スポーツ
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スポーツ 2011年02月09日 13時30分
八百長と相撲道
大相撲が揺れている。 八百長メールの発覚により、興行が打てないのだ。 厳密にいうと、「八百長」は、賭博に参加した人が、イカサマを見破ったときに発する言葉だ。 そういう意味では、公営ギャンブルでもない「大相撲」に、八百長は存在しないのだが、「相撲道」にとっては、別だ。 こちらのほうが厳しい。なにしろ、思っただけでも駄目なのだから。精進を旨とする相撲道には、八百長どころか、怠け心さえ、ご法度だ。 対するは、神仏であり、自らの心だ。 祈願するのは、国民の幸福、発展であり、そのために奉納するのが「相撲道」なのだ。人々が、八百長を嫌悪するのは、ここに理由があり、問題の解決も、ここにしかない。 力士は、本分を思い出し、日々、己の心を磨きあげ、技術の研鑽に励み、国民が元気になる相撲を取ってほしい。 日本の未来は、君たちにかかっている。(しあわせマスター リーラ 山口敏太郎事務所)参照 山口敏太郎公式ブログ「妖怪王」http://blog.goo.ne.jp/youkaiou
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スポーツ 2011年02月09日 08時00分
佑ちゃん回避の指名は正しかった? 澤村剛球ショーに意外な反応が…
フリー打撃登板で、坂本のバットを2度もヘシ折った…。巨人の黄金ルーキー・澤村拓一投手(22)は、やっぱり凄い。 澤村がフリー打撃に初登板したのは、2月6日。そのストレートの威力が改めて証明されたわけだが、巨人フロントは2通りの反応を見せていたという。「即戦力の呼び声通りだ」とご満悦の表情を浮かべる者、そして、「当然だ」と思ったのか、リアクションを全く見せなかった者も少なくなかったそうだ。 巨人は昨年8月の段階で澤村指名を“内定”させていたようである。清武英利・球団代表が「澤村指名」を表明したのは10月20日だが、8月にヤンキースの幹部、デーモン・オッペンハイマー氏(スカウティングを担当)が来日した際、巨人側は「即戦力投手の宝庫」とも称された同年のドラフト候補について、相談を持ち掛けていたという。 「ヤンキースは何人かのスカウト担当者を来日させました。来日の目的? ダルビッシュの視察だと聞いていましたが…。その足で業務提携を結ぶ巨人関係者とも会合の場を設けています」(球界関係者) その際、ヤンキース側も澤村や斎藤佑樹(日本ハム)、大石達也(埼玉西武)たちの評判を知っていたらしく、多岐に渡ったアドバイスを与えたという。そのうちの1つが「本当に欲しいのなら、たとえ競合となっても澤村で行くべし」だった。 斎藤佑樹を回避したことが正しかったのか否かは、2011年シーズンだけで判断できない。ただ、「ヤンキースにアドバイスをもらった」経緯を聞かされると、気掛かりな話もないわけではない。ドラフト会議直前、澤村も巨人志望であることを打ち明けた。確か、「巨人以外に指名されたら、メジャーに行く」なる発言もしていたはず。また今となっては不可解な限りだが、ドラフト会議直前、ヤンキースは澤村の身分照会を行った。この一報が流れたのは、ドラフト会議2日前の10月26日。偶然かもしれないが、ヤンキースからの身分照会を知って、「メジャー挑戦のルートは出来た」と判断し、澤村の指名から降りた球団もないわけではない。当時も「澤村一本釣りは出来過ぎ」と疑念の目を向ける報道もあったが、巨人、ヤンキース両球団の8月会合が判明した今、かなり突っ込んだ意見交換がされていたのではないかと、勘繰ってしまう…。 しかし、澤村は自身にいちばん適した球団に入団できたのではないだろうか。 まず、昨季の投手陣崩壊で働き場所があること。育成枠出身選手の成功により、巨人は若手育成やファーム組織の拡充にも力を注いでいる。原監督もイキのいい若手には積極的にチャンスを与えてきた。一昔前、コーチが必要以上に投球フォームなどの技術指導をしたがるといった話もあったが、今は全くない。 澤村が高校時代まで無名だったのは繰り返すまでもないが、現巨人選手は育成枠の拡充により、練習熱心なタイプが多くなった。澤村がチームにすぐに打ち解けられたのも、そういった背景が影響しているはずだ。 坂本のバットをヘシ負った後、澤村は「もっとキレとスピードを」と“反省”を口にしていた。結果に満足せず、次の課題へと頭を切り換えていた。この前向きな姿勢…。巨人フロントが澤村の活躍を信じて疑わないのは、やはり当然か。
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スポーツ 2011年02月08日 12時30分
投球フォームをいつ修正する? 斎藤佑樹は指導者も驚くガンコ者!?
斎藤佑樹(22=北海道日本ハムファイターズ)は、プロの洗礼を浴びる…。昨秋のドラフト会議以降、斎藤が「メディアに登場しなかった日はない」と言っても過言ではないだろう。「優等生の仮面を剥がしてやろう」とする報道陣もいたが、会見での言動はもちろん、カメラが向いていないときでも、先輩選手に対する礼儀もきちんと弁えていた。したがって、彼のことを悪く言う者は1人もいない。いたとしても、それは「嫉妬」でしかない。しかし、公式戦でまだ1球も投げていない新人に対し、このフィーバーぶりは異常である。 「日本ハムは球団(本社)としても、斎藤に勝ってもらいたい、活躍してもらいたいと願っています」(報道陣の1人) 斎藤が先発ローテーション入りし、楽天・田中将大投手(22)と“甲子園時代の対決”を再現してくれれば、野球ファンの注目を集めるのは必至。プロ野球界を盛り上げるためにも活躍してもらいたいが、その命運を握っているのは、吉井理人・一軍投手コーチ(45)のようである。斎藤の投球フォームには“欠点”があるからだ。 「大学4年秋よりは良くなっているが…」 プロ野球解説者の1人がそう言う。 斎藤が初めてブルペン入りしたのはキャンプ2日目。梨田昌孝監督(57)を相手に力強い投球を続け、スポーツメディアも絶賛していたが、野球の専門家は本当のことを言わなかったようである。 「右足を折り過ぎて、下半身の力が全然ボールに伝わっていません。右足の動きもおかしい。大学3年生くらいから、投球フォームがおかしくなったんです。左足に体重がしっかり乗らないというか、上半身で押すようになったというか…。『本人も分かっている』との情報もあるので、キャンプ終盤、オープン戦で微調整していくんでしょう」(前出・同) 別のプロ野球解説者にも確かめていたが、「みんな分かっていると思うが」と前置きしたり、「実績で修正していくのかな?」という含みのある言い方をしていた。投球フォームがおかしいと思っているのはかなり多いと見ていいだろう。 投球フォームの欠点−−。斎藤は自主トレ期間中、「むしろ、打たれたい」(1月25日)とも話していた。現状としてどれだけ通用するのかを探るためであり、「大学時代と同じ投げ方では通用しない」ことを自覚しているのだろう。こういう発言が出来るのも並の新人とは違うところだが、日本ハム首脳陣は斎藤を『大人扱い』していくつもりだ。 「投球フォームの微調整(修正)も本人に任せ、基本的には斎藤が聞いてきたら教えるというスタンスのようです」(球界関係者) 大卒でも、新人なのだから付きっ切りになってでも教えるべきという意見もある。しかし、こんな情報も聞かれた。 早稲田大学関係者によれば、應武篤良監督(当時)も投球フォームの修正を何度か指摘したことがあったという。しかし、斎藤は「このままで行きたい」とし、頑として聞き入れなかった。そのガンコさは應武監督も頭を抱えたほどで、第三者から頭ごなしに指導されると反発する(あるいは、抵抗を持つ)タイプと目されてきた。自己管理・調整のできるタイプなので、失敗も糧に出来るだろう。 その意味では、日本ハム首脳陣が「大人扱い」したのは間違いではないだろう。 「甲子園時代の斎藤の投球フォームは、綺麗でした。大学時代、意図的に崩したようですね。本人が150キロ越えにこだわったからです」(大学関係者) 甲子園での最速が149キロ。つまり、自分越えの課題として150キロに固執したそうだ。ガンコさ、150キロ越えなど『斎藤の素顔』が見えてくると、1年目の成績は伸び悩み、2ケタを挙げるのは2年目以降とも考えられる。 強いて問題を挙げるとすれば、『燃えつき症候群』だろう。斎藤は甲子園優勝で大学1、2年生のときは「イマイチ、野球に夢中になりきれなかったこと」を大学野球部内で吐露していたそうだ。その通りだとすれば、慶応大学との死闘となった東京六大学秋のリーグ戦の優勝、明治神宮野球大会(大学の部)での優勝は少し気になる。 「吉井コーチは投球フォームのことを切り出すタイミングも見計らっているようですね。コーチなんだから、ガツンと言っても良いと思うんだけど(笑)」(前出・プロ野球解説者) 『人気者』を預かったお目付役の気苦労は、並大抵ではないようだ。
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スポーツ 2011年02月08日 11時30分
野球バカコラム「野球殿堂入り・南海ホークスの大エース、皆川睦雄投手を振り返る」
今年1月に、2011年度野球殿堂のプレイヤー部門に落合博満、そしてエキスパート部門に皆川睦雄が選ばれた。落合にとっては一昨年、昨年と2年連続で当選の条件となる投票数に1票差で足りずに落選していたため、3年越しの殿堂入りということになった。 その落合博満については、プロ野球ファンにとっては今更説明不要な人物であろう。ロッテ→中日→巨人→日本ハムと4球団を渡り歩き、史上唯一三度の三冠王を獲得している。2004年から現在まで中日監督を務め、3度のリーグ優勝、1度の日本一に導いた、監督としてもなかなかの名将だし、現役時代を知っている方も数多いと思う。 ここでは、おそらくこの記事を読んでる方のほとんどが現役時代を知らないと思われる(当然ながら筆者もまったく現役時代は知らない)、もう一人の受賞者である皆川睦雄についておさらいしたいと思う。 皆川睦雄は1954年に南海ホークス(現・ソフトバンク)に入団した投手であった。ちなみに同期入団には、楽天の前監督である、あのノムさんこと野村克也がいて、同い年でもあった皆川と野村は長年南海を支える名バッテリーとなる。 4年目の57年よりピッチングフォームをオーバースローからアンダースローに変え、この時から南海を牽引するエース格の一人となる。 しかし当時の南海には宅和本司、中村大成、そして立教大学であの長嶋茂雄とチームメイトだった杉浦忠といった大エースがいて、皆川は常に2番手投手に甘んじていた。 だが投手のローテーション制度が確立していなかった当時の球界では、エースの連戦連投が当たり前となっていて、前述したそれらの投手も皆、短い実働年数で引退してしまう。 その中で皆川は18年間の現役生活を全うし、終わってみればホークスの球団記録である221勝を挙げている。当然、投手では200勝以上が条件の名球界にも入っている。 得意な球種はスライダーで、打者の手元でゆるく曲がるため、キャッチャーの野村曰く、日本で初めてカットボールを投げた投手だったらしい。68年には31勝を挙げたが、皆川以後日本球界で30勝投手は現れていないため、最後の30勝投手といわれている。確かにローテーションが徹底されている現在は20勝ですらかなりの快挙だから、30勝はまず無理だと思われる。 現役引退後は阪神、巨人、近鉄でコーチも務めたが、2005年に死去。69歳であった。まだまだ亡くなるには早すぎる年齢だと思うので残念である。南海ホークスの歴史を語るに欠かせないエースだった皆川睦雄投手。筆者も現役時代はもちろん、コーチ時代も知らないのが少し残念だが、この度の野球殿堂入りによって、そんな往年の名選手を知るきっかけとなることができる。来年はどんな、球界の歴史に残る名手が殿堂入りを果たすのか、今から楽しみである。文中・敬称略年号は西暦で統一(野球狂のアキバ系 伊藤博樹「2008年に訪れた大阪の、南海ホークスメモリアルギャラリーで、皆川投手のピッチング映像なら見たことがある」 山口敏太郎事務所)
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スポーツ 2011年02月07日 18時00分
第9回グアム知事杯女子ゴルフトーナメント、武田由紀が2打差で初優勝!
女子プロゴルファーの登竜門 「第9回グアム知事杯女子ゴルフトーナメント」がオンワードタロフォフォゴルフクラブで行なわれ、プロ5年目の武田 由紀が2打差で初優勝を果たした! シニアでは乃村 三枝子が優勝した。 「グアム知事杯女子ゴルフトーナメント」(http://www.guamgolf.jp)は、グアムでのゴルフ振興、ゴルフを通じた自然環境保全活動、観光誘致を目的に、グアム政府観光局が主催するゴルフトーナメントだ。過去に開催したトーナメントでは、茂木宏美プロ(2004年第2回大会)や、上田桃子プロ(2006年第4回大会)など、現在第一線で活躍中のプロゴルファーが優勝に輝き、その華やかな経歴をスタートさせる登竜門として広く知られるようになった。年々参加者が増え、トーナメントシーズンのスタートを切る大会として盛り上がりをみせている。 先週末の2月4日金曜日(現地)、「オンワードタロフォフォゴルフクラブ」で「第9回グアム知事杯女子ゴルフトーナメント」の最終戦が行なわれた。時折スコールにみまわれる中、熱戦が繰り広げられ、様々なドラマを残しながら無事終了。各選手ともグリーンに苦戦しスコアメイクに苦しむ中、優勝を手にしたのは前日4位でスタートした武田 由紀(プロ5年目)。トータルイーブンパーで2位に2打差をつけ初優勝を飾った。武田は、「練習ラウンドから調子が良く、特にアイアンが冴えました。優勝賞金は、ゴルフの上達のために使いたい」と喜びを語った。注目の14歳のアマチュア高橋 恵は、昨日に続きパターがふるわず、4オーバー、トータル11オーバーで36位に終わった。またシニアでは、乃村 三枝子がトータル3オーバーで優勝。最終結果は、以下の通り。<速報>第9回グアム知事杯女子ゴルフトーナメント最終スコア期間:2月3日〜4日場所:オンワードタロフォフォゴルフクラブ(グアム)6,319yards(シニア:5,684yards) Par72天気:晴、時々雨 気温:28℃ 風速:4m(東南東)上位入賞者■レギュラートーナメント 1位 武田由紀 合計144、2位 大和笑莉奈 松原衣江 合計146、4位 松平真佐美 塩崎亜美 久保樹乃 林佳世子 佐藤敦子 合計147■シニアトーナメント 1位 乃村三枝子 合計147、2位 高又順 合計148、3位 八木優子 生駒佳世子 合計150
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スポーツ 2011年02月07日 15時30分
十両力士が八百長してでもその地位を守りたいもう一つのワケ(2)
先回、中堅、ベテランの十両力士が、その地位を守りたい理由として、幕下との格差の他、年寄(親方)名跡取得資格のクリアのためと記しました。名跡資格取得の条件については、先回書きましたので、そちらを参照していただきたい。 今回はたとえ八百長してでも、資格を得たい年寄の魅力について検証します。 いわゆる年寄には部屋を所有する部屋持ち親方と部屋付き親方があります。部屋自体は独立採算制ですが、年寄は日本相撲協会から給与等が支払われ、協会から食わせてもらえます。年寄も力士同様、階級制で、平年寄に始まり、主任・参与、委員、監事、理事と序列があります。通常は昇進するものですが、不祥事などがあれば、当然降格もあります。その点ではサラリーマン社会と酷似しているともいえます。 月額給与は平年寄が78万4000円、理事が140万5000円。この他に、年間2カ月分の賞与、東京場所の際に支給される場所手当、勤続6年以上の者に支払われる勤続手当、名跡取得の補償としての名跡金、在勤手当、審判委員のみに支給される審判手当があります。これらを合算すると、なりたての年寄でも年収約1200万円。理事となると、年収約2000万円となります。また、部屋持ち親方には場所ごとに所属全力士に対して、部屋維持費、稽古場維持費、幕下以下の力士に対し力士養成費、関取がいれば養成奨励金が協会から支給され、それを運営費に充てることができます。 引退しても65歳の定年まで、これだけの高額所得が保障されているわけですから、とてもおいしい話です。まず、他のプロスポーツではあり得ません。日本でいちばんのメジャースポーツであるプロ野球でさえ、特例を除き、ユニフォームを着るか、フロントに参画しない限り、年俸は保障されませんから、相撲界がいかに恵まれているかが分かります。 協会から離れれば、現役時代に人気があった元横綱・若乃花(花田勝)や元大関・小錦(KONISHIKI)でさえ、生きていくのに大変な状況です。タレントとして成功した元小結・舞の海などは、極めて珍しいケースといえます。引退後、悲惨な末路を味わわないためにも、十両力士は年寄になるべく必死なのです。 幕下との待遇面での大きな格差、年寄名跡取得条件クリアのため、これが十両力士が八百長に手を染めてしまったワケでしょう。だからといって、八百長が肯定されるものではありません。(ジャーナリスト/落合一郎)※関連記事「十両力士が八百長してでもその地位を守りたいもう一つのワケ(1)」http://npn.co.jp/article/detail/83667664/「大相撲八百長疑惑問題 十両力士が金まで払って白星がほしいワケ」http://npn.co.jp/article/detail/91346041/
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スポーツ 2011年02月07日 13時00分
十両力士が八百長してでもその地位を守りたいもう一つのワケ(1)
八百長問題で紛糾する相撲界。日本相撲協会は2月6日、臨時理事会を開き、その影響を考慮し、3月開催予定の春場所(大阪)の中止を決めた。本場所が中止となるのは、戦争で被災した国技館修復の遅れを理由とした46年夏場所以来、65年ぶり2度目で、不祥事による中止は初めて。 今回、疑惑がかかった力士14人のほとんどが十両だった。十両力士が、その地位保全に躍起になる事情については、2月4日付の記事で報じた通り。だが、幕下との大きな格差だけが、その地位を守りたい理由ではないのだ。 将来有望な新鋭の十両力士は別として、中堅、ベテランで十両にてくすぶっている力士にとっては、幕下との格差同様、切実な問題がある。それは、引退後の生活。関取になった力士にとって、引退後、年寄(親方)として、協会に残れるかどうかは人生を左右する重要な問題だ。年寄として協会に残れれば、自分の部屋を持たなくても、65歳の定年まで勤め上げることができる。逆に残れなければ、新たな道を探さなければならないのだ。相撲界ではプロ野球のように、解説者の枠もほとんどないため、元力士は他業界への転職を余儀なくされる。 年寄になるためには年寄名跡を取得するか、一時的に借りなければならない。名跡には限りがあり、一代年寄を除き105。かつては、短命な力士が多かったため、名跡の取得は容易だった。しかし、昨今、力士の寿命が延びて年寄が定年まで勤めることが多くなり、その取得が困難になって相場は高騰。譲渡価格は1億円前後ともいわれている。それだけの大金が用意できなければ、他者が所有する名跡を借りるしかない。借りることすらできない場合、あるいは借りていても所有者に返却しなければならなくなり、新たに借りる名跡がない場合は、残念ながら相撲界から去らざるを得ない。 ただ、誰でも年寄になれるわけではない。なるためには、規定をクリアしていなければならないのだ。その規定とは日本国籍を有する者で、1.最高位小結以上、2.幕内通算20場所以上、3.十両以上通算30場所以上。つまり、最高位小結に上がれず幕内通算20場所に達していない力士は、十両以上で在位通算30場所以上なければ、名跡取得の資格がない。かつては、1.幕内1場所皆勤以上、2.十両連続20場所以上または通算25場所以上が規定であった。これは57年(昭和32年)に定められたもので、実態にそぐわないため、98年に41年ぶりに現行ルールに改められた。 だが、部屋継承者と認められた場合の特例があり、この場合は幕内通算12場所以上、または十両以上通算20場所以上に、条件が緩和される。この特例が適用されたのは、宮城野部屋を継承した元十両・金親。金親は幕内経験がなく、十両通算24場所しかなかったが、宮城野部屋を継ぐため名跡取得が許可された。しかし、昨年12月、金親は八百長疑惑発言の責任を追及され、当時部屋付き親方だった熊ヶ谷親方(元前頭・竹葉山)との名跡交換を命じられ、現在は部屋持ち親方ではなくなった。 この他に、引退までに名跡を取得できなかった横綱、大関に限り、横綱は5年、大関は3年の期間限定で現役名にて親方を務めることが可能。その猶予期間中に名跡を取得する必要がある。武蔵丸(現振分親方)、大乃国(現芝田山親方)、旭富士(現伊勢ヶ濱親方)、北勝海(現八角親方)、曙(退職=現プロレスラー)らが、この制度を利用した。 また、特に顕著な功績を残した横綱には一代年寄の襲名が許可される。元大鵬親方(納谷幸喜氏=退職)、北の湖親方、貴乃花親方がそうで、千代の富士は一代年寄を断わり、後に九重部屋を継承した。一代年寄が持つ部屋は他者が継承できないため、大鵬部屋は元関脇・貴闘力の大嶽親方(当時)に引き継がれたが、その大嶽親方は野球賭博事件で解雇され、現在は元十両・大竜が大嶽を名乗っている。 本題に戻って、事例を挙げると、八百長関与を認めた千代白鵬(九重)。幕内を6場所務めたが、09年7月場所で十両陥落。以降、十両以下の生活が続いている。十両以上の在位は今年初場所現在で24。資格取得には、まだ6場所足りない。千代白鵬は現在27歳で、まだ先の希望があった。だが、ケガが多く将来に不安を感じ、名跡取得資格をクリアすべく、八百長に手を染めたのかもしれない。 年寄として協会に残れるかどうかは、十両力士にとっては、まさに死活問題。その資格がほしくて、十両を長く維持すべく八百長に手を染めた可能性もある。年寄はそれほど魅力的なものである。次回は年寄になれば、どれほど厚遇されるのかを検証してみたい。(ジャーナリスト/落合一郎)※関連記事「大相撲八百長疑惑問題 十両力士が金まで払って白星がほしいワケ」http://npn.co.jp/article/detail/91346041/
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スポーツ 2011年02月07日 12時00分
明らかになった相撲賭博のシステム
ついに前代未聞の事態に発展した。 大相撲の八百長問題で日本相撲協会は6日、東京・両国国技館で臨時理事会を開き3月13日から開催予定だった春場所の中止を決めた。 「本場所中止は、戦争で被災した旧両国国技館の修理が遅れた1946年夏場所以来65年ぶり2回目となるが、不祥事での中止は初めてでそれだけ深刻な事態ということ。今後は、公益法人の認可取り消しも検討されることになる」(相撲担当記者) 放駒理事長(元大関・魁傑)は「うみを完全に出し切るまでは、土俵上で相撲をお見せすることはできない」と無期限中止となる可能性の示唆したが、八百長問題とともに今後その“闇”が解明されそうなのが相撲賭博問題だ。 「今回の八百長問題発覚のきっかけとなったのは、昨年角界を震撼させた力士や親方の野球賭博問題。野球賭博事件で胴元として警視庁に逮捕された元幕下の山本俊作容疑者が、賭博客で事件で解雇された元大関琴光喜に送った携帯電話のメールの中に、相撲賭博に関連したとみられるものがあり、元琴光喜自身の取組が賭けの対象になっていたことが発覚した」(同) これまでの報道によると、メールには幕内の取組から5つが並び、その1つが当時大関だった元琴光喜の取り組み。賭けの方法は、5つの取組で東西どちらの勝ち星が多いかを当てるというもので、東西の力士の番付などに応じたハンデも記載され、その結果によって精算され、最終的な結果が出るというが、6日に放送されたテレビ朝日系の情報番組「サンデースクランブル」で相撲賭博の元胴元がその手口を明かしたインタビューVTRが流された。 その胴元によると、賭けの対象になるのは毎場所の結びの一番から数えて後ろから9番がセットで1口。 東西の力士の番付や実力によりハンデが付けられ、そのハンデは毎日変化するという。 例えば「東からハンデ1」で客が東に賭けた場合、その日の取り組みで東の力士が5勝4敗でハンデがないならそのまま勝となるが、ハンデを足すと5勝5敗となりその日の儲けはなし。これが「東からハンデ2」の場合だと、ハンデを足すと5勝6敗となって西の勝ちとなり客の1万円負けとなる。 最終的に1勝勝ち越ごとに1万円の勝ち、1敗負け越すごとに1万円の負けというから、極端な話「東からハンデ9」で西側の力士が全て勝った場合、西に賭けていた客は9勝0敗にハンデを足して18勝0敗で18万円の儲けとなるがしっかり手数料が発生する。 その胴元は「顧客の勝ち分から10%の手数料をとる。客は元力士とか後援会の人とか多かった。毎日、顧客にハンデと前日の勝ち負けをメールしていた。多い人は1日20〜30万円勝っていた」と語っている。 警視庁は本格的に相撲賭博の捜査にメスを入れることになりそうで、今後、逮捕者が出れば角界にさらなる衝撃が走りそうだ。
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スポーツ 2011年02月07日 10時00分
グラビアアイドル愛川ゆず季が大金星
グラビアアイドル愛川ゆず季が、6日東京新木場1stRINGで大ベテランの堀田祐美子と対戦し、反則攻撃に耐え抜いた末、ゆずポンキックからのラ・ゆずヒストラルで3カウントを奪う大金星を上げた。 愛川はバスト100センチの巨乳を強調する新コスチュームで登場、得意のキックで堀田を攻め立てるがパワーの差は歴然で、反対にエルボー、スリーパー、ローキックですっ飛ばされる始末。初となる場外戦では堀田にチェーンで首を絞められて引きずり回された揚句イスに痛打されてしまう。会場のファンからは悲鳴と大ブーイングの嵐。 息も絶え絶えの愛川は最後の力を振り絞り、ゆずポンキックを後頭部に叩き込み、ラ・ゆずヒストラルでまるめ込んだ。 試合後、愛川は「皆さんのおかげで初勝利することができました。勝つのがこんなに嬉しいとは、ファンの人もすごく喜んでくれて、これからもゆずポンキックを磨いて頑張ります」とニッコリ。 グラドルレスラー愛川ゆず季のこれからが楽しみだ。(アミーゴ・タケ)○愛川ゆず季(12分25秒 ラ・ゆずヒストラル)堀田祐美子●
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スポーツ 2011年02月07日 08時00分
野球バカコラム・長年レギュラーで活躍して、通算本塁打ゼロで終わった野手はいるのか?
数日前、スポーツ新聞を見ていたら、巨人の松本哲也が生涯本塁打ゼロ宣言をしたという記事を目にした。個人的には、わざわざそんな宣言しなくても…と、いろいろ思うことはあったが、そういえば長年主力として活躍して、ついに一発も本塁打を打たずに引退した打者はいるのだろうか? と気になりだしてしまった。投手なら沢山いるだろうが、打つことを生業としている野手にはいるのか? そう思って、いろいろ調べてみた。 結論としては、いなくはない。という言い方が一番よいだろうか。 日本のプロ野球ができた直後のだいぶ古い話となるが、横沢七郎(東京セネタース。現・日本ハム)という選手が実働7年間、1770打席に立って、本塁打を一度も打たないまま引退した。細かい年度別打撃成績は不明だが、一応1000打席以上は立っているのだから、当時のセネタースの主力の一人として活躍していたのは確かだと思う。 しかし横沢が活躍したのは1936〜40年までと46年と47年の通算7年間。戦前と戦後すぐの投高打低の時代だし、7年間ではあまりにも短すぎる。ここで松本が長年巨人の主力選手として活躍できるのを願って、戦後の時代で最低でも10年程度は活躍して、通算打数も、生涯打率ランキングにランクインする資格を得る4000打数以上は打席に立った打者の中でいないか探していきたい。 まず筆者が気になったのは、87年に戦後唯一本塁打ゼロで首位打者となった正田耕三(広島)である。しかし正田は87年は確かに本塁打ゼロだが、通算で44発打っているし、翌88年も2年連続で首位打者となっているが、この年は本塁打を3発打っている。 他に本塁打をまったく打たなかったイメージのある打者として、09年に惜しまれつつ引退した赤星憲広(阪神)はどうか? 確かに引退するまで2528打席本塁打ゼロで、これは連続打席本塁打ゼロの日本記録だが、実は05年の交流戦一年目の日本ハム戦で本塁打を打っていたのである! しかも意外なことに、新人だった01年にも1発本塁打を打っている。だから赤星は決して本塁打ゼロではない。 それでは同じく本塁打を打たないイメージのある東出輝裕(広島)ならどうか? …と思ったら、本塁打を打たないイメージだったのは、ここ4年間まったく本塁打を打たなかったからで、昨年の巨人戦で5年ぶりの本塁打を打っていたのである! 筆者は巨人ファンだから、忘れるな! って話でした。ごめんなさい。ちなみに5年前より以前は東出は意外と本塁打を打っていて、01年には5発も打っている。これでは本塁打ゼロの条件には全然合わない。 それでは昭和の時代に戻って、松本哲也の前に「巨人の松本」だった青い稲妻・松本匡史ならどうだろう? しかし、これは自分で言っておいて何だが、松本匡史は通算本塁打ゼロではない。なぜなら松本は代走で起用されたイニングに打者一巡で打席が回ってきて、その打席で本塁打を打ったという珍しい記録の持ち主だからである。その時点で通算本塁打ゼロではない。一応調べたら、通算本塁打は29発である。 セ・リーグとパ・リーグ、それぞれの通算盗塁記録の保持者である福本豊(阪急)と柴田勲(巨人)も本塁打はそれぞれ、福本は208発、柴田は194発と、二人とも意外と長打力もあるので、結論としては10年、4000打数以上打席に立ったレギュラー野手の中で、通算本塁打ゼロはいないのではないだろうか? こうして振り返ってみると、長年レギュラーとして活躍すると本塁打を1発も打たない方が難しいし、変な言い方だが、嫌でも1発は打ってしまうのではないかと思ってしまう。 松本哲也も、スタンドインの本塁打はともかくとしても、その俊足を持ってすればランニングホームランの可能性は十分あり得ると思うし、ランニングホームランだって本塁打には変わりない。だから松本が今後10年は巨人の主力選手として活躍できれば、いくら本塁打ゼロ宣言をしていようが1発は必ず本塁打を打つと筆者は思うし、そのXデーの日付と相手球団、相手投手を筆者は一生覚えることにする。 最後に、ある選手の名前を出して締めようと思う。 昨シーズン限りで引退した村松有人(ダイエー→オリックス→ソフトバンク)である。 村松は初打席から1565打席本塁打ゼロの、デビューから連続打席無本塁打記録保持者である。プロ入り8年目、1566打席目で初本塁打を放ち、通算本塁打は18本。松本は現在775打席立っているが、村松の1565打席本塁打ゼロを超えられるのか? それとも、その前に初本塁打を打ってしまうのか? 要注目である。文中・敬称略年号は西暦で統一(野球狂のアキバ系 伊藤博樹 山口敏太郎事務所)
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