新日本
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スポーツ 2015年04月28日 15時00分
俺たちの熱狂バトルTheヒストリー〈ヒクソン・グレイシーvs高田延彦〉
今となっては“世紀の激突”とも称される1997年10月11日の『PRIDE1』。ヒクソン・グレイシーと高田延彦の一戦だが、当時のファンの関心は、さほど高くなかった。 主催者発表では「観衆4万6863人」とされたものの、当日の東京ドームには空席も目立つありさま。新日本プロレスの大会ならば、常に超満員が当たり前の時代である。 「プロレスや格闘技の専門誌でも、この試合を盛り上げようという気運は薄かった。主催のKRSは“元・小室哲也のスーパーバイザー”なる人物が代表を務める格闘畑とは無縁の組織で、これを宣伝することは既存団体への裏切りに当たるという考えがあったのです」(格闘技ライター) 高田の立ち位置も、どこかはっきりとしなかった。 '92年、UWFインターナショナルの旗揚げ後には北尾光司やスーパー・ベイダーを撃破して「最強」を名乗ったものの、'95年には「近い将来の引退」をリング上から宣言。その直後には参院選に出馬し、落選。新日本との対抗戦では新日勢や天龍源一郎らと勝った負けたを繰り返し、Uインター末期にはアブドーラ・ザ・ブッチャーと対戦するなど、いわば“格闘風プロレス”の色合いを濃くしていた。 Uインター解散後、所属選手らの立ち上げた新団体『キングダム』にも正式参加はせず、現役選手であるのかどうかも含めてあやふやだった。 片やヒクソンはバーリトゥードジャパン大会で連戦連勝。高田と同じUインターの安生洋二を道場で血祭りに上げるなど、その確かな実力は格闘ファンの間に浸透していた。 当時、プロレスラーのバーリトゥード挑戦においては“ケンカ最強”といわれたケンドー・ナガサキが一敗地にまみれるなど、苦戦が続いてもいた。 「それでも、まだプロレスファンの間では“一流選手なら勝てる”との思いが強く、そのため高田をプロレス代表として応援するというよりも“ヒクソンにとっての試金石”ぐらいの認識が主流でした」(同・ライター) 高田の入場曲『トレーニングモンタージュ』が場内に響き、リングに上がった高田はヒクソンに一礼。セコンドの安生と長く抱き合っていた。 後に高田はこのときの心境を「死刑台に上るようだった」と語っている。 ヒクソンの強さへの畏怖はもちろんだが、加えて主催者の都合から試合開催そのものが二転三転したために精神面でも前向きになれず、また練習中には腰を痛めるなどアクシデントもあったという。 だが、それらが皆目言い訳にならぬほど、バーリトゥードという試合形式においてのヒクソンと高田の実力差は圧倒的だった。 アップライトの構えで顎を上げ、挑発するかのように前に出した脚を踏み鳴らすヒクソンに対し、高田はその周りをグルグルと回るばかり。ときおりキックを放つようなアクションを起こすが、これにヒクソンは全く動じない。 そんな膠着状況に「耐え切れない」とばかり高田が組みかかり、両者もつれるようにマットに倒れ込むと、そこから立ち上がろうとする高田の脚をすかさず捉えたヒクソンは、一息に抱え上げてテイクダウン。 高田は下からヒクソンの頭を抱え、脚を絡めて懸命にマウントポジションを防ごうとするも、ヒクソンはその一つひとつに冷静に対処していく。 そうして高田を制圧したヒクソンはセコンドに時間を確認すると、5分間のラウンドが残り25秒となったところで腕十字固めを仕掛けた。残り時間がそれぐらいならば、万が一、技を返され不利な体勢になったとしても、しのぎ切れるという計算ずくの攻撃だった。 試合後、アントニオ猪木は「一番弱いヤツが出て行った」と高田の敗戦を斬って捨てた。これには「高田最強」とは認めていないファンですら「負け惜しみなのか業界擁護のためなのか、いずれにしても妙なことを言う」と首を傾げるしかなかった。 だが猪木からすれば、この結果によってプロレス界の危機を感じた故の言葉であり、その感性の正しさは程なく「プロレスラーの連戦連敗」という形で証明されることになった。
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スポーツ 2015年04月22日 12時00分
【甦るリング】第4回・はかり知れない強さを秘めていた悲運のエース・ジャンボ鶴田
R30世代以降のプロレスファンにとって、ジャンボ鶴田は決して忘れることができないプロレスラーの一人だろう。日本人離れした196センチの長身ながら、抜群の身体能力、運動神経、プロレスセンス、スタミナを持ち合わせ、ジャイアント馬場が第一線を退いた後のエースとして全日本プロレスをけん引した鶴田。その強さは半端なものではなかったが、マイペースな性格からか、なかなか試合で熱くなることはなく、本当の強さが垣間見られた試合はあまり多くなかった。その点では、鶴田はふしぎなプロレスラーであったかもしれない。 1951年3月25日生まれ、山梨県東山梨郡牧丘町(現山梨市)出身の鶴田は、ブドウ農園を営む家で育つ。山梨県立日川高等学校を経て、中央大学法学部政治学科に入学。当初はバスケットボールの選手だったが、アマチュアレスリングへ転向。抜群の運動能力を発揮し、短期間で急激に力を付け、71、72年には全日本選手権のフリースタイル、グレコローマンで2連覇を果たし、ミュンヘン五輪(72年)に日本代表として出場した。 体格、レスリングでの実績を馬場に見込まれた鶴田は、全日本プロレスへの入団を決意。同年10月、入団会見の際には、「全日本プロレスに就職します」との名言を吐いた。入団後、米テキサス州アマリロのザ・ファンクス(ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンク)のもとへ修行に行き、翌73年3月、米国でデビュー。 同年10月に凱旋帰国し、いきなり、馬場と組んで師であるファンクスの持つインタータッグ王座に挑戦。60分3本勝負で行われた試合は1-1で時間切れ引き分けだったが、鶴田はテリーからピンフォールを奪う殊勲の星を挙げ、入団1年にして、馬場に次ぐ全日本ナンバー2の座を確保するスピード出世ぶりをみせる。75年2月、米テキサス州サンアントニオで、ファンクスを破り、インタータッグ王座を奪取。76年8月には復活したUNヘビー級王座の決定戦で、ジャック・ブリスコを下し、初のシングル王座を獲得した。 以後、全日本ナンバー2の座を確固たるものにするも、当時、世界最高峰といわれたNWA世界ヘビー級王座や、AWA世界ヘビー級王座に何度挑んでも、タイトルを獲れないことから、“善戦マン”のありがたくないニックネームが付けられた。83年8月、ブルーザー・ブロディを破り、インターヘビー級王座を奪取すると、馬場から全日本のエースの座を禅譲されることになる。 84年2月には、そのインター王座を懸け、AWA世界ヘビー級王者のニック・ボックウインクルとのWタイトル戦を行い、この試合を制して、日本人初のAWA世界王者となる。AWA王座は日米を股に掛けて、16度の防衛に成功。同年5月にリック・マーテルに敗れて王座陥落するまで、3カ月間保持した。 その後、全日本に長州力率いるジャンパン・プロレス軍団が参戦。長州といえば、鶴田と同様、ミュンヘン五輪に出場したレスリングの猛者だったが、85年11月、大阪城ホールでシングル初対決。試合は60分時間切れ引き分けとなったが、体格、スタミナに勝る鶴田は長州を圧倒。鶴田の強さをまざまざと見せつけたこの試合は、今でも語り草となり伝説となっている。 ジャパン軍が新日本プロレスにUターンした後の88年6月、谷津嘉章とのコンビでPWF世界タッグ王座だった鶴田は、インタータッグ王者のロード・ウォリアーズとのWタイトル戦を制し、王座を統一し、初代世界タッグ王者となる。さらに、89年4月、インター王座を保持していた鶴田は、PWF&UN両ヘビー級王者のスタン・ハンセンとトリプルタイトル戦で勝利。見事、3冠を統一し、初代3冠ヘビー級王者となる。これを機に、名実ともにプロレス界のトップとして君臨した。 当時、全日本ではナンバー3の扱いであった天龍源一郎が正規軍に反旗を翻し、天龍同盟を結成。鶴田に牙をむいた天龍との一連の抗争はヒートアップ。ふだんは沈着冷静なファイトをする鶴田だが、こと天龍戦に関しては熱くなり、鶴田がもつ本来の強さが引き出された。その意味で、天龍の功績は大きい。この頃の鶴田は天龍に負けることもあったが、とにかく恐ろしいほど強かった。しかし、90年4月、天龍が新団体SWSへの参画のため離脱。両者のライバルストーリーは突如、終止符が打たれ、後輩の三沢光晴が天龍に代わって、全日本のエースの座を狙う存在となる。 92年8月、三沢が初めて3冠王座に就いた直後の同年11月、鶴田はB型肝炎を発症したことを告白し長期療養に入る。93年10月に復帰したものの、第一線を退き、前座試合にスポット参戦するようになる。その後はプロレスと並行して、学問の道に進み、筑波大学大学院修士課程体育研究科でコーチ学を学び、慶應義塾大学、桐蔭横浜大学、母校の中央大学で講師を務めた。 99年1月に全日本社長の馬場が死去すると、同年2月に取締役を辞任し、引退を発表。同年3月6日、日本武道館で引退セレモニーを行い、全日本を去った。同月、米オレゴン州ポートランド州立大学に客員研究員として留学し、スポーツ生理学を学ぶが、肝臓の状態が悪化。肝移植を受けることを決意し、オーストラリアに渡り臓器提供を待っていたが、フィリピンでドナーが現れ、マニラで移植手術を受けたが、00年5月13日、手術中に大量出血し、49歳の若さで死去した。 プロレス界に大きく、その名を残した名選手の海外での最期は、あまりにも寂しく悲しいものだった。肝炎を患った後の晩年の鶴田の前座でのファイトは、全盛期を知る者にとっては、見るに忍びなかったが、本気になった時のはかり知れない強さをもった鶴田は、紛れもなく、日本プロレス界のトップ中のトップだった。だが、勝負論にこだわると、師・馬場とは直接対決の機会も少なく、一度もピンフォールを奪えないまま、全日本のエースの座を譲られたという点では、“悲運のエース”といえるのかもしれない。(ミカエル・コバタ=毎週水曜日に掲載)
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スポーツ 2015年04月15日 12時00分
【甦るリング】第3回・悲運ながらファンに愛された真“デスマッチの祖”ラッシャー木村の晩年
晩年、ユーモラスなマイクパフォーマンスで人気を博したラッシャー木村(2010年5月24日没=享年68)は、とても悲運なプロレスラーだった。若いプロレスファンにとって、木村は「マイクで面白いことを言うコミックレスラー」的な印象だろうが、古くは“金網デスマッチの鬼”と呼ばれた男だ。 日本プロレス界において、“デスマッチの祖”といえば、“邪道”大仁田厚のイメージが強いだろうが、デスマッチを世に知らしめたのは紛れもなく木村だ。大相撲・宮城野部屋の幕下力士だった木村は、十両昇進まであと一歩に迫っていたが、1964年9月場所を最後に廃業。同年10月、力道山没後の日本プロレスに入門した。 ところが、66年、豊登の付き人を務めていた関係から、アントニオ猪木をエースに推した新団体・東京プロレスに移籍。ここから、木村の悲運なプロレス人生がスタートしたといえる。いかつい顔をしている木村だが、とにかく温厚で人が良く、何かを頼まれると「NO」とは言えない性格だったといわれている。 しかし、その東プロはあっけなく67年1月末に事実上崩壊。日プロに戻ることが許されなかった木村は、東プロと提携していた国際プロレス・吉原功社長に誘われるがまま、同団体に移籍。プロレス入りから、わずか約2年半で、3つ目の団体に所属するハメになる。東プロからのオファーを断っていれば、後に日プロのスター選手になっていたかもしれない。そう考えると、「NO」と言えなかった木村の悲運を感じる。 国際プロ移籍後、頭角を現した木村は69年4月、サンダー杉山とのタッグでTWWA世界タッグ王座を奪取。同年8月には米国武者修行のチャンスをつかむ。70年8月に凱旋帰国すると、同年10月、ドクター・デスを相手に日本初の金網デスマッチを敢行した。今でこそ、大日本プロレスなどのインディー団体では当たり前のように行われているデスマッチだが、当時は画期的で、全国のプロモーターから要請が殺到。以降、木村は頻繁にデスマッチを闘い、“金網デスマッチの鬼”が、その代名詞となる。 そんな木村にチャンスが巡ってきたのは、国際プロの絶対的エースだったストロング小林の離脱だった。74年2月、新日本プロレスの猪木に挑戦するため、小林が同団体から去ったのだ。エースが不在となり、吉原社長は当初、小柄なマイティ井上をエースに指名した。だが、75年4月、井上がマッドドッグ・バションに敗れて団体の至宝であるIWA世界ヘビー級王座を奪われると、木村がバションを破って同王座に初戴冠。以降、81年9月に団体が解散するまで、6年半にわたってエースとして君臨した。しかし、常に全日本プロレスのジャイアント馬場、新日本の猪木と比べられる立場になり、損な役回りとなってしまった感は否めなかった。 国際プロと全日本との交流関係から、75年12月に全日本が開催した「オープン選手権」に出場した木村は、馬場とシングルマッチで初対決。両団体のエース同士の対戦とあって、当時は大変な話題となったが、試合と関係ないアブド−ラ・ザ・ブッチャーが乱入し、木村を流血させると、そのダメージが響いて木村が敗れるという不運な結末となった。両者は78年2月に再戦したが、この際は馬場に足四の字固めを掛けられた木村がロープエスケープするも、なぜかレフェリーがブレイクを認めず、不可解なリングアウト負け。 時を経て、2人は85年6月に3度目の一騎打ちをしたが、木村の足がロープに掛かっていたにもかかわらず、レフェリーが3カウントを叩き、またしても悲運な敗退。木村は馬場戦に関しては、ほとほと運がなかったのだ。国際プロが81年9月に解散すると、吉原社長は新日本との全面対抗戦を画策。しかし、井上ら多くの選手は全日本への参戦を選択。吉原社長の意向に従ったのは木村、アニマル浜口、寺西勇の3人だけだった。 そして、同年9月23日、忘れられることはない伝説の東京・田園コロシアム大会。木村は新日本に宣戦布告するため、リングに上がったが、律儀にも「こんばんは」とあいさつし、ファンの失笑を買った。まさしく、木村の人の良さが垣間見られたシーンだったが、これは「こんばんは」事件として、後世に語り継がれることになる。木村は浜口、寺西と「国際はぐれ軍」を結成し、新日本に乗り込んだ。当時の新日本はブームの真っただ中とあって、木村は究極のヒールに仕立て上げられた。国際プロはマイナーな存在であったため、新日本で猪木と抗争を繰り広げていた期間は、木村にとってプロレスラーとしてのピークといえたが、ヒールとしての役回りは決して本意ではなかったであろう。 その国際軍団も、浜口、寺西が長州力率いる維新軍に加入したため解散。1人になった木村は84年、新日本のお家騒動のさなか、営業本部長だった新間寿に誘わるまま旧UWFの旗揚げに参加。同団体は「後から猪木が行く」との前提での設立だったが、猪木は新日本に残留。前田日明を中心とした格闘路線となり、木村は元国際プロの剛竜馬とともに離脱。新日本に戻る道もあったが、木村は自身の意思で全日本移籍を決意。後に木村は「自分の意思で動いたのは、これが初めてだった」と語っている。同年暮れの「世界最強タッグ決定リーグ戦」で馬場のパートナーとして参戦した木村は、馬場を裏切って、剛らと国際血盟軍を結成。以後、馬場らと抗争を繰り広げていくことになる。 だが、時を経て、馬場にタッグ結成のラブコールを送ると、馬場を「アニキ」と称して、義兄弟コンビを結成。百田光雄らとのファミリー軍団と、永源遙らの悪役商会との試合は全日本の前座の名物となり、アットホームでユーモラスなマイクパフォーマンスで沸かせるようになる。 馬場の死後、三沢光晴らに追随し、00年にノア旗揚げに参加。03年3月までファイトしたが、体調不良により長期欠場に入り、04年7月、ビデオレターで引退を表明した。引退後は体調を崩し、車イス生活を余儀なくされていたという。お人よしなばかりに周囲に誘われるがまま、団体を転々とした木村の流転のプロレス人生。国際時代はエースの座を張り、新日本では猪木の敵役を務めたが、木村が最も「らしさ」を発揮できたのは、ベビーフェイスに転向し、マイクパフォーマンスでファンを喜ばせていた時期かもしれない。 確かに不器用でファイトスタイルは地味なプロレスラーであったが、その実力は本物だった。プロレス界のトップを獲ることはできなかったが、ラッシャー木村という偉大なプロレスラーがいたことを忘れることはできない。(ミカエル・コバタ=毎週水曜日に掲載)
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スポーツ 2015年04月01日 12時00分
【甦るリング】第1回・長州力が藤波辰巳に下克上宣言した1982年10月8日
プロレスのテレビ中継がゴールデンタイムから消えて久しい。 今の10代、20代の若者にとって、プロレスはマニアックなファンに支えられたジャンルにしか思えないだろう。しかし、かつてプロレスはゴールデンタイムで高視聴率を獲っており、当時の若者にとっては、人気娯楽のひとつだった。 多くのR30、R40世代にとって、少年期に見たプロレスは、それこそ今の人気バラエティー番組を見るかのごとく、日常生活のなかで、欠かせない熱く燃えさせてくれた“テレビ番組”だったに違いない。また、プロレス会場に足を運んだ人も少なくないだろう。 そこで、本項では、特に80年代、90年代を彩ったレジェンド・プロレスラーの「あの日あの時」を記していきたい。第1回で取り上げるのは長州力(63)。いまだに現役を続けている長州だが、昨今ではバラエティー番組で、すっかりおなじみだ。バリバリの頃の長州を知るファン、関係者にとって、今の姿は意外というほかない。 長州は専修大学でレスリングに励み、72年ミュンヘン五輪に出場したトップアスリートだった。同五輪で同じレスリングで出場したジャンボ鶴田(故人)は、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスに入団した。一方、長州は鶴田をライバル視するがごとく、オポジションの新日本プロレスに入団した。 74年、国内でデビュー戦を行った長州は海外武者修行に出発。その後、帰国するも、パッとせず、中堅選手の域を脱せず。全日本で、馬場と並ぶトップスターとして活躍していた鶴田との立場の差は明らかだった。 そんななか、長州はメキシコ遠征に出た。決して、団体の期待があってものとはいいがたかった。現地で長州はメキシコのトップ選手であるエル・カネックを破って、UWA世界ヘビー級王座を奪取して、勇躍凱旋帰国した。しかし、団体内での“序列”は変わるものではなかった。時は82年10月8日、東京・後楽園ホール。長州はアントニオ猪木、藤波辰巳(現・辰爾)と組み、アブドーラ・ザ・ブッチャー&バッドニュース・アレン&SDジョーンズと対戦した。 入場時、今まで通り、長州は藤波より前を歩き、リングアナのコールは藤波より先。プロレスでは格上が後ろから入場し、選手コールは後にされるのが慣例。メキシコで実績をつくって帰ってきたのに、なんら変わらない団体の扱いに、長州は「切れた」のだった。 試合中にもかかわらず、長州は藤波に食ってかかり、下剋上。当時、マスコミでは「藤波、俺はオマエの噛ませ犬じゃない」と発言したとして、2人の抗争が勃発。後に、長州は「このままでは絶対にこいつより上に行けない。絶対に、俺の方が上だと思っていた」といった主旨の発言をしている。 2人の闘いは“名勝負数え歌”として、後に語り継がれることになり、一介の中堅レスラーにすぎなかった長州は一気に大ブレイク。革命軍、維新軍を結成して、2人のライバルストーリーは、新日正規軍との軍団抗争に発展した。今でこそ、日本人による軍団同士の闘いは当たり前となっているが、正規軍と維新軍による抗争は当時のプロレス界では画期的で大ヒットとなった。“革命戦士”と称された長州は時代の寵児となり、金曜夜8時に放送されていた「ワールドプロレスリング」(テレビ朝日)は常に視聴率20%を超え、興行的にも満員御礼が続いた。 その後、長州は84年、新日本を離脱し、新団体ジャパン・プロレスに参画し、ライバル団体の全日本に事実上移籍した。しかし、長州は87年、全日本との契約を解除し、新日本に出戻った。ライバル・藤波との立場は対等となり、長州は団体の象徴であるIWGPヘビー級王座を奪取したり、猪木を破ったりして、文字通り、新日本のトップに君臨することになり、復帰は成功だったといえる。だが、紛れもなく、長州が最もギラギラと輝き、プロレスを見ていた者たちを熱く燃えさせてくれたのは、藤波に牙をむき体制に反旗を翻した82年〜84年のあの頃であったのは間違いない。 基本的にマスコミには一切媚を売らず一線を画して、ファンサービスにも無縁だった長州が、後にバラエティー番組で活躍するとは、いったい誰が想像したか? 60歳をすぎても、なおリング上がっただけで、その発するオーラはただならぬものがある長州。その現役生活は残り少ないものであろうが、限られた時間のなかで、そのファイトをファンの目に焼き付けてほしいものだ。(ミカエル・コバタ=毎週水曜日に掲載)
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スポーツ 2015年03月25日 13時00分
俺たちの熱狂バトルTheヒストリー〈ジャイアント馬場vsスタン・ハンセン〉
1981年5月、アブドーラ・ザ・ブッチャーの移籍に端を発した新日本VS全日本の“引き抜き合戦”。だが、一口に引き抜きと言っても両者の内情は大きく異なっていた。 「言うならば“行き当たりばったり”だったのが新日本です。ブッチャーとの契約は、当時タイガーマスクの版権絡みで関係の深かった梶原一騎の関係者からの紹介を受けたもの。ブルーザー・ブロディにしても、全日本と契約でもめていたのを知ってから手を出しただけ。いずれも新日としての長期的な展望や戦略があったわけではありません」(スポーツ紙記者) ところが、全日本は違った。ブッチャー移籍の直後には、まず新日の悪役エース、タイガー・ジェット・シンを獲得したが、これはブッチャーの抜けた穴を埋めて陣容を整えるためだけのこと。あくまでも本命は“その次”にあった。ブッチャーの新日登場から半年が過ぎた'81年末。最強タッグリーグの決勝戦という最高の舞台に、ブロディ&スヌーカ組のセコンドとして登場したスタン・ハンセンである。 「その直前まで新日のシリーズに参戦していただけに、ファンはもちろん関係者の多くも全く予想していなかった。何しろブロディですらギリギリまで知らされていなかったというほどの極秘事項だったのです。ブッチャー引き抜き事件の直後には既にハンセンと接触していながら、最も効果的な登場のタイミングをしっかりと計っていたわけです」(同・記者) 新日に特大のダメージを与えると同時に、全日のエース外国人として育て上げる。綿密な計画の下に準備された引き抜き劇だったのだ。 その結果、ハンセンの移籍は全日、新日双方のファンに強烈なインパクトを与えることになった。 新日では既に猪木を凌駕したとの評もあり、善悪の枠を超えた人気を誇っていたハンセンが一体、全日のリングでどんな試合を見せるのか−−。そんな期待感と同時に、一種の戸惑いを覚えるファンも少なくなかった。 「ハンセンとやったら、馬場は殺されるんじゃないか?」 ハンセン初登場時の乱闘で、馬場はハンセンをチョップで撃退するなど互角に渡り合ってみせたものの、それでも不安はつきまとった。 当時の馬場は同年春のチャンピオンカーニバルで優勝を果たすなど、まだまだ一線級にはあったが、しかし、そのスローモーな動きをお笑いのネタにされるなど衰えも顕著だった。ブロディら大型選手とも互角の闘いぶりを見せてはいたが、ハンセンはそれらとは異質な存在。ブレーキの壊れたダンプカーとも評されるそのスピードとパワーを兼ね備えたブルファイトは全日にはなかったもので、しかも全盛期を過ぎた馬場が相手では試合のリズムから何から到底かみ合うようには思えなかった。 そんな期待と不安の中で迎えた翌年2月の初対決。“圧倒的ハンセン有利”の下馬評を覆し、馬場は試合開始早々から伝家の宝刀16文キックで攻勢に出る。 ハンセンも持ち前の荒々しいファイトで応戦するが、腕折りの連発など馬場のペースで試合は進み、ついには32文ロケット砲までも炸裂。 10分を過ぎたあたりでハンセンもラリアットを繰り出したが、これはロープ際で両者場外に転落。もみ合う中、レフェリーのジョー樋口が巻き込まれたところで試合は終了となり、12分39秒、両者反則の引き分けに終わった。 新日時代と変わらぬハンセンのスタイルと、これに闘志むき出しで対抗した馬場。初対戦での白黒こそはつかなかったが、両者の闘い模様は予想外の好勝負となり、同年のプロレス大賞(東京スポーツ新聞社制定)で年間最高試合賞を受賞することになる。 既にこのころには鶴田への“主役禅譲”を視野にマイペースな試合ぶりの目立っていた馬場が、真正面から闘ってみせる。これこそハンセンへの精一杯のもてなしであったともいえよう。 ハンセンもまた、そんな馬場の心遣いに応えるかのごとく、馬場との抗争の後も鶴田、天龍らのライバルとして、またキャリア晩年には若手の壁として、引退の時まで全日にその身を捧げることになった。
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社会 2015年03月22日 16時00分
仕手筋集団の強制捜査で急浮上した捜査当局が狙う“政界資金ルート”
ここにきて、兜町が大揺れに揺れている。3月11日に証券取引等監視委員会は、株式サイト『般若の会』の関連施設を証券取引法違反(風説の流布)の疑いで急襲。強制捜査に踏み切ったが、同捜査の目的が「政界資金ルートの解明にある」との憶測を呼んでいるからだ。 兜町関係者がこう話す。 「捜査を受けたのは、かつて“兜町の風雲児”と呼ばれた加藤(あきら)氏(73)が運営するサイトの関連施設です。同社は'11年にサイトに『新日本理化が大相場になる雲行き』と書き込み、当時274円だった株価を5倍に暴騰させて売り抜け、約1億5000万円を稼いだ疑いがもたれている。同社周辺に蠢く投資家らが儲けた利益総額は、50億円ともいわれているのです」 ちなみに、風説の流布では、元ライブドアの堀江貴文氏も実刑判決を受けたことがあるが、4年も前の容疑で証券取引等監視委員会が捜査に踏み切るのはなんとも不可解。そのため、今回の捜査には裏があるとの見方が浮上している。 経済部記者がこう語る。 「証券取引等監視委員会は、加藤氏の親類筋を含む4人を対象に強制捜査を行ったが、一説には仕手行為に重大関心を示した東京地検が、証券取引等監視委員会にガサを依頼したとの話も飛び出している。狙いは加藤氏が仕手戦で莫大なカネを儲けさせた政財界や闇社会、中国筋の投資家リストにあるとも言われている」 もっとも、こうした怪情報が飛び交う裏には見逃せない事情があるという。それが、疑惑を深める加藤氏の経歴だ。 「実は加藤氏は、かつて数千人の会員を有した『整備グループ』という仕手集団の代表で、'81年に所得税法違反容疑で東京地検特捜部に逮捕された過去がある。当時、特捜の狙いは株操作で莫大なカネを得た政財界や闇社会、中国人投資家への資金の流れだったが、この時に加藤氏は完全黙秘を貫いた。そのため、今回の捜査は特捜のリベンジだといわれているのです」(同) もしもこれが事実なら、「献金疑惑」にまみれた安倍政権に、さらなる爆弾が破裂する可能性も高いのだ。
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その他 2015年03月05日 14時00分
話題の1冊 著者インタビュー 佐山聡 『「リアル不動心」メンタルトレーニング』 講談社+α新書 840円(本体価格)
−−初めての新書の刊行となりましたが、武道などの実技を紹介する本ではなく、どちらかといえばビジネスマン向けの新書というのは意外に思われます。きっかけは何だったのでしょうか? 佐山 私は、ビジネスプロデューサーの道幸武久さんとともに『リアル不動心セミナー』を開催していて、そこには40〜50代のサラリーマンの方も多くいらっしゃいます。皆さん、会社ではリーダー、あるいは中間管理職として、家庭では父親として、さまざまなストレスに直面している。しかも皆、若いころにタイガーマスクとしての私を応援してくださった方々です。そうした、悩みの多いかつてのファンの方々に初代タイガーマスクとして私のメンタルトレーニングのメソッドをお伝えし、少しでもストレスの緩和に役立てていただくことで恩返しができないか、そう考えたのが今回の出版のきっかけです。 −−本書のタイトル「リアル不動心」メンタルトレーニングからは、失礼ながら、格闘の世界での精神鍛錬法かと想像していましたが、読了後、精神医学や歴史、社会学などへの佐山さんの造詣の深さに驚かされました。 佐山 本当の意味での不動心、リアル不動心を身につけるためには、ハウツーだけではダメなのです。どのように自分の精神状態をコントロールするか、という“技術”は、それぞれの人間の無意識が土台となる中で機能します。無意識の中でも、自分の深層心理に根差した『普遍的無意識』が揺らぐと、どんな逆境でも冷静に、というわけにはいきません。『普遍的無意識』というのは、その人がどういう思想を持っているか、何を善悪の規範にしているか、そうしたもののよりどころとなる“歴史観”を、しっかりと身につけていないと、いざというときに揺らいでしまうからです。正しい歴史観を身につけ感情をコントロールする『内環変換法』を駆使することで、絶対に正しいもの、すなわち『良知』を見いだすことができる。あとは『良知』を追究することで『リアル不動心』は身につきます。 −−一般の読者には、なかなかそこまでの高い精神レベルまですぐに到達するのは困難なようにも感じますが、本書の中では、もっと簡単なメントレ法もご紹介いただいています。 佐山 1日5分で結構ですが、瞑想をお勧めします。額の力を徐々に抜いて、眉間の筋肉をスーっと弛緩させる。しっかり呼吸して心を整える。職場や家庭で緊張感に襲われたときには、ぜひ実践してみてください。(聞き手:原元義)佐山聡(さやま さとる)1957年、山口県生まれ。武道家。'75年、新日本プロレスに入門し、初代タイガーマスクとして活躍。その後、自身の体験より生み出した武道「掣圏真陰流」を提唱する。
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その他 2015年02月14日 18時00分
舞踊家・佳卓(よしたか)早春特別公演は現代音楽と日本舞踊の融合!
現代ミュージックと日本舞踊の融合だ。舞踊家で佳卓流家元の佳卓(よしたか)が8日(日)、東京・日本橋の三越劇場で「佳卓(よしたか)早春特別公演2015」を行った。佳卓は1980年、鹿児島県生まれの34歳舞踊家。2歳での初舞台時には「薩摩のチビ玉」と称されたことも。堀越高校卒業後の99年、創作新日本舞踊佳卓流を立ち上げた。古典に根ざした高い技術を持つ踊り手でありながら、演歌や民謡、オペラなどと意欲的なコラボレーションで高評価を得ている、通称「和流の貴公子」だ。 スラリとした佇まいの女形で登場し現代ピアノとの舞踊コラボから始まった公演は、民謡、昭和歌謡をバックの舞踊へと流れる。ラストには昨年、徳間ジャパンから歌手デビューした演歌「女蝉(おんなぜみ)」を熱唱した。舞台後の囲み取材で佳卓は「ピアノ、洋楽、民謡、箏曲、歌謡曲、それから私の持ち歌(演歌)と、いろんなジャンルの音楽とのコラボで斬新な舞台を、三越劇場という場所でお見せできたのは感慨深い」と語った。 なお、佳卓は、2月26日(木)に東京・豊島区の南大塚ホールで開催される「南大塚笑劇場 みんかよ音楽祭」への出演が決定している。 ■佳卓公式サイト http://yoshitaka.net/■「佳卓 早春特別公演2015」演目(演出:砂守岳央/佳卓)1. オープニング2. 端唄 松の栄3. 伊勢音頭〜祝い唄〜正調伊勢音頭4. すみだ川5. 大江戸出世小唄6. 祝い目出度7. さくらさくら〜さくら変奏曲8. SE神輿〜お祭りマンボ9. SE祭囃子〜日本橋から10.エンディング 日本全国○○音頭11.打ち出し12.女蝉
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スポーツ 2015年02月11日 15時00分
俺たちの熱狂バトルTheヒストリー〈アントニオ猪木vsウィレム・ルスカ〉
モハメド・アリとの格闘技世界一決定戦をぶちあげたアントニオ猪木。その前に立ちはだかったのがウィレム・ルスカであった。1972年ミュンヘンオリンピックの重量級&無差別級金メダリスト。これまで五輪柔道において、同一大会で2階級を制覇したのはルスカただ一人であり、その意味において、史上最強の柔道家と称しても決して過言ではないだろう。 柔道との出会いは10代も後半と遅かったが、生まれ持った強靭な肉体と人並み外れたパワーをもって一足飛びに頂点にまで上り詰めた。 「俺を差し置いて格闘技世界一などとは、しゃらくさい」と猪木アリ戦に割り込んだルスカ。そんな勇ましい宣言にふさわしいだけの実力と実績があったことに疑いの余地はない。 だが、その試合の契約書には「猪木に勝ってはならない」との条項があった。決して「格闘技最強」を目指したわけではなく、ファイトマネー目当ての参戦だったのだ。 ルスカと同じオランダ出身の柔道金メダリストに、東京五輪無差別級のアントン・ヘーシンクがいる。そのヘーシンクが国民的英雄として讃えられた一方で、ルスカが生活に困窮するまでに至った理由の一つには所属団体の違いがあった。主流派のへーシンクに対し非主流派のルスカは競技引退後、酒場の用心棒に身をやつしたりもしたという。 では、そうした経緯で行われた猪木とルスカの“プロレス”が“真剣勝負”ではないから価値がないのかといえば、決してそうではない。むしろ猪木の数多くの試合の中でも上位に挙げられる名勝負といえよう。 1976年2月6日、日本武道館。後に続く異種格闘技戦の第1戦−−。試合開始早々からルスカは払い腰で何度も猪木をリングに叩きつけ、裸締めや袈裟固め、腕十字で攻め立てる。対する猪木も柔道にはないエルボーやナックルパートの打撃技で逆襲すると、リング中央、コブラツイストで締め上げてみせる。 一進一退の攻防の続く中、倒れたルスカの頭部に容赦なく蹴りを放った猪木。これに対して怒ったルスカが柔道着を脱ぎ捨てると、その北欧人独特の白肌は真紅に染まっていた。 この試合前、ルスカは同門のサンボ王者クリス・ドールマンを伴って新日本プロレスの道場に出向き、猪木と手合わせをしたという。 「猪木の真剣勝負はアリ戦とパキスタンでのアクラム・ペールワン戦、韓国でのパク・ソンナン戦の計3戦だけ」などとまことしやかにいわれるが、その一方で「結果は決まっていても試合自体はナチュラルだった」との関係者の証言も多い。試合展開の筋書きを完全に作り上げることは猪木自身が好まなかったし、弟子たちにもやらせなかったというのだ。 そんな猪木が予行演習までしたというのだから、それほどにこのルスカ戦は、アリ戦に向けて決して失敗することのできない試合であり、猪木からしてみればこれこそが“真剣勝負”だったともいえるだろう。 そして、そんな猪木の意気込みは見事に成就する。バックドロップ3連発でルスカをTKOに下すまでは見せ場の連続。20分35秒というプロレスとしてはいささか長めの試合中、観客はひとときも飽きることなく歓声を送り続けることになった。 “結果が決められていない”という意味での真剣勝負、アリ戦と比べてみたときに、どちらの価値が高いかとなると意見も分かれようが、試合中の観客の熱狂度合でいえば明らかにルスカ戦が上回っていた。 大目標であるアリ戦の前に突如現れた大物刺客・ルスカ。これを見事討ち果たし大舞台へのステップを一段上がった猪木。 そんなストーリーラインから試合内容まで、全てが完璧にそろったという点で、やはり猪木vsルスカは日本格闘興行史でも屈指の名勝負といえよう。 激闘の末にバックドロップに沈んだルスカを見て、リングにタオルを投入したのはセコンドに就いたドールマンであった。そのドールマンは後に「オランダ格闘技界のドン」と称され、前田日明のRINGSを盛り立てるなど格闘史にページを刻むことになる。 アントニオ猪木とウィレム・ルスカ。それぞれの格闘遺伝子は、今なお脈々と受け継がれている。
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芸能ニュース 2015年01月20日 11時45分
赤井沙希が女子で“史上初”の「プロレス大賞」新人賞を受賞 「世間にプロレスをアピールしたい!」
「2014年度プロレス大賞」(東京スポーツ新聞社制定)授賞式が1月19日、都内のホテルで行われ、タレント兼プロレスラーの赤井沙希(27=オスカープロモーション所属)が新人賞を受賞した。 「プロレス大賞」は今回で41回目を迎える歴史と伝統ある賞だが、女子選手が新人賞を受賞するのは史上初の快挙だ。 13年8月18日、DDT・両国国技館大会で正式にプロレスデビューした赤井は、同団体のリングを主戦場にファイトし、昨年は“怪物”アジャ・コングとも対戦。同年12月23日には、スターダム・後楽園ホール大会で、“女番長” 世IV虎が保持するワールド・オブ・スターダム選手権に挑戦して敗れたものの肉薄するなど、着実にステップを踏んできた。 「プロレス大賞」選考委員会では、赤井のプロレスラーとしての成長はもちろんのこと、タレントの立場から、業界外にもプロレスの啓もうに尽力した努力が、新人賞に値すると評価されたものだ。 プロレス界では、初の賞獲りとなった赤井は、「五輪の女子レスリングの選手や新日本プロレスの有名な選手と一緒で、恐縮であり、身が引き締まる思いです。女子から、『赤井沙希のようになりたい』と思ってもらえるような選手になりたい」とコメント。 今後については、「プロレス界に何か貢献したいです。プロレス界以外の世間にどんどんアピールして、発信していきたい」と語った。 また、3年ぶり3度目のMVPを受賞した棚橋弘至(38=新日本プロレス)は、全受賞者を代表し、壇上で「この場に立てることを誇りに思います。ファン、関係者がプロレスを誇れる時代にしたい」とあいさつ。 90年にMVP、年間最高試合賞の2冠に輝いた大仁田厚は、敢闘賞を受賞。91年の殊勲賞以来、23年ぶりの受賞で、「プロレス大賞」の主要な賞を57歳で受賞するのは最年長記録となった。(ミカエル・コバタ)<「2014年度プロレス大賞」受賞者>☆MVP 棚橋弘至(新日本プロレス)☆年間最高試合賞 オカダ・カズチカ(新日本プロレス)対中邑真輔(新日本プロレス)=14年8月10日、西武ドーム 「G1クライマックス」決勝戦☆最優秀タッグチーム賞 杉浦貴(ノア)&田中将斗(ZERO1)☆殊勲賞 石井智宏(新日本プロレス)☆敢闘賞 大仁田厚(フリー)☆技能賞 B×Bハルク(ドラゴンゲート)☆新人賞 赤井沙希(オスカープロモーション)☆功労賞 田上明(ノア)、佐々木健介(ダイヤモンド・リング)☆レスリング特別表彰 登坂絵莉(至学館大)、吉田沙保里(ALSOK)、浜田千穂(日体大)、伊調馨(ALSOK)