新日本
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スポーツ 2014年07月08日 11時00分
俺達のプロレスTHEレジェンド 第29R 日本マット界に定着する“マシン文化”〈スーパー・ストロング・マシン〉
維新軍にUWF軍、立て続けの大量離脱でまともなアングルも組めなくなった1984年当時の新日本プロレス。そのころ、東スポで新日を担当していた永島勝司記者(後に新日取締役)は、書店の軒先に山積みされたコミックの単行本に着目した。 「何だか知らないけどプロレスっぽいし、人気みたいだから、これがいいんじゃないか?」 そんな思い付きからスタートした“キン肉マンデビュー計画”であったが、版権問題をクリアできずに頓挫してしまう。 「当時キン肉マンのアニメは日本テレビで放映していて、全日本プロレスと日テレの関係から考えても新日でキン肉マンデビューなんてことはあり得なかった」(当時を知る新日関係者) それでもギリギリまで交渉は続けられ、「近々、謎のマスクマン登場」とリングに上がり前宣伝まで打ったものの、結局NG。 困ったのは、キン肉マンとして華々しく海外修業からの凱旋デビューを飾る予定だった平田淳嗣だ。 会社としては、あくまでもキン肉マンでいくことを考えていたため、代替のギミックすら決まっていない。結局、マネジャー役の若松市政(現・北海道芦別市議会議員)が前宣伝のときに「こいつはストロングなマシーンだ!」と言ったことから、マスクマンの名前はストロング・マシン(当初はマシーン)となり、平田自らがマスクのデザインにまで参画することになった。 そんな急場しのぎで誕生したものでありながら、ストロング・マシンは一世を風靡することになる。増殖するマシン軍団は、ついにアンドレ・ザ・ジャイアントまで“ジャイアント・マシーン”として登場させるに至った。 これもまた平田が新日を離脱したための窮余の策ではあったが、しかしこのことが“マシン伝説”を強くファンの心に刻むことになった。 なお、アンドレは日本同様このジャイアント・マシーンの姿で、マスクド・スーパースター改めスーパー・マシーンとともにWWFにも登場している。 その後もマシン軍団は各所で増殖を続け、安生洋二が“200%マシン”を登場させれば、同じUインター出身の桜庭和志はこれを模したマスクをかぶって総合格闘技PRIDEのリングに臨んだ。他にもNOAHの選手たちまでが同様マスクを着用するなど、今に至ってなお“マシン文化”は日本のプロレス&格闘界にしっかりと定着している。 なぜ思い付きで始まったはずのストロング・マシンが、そこまでウケることになったのか。 「マスクのデザインはシンプルで、しかも目の部分がメッシュ地になっていて顔が見えない。その意味では没個性的なんですが、だからこそ、このマスクをかぶった選手はそれぞれが独自の色付けをすることができる。そこが良かったんじゃないでしょうか」(プロレスライター) ちなみに目の部分がメッシュのマスクは世界的にもマシンが最初である。 「さらにオリジナルのマシンの中身が平田というのも良かった」(同) 全日出場時にジャイアント馬場からは「何でもできるが、これといった極め技がない」と器用貧乏扱いを受けるなど、試合自体はマスク同様にどこか没個性的な部分はあった。 「動きや技が特徴的だったならマネする側はその影響から逃れられないけど、平田にはそういうところがない。それでいて実力的にはしっかりしているから、マネしようという選手も出てくるわけです」(同) シングルプレーヤーとしては新日初登場時にはアントニオ猪木や藤波辰爾と、全日でも天龍源一郎あたりと好勝負を繰り広げながらもビッグタイトルには恵まれなかったが、タッグではIWGPやアジアタッグ王座を獲得している。 ジョージ高野との烈風隊やヒロ斎藤らとのカルガリーハリケーンズ、橋本真也とのコンビなど、本来は個性を際立たせるはずのマスクマンでありながら、名タッグチームとしての実績が勝るのも、脇に徹して主役を光らせるという平田らしさを象徴しているのではないだろうか。〈スーパー・ストロング・マシン(平田淳嗣)〉 1956年、神奈川県出身。'78年、新日本プロレス入門。同年デビュー。海外修業から帰国した'84年からマスクをかぶる。'86年、全日プロ参戦。'87年、長州力らと共に新日復帰。現在も限定出場の形でリングに上がっている。
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社会 2014年05月31日 16時12分
アントニオ猪木氏が北朝鮮でプロレスイベントを開催 その独自外交をどう思う?
5月26日〜28日、スウェーデンのストックホルムで、日本と北朝鮮による外務省局長級協議が開かれた。 これを受けて、同29日、政府は北朝鮮が日本人拉致被害者と、拉致された疑いがある特定失踪者について、包括的、全面的な調査を約束したと発表した。北朝鮮が今後、3週間前後で特別調査委員会を設置する。一方、調査開始時点で日本側は、対北朝鮮制裁のうち、人的往来の規制措置など、一部を解除する。 02年9月、北朝鮮が日本人拉致を認め、政府が被害者に認定した17人のうち5人は帰国したが、残り12人の安否は不明のままだ。その後、拉致問題は一向に進展せず、両国間の関係も微妙な空気のまま。今協議で北朝鮮が約束したことを実行するかどうか、見守るしかない。 そんななか、5月19日、かねて北朝鮮とのパイプを持つ参議院議員(日本維新の会所属)でプロレス団体IGF会長であるアントニオ猪木氏が8月30、31日の両日、北朝鮮の首都・平壌で、「インターナショナル・プロレスリング・フェスティバルin平壌」を開催することを発表した。 同イベントは、猪木氏と北朝鮮の国際武道競技委員会委員長の張雄(チャン・ウン)氏が共同実行委員長を務める。会場は2万人の動員が可能な柳京・鄭周永体育館で、プロレス、格闘技の試合、テコンドーの演武が行われ、世界各国から20名程度の選手が参加する予定。 猪木氏は新日本プロレスの協力を得て、95年4月28、29日に平壌で、「平和の祭典」と題したプロレスイベントを開催し、計34万人を動員している。今回、約19年ぶりの北朝鮮でのプロレス興行となる。 「北朝鮮に対して圧力をかけることばかり考え、対話の精神が欠けている。圧力一辺倒で人は動きません」とする猪木氏は、「スポーツ交流を通じた外交」で、両国間に横たわる懸案を解決する方向に向かわせるきっかけとしたい意向だ。 そこで、「Yahoo!ニュース」では、「アントニオ猪木氏の北朝鮮独自外交をどう思う?」との意識調査を、5月20日〜30日に実施。6万1630票(男性=81.5%、女性=18.5%)の回答があった。 その結果は、「賛同しない」が4万8141票(78.1%)で圧倒的多数を占め、「賛同する」は10385票(16.9%)にすぎなかった。「その他/分からない」は3104票(5.0%)だった。 「賛同しない」に回答した人の大多数は、「私人としてならともかく、国会議員の公人の立場でやることではない」といった趣旨の意見であった。 3カ月後に迎える同イベント。果たして、両国間の関係良好化の一助になるのか? (リアルライブ編集部)
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スポーツ 2014年05月30日 15時30分
浮気の代償は大きかった! 新日本プロレスのタイチが不倫相手との騒動で処分へ
浮気の代償はあまりにも大きかった! 新日本プロレス所属のタイチ(34=本名・牧太一郎)が、交際していた女性とのトラブルが元で同団体から処分されることになった。 タイチは独身ではなく、KAIENTAI-DOJO所属の元女子プロレスラーの「お船」と結婚しているが、既婚者でありながら、ファンの女性と交際していた。 5月下旬に別れ話となったが、そのもつれから、女性が26日から、タイチとの抱擁、キス写真や、「LINE」上での露骨な文面をインターネット上に暴露。 このウワサはまたたく間に拡散し、28日に同団体が事情聴取したところ、ネット上に流布している件について認めたため、同団体は公式ホームページで「今後、さらに詳細な事実関係を調査・確認の上、タイチ選手に対し、然るべき処分を行いたいと考えております」と発表した。 同団体では、エース格の棚橋弘至が02年11月に別れ話のもつれから、交際女性に背中を刺され重傷負うトラブルがあった。棚橋は“二股交際”していたともいわれたが、当時は独身。今回のタイチの場合は既婚者だけに、ファンの女性との火遊び発覚には、大きな代償を支払わなければならなくなったようだ。 タイチは80年3月19日生まれ、北海道石狩市出身。02年に全日本プロレスに入門し、同年12月に石狩太一のリングネームでデビュー。05年2月、同団体を退団しフリーとなり、さまざまな団体でファイト。09年に新日本に入団し、リングネームをタイチに改めた。13年10月には、TAKAみちのくとのタッグで、IWGPジュニアタッグ王座にも君臨している。現在は、ヒール軍団の鈴木軍で、“世界一小ズルい男”として活躍していた。(落合一郎)
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スポーツ 2014年05月29日 11時00分
俺達のプロレスTHEレジェンド 第23R 実力に人気が追い付いた“テロリスト事件”〈藤原喜明〉
明かりの落ちた体育館。これから行われる藤原喜明vsキラー・カーンの試合を見届けようと、レスラーたちが一人、また一人と控室を抜け出してきて、観客席後方の壁際にその顔を並べた。テレビ中継もない地方大会での一幕−−。 「その試合が行われたのは1983年3月23日の山口県立体育館。“アンドレの脚を折った男”として勇躍凱旋したカーンはもちろん当時のトップクラスだったし、一方の藤原はいち前座。その藤原が前夜、旅館での選手そろっての夕飯の席において、カーンに対し『強くもないくせに』と毒付いたんだ。酒の勢いもあったんだろうけど、年齢的にも後輩である藤原からそんなことを言われたのではカーンとしても黙っていられない。互いに『この野郎!』ともみ合いになった。たまらず猪木が『だったらリングの上でやってみろ!』と両者に告げ、翌日急きょ試合が組まれることになったんだ」(当時を知るスポーツ紙記者) 試合は当然ガチンコで、藤原が一方的に関節地獄に引き込むと、カーンは防戦一方になってしまった。これを見かねた長州力とマサ斎藤が乱入すると、カーンの反則負けとして試合の幕は引かれた。 まだ“テロリスト”として注目される以前、地味な前座にすぎなかった藤原がスター選手のカーンを手玉に取る様子を見て、当日会場に詰め掛けたファンたちは一体どんな感想を抱いただろうか。 「ただ、ファンにはあまり知られていなかったとはいえ、道場での藤原の強さは際立っていたから、選手たちからすれば当然の結果ではあった」(同・記者) その技術の高さゆえに、格闘技戦前には猪木の練習パートナーを、また海外遠征時にはボディーガード役までも務めた。当時は新日道場へ“道場破り”が来ることもしばしばあったが、その相手を務めたのも決まって藤原だった。 藤原の実力を示す逸話としては「入門から10日でデビュー」というものもある。新日入門の以前から元レスラーのジムに通い、プロレスラーとしての基礎練習を積んでいたとはいうが、それでもしょせんは素人のマネ事。簡単に現実のリングに対応できるものではない。 それでいて新日がデビューを認めたのは、それだけの実力を練習の中で見せていたからに違いない。モハメド・アリ戦の直前練習の際には、ボクシングはほぼ初体験だったにもかかわらず、本職相手にジャブでグラつかせる場面もあり、アリからボクサー転向のスカウトを受けたとの話もある。 その来歴や風貌もあって“努力型”とか“苦労人”と見られがちな藤原だが、実際はこのエピソードのように天才的な面を持ち合わせていたのだ。総合格闘技ブームのころ、藤原本人は「自分にはテイクダウンの技術がないから」と謙遜気味のコメントを残しているが、天才ゆえに「本気で取り組めば何とかなったかも」との幻想も抱かせる。 そんな藤原のブレイクスルーは、言わずと知れた、1984年の“札幌テロリスト事件”である。 ただ、もともとこれは藤原売り出しのために企図されたものではなく、第一義はあくまでも“名勝負数え唄”といわれた長州vs藤波のマンネリ打破にあった。 「猪木さんが、試合前夜に突然、『毎度同じようなことをやってもつまんねえだろう』と、独断でこれをぶち壊すことにしたんだ。そのとき乱入させる選手は誰でも良かった。ミスター高橋の本では小杉俊二が最初の候補だったと書いてあったけど、俺は木戸修だったと聞いている。とにかく藤原が選ばれたのは偶然の結果だった」(新日プロ関係者) しかし、それが藤原にとっては幸甚となった。 とりわけ影響が大きかったのは、古舘伊知郎の“テロリスト”なる命名だ。これにより猪木の思い付きにすぎなかった乱入劇が明確な輪郭を持ち、なおかつ藤原個人のキャラクターも際立たせることになった。 その後も、UWFにおいては主役の一端を担い、また『藤原組』としては(直前に崩壊したSWSの代替開催ではあったが)東京ドーム大会まで開催した。地味で無口な仕事人が、タレントとしてテレビ等にも活躍の場を広げていった。 一度のチャンスをしっかりモノにするだけの実力が備わっていたからこその成功ではあったが、それでもやはり、人生とは不思議なものだと思わずにはいられない。〈藤原喜明〉 1949年、岩手県出身。会社員や板前を経た後、'72年、新日本プロレス入門。'84年、長州力への花道での暴行をきっかけにブレイクすると、同年旗揚げされたUWFに参画した。レスラー以外に俳優、タレントとしても活躍。
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スポーツ 2014年05月01日 11時00分
俺達のプロレスTHEレジェンド 第20R 日本オリジナルの獰猛なる狂虎〈タイガー・ジェット・シン〉
日本のプロレス界における三大悪役外国人選手といえば、アブドーラ・ザ・ブッチャーにザ・シーク、そしてタイガー・ジェット・シンとなるだろう。いずれの選手も反則攻撃を主にするという点では共通するが、そんな中でもシンだけは“動ける”ことが一種の持ち味であった。 一つひとつの攻撃がスピーディーでありながら、反面でグラウンドの攻防もできるから、試合に緩急があって単調にならない。激しく凶器攻撃を仕掛けたかと思えば、一転してコブラクローや首四の字固めでジックリと締め上げ、それが観客からするとさらにイラ立ちを募らされることになる。だからこそ、猪木との遺恨マッチは多大なる人気を博し、1973年からの9年間で都合37回にも及んだ。 それでも観客に飽きられるどころか、試合を重ねるごとにヒートアップしていったのだから、よほど両者は手が合ったのだろう(ちなみに勝敗は猪木から見て23勝7敗7分け。猪木が大きく勝ち越しているが、その多くは反則裁定によるものである)。 「猪木対シンで有名なのはアームブリーカーでの腕折り事件ですが('74年・大阪府立体育館)、後々にも猪木が初めてコーナートップからミサイルキックを放ったりというように('80年・日本武道館)、新境地が開かれていきました」(プロレス誌記者) シンが住居を構えるカナダにおいて、ビジネスで成功を収めていることは多くのプロレスファンの知るところだが、これも猪木との闘いにおける副産物だったようだ。 「日本へ遠征するたびにケガでボロボロになって帰ってくるシンを見て、奥さんが“いつまでもプロレスができるとは限らないからサイドビジネスを始めてはどうか”と助言したのがきっかけだそうです」(同・記者) 両者の闘いの激しさを伝えるエピソードであり、またシンに金銭面での余裕があったからこそ、日本の試合に向けてコンディションを整えられ、さらに過激な試合に臨めるという好循環にもつながった。 もう一つ、シンが他の悪役レスラーと異なる点は、そのキャラクターが日本オリジナルであった点だ。アメリカやカナダにおいてはベビーフェースとして闘っていたが、シン本人の希望もあって日本ではヒールを務めることになり、それが大当たりとなった。 初来日時、試合の予定がなく観戦するだけのハズのところを、打ち合わせもないままいきなり試合に乱入してみせるなど、もとよりヤル気が違っていた。買い物中の猪木夫妻を襲った『伊勢丹襲撃事件』にしても、そんなシンだからこそ成立し得たものであった。 「今ではこの事件も“筋書きがあった”とミスター高橋などが証言していますが、それでも白昼に路上で凶行に及んだら、一般からの通報によって逮捕される危険性もあったわけです。衆人環視の中で形ばかりの暴行であったなら、かえって白眼視されることにもなったでしょう。シンが逮捕を恐れず、全力で襲撃をやり遂げたからこそ、このアングルが話題になったのです」(新日関係者) あまりにも猪木との闘いが印象的だったせいなのか、全日本への移籍後はどこかパッとしなかった。 「馬場や鶴田など重厚感ある選手との対戦となると、シンの素早い動きが逆に軽く見えるというところはあったでしょう。また、初登場時にはサーベルではなく棍棒状の凶器を持って乱入するなど、全日側が意図的に新日色を消そうとしたのもマイナスでした」(前出の記者) トレードマークのサーベルは後に復活するが、同時期に移籍したスタン・ハンセンの人気もあって、シンの扱いは決して良いものではなかった。輪島大士のデビュー戦などは、反則攻撃で流血させることもなく、そのドンくさい攻めを受けて花を持たせるばかり(結果は両者反則)。年齢によるものか、新日時代と比べて明らかに腹が出るなど、コンディションも芳しくなかったようだ。 しかし、そこで終わらないのがレジェンドである。その後、新日に復帰、さらにはインディーズへも出場するようになると、動きこそは全盛時に及ばなかったが、その分凶悪さを増し、大仁田厚、小川直也、曙、ボブ・サップらのビッグネームを、次々と血だるまにしていったのはさすがの一言であった。〈タイガー・ジェット・シン〉 1948年、インド出身。'73年、新日本プロレスに初来日。猪木との幾多の対決の後、'81年、全日プロへ移籍。'90年に新日プロに復帰し、以後FMW、IWAジャパン、ハッスルなどインディー団体のリングにも上がっている。
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スポーツ 2014年04月16日 11時00分
俺達のプロレスTHEレジェンド 第18R 日本育ちのアメリカンヒーロー〈ハルク・ホーガン〉
“ハルク・ホーガンは日本のプロレス界が育てた”というのは、とりわけ新日本プロレスファンにとっての誇りであった。 初来日時、既にWWF(現WWE)では王者ボブ・バックランドに何度も挑戦し、またアンドレ・ザ・ジャイアントとの対戦ではボディスラムで投げ飛ばすなどトップクラスの実績を残していた。そんな“インクレディブル(信じられない)”ハルク・ホーガンは、新日でも当初からMSGシリーズの特別参戦と、トップ級の扱いではあった。 だが、そのリング上での動きはというと、はっきり言って怪力頼りのデクの坊。初見で「日本では通用しない」タイプの選手と感じたファンも多かった。 それがいつしかグラウンドの攻防もこなすなど徐々に技術の向上を見せ始めると、試合でも猪木とのコンビでMSGタッグリーグ優勝、さらにはIWGP優勝と順調にポジションアップを果たしていった。 今で言うなら、昨年末の紅白に松田聖子とデュエットで出場した歌手のクリス・ハートのようなもので、デビュー前にはやはり日本人であるヒロ・マツダに師事し、テクニックもパフォーマンスも日本で学んだ“親日外国人”というのがファンたちの認識であった。 そんなホーガンが「イチバ〜ン!」と叫べば大歓声で応え、映画『ロッキー3』に出演すれば、まるで日本のプロレスが世界に認められたかのようにうれしく思ったりもした。 だが、1983年、WWFの全米侵攻の際にトップとして迎え入れられたホーガンは、そのうちに日本のリングと疎遠になる。 単にスケジュールの都合から来日できなくなったというだけでなく、映像で見掛けるアメリカでの戦いぶりも、日本でのそれとは全く異なる大味なものへと変容していった。 日本において決め技とされたアックスボンバーは、ただのつなぎ技とされ、フィニッシュは“ハルクアップ”からのレッグドロップ。勝利後のマッスル・パフォーマンスが、当時ホーガンの最大の見せ場であった。 完璧なスーパースターを演じ切るその姿は、日本のファンもアメリカと同様に、笑顔で歓声を送りたくなる魅力にあふれてはいた…。しかし、そこにいるのは日本で育ったはずの“超人”でも“現代に蘇ったネプチューン”(by古舘伊知郎)でもない、華美な衣装を身にまとうアメリカンヒーローの“アイコン”であった。 '87年の『レッスルマニア3』で主役を担ったホーガンが、アンドレとのメーンイベントで史上最多9万人以上の大観衆を集めたと聞いても、それは「日本に関係ない他の国の出来事」でしかなかったのだ。 そんなアメリカマット界の頂点に立ったホーガンが、'90年4月13日、久々に日本のリングに登場することになる。 東京ドームで行われたWWF、全日、新日合同興行『日米レスリングサミット』のメーンイベント。対戦相手は新日時代からの盟友であり、長きにわたって日本のトップに立ち続けたスタン・ハンセン。 当初はテリー・ゴディが予定されながら、前売り券が伸びなかったため急遽ハンセンに変更したともいわれるが、これはファンにとって願ってもないことで、当日は5万人を超える大観衆が押し寄せた。 いよいよメーン。会場には『サンライズ』に続いて『リアル・アメリカン』が流れる。花道のホーガンはアメリカでおなじみのサングラスとバンダナではなく、タンクトップにハチマキというシンプルなコスチューム姿であった。 ゴングが鳴ると同時に、ホーガンはロックアップから身体を回転させての腕絡みを披露すると、続いてカニバサミでハンセンの足を取って倒し、バックに回って攻め立てる。さらにコブラツイストでハンセンを締め上げ、場外戦へなだれ込むと、互いに額から大流血。グラウンドでの攻防に流血のラフファイト、いずれもアメリカではめったに見せない姿である。 フィニッシュもレッグドロップではなく、アックスボンバーを豪快にたたき込んでから見事にフォールしてみせた。 この日のホーガンはアメリカンヒーローではない、紛れもなく日本で育った「イチバ〜ン!」のハルク・ホーガンであった。〈ハルク・ホーガン〉 1953年アメリカ出身。'77年、覆面レスラーのスーパー・デストロイヤーとしてデビュー。ハルクをニックネームとして'79年、WWF参戦。初来日は'80年の新日本プロレス。以後、米国で転戦し、トップスターとして活躍した。
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スポーツ 2014年04月04日 11時00分
俺達のプロレスTHEレジェンド 第16R 類稀なるプロレスセンスの持ち主〈藤波辰爾〉
藤波辰爾が昭和レジェンドレスラーのひとりであることは間違いない。 では、その藤波の全盛期がいつ頃で、ベストバウトはどの試合か−−そうなった途端に議論百出。ファンの間でも大きく意見が異なるのではないか。 「ジュニアヘビー王者時代こそが至高」 「いや、長州との名勝負数え唄だろう」 「師匠・猪木超えを果たしたIWGPタッグ決勝だ」 他にもNWA世界ヘビー級王座の戴冠やG1クライマックス制覇等々あって、どれか一つを選ぶとなると、これがなかなか難しい。だが、一つを選べないということは、逆に言えば、際立って「これ!」と特筆するべきエピソードを欠くということでもある。 「ライバルの長州などと比べたとき、瞬間的な話題性で見劣りする部分は確かにあったでしょう。だけど、それこそがレスラー・藤波の特性であり強みなのです」(プロレス誌記者) どういうことか。 「プロレスにおいて“相手の力を引き出す”というのは大切な技量で、リック・フレアーやニック・ボックウィンクルなど、歴代の名王者といわれるレスラーたちはそうやって長年トップを張り続けてきたわけです。そして藤波は、それと同じことをベビーフェースとして続けてきたんですね」(同・記者) 王者時代のフレアーやニックは、時に反則を駆使するなどヒール役として挑戦者の引き立て役を務めた。その結果、試合自体は盛り上がっても、フレアーたちへのファンの評価は“ダーティーチャンプ”というものになりがちであった。 また、これが猪木の場合だと、「相手の9の力を引き出して10の力で勝つ」という『風車の理論』にあるように、相手を引き立てつつも最後のオイシイところはすべて主役の猪木が独占することになる。 ところが藤波は、あくまでも正統派として戦いながら自分よりも相手を輝かせ、それでいて脇役に甘んじることなく、自身もトップの座に居続けたのだ。 「そんなレスラーは古今東西を見渡しても、藤波しか思い当たりません」(同) 長州力との一連の戦いはもちろん、UWFとの対抗戦では前田日明との大流血戦で“前田株高騰”に貢献した。IWGP王座を巡る戦いではビッグバン・ベイダーの凄味を際立たせ、G1クライマックス初優勝時の決勝でも、評価を上げたのはむしろ準優勝の馳浩の方だった。 勝敗を超えたところで好勝負を提供し続けてきたからこそトップであり続けたわけだが、決して“常勝”ではなかったために、藤波の力量を低く見積もる声も少なくない。 例えばミスター高橋は、その著書等において、長州との比較で「藤波は弱い」と断言している。恐らくはレスラー同士の間でも、藤波を評価しない向きがあったのだろう。 エル・カネックがWWFジュニアヘビー級選手権試合直前に帰国してしまった“敵前逃亡事件”や、ブルーザー・ブロディによるIWGPタッグリーグ戦決勝のボイコットも、原因の一つとして「藤波に負けるのはNO」という意思があったのではないか、とも囁かれた。そのブロディのドタキャンを受けて代役で試合に臨んだ猪木も、そこでは藤波にピンフォール負けしたが、それはあくまでも「ブロディ不在のアクシデントをリカバーするため」のこと。正式なシングル戦においては、最後の最後まで“猪木超え”を果たすことができなかった。 1988年、藤波は控室で唐突に前髪を切りながら「ベイダーとのシングル戦実現」=“世代交代”を猪木に直訴し、IWGP王座を奪取。ついに『飛龍革命』を成就させた。しかし、その藤波に挑戦者として挑む形となった猪木は、結局“敗戦(世代交代)”を受け入れなかったのだ。試合自体の内容はともかく、結果は60分のフルタイムドローであった。 一方で猪木は、長州に対してはシングル戦で勝ちを譲っているのだから、そこのところの差は大きい。 とはいえ、ドラゴン・スクリューに新たな息吹を与えた武藤敬司や、藤波フリークを公言してはばからない棚橋弘至など、藤波を評価する声が多いのもまた事実。近年その評価はさらに高まりそうな気配である。〈藤波辰爾〉 1953年大分県出身。'70年、日本プロレス入門。'72年、アントニオ猪木の新日本プロレス旗揚げに参加。'99年、新日社長に就任(2004年辞任)。現在は『ドラディション』に所属。旧リングネームは本名でもある藤浪辰巳。
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スポーツ 2014年03月08日 11時00分
俺達のプロレスTHEレジェンド 第13R 世界に認められる究極の職人芸〈リック・フレアー〉
“狂乱の貴公子”リック・フレアー。 さまざまなレスラーのニックネームの中にあって、フレアーのそれほど似つかわしくないものはないだろう。日本のリングでは、一切“狂乱”の素振りなど見せることがなかったのだから…。 「NWA王者となってからのフレアーは、狂乱とは真逆の“職人芸”を披露し続けたレスラーですからね」(プロレスライター) 何しろ“デクの坊”との誹りさえあった輪島でさえも挑戦者に迎え、NWA王座戦を成立させているのだ。そのプロレス・スキルの高さたるや、およそ余人のかなうところではない。 「他にも全日本プロレスでは、谷津嘉章やザ・グレートカブキ、タイガーマスクらとも防衛戦を行っています。とてもタイトル奪取の望めないような面々を相手にして、きちんと見せ場を作り観客を納得させる。挑戦者を実力以上に持ち上げた上で最後はちゃんとタイトルも防衛するのだから、これはもう立派なものです。ただ、長州力のような直線的な選手が相手のときに限っては、フレアーの試合運びのうまさばかりが目立ってしまうのですが」(同ライター) AWA王者リック・マーテルや、IWGP王者藤波辰爾とのダブルタイトルマッチというような、勝敗や展開にシビアなサジ加減が要求される試合が度々組まれたのも、フレアーの“職人技”に対するプロモーターからの信頼があってこそだろう。「絶対に試合を壊さない」という安心感があるから、双方の看板タイトルをかけることもできたのだ。 バックハンドチョップでリズムを作り、脚攻めからの4の字固めというのが定番ムーブ。使う技は限られたものだったが、しかしフレアーの真骨頂は“攻め”よりも“受け”にあった。 デッドリードライブで派手に投げ飛ばされ、コーナーに追い込まれれば「ノー、ノー」と両手を差し出す。大技をくらえば顔面からマットに倒れこみ、コーナーに振られれば身体を一回転させて場外に転げ落ちる…。 惜しむらくはフレアーが王者として君臨していた当時、日本のプロレスファンは“強さ”を求めていたことだ。「フレアーの試合展開は好きじゃない」と語った天龍源一郎に代表される“激しいプロレス”が多くの支持を集めていた。 ジャイアント馬場がNWA王座就任前の試合ぶりから「いずれ天下を取る」と見初めたように、また武藤敬司が「自身のプロレスのベース」とあがめたように、フレアーを高く評価する声も多かったが、しかしそれが直接の人気にはつながらなかった。 フレアーはあくまでもNWA王座戦という“お祭り”における“神輿”にすぎず、伝統あるベルトへの敬意は抱いても、フレアー個人は認めないというのが多くのファンの姿勢だった。 日本のファンのそんなフレアーに対する意識が大きく変わったのが、1995年に行われた『北朝鮮平和の祭典』でのアントニオ猪木戦だった。 既に全盛期を過ぎた老境の猪木を相手にしながら、19万人の大観衆を盛り上げたのは、紛れもなくフレアーのスキルの賜物である。 「今になって、あの試合での大声援を《朝鮮労働党が観客を指導して演出したもの》という声もありますが、トンデモない。その前日までは、盛り上がったのは女子の試合だけ。メーンの橋本真也対スコット・ノートンでも客席が静まり返っていたから、選手たちはみんな焦りまくっていたんです。それが一転してあの大歓声でしょう。あれはフレアーと猪木という2人のスーパースターが呼び起こしたものです」(当時、現地で取材した記者) ショーマンプロレスを批判してきた猪木が、その権化であるフレアーと好勝負を演じたことにもファンは驚かされたものだった。 「ブッキングは、当時新日本プロレスと提携していたWCWエリック・ビショフの推薦によるものでしたが、それをすんなり受けたのだから、猪木さんもフレアーのことを認めていたのでしょう。世界から注目される大一番で、評価しない相手と戦うはずがありませんから」(当時の新日関係者) ショーマンスタイルも究極に達すれば、ストロングスタイルからも認められる存在となるのだ。〈リック・フレアー〉 1949年、アメリカ出身。'73年、国際プロに初来日。以後は全日プロを主に、NWA王者として数多くのタイトル防衛戦を行う。WCW時代には新日プロにも参戦。アントニオ猪木との北朝鮮での歴史的一戦にも臨んだ。
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芸能ニュース 2014年03月02日 17時00分
次は代々木第一体育館!? 夢アド3月定期公演はサプライズ発表満載
春の夢アドはうれしい発表がてんこ盛り! 国民的大女優を目指すガールズユニット「夢みるアドレセンス(通称=夢アド)」が2日(日)、東京・渋谷の「マウントレーニアホール」で3月定期公演を行った。前売りチケットが発売数日でソールドアウトした人気の本公演で、夢アドの5人は新曲2曲を含む計7曲を歌い上げた。 この日は「サプライズ発表祭り」。まず、4月19日(土)に日本最大級のファッション&音楽イベント「GirlsAward 2014 SPRING/SUMMER」(国立代々木第一体育館)のアーチスト出演が決定。リーダーの荻野可鈴は「今までにない大きなステージで夢アドとして出ることができてうれしい」と、すでにきゃりーぱみゅぱみゅに剛力彩芽、THE SECOND from EXILEや、オープニングアクトとして美少女プロジェクト「X21」らの豪華出演陣に加わることになることへの抱負を語った。 またライブでは、4月22日(火)にリリースされる新曲を初お披露目。新曲のタイトルは「マワルセカイ」。音楽監修にYUKIやFlumpool、superfly、いきものがかりなどをプロデュースする気鋭の音楽制作集団「agehasprings」が担当するという力の入った作品だ。カップリングの1曲「JUMP!」もあわせて披露された。 ライブMCでは、先月誕生日を迎えた志田友美にステージ上でバースデーケーキが贈られるサプライズも。これには志田も「先月は定期公演がなかったので、こんなことがあるとは!」と涙目に。 サプライズ発表はまだまだ続く。5月6日(祝・月)、東京・歌舞伎町の「新宿BLAZE」での5月定期公演もアナウンスされ、次回からは「定期公演」あらため「夢コレ(夢コレクション)」と呼ばれることに。さらに“ダメ押し”発表は、今年タイで開催されるジャパンコンテンツフェスティバル「Comic-con」に出演することも! 日本から参加するグループは2組! ということは実質、日本代表としてアジア進出するということだ!(ちなみに、もうひと組は新日本プロレスリング)。今後いろいろな場所で夢アドがますます露出していくことになりそうだ。 3月定期公演後、夢アドは同所でサプライズ的な無料新曲発売イベントも敢行。急な発表にもかかわらずライブ&握手会に多くのファンが押し寄せた。■「夢みるアドレセンス」公式サイト http://yumeado.com/アドレセンスとは「思春期」のこと。人気ティーンファッション誌モデルを中心として2012年にグループ結成された。メンバーはリーダー荻野可鈴、山田朱莉、志田友美、小林玲、京佳。子供じゃないけど大人でもない「アドレセンス」5人による等身大の演劇ステージやダンスに歌が、単なるアイドルファンだけでない幅広い層にファンを広げている。
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スポーツ 2014年02月20日 11時00分
俺達のプロレスTHEレジェンド 第10R “新日最強の男”が本領を発揮するとき〈坂口征二〉
かつて新日本プロレスのレフェリーだったミスター高橋は、その著書などでたびたび「新日最強はアントニオ猪木ではなく坂口征二」との旨の発言をしている。柔道全日本王者という肩書きもさることながら、身長194センチ(柔道時の登録データ。プロレス入り後のプロフィールは196センチ)、体重100キロ超という、外国人にも全く引けを取らない体躯。肥満体や巨人症ではなく、均整の取れた身体でのその数値は、今現在の目で見ても日本人としてはズバ抜けている。 競技人口の多い柔道界においても、これだけの体格を誇る選手はそうそう見当たらず、そんな坂口がなぜプロレス入りしたのかといえば、これはもう時代の巡り合わせとしか言いようがない。 1964年の東京五輪で初の正式種目となった柔道だが、日本勢は重量級でアントン・ヘーシンクに完敗。そこから決死の巻き返しを図るも、次のメキシコシティ五輪では競技自体が実施されなかった。日本柔道界の将来には暗雲が垂れ込め、それはまた坂口にとっても同じだった。 そんなとき、日本プロレスからの誘いがかかる。スカウトの席で分厚いステーキが振る舞われ、「こんないいものが食えるのか」と心揺らいだとの逸話からも、当時の坂口および日本柔道界の不遇の様子がうかがわれる。 しかし、坂口は同時に弱点も抱えていた。柔道時代に痛めた腰の不安である。 「ブリッジなどの練習は、ほとんどしなかったと聞きます。身体を反るスープレックス系の技もまず使わない」(古参プロレス記者) たまに繰り出したブレーンバスターも相手を後ろに投げ放つのではなく、頭上に抱え上げたところで自ら尻もちをつくように落とすもので、まさしく和名通りの“脳天砕き”。あまりにも危険だからと、いつしか封印されてしまった。 「相手にボストンクラブをかけられそうになれば、やはり腰の不安から慌てて跳ねのける。互いに使える技が限られてしまうから、どうしても試合が単調になりがちでした」(同・記者) アメリカでUN王座を獲得した試合('72年、対キング・クロー)でも、「アトミック・ドロップ6連発でフォール」と、いかにも大味なものであった。 坂口のそんな“粗さ”も、相手次第では“荒々しさ”となってプラスに転じた。坂口自身も名勝負として挙げるドリー・ファンク・ジュニアとのNWA王座戦('71年)は、ドリーのテクニックと坂口のパワーが実にうまくかみ合った試合となった。 坂口は柔道で寝技の基礎ができているからグラウンドでの攻防もスムーズで、そこが他の単純なパワーファイターとは異なる点だ。両者はよほど手が合ったようで、坂口の修行時代のアメリカでも、ドリーとは60分フルタイムの試合を行っている。 また因縁、遺恨のある相手との対決というのも、坂口の本領が発揮される舞台となる。 日プロ末期の因縁を引きずる大木金太郎戦−−。 互いに“裏切り者”と憎み合うリング上に、多彩な技など必要ない。大木の原爆頭突きに坂口が力任せのラフ殺法で立ち向かい、新日での都合3度の対決は、いずれも無効試合などの不透明決着。それでも、2人の感情ほとばしる試合は今も伝説として語り継がれている。 イデオロギー対決となった新日対UWFの5対5勝ち抜き戦−−。 次鋒として登場した坂口は、当時としては格下だった高田伸彦(現・延彦)、山崎一夫を次々と蹴散らし、「坂口強し!」をあらためて印象付けた。そんな坂口の姿に新日ファンは快哉を叫んだものだった。 「おやじは強かった。でも優しすぎた」 坂口の息子で俳優の坂口憲二が、テレビの企画でカール・ゴッチを訪れた際に掛けられた言葉である。 坂口が、そんな優しさのリミッターをリング上で常に外すことができれば、もしかすると猪木以上のスターとなったのかもしれない。 「それでも、サカさんが常に猪木さんより一歩引いて事務方に専念してくれたからこそ、新日本は幾度ものピンチにもつぶれずに存続することができた。その意味では、新日本の一番の恩人なんです」(元・新日関係者)。〈坂口征二〉 1942年、福岡県久留米市出身。'65年、全日本柔道選手権優勝。'67年、日本プロレス入団。'72年、新日本プロレスへ移籍し、猪木に次ぐスター選手に。'90年、社長業に専念するため引退。次男は俳優の坂口憲二。