわの際まで自らにトレーニングを課したという。ややもすると日本人でも忘れがちな侍魂が、ゴッチを通じて日本のプロレス界に伝承されたのである。〈カール・ゴッチ〉1924年、ベルギー出身。レスリング五輪出場の後、'50年にプロレスデビュー。初来日は'61年の日プロ。以後、国際参戦を経て新日で選手兼ブッカー兼コーチとして活躍する。引退後もゴッチ道場で多くの日本人選手を育成した。2007年死去。享年82。
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スポーツ 2014年09月05日 15時00分
俺達のプロレスTHEレジェンド 第36R 選手としても凄かったAWAの帝王〈バーン・ガニア〉
バーン・ガニアを“AWAの帝王”と呼ぶとき、多くの日本のファンが思い浮かべるのは、そのプロモーターとしての顔であろう。 北米地区からカナダにかけてをテリトリーとし、一時はNWAにも比肩する大プロモーションとして隆盛を誇ったAWA。その基礎を作ったのは、紛れもなくガニアであった。 では、レスラーとしてはどうだったか−−。初来日時には既に40代後半とすっかり全盛を過ぎていたこともあり、日本においての評価は決して高くない。最初が国際プロレスへの参戦だったことも、ファンからの印象を薄くしている。 その後、AWAが国際から全日本プロレスへと提携先を変えても、ガニアは国際の吉原功社長との個人的な関係から単発的に国際へ参戦し、全日の常連外国人となることはなかった。 「それでも、全日においてはジャンボ鶴田“試練の十番勝負”の初戦や、ジャイアント馬場“3000試合連続出場突破記念試合”の相手を務めています(両試合とも引き分け)。これは、馬場がいかにガニアを高く評価していたかの証拠でしょう」(プロレスライター) いずれも節目にあたる重要な試合であり、そこにガニアを起用した裏には“AWAのトップに対する配慮”という面もあっただろうが、それ以上に“ガニアのレスリング技量に対する信頼”があったことは想像に難くない。 馬場のアメリカ修業時代には既にガニアはNWAを離脱してAWAを立ち上げていたため、その当時に直接の交流はなかったが(馬場の初渡米は1961年、AWA創設は'60年)、それでもアメリカにおけるガニアの実力や実績は見聞きしていたはずだ。 あらためてガニアの来歴を見れば、鉄人ルー・テーズにも匹敵する大スターであったことがわかる。'48年にはレスリングのロンドン五輪代表に選ばれ(ちなみに同大会には日系レスラーのハロルド坂田も米代表として重量挙げで出場し、銀メダルを獲得している)、その前年にはアメリカンフットボールのNFLでプレーもした万能アスリート。五輪の翌年に、熱心なスカウトを受けてのプロレス界入りとなった。 身長182センチと、当時の米国レスラーの規格からするとやや小柄ではあったが、すぐにテーズと並ぶメーンイベンターとして遇されることになる。 「昔の試合映像を見ると“剛”のテーズに対して“柔”のガニア、といった印象です。流れるようなグラウンドの動きや下から突き上げるようなドロップキックは、よどみなく実に美しいものでした」(同ライター) そんな往年の面影は、50歳を過ぎてからの来日時にもなお、うかがえた。 「すっかりハゲ上がったガニアの外見から、馬場との記念試合も最初こそは老レスラー同士の慣れ合いぐらいに思っていましたが、互いに動きが良くて見応えある試合になりましたからね」(同) とりわけ3本勝負の1本目を奪ったガニアの必殺技スリーパーホールドは、極めるまでの流れもスムーズで説得力十分。猪木が“魔性のスリーパー”を極め技として使い出す以前のことであり、当時の日本マット界では単なるつなぎ技とされていたこの技に、新たな息吹を与えることにもなった。 馬場との試合のときには58歳。今年の時点で同年齢の日本人レスラーとなると小林邦明(引退)やスーパーストロングマシン(半引退)がこれにあたり、単純比較はできないものの、その年で王座戴冠していたガニアの壮健ぶりが際立つ。 引退後はAWAの運営に専念するが、こちらは時代の流れに乗り切れず、WWF(現WWE)の隆盛に押される形で徐々に衰退していく。実子のグレッグ・ガニアも偉大な父の七光りから脱することはできず、AWA王座こそは獲得したものの、人気面からすると大成したとは言い難い。 結局'91年にAWAは破綻し、ガニアも自己破産してしまった。しかしそうした中でも、ガニアは直弟子ともいえるブラッド・レイガンスのレスリングスクール、通称“レイガンス道場”においてトレーナー役を買って出るなど、新人育成を手掛けている。 新日本プロレスのトップ外国人として活躍したスコット・ノートンなどもこの出身で、結果、日本マット界に多大な影響を残したのだった。〈バーン・ガニア〉 1923年、アメリカ出身。'49年デビュー。'60年にAWAを設立し以後選手兼オーナー兼プロモーターとして活躍。初来日は'70年の国際プロ。全日プロではG馬場の3000試合連続出場記念試合の相手を務めた。'81年引退。
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スポーツ 2014年08月30日 15時00分
俺達のプロレスTHEレジェンド 第35R 格闘芸術を極めた不世出の天才〈初代タイガーマスク〉
初代タイガーマスクこと佐山聡が今なおプロレスのリングに上がっていることを、意外に思うファンもきっといるだろう。タイガー時代を「生き恥」とまで言い、1994年、新日福岡ドーム大会でライガーとエキシビションマッチを行った後の修斗の会場では「新日本のリングで芝居、おっと違った。試合をしてきました」と、プロレスへの侮辱的発言もあった。 そんな佐山が、2005年に自らの団体リアルジャパンプロレスを立ち上げて、この春には貴闘力のプロレスデビュー戦までそのリングで行っている。 「佐山としては“これ以上プロレスが侮辱されるのはたまらない”というんですね。“だから本物のプロレスを見せるしかない”との考えから旗揚げしたのだと聞いています。その当時は新日がゲーム会社ユークスの子会社になるなど、プロレス人気がどん底にまで落ち込んでいましたしね」(プロレス記者) 過去の「芝居」発言などとは矛盾するようだが、それらはあくまでも“プロレス界へのいさめの言葉”だったということか。 初代タイガーマスクはとにかく、全てにおいて革命的であった。 テレビ中継の視聴率は毎回20%超え。会場もタイガー目当てのファンが押し掛けて連日超満員という、そんな現象面もさることながら、それ以上に試合ぶりが画期的であり、あらためて当時の試合映像を見たときには、きっと新たな驚きを覚えるに違いない。 サブミッションやキックボクシング式の蹴りなど実戦的な技をプロレス流の“魅せる動き”と見事にミックスさせていて、そこに不自然さは一切感じられない。アントニオ猪木はかつてプロレスを「格闘芸術(ファイティングアーツ)」と評したが、その完成形と言えそうなのがタイガーであった。 後に佐山は著書『ケーフェイ』の中で「プロレス技の多くは相手の協力なしに成立しない」との旨の記述をしているが、かくいう佐山自身は、そんな“相手の協力”を感じさせないよう最大限の努力を払っていた。例えば極め技の一つ、ラウンディング・ボディープレスがそうだ。 これを武藤敬司や小橋建太のムーンサルトプレスと比べたとき、ラウンディングの方はコーナーに駆け上がった勢いのまま身体を斜め回転させ、飛び上がって一気にリングに倒れている相手を目掛けてボディープレスをかますことになる。 コーナー上で一呼吸を置いて間をあけることはなく、またこのときムーンサルトのように完全に相手に背を向けることがないから、マットに横たわる相手の位置を目視で確認して回転の軌道を微修正したりもする。 これをして「実戦的」というにはやや無理があるかもしれないが、少なくともムーンサルトのように、リングに倒れた方の選手が技を仕掛ける選手に合わせて、その落ちてくる位置に身体をずらすような不自然な動きは必要としない。 「今のジュニアの選手の方が初代タイガーよりも高度な技を使う、なんてことを言うファンもいるが、それは曲芸的な意味で難度が高いというだけのこと。単なるタイガーの亜流にすぎず、決してそれを進化させたものとは言えないでしょう」(前出の記者) タイガーのころは、まだヘビーとジュニアが明確に区分けされていたために、「猪木たちとは別物」と見る向きも多かったが、あらためて見直すと、実力面でも決してヘビー勢に見劣りするものではなかった。 第一次UWFでの前田日明との試合などでは、確かに体格の差で押される場面も見られたが、それを補うテクニックとスピードをきっちりと兼ね備えていた。 「プロレス界に“ナチュラルな試合”という言葉があります。これは、あらかじめ筋書きを決めずに闘う者同士が純粋な強さを競う試合のことで、佐山がタイガー時代に理想としたのもこれ。平成になってからは最初から最後まできっちり筋書きを決めて試合に臨む選手も多いようですが、佐山からすると、とても信じられない。だからリアルジャパンでは、もう一度ナチュラルな試合を復権させようということなんでしょう」(元新日関係者) 真剣勝負とプロレスは、決して相反するものではないのである。〈初代タイガーマスク(佐山聡)〉 1957年、山口県出身。高校を中退し'75年、新日本プロレス入門。'81年、タイガーマスクとなって爆発的人気者になるも'83年、猪木の事業失敗などを理由に退団。第一次UWF参戦、修斗設立など日本格闘界の礎となる。
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スポーツ 2014年08月18日 15時00分
俺達のプロレスTHEレジェンド 第34R そこに“プロレス愛”はあったのか!? 〈アントニオ猪木〉
8月30、31日に北朝鮮でのプロレス大会を開催、世界に向けネット配信することを発表しているアントニオ猪木。対北朝鮮の行動としては賛否両論あるものの、1994年の引退から20年がたつ今もなお、こうして話題になるというのは、やはりスーパースターなのである。 「ただ、猪木さん自身は、さほど過去の栄光にこだわっていないんじゃないでしょうか。引退後“永久機関”の開発等々のビジネスに精出していたころには『元プロレスラーの肩書が邪魔になる』なんて言っていたこともあります。自分は本気で事業に取り組んでいるのに相手は元プロレスラーの道楽と見る。それが悔しいし歯がゆいというんですね」(プロレスライター) 猪木と他のレスラーの大きな違いの一つに、入門前にプロレス知識が乏しかったことが挙げられる。一族で移住したブラジルの地で砲丸投げにいそしんでいた少年が、力道山のスカウトを受け、訳もわからず日本にやってきた。そこにはプロレスラーという職業に対する憧れなどは一切なかっただろう。 自著などではたびたび「乞食になっても世界一の乞食になれ」という祖父からの言葉を紹介しているが、猪木にとってのプロレスは乞食同然とは言わないまでも、決して望んで入った道ではなかったことには違いあるまい。 後に「人生のホームレス」を名乗ったのは、たまたまなのか、それとも「世界一の乞食」が頭にあってのことだったのか…。 入門当初は“ドンカン(鈍クサい猪木寛至の意)”が通り名だったほど無垢だったというが、デビューしてからは祖父の教えに従うように、ひたすら“世界一”に向けてまい進することになる。 「このままでは馬場の上には行けない」と豊登に口説かれて東京プロレスに参加したのは弱冠23歳。新日本プロレス旗揚げも'72年、29歳のときのことであった。 新日の旗揚げ当初は、外国人選手招聘などに苦労しながらも、徐々に人気を獲得していったが、それだけでは飽き足りない。'76年には「プロレスこそが最強の格闘技」と高らかに宣言し、モハメド・アリとの格闘技世界一決定戦を実現させるに至った。 しかしその一方で、プロレス内においては「NWAを超える権威」を求めてIWGP構想を立ち上げながらも、最後の最後で投げ出してしまう。'83年6月2日、ハルク・ホーガンとの決勝戦での“自作自演”失神劇である。当時を知る関係者は語る。 「あの騒動を“会場に来ていた借金取りから逃れるため”なんて言う輩がいるけどそれは違う。そのホンネは世間の耳目が一番集まる決勝戦という大舞台で、自ら失神してみせることにより、プロレスの過激さを伝えたということじゃなかったかな」 アリと闘ってみせたところで、NHK『ニュースセンター9時』では、当時の磯村尚徳キャスターに「世紀の茶番」と斬り捨てられる。一方、プロレスの世界に戻っても、力道山時代から変わらず“八百長”の色眼鏡が外されることはない。 「藤波のドラゴンスリーパーを見て『あんな技、効くわけないだろう』なんて吐き捨てたそうで、プロレスを格闘技として認めさせたいという思いは人一倍でした。引退後、周囲の要請がありながら本格復帰しないのも、やはり格闘技のリアリズムへのこだわりからでしょう」(スポーツ紙記者) しかし、それでも世間の目は一向に変わらない。 そんなプロレス界においてのトップを目指すよりも、まず世間のプロレスを見る目そのものを変えなければならないというのが猪木の偽らざる本心であり、そのためにあの失神騒動を起こした、というわけだ。 「そうしたもくろみは必ずしも成功したとは言えませんが、これによって逆にプロレスファンの心をしっかりつかんだのだから、やっぱり猪木さんはすごいですよ」(同・記者) その後、タイガーマスクの引退騒動や維新軍の離脱など、さまざまな激震に見舞われながらも新日が人気を保ち続けたのは、一にも二にも猪木のカリスマ性があってのこと。事業失敗の負債や前妻・倍賞美津子との離婚という己の閉塞状況を打破しようと、ヤケクソ気味に実現させたマサ斎藤との巌流島決戦さえ、今も伝説として語られる。 やはり猪木は不世出の大スターなのである。〈アントニオ猪木〉 1943年、横浜市出身。本名・猪木寛至。'60年、移住先のブラジルで力道山のスカウトを受け、日本プロレス入団。'72年に新日本プロレスを設立。モハメド・アリとの世紀の一戦など、'80年代プロレス黄金期の立役者。
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芸能ニュース 2014年08月13日 15時30分
ノーブレイク? なプロレス系芸人
神奈月やユリオカ超特Q、アントニオ小猪木や長州小力のように、プロレスラーに扮するピン芸人がいる。いっぽうで、プロレスそのものをネタにする、プロレス大好きコンビもいる。現状、彼らから売れるオーラはまったく見えないが、ライブ会場でのウケは悪くはない。そこで、そんな“うつけもん”的な要素が多い若手3組を紹介しよう。 まずは、オキシジェン(三好博道&田中知史)。ホリプロコム所属のふたりは、漫才もコントもする本格派。だが、テレビで放映されるのはほぼ、プロレス技を駆使した縦横無尽コントだ。打点の高いドロップキック、しっかりとホールドするフロムジャム、タイガーマスク顔負けのローリングソバットなどは、観る者を笑わせる前に感心させる。プロレスの経験が皆無と思えない、ホンモノ志向だ。 弾丸ジャッキーなどが所属するニュースタッフプロダクションに籍を置くのは、3フランシスコ。西口プロレスで闘ってもいる小橋太っ太、小高山善廣に、レフェリー的な役割をはたしている林田竜次のトリオ芸人は、コントの入り=リングインという設定。昨年現役を退いた小橋建太、“Mr.帝王” 高山善廣がモチーフになっており、彼らの得意技を中心に、コントは進行していく。これが不思議なことに、プロレスに興味がなくても、選手データが頭に入っていなくても、雰囲気で笑えてしまう。女性も笑わせてしまう、文字通りの腕力がある。 最後に紹介するのは、マセキ芸能社に所属するエル・カブキ。エル・サムライとザ・グレート・カブキをミックスさせたリングネーム…ならぬ芸名からもわかるとおり、林寿夫と上田雪博は大のプロレス&格闘技好き。ブログのタイトルも「セカンドロープからブレンバスター」で、マニアの心をしっかりつかむ。基本はオーソドックスな漫才。ボケにプロレス語録や実話をはさんでいくパターンがおもだが、ボケのすべてを神取忍で固める博打ネタもある。神取のネームバリューが幸いしてか、これが意外とウケる。 “キングオブスポーツ”を標榜する新日本プロレスの人気が盛り返してきた今、プロレス人気は確実に再燃している。となれば、彼らプロレス芸人の未来も明るい! …かもしれない。(伊藤由華)