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俺達のプロレスTHEレジェンド 第29R 日本マット界に定着する“マシン文化”〈スーパー・ストロング・マシン〉

 維新軍にUWF軍、立て続けの大量離脱でまともなアングルも組めなくなった1984年当時の新日本プロレス。そのころ、東スポで新日を担当していた永島勝司記者(後に新日取締役)は、書店の軒先に山積みされたコミックの単行本に着目した。
 「何だか知らないけどプロレスっぽいし、人気みたいだから、これがいいんじゃないか?」
 そんな思い付きからスタートした“キン肉マンデビュー計画”であったが、版権問題をクリアできずに頓挫してしまう。
 「当時キン肉マンのアニメは日本テレビで放映していて、全日本プロレスと日テレの関係から考えても新日でキン肉マンデビューなんてことはあり得なかった」(当時を知る新日関係者)
 それでもギリギリまで交渉は続けられ、「近々、謎のマスクマン登場」とリングに上がり前宣伝まで打ったものの、結局NG。

 困ったのは、キン肉マンとして華々しく海外修業からの凱旋デビューを飾る予定だった平田淳嗣だ。
 会社としては、あくまでもキン肉マンでいくことを考えていたため、代替のギミックすら決まっていない。結局、マネジャー役の若松市政(現・北海道芦別市議会議員)が前宣伝のときに「こいつはストロングなマシーンだ!」と言ったことから、マスクマンの名前はストロング・マシン(当初はマシーン)となり、平田自らがマスクのデザインにまで参画することになった。

 そんな急場しのぎで誕生したものでありながら、ストロング・マシンは一世を風靡することになる。増殖するマシン軍団は、ついにアンドレ・ザ・ジャイアントまで“ジャイアント・マシーン”として登場させるに至った。
 これもまた平田が新日を離脱したための窮余の策ではあったが、しかしこのことが“マシン伝説”を強くファンの心に刻むことになった。
 なお、アンドレは日本同様このジャイアント・マシーンの姿で、マスクド・スーパースター改めスーパー・マシーンとともにWWFにも登場している。
 その後もマシン軍団は各所で増殖を続け、安生洋二が“200%マシン”を登場させれば、同じUインター出身の桜庭和志はこれを模したマスクをかぶって総合格闘技PRIDEのリングに臨んだ。他にもNOAHの選手たちまでが同様マスクを着用するなど、今に至ってなお“マシン文化”は日本のプロレス&格闘界にしっかりと定着している。

 なぜ思い付きで始まったはずのストロング・マシンが、そこまでウケることになったのか。
 「マスクのデザインはシンプルで、しかも目の部分がメッシュ地になっていて顔が見えない。その意味では没個性的なんですが、だからこそ、このマスクをかぶった選手はそれぞれが独自の色付けをすることができる。そこが良かったんじゃないでしょうか」(プロレスライター)

 ちなみに目の部分がメッシュのマスクは世界的にもマシンが最初である。
 「さらにオリジナルのマシンの中身が平田というのも良かった」(同)

 全日出場時にジャイアント馬場からは「何でもできるが、これといった極め技がない」と器用貧乏扱いを受けるなど、試合自体はマスク同様にどこか没個性的な部分はあった。
 「動きや技が特徴的だったならマネする側はその影響から逃れられないけど、平田にはそういうところがない。それでいて実力的にはしっかりしているから、マネしようという選手も出てくるわけです」(同)

 シングルプレーヤーとしては新日初登場時にはアントニオ猪木や藤波辰爾と、全日でも天龍源一郎あたりと好勝負を繰り広げながらもビッグタイトルには恵まれなかったが、タッグではIWGPやアジアタッグ王座を獲得している。
 ジョージ高野との烈風隊やヒロ斎藤らとのカルガリーハリケーンズ、橋本真也とのコンビなど、本来は個性を際立たせるはずのマスクマンでありながら、名タッグチームとしての実績が勝るのも、脇に徹して主役を光らせるという平田らしさを象徴しているのではないだろうか。

〈スーパー・ストロング・マシン(平田淳嗣)〉
 1956年、神奈川県出身。'78年、新日本プロレス入門。同年デビュー。海外修業から帰国した'84年からマスクをかぶる。'86年、全日プロ参戦。'87年、長州力らと共に新日復帰。現在も限定出場の形でリングに上がっている。

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