「どちらも傷つかない形で引き分けに持ち込むために猪木があのような戦法を取ったという見方から“茶番”と言われたりもしましたが、現実にはアリは帰国後、試合中に蹴られた脚に血栓症を起こし入院。それで引退を早めたともいわれています」(格闘技ライター)
試合に際し、アリ側はWWFで鳴らした敏腕マネージャーのフレッド・ブラッシーを帯同するなど、あくまでもプロレスの範疇としてのエキシビションマッチを意識していたことがうかがえる。
アメリカ各地では同時開催で“プロレス”のビッグマッチが組まれており、これも猪木アリ戦が“プロレス界の出来事”と捉えられていた故だろう。
だが、猪木とその片腕である新間寿氏だけは違い、一貫してアリに真剣勝負を求め続けた。
「ビッグイベントとして見栄えのする試合を求めるのであれば、むしろ段取りを決めた八百長をする方が良かった。しかし、そうでなかったことが真剣勝負の証とも言えるでしょう」(同ライター)
試合内容について“猪木は戦いが実現した時点で満足だったから、あえて危険を冒さずに安全運転をした”との見方もあるが、これも正しいとは言えない。勝つためにスライディングキックを採用したのが、格闘技理論的に正しい手段の一つであったことは前述の通りである。
試合後半、ロープ際で両者もつれて倒れ込んだ際に「反則負けになってもいいからアリをつぶしにかかるべきだったし、そうして見せ場を作るのがプロレスラーというものだ」との論もあったが、これも現実的には不可能だ。
それこそ、文字通りの“命懸け”−−。アリの腕一本、折ることはできたかもしれないが、アリの取り巻きには拳銃を所持した連中もいたというまことしやかな噂もあった。そんな中で反則の暴挙に出たとき、その代償は猪木自身の“命”となった可能性は十分に考えられる。
いくら観客でも猪木に「命を捨てよ」という権利はない。それとは逆に、むしろ“いくら見栄えが悪くとも、勝ちを追求したことこそプロレス的だった”とは言えまいか。
プロレスとはすなわち格闘興行であり、一戦毎の盛り上がりも重要ながら、それ以上に興行として後につなげていくことが求められる。こう考えたとき、猪木にとって、アリ戦での「負け」は何の意味もない。
いくら見世場たっぷりであっても、結果、猪木が負ければ「プロレスなどボクシング世界王者の敵ではない」との世間からの評価が下されることになる。試合そのものが“アリのお遊び”の一環としか受け取られなかっただろう。
アリへのファイトマネー支払いのため大借金を背負ってまで実現させた以上、これをその後の興行に生かすことこそがプロレスラーにとっての命題であり、そうとなれば勝ち、もしくは最悪でも引き分けに持ち込まなければならなかった。
どんな手を使ってでも相手を退け、後の興行につなげていくというのは、アメリカンプロレスのダーティーチャンプの系譜に連なるものであり、それに猪木も則ったという見方もできるのではないか。
「実際、アリ戦では不興を買った猪木ですが、その一方でジャイアント馬場を差し置き“日本のトップレスラー”と世間一般から認識されるようになったのも事実です。このことが、'80年代の新日本プロレス黄金期にもつながったと言えるでしょう」(スポーツ紙記者)
猪木のキャリア最晩年、イラクや北朝鮮での興行を実現できたのも、猪木が“偉大なるアリと引き分けた男”であることの影響は大きかった。そのころ参議院議員の肩書があったとはいえ、スポーツ平和党のような弱小野党党首というだけでは、イラクや北朝鮮との直接交渉の場に立てるはずがない。
1976年6月26日−−。大借金と世間の不興という代償はありながら、結果的に猪木は大博打に勝ったのである。