新日本
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スポーツ 2017年02月27日 16時00分
プロレス解体新書 ROUND40 〈小橋vs健介“魂の名勝負”〉 壮絶極まる剛腕チョップ合戦
“鉄人”、さらには“絶対王者”として一時代を築いた小橋建太。数多の名勝負を繰り広げてきた中でも、プロレスリング・ノアが隆盛を極めた2005年、東京ドーム大会における佐々木健介とのチョップ合戦は、今もなお伝説として語り継がれている。 2月1日に株式会社ピーアールエヌ(旧・株式会社プロレスリング・ノア)が破産となった。興行権などはすでに別会社に移譲されているため、ノアの大会は今までどおり開催されるというが、かつての隆盛を知るファンからすれば驚きとともに寂しさを禁じ得ないことだろう。 三沢光晴を中心とするレスラーやスタッフ総勢約50人が、全日本プロレスを離脱し、2000年に設立されたプロレスリング・ノア。ディファ有明での旗揚げ2連戦のチケットは、わずか20分足らずで完売し、その「新しい闘い」(三沢による試合前のあいさつの言葉)への期待度の高さを示した。 「この時期、業界最大手の新日本プロレスは格闘技進出で結果を残せず、それに関連してアントニオ猪木やその子飼い選手たちの扱いでもゴタついていた。さらには武藤敬司らの全日移籍や長州力一派が離脱してWJを旗揚げするなど、相次ぐ迷走でファン離れが進んでいた。その一方で、ノアは安定した内容でファンの信頼を集めていきました」(プロレス記者) 旗揚げ戦こそは、秋山準によるフロントネックロック“秒殺”や垣原賢人のUWF風ファイトが注目されたが、その後はアングルに頼らない全日時代の四天王プロレスをベースとした闘いで、リング上を充実させていった。 そんなノアの人気が一気に高騰したのは、かねてからの膝の故障などで旗揚げ当初には休場を重ねていた、小橋建太の完全復帰からだった。 '03年に三沢を下してGHCヘビー級王者になると、新日の東京ドーム大会で蝶野正洋を相手に防衛成功するなど、約2年にわたり王座を守り続けた。 「力を出し惜しみすることのない小橋のファイトは、ファンからの共感を呼ぶと同時に“お得感”を与えました。新日がアルティメット・ロワイヤルなど訳の分からない試合をしているのに比べて、小橋の試合には間違いがなく、この安定感が集客増にもつながったのです」(同) 小橋の全力ファイトこそがノアの象徴とされ、いつしか“絶対王者”の呼び名を付けられた。また、ネットスラングとして流行した“ノアだけはガチ”というフレーズも、小橋の存在があったからこそ成り立った。 「純プロレスであるノアの試合に、総合格闘技的な意味でのガチンコ要素は乏しく、このフレーズは主にノアや、そのファンの“われこそ一番”という態度へのあざけりとして使われていたものです。とはいえ小橋のプロレスに対する真摯な態度は、たとえアンチであっても認めざるを得ないところで、これが“ガチ”という言葉に一片の真実を与えていた。なにせあまりのストイックさゆえに、一時は“小橋ホモ説”までまことしやかにささやかれたほどですから(笑)」(同) そんな小橋=ノア人気がピークを迎えたのが、2年連続で開催された東京ドーム大会であろう。'04年の大会では秋山を相手に小橋はメインを飾った。続く二度めのドームでは、メインこそは三沢と川田利明の因縁対決に譲ったが、これに劣らずファンの心に強く刻まれたのが、セミファイナルの佐々木健介戦だった。 新日時代の健介は、現場監督だった長州の子飼いとして都合よく使われ、ここ一番での試合で負けを“飲まされる”ことも多かった。猪木や武藤などの華やかさに比べ、その泥くささから“塩介(パフォーマンスがしょっぱいという意味)”と、新日ファンに蔑称で呼ばれることもあった。 だが、努力の質と量では健介もまた小橋に劣らない。いわば似た者同士、共に極めつけのプロレス馬鹿である2人の邂逅が、名勝負となるのは必然のことだった。 試合開始直後のバックドロップ合戦からエンジン全開で、鍛え上げられた筋肉が問答無用でぶつかり合う。そうして試合中盤を迎えたとき、両者にらみ合って咆哮すると、今なお伝説として語られるチョップ合戦が始まった。 「2人の繰り出したチョップの数は合計200発を超えました。時間にして5分以上、お互いに一歩も引かず、チョップの威力を減じるために体をそらすこともなく、胸を突き出して受けてみせた。最初は赤くミミズ腫れになっていた2人の胸板が、最後の方ではドス黒く変色したほどでした」(スポーツ紙記者) ファンの想像や期待をはるかに超越した意地の張り合いは、チョップ合戦に終わらず、普段ならフィニッシュホールドとなる大技を互いに惜しげもなく繰り出していく。最後は小橋の剛腕ラリアットに凱歌が上がったが、それは試合の終わりを告げる意味でしかなかった。 「どちらが勝ったかは関係なく、ただ目の前の試合に圧倒されていた。声援を送っていたファンはもちろん、取材をしていただけの記者連中までもがヘトヘトに疲れ果てていた。そんな試合はほかに見たことがありません」(同)
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スポーツ 2017年02月26日 12時00分
「インパクトのある仕事をしてくる」新日本プロレス、真壁刀義がデビュー20周年!
新日本プロレス2.21後楽園ホール大会は、真壁刀義デビュー20周年記念大会として開催された。 試合前にはセレモニーが行われ、真壁が付き人を務めていた“師匠”長州力がサプライズで登場。真壁に労いのメッセージを送ったのだが、その中で気になる言葉があった。 「前座でデビューして、前座で終わると思った」 長州はコメントブースでも「そうなる要素はあったよ」と語っているが、真壁が入団した1997年は、この日VTRで祝福のメッセージを送った同期の藤田和之が、デビューから格闘技路線で注目され、さらに天山広吉、小島聡、永田裕志、中西学ら第三世代と、棚橋弘至、柴田勝頼、中邑真輔らの世代の狭間の世代だったということもあり、真壁に光りが当たることがなかった。 2004年に高山善廣とのタッグで台頭し、リングネームを本名から現在の真壁刀義に改名するも、直後にアキレス腱を断裂してしまう不運も重なってしまう。しかし、どんな時も真壁は腐ることがなかった。2006年に復帰すると、現在のトレードマークであるチェーンをリングコスチュームに加えて、暴走キングコングスタイルを確立。天山が結成したヒールユニットG.B.Hに参加すると、ヒールレスラー真壁刀義として開花させる。その後、天山を追放しG.B.Hのリーダーになった真壁だが、2009年4月に矢野通ら、本間朋晃を除くメンバーが中邑真輔と結託して造反し、CHAOSを結成。G.B.Hは真壁と本間の2人だけになってしまったが、同年の『G1クライマックス』で初優勝を飾ると真壁人気が爆発。優勝インタビューで真壁がファンに「サンキューな」と語ったシーンは『G1』名場面のひとつである。 「テッペンから見える光景が見たい」この頃から真壁はIWGPヘビー級王座に狙いを定めていく。そして2010年5月、アキレス腱断裂の試合、G.B.H分裂の試合、『G1』決勝戦と、「いつも節目にはアイツがいた」という因縁の相手である中邑から、悲願のIWGPヘビー級王座の奪取に成功。真壁の苦悩を見てきたファンにはたまらない戴冠劇だった。 IWGP戴冠により、“スイーツ真壁”としてメディアの露出も増えていき、今では世間的な知名度のある現役プロレスラーNo.1と言っても過言ではない。真壁の表現力に対するメディアの評価も高いだけに、これからもプロレスラー真壁刀義の露出は増えていくだろう。 20周年記念試合では“盟友”本間とのタッグで、因縁が深いIWGPタッグ王者チーム、矢野&石井智宏に快勝。試合後には次期シリーズ『NEW JAPAN CUP 2017』の欠場を発表した。欠場理由については「まだ言えない」と口を濁したものの「ステップをもっと上げるため勝負してくる。でも、すぐ戻ってくる。それぐらいインパクトのある事をしてくるから」と欠場について予告した。詳細は追って発表される模様だが、真壁が世間に親しみやすく発信することにより、会場に行きやすい環境ができているのは事実であり、今の新日本プロレスにとって真壁は大きな財産である。「NEW JAPAN CUP 出場」を蹴ってまで選択しただけに、期待しながら発表を待ちたい。(どら増田)写真:ディーン・ニシオカ【新日Times vol.57】
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スポーツ 2017年02月24日 13時50分
「選手が試合で演出を盛り上げてくれた」ももクロ演出家も絶賛、無限大の可能性を秘めた若者たちのプロレス団体、新体制DNA発進!
【人気団体・DDTから独立、従来の興行とは異質な空間】 今年の3月で旗揚げ20周年を迎えるDDTプロレスリング(ドラマティック・ドリーム・チーム)。鍛え抜かれた肉体による熱い闘いに加え、他ジャンルの要素を採り入れた表現方法による幅広いエンターテインメント性をウリとする“文化系プロレス”と呼ばれ、女性ファンを中心に絶大なる人気を誇っているプロレス団体だ。来月20日にはさいたまスーパーアリーナメインアリーナにて20周年の集大成となるビッグショーを控えている。 そのDDTが次世代の人材を育成するべく2014年11月に起ち上げたのが、DNA(DDT NEW ATTITUDE)だ。従来のプロレス団体における新人と違い、スタートの時点で自分たちのリングを持ち実戦を通じて成長していくというもので、旗揚げ戦で初披露された選手たちは新人離れした肉体と確かな技術で「これがデビュー戦か!?」と見る者のド肝を抜いた。 その後は本体であるDDTへ出場するのと並行し、DNAとして興行を月イチペースでおこなってきたが昨年11月、DDTグループから運営をエス・ピー広告へ移管し、新体制としてさらなる独自路線を目指すことに。それまではあくまでもDDTの育成機関と見られていたが、高木三四郎・同社長は「DDTのライバル団体になるぐらいになってほしい」と期待を寄せた。 そこで大会プロデューサーとして白羽の矢を立てられたのが、ももいろクローバーZの演出で知られる演出家・映像ディレクターの佐々木敦規氏。過去にK-1や新日本プロレス東京ドーム大会も手がけており、かねてから高木社長のプロレス業界の枠にとらわれぬ手腕に着目し「いつか一緒にやってみたいと思っていた」という。 23日、歌舞伎町のど真ん中にある新宿FACEにて開催された新体制第1弾興行「FIGHTING GIG DNA EP.30〜Starting Signal 走れ!〜」は前売りの時点でチケットが完売。これは過去のDNA興行にはなかったことで「いったいどんな新しいものを見せてくれるのだろう」という期待感の大きさがうかがえた。新宿FACEは常設のリングがある会場だが「会場に入った時、今までのプロレス会場とは違う、アンダーグラウンドな世界に足を踏み入れた感じにはせず、きらびやかで派手なファンタジーな空間にしたい」と佐々木氏が語っていた通り、プロレスファン的には見慣れた光景がそこにはなかった。 ステージ席後方にはテレビのスタジオ収録で使われるような電飾のセットが設営され、そのセンターから選手たちが入場。照明も美術も佐々木氏が自らのチームを導入し、万全の態勢で臨んだ。 試合はこれまでのDNA同様、選手たちの個性が存分に発揮されたものに。この日に向けてコスチュームを新調したり、それまでコスチュームで隠していた上半身を初めて披露したりする選手もいるなど、やはりそれぞれの意識の変化が見られた。【東京03・豊本明長がサプライズ登場!】 そんな中、第3試合終了後に登場したのが東京03のメンバーであり、プロレス格闘技専門チャンネル「サムライTV」でキャスターも務めている豊本明長。敗れた選手が悔しさのあまり号泣しているところに「ウソ泣きなのはわかっていますから」と突っ込んだあと、ラッパーによるMCで試練の七番勝負を与えると告げた。佐々木氏いわく、豊本は「水差しアドバイザー」という位置づけで、メインのあとにも登場するとしれっとDNAの後楽園ホール初進出(5月10日)を発表。 「ももクロのライブでも松崎しげるさんがサプライズ登場し唄を歌うということがあったんですけど(DNAでは)メッセンジャーが必要かなと思いまして。それでプロレスにも詳しくてファン目線で発言してもらうのに合っていると思って豊本君を持ってきました」(佐々木氏) 第5試合のセミファイナルには総合格闘技イベント「PRIDE」で活躍した桜庭和志がタッグマッチに登場。DNAの新エースを狙うと宣言していた岩崎孝樹を得意の関節技で一蹴した。そしてメインイベントでは第64代横綱・曙が同じ角界出身でDNAのエース・樋口和貞とタッグを結成。カード発表会見でデビュー5戦目の新人ながら「横綱だかなんだか知らんけど、俺が投げてやる」とケンカを売ってきた吉村直巳の顔面を猛烈な張り手で吹っ飛ばし、230kgの体重で圧殺。一人で投げると宣言していた吉村だったが、パートナーの岡林裕二(大日本プロレス)との合体ブレーンバスターを決めるにとどまり、試合の方も樋口の得意技“轟天”によってプロ入り初黒星を喫した。 「自身プロレスファンなんで楽しめましたし、演出としては進行も含めハラハラドキドキしましたけれど試合が何よりよかったんで、選手の皆さんが演出を盛り上げてくれて感謝しています。点数をつけるとしたら…75点。これからも一つひとつの闘いに意味を持たせていきます。僕にできるのはゴングが鳴る前まで。今日はももクロやお笑いのファンの方々も来ていただけたと思うんですけど、そういう方々に次も見に来たいと思ってもらえたと思います」(佐々木氏) この日、DNAの練習生7名が初めてファンの前で紹介された。メキシコにある世界最古のプロレス団体・CMLLでトレーニング経験がある者、アニマル浜口ジム出身者、中国出身のボディビルダー、国士舘大学ラグビー部出身、柔術黒帯など逸材揃いで、プロレスラーを目指す者たちにとってDNAがいかに魅力あるリングとして映っているかが表れている。 今後は3月14日と4月21日に新宿FACE大会をおこない、その闘いの中でビッグマッチである5・10後楽園ホールのメインイベンターが決まる。これから無限大に成長していく選手たちの過程を追い続ける魅力が、DNAにはある。プロレスは点で見るよりも線で見た方が何倍も楽しめるジャンル。今からでもその中には入っていける。文◎鈴木健.txt
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スポーツ 2017年02月20日 16時00分
プロレス解体新書 ROUND39 〈日本人トップ同士の対決〉 小林の執念を打ち砕いた猪木
国際プロレスを飛び出したストロング小林は、アントニオ猪木とジャイアント馬場に挑戦状を叩きつけた。 これを受諾した猪木との頂上対決(1974年3月19日・蔵前国技館)は、力道山vs木村政彦の対戦以来との前評判に違わない、まさに伝説の名勝負となった。 アントニオ猪木の名勝負というのは、今もプロレスファンの間で語られるテーマの一つ。 「互いにテクニックを尽くしたビル・ロビンソン戦こそベスト」「全世界からの注目を集めたモハメド・アリ戦は外せない」など、意見は人それぞれだろう。 その一方で、相手側から見たときには、猪木戦こそがベストバウトというレスラーも多々存在する。 タイガー・ジェット・シンなどはその筆頭で、全日本プロレス移籍後もそれなりのポジションを与えられたが、今なお話題になるのは輪島大士のデビュー戦ぐらいのもの。 柔道からプロレスに転向したウイリエム・ルスカも、ついに最初の猪木との異種格闘技戦を超えるインパクトを残すことはなかった。 また、日本での試合に限定したときには、ジョニー・バレンタイン('66年に東京プロレス旗揚げ戦で猪木と対戦)、クリス・マルコフ('69年に日本プロレスの『第11回ワールドリーグ戦』決勝で猪木と覇を争う)、ジョニー・パワーズ('73年に新日本プロレスで猪木にNWF王座を奪われる)あたりも、猪木戦がベストマッチに違いない。 バレンタインやマルコフが日プロや全日で、それぞれジャイアント馬場の王座に挑戦したことを、いったいどれほどのファンが記憶しているだろうか。 「これら選手に共通するのは、攻撃的なラフ&パワーのレスラーという点。猪木の提唱した、いわゆる“風車の理論”は、相手の力を最大限に引き出した上でそれを利用して勝つというスタイルですが、そうした選手とはことさらに好相性だったのでしょう」(プロレス研究家) 猪木戦以外にも多くの名勝負を残しているハルク・ホーガンやスタン・ハンセンにしても、グリーンボーイの頃にそんな猪木と対戦したことが、自身のファイトスタイル確立につながった部分は大きい。 「猪木とアブドーラ・ザ・ブッチャーの相性が悪かったのも、同じ理屈で説明できます。ブッチャーは実況で『流血してから動きがよくなる』と言われたように、相手に攻めさせてからの逆襲が持ち味で、同じく受けのスタイルの猪木との試合がかみ合わなかったのは、必然の成り行きだったのです」(同) キャリア後半の猪木は、スティーブ・ウィリアムスやビッグバン・ベイダーの技を食らって、試合途中で失神する場面もあった。 「その頃には、もう肉体や試合勘の衰えが顕著だったにもかかわらず、昔と変わらぬ受け方をしたがゆえの“事故”でした。しかし、それは猪木が全盛時から、常に限界まで相手の力を引き出してきたことの証拠なのです」(同) “力道山vs木村政彦以来の日本人頂上対決”と謳われた猪木vsストロング小林もまた、パワーファイトを持ち味とする小林の力を猪木が最大限まで引き出した名勝負であった。 力道山の逆三角形の肉体に憧れて、高卒後の国鉄職員時代からボディービルで鍛えた小林は、国際プロレスからスカウトを受けて'66年にプロレスデビュー。 同団体のエースとして'72年の『第4回IWAワールドシリーズ』では、決勝トーナメントでドン・レオ・ジョナサンとモンスター・ロシモフ(のちのアンドレ・ザ・ジャイアント)を下し、見事に優勝を果たした。 「国プロ時代にはエドワード・カーペンティアやホースト・ホフマン、マッドドッグ・バションなど、プロレス史にその名を刻む名選手たちと戦ってきた小林ですが、それでも猪木ほど小林の強さと凄味を引き出したレスラーはいませんでした」(プロレスライター) 猪木と小林の対戦は、会場の蔵前国技館に入り切れなかったファンが、周囲を取り巻く熱気の中で行われた。開始早々に猪木がナックルでダウンを奪うが、そこから復活した小林は猛反撃に出る。 猪木必殺のコブラツイストを持ち前のパワーでかわした小林は、場外戦へなだれ込むと猪木を鉄柱に打ち付け、大流血に追い込む。 フラフラの体でエプロンに上がる猪木を、さらにパンチで追撃。ロープ越しにカナディアン・バックブリーカーで担ぎ上げた。 だが、一瞬の隙を突いて猪木はロープを蹴り、その反動でリバース・スープレックスに返すと、立ち上がった小林にバックドロップを炸裂させた。 さらに猪木は前後不覚となった小林の背後に回り、伝説のジャーマン・スープレックス・ホールド。首で小林の全体重を支え、マットに打ち付けた反動で猪木の両足が宙に浮くほどの一撃で、劇的な勝利を収めた。 「小林戦はもちろんプロレス史に残る名勝負ですが、猪木のパワーファイターとの相性のよさを思うと、きっと坂口征二とも小林戦ばりの名勝負が期待できたはず。坂口の新日入団後にシングルでの対戦はありますが、互いの立場を尊重した“大人の試合”に終わったのは実に残念です」(前出・プロレス研究家)
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スポーツ 2017年02月19日 12時00分
新日本プロレス『旗揚げ記念日』3.6大田区大会で、オカダ・カズチカ対タイガーマスクWのドリームマッチが実現! “夢の続き”が見られるか?
「1人、闘いたい相手がいます。ま、それはたぶん『NEW JAPAN CUP』に出ないと思います。でも、僕個人として興味があるのは、タイガーマスクW! まあ『NEW JAPAN CUP』には出ないと思います。そして、新日本プロレスがOKというのであれば、オカダ対タイガーマスクW、やらして下さい」 新日本プロレス2.5北海道立総合体育センター北海きたえーる大会のメインイベントで、鈴木みのるとの大熱戦を制し、IWGPヘビー級王座の防衛に成功したオカダ・カズチカは、次期挑戦者に『NEW JAPAN CUP 2017』(3.11愛知県体育館大会で開幕)の優勝者を逆指名。出場選手に対して「自信があるなら挑戦してこい!」と挑発すると、タイガーマスクWとの対決をブチあげた。このサプライズ発言に場内は騒然となり、客席のざわめきを感じ取ったオカダは「こういうように、お客さんがワクワクするような試合を、どんどんどんどんしてやる!」と叫んだ。 この発言を受けた新日本は、3.6『旗揚げ記念日』大田区総合体育館大会で、“NJPW旗揚げ45周年記念試合”として、オカダ対タイガーマスクWのスペシャルマッチを発表。さらに3.1後楽園ホール大会では、オカダ&外道対タイガーマスクW&タイガーマスクの前哨戦も組まれた。 昨年10月の両国国技館大会で、テレビアニメの世界から飛び出してきたタイガーマスクWは、これまで2試合を行っているが、対戦相手はレッドデスマスク、タイガー・ザ・グレートと、いずれもテレビアニメの世界と連動する選手との対戦だった。オカダもアニメに登場はしているが、現在のところタイガーマスクWとの対戦は描かれていない。 また注目すべき点として、3.1後楽園大会の前哨戦もドリームマッチとなっている。タイガーマスクWの登場により、ファンの間からは新日本に所属している(4代目)タイガーマスクとの関係はどうなるのか? という疑問が生まれていた。しかし、今回の前哨戦では“2匹の虎”がドリームタッグを結成する。タイガーマスクWのデビュー以来、この件に関して一切のコメントを発していないタイガーマスクが、試合後どのようなコメントを出すのかも含めて注目していきたい試合である。 旗揚げした3月6日は2015年から2年連続で『NEW JAPAN CUP』の開幕戦が行われてきた。“記念興行”が行われるのは、2014年のオカダ対飯伏幸太以来、3年振り。新日本にとっては都心では唯一となる平日のビッグマッチ。オカダとタイガーマスクWのドリームマッチ実現が与えるインパクトは強い。 「中身が誰なのかわからないですけど、タイガーマスクをやっている選手は良い選手ばかりなので」 オカダはタイガーマスクWに対する印象について、笑みを浮かべながらこう話している。ファンのリアクションが大きかったのは、タイガーマスクWのファイトスタイルが、1.4東京ドーム大会での、ケニー・オメガ戦で“未知の領域”に踏み込んだオカダと交わることにより、どんな化学反応を起こすのかという「ワクワク感」に他ならない。またこれまでノーコメントを貫いてきているタイガーマスクWの胸に、試合後どのような感情が芽生えるのだろうか。今のオカダなら何かを引き出してくれるんじゃないか? という期待値も大きい。 「夢のカード」が少なくなってしまったマット界において、他団体選手との対戦以外でこのようなカードを実現させてしまうのも、現在の新日本の勢いと強さを感じる。オカダ対タイガーマスクWの試合が、“夢の続き”のような闘いになることを期待したい。(どら増田)【新日Times vol.56】
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スポーツ 2017年02月12日 12時00分
新日本プロレス雪の札幌でシーン現象発生! オカダに敗れるも存在感を増した鈴木みのる
新日本プロレス11年振りとなる2月の札幌大会(雪の札幌決戦)開催となった、2.5北海道立総合体育センター北海きたえーる大会は5.545人(超満員)のファンが集まった。新日本の雪の札幌決戦といえば、1984年2月3日に札幌中島体育センター別館で行われたWWF(現・WWE)インターナショナルヘビー級選手権試合、藤波辰巳(現・辰爾)対長州力の試合前、長州の入場を実力がありながらも当時はまだ前座を温める存在だった藤原喜明が急襲。長州を戦闘不能に追い込んだことにより、試合が不成立になるという大事件が勃発。これをキッカケに藤原はメイン戦線に食い込んでいくことになったのだが、以降、雪の札幌決戦では“何かが起こる”というイメージがついた。11年前は2006年2月5日に月寒グリーンドームで開催され、メインのカードは棚橋弘至対中邑真輔。当時は選手の離脱などもあり、ビッグマッチにもかかわらず7試合しか組めなかった。勝利した棚橋が雪に飛び込んだ写真が専門誌の表紙を飾っている。 今回の大会ポスターにも「事件はいつも真冬の札幌で起こった!」というコピーが使われ、11年振りに復活した雪の札幌決戦を煽ったのもファンの注目を集めた。 メインでは1.4東京ドーム大会でケニー・オメガと46分45秒の激闘を制し、IWGPヘビー級王座を死守したオカダ・カズチカに、翌1.5後楽園ホール大会で鈴木軍のメンバーとともにオカダらCHAOSを急襲した鈴木みのる(以後みのる)が立ち向かう。その日2年振りに新日本マットに登場したみのるは、オカダをゴッチ式パイルドライバーでKOし宣戦布告。これをオカダが受ける形で、今大会でのタイトルマッチが決定した。 1月の秋田や前日の公開調印式でみのるは、鈴木軍のメンバーとともにオカダの膝に狙いを定めて、徹底的に攻撃。大会当日、オカダの膝はテーピングでガチガチに固められていた。オカダはケニー戦でも首筋に大きな痣を作るなどのダメージを負っていて、疲れも癒えぬまま「ファンタスティカマニア」シリーズに全戦出場という状態でシリーズを迎えただけに、満身創痍の体で札幌大会を迎えている。 「お前らが持っている宝は全部寄こせ!」 1.5後楽園大会で、新日本のリングをジャックしたみのるは、こう高らかに挑発した。その中で一番最初に狙いを定めたのが、IWGPヘビー級王座だったわけである。全日本プロレスの三冠ヘビー級王座、プロレスリング・ノアのGHCヘビー級王座を獲得してきたみのるだが、新日本のIWGPヘビー級王座はまだ獲得したことがない。新日本出身の選手なだけに、IWGPに思い入れがないと言ったら嘘になるだろう。事件が起こる雪の札幌決戦の発端となった藤原が、みのるの師匠というのも因縁を感じずにはいられない。シリーズ中、みのるも「事件を起こして欲しいんだろ?」と“事件”を匂わせていた。 事件が起こることを期待していたファンの気持ちとは裏腹に? 何も起こらないままメインを迎えた。しかしメインの試合の中で“事件”は起こった。みのるは膝十字固め、アンクルホールド、アキレス腱固め、ヒールホールドとあらゆる関節技でオカダの右足を攻めまくり、試合途中にはタイチやK.E.S.のメンバーにも介入させたり、イス攻撃などでオカダを悶絶させた。この非情な攻めに対し、会場が凍りつき“シーン現象”が起きたのだ。みのるが所属している団体である初期のパンクラスは、試合の攻防に固唾を呑むファンが静まり返る“シーン現象”が話題となっていた。理由は異なれど、現在の新日本マットで“シーン現象”が起こるのは異例で、これは事件と言ってもいい。テレビでゲスト解説を務めていた棚橋も「お客さんが静まり返っている」と会場の異変を指摘している。試合はそんな空気をドロップキックで一変させたオカダがこん身のレインメーカーで勝利。試合時間40分46秒。ケニー戦に続く40分超えの死闘となったが、まったく違う色の試合を制したことで、オカダは絶対王者に向けて大きく歩みだしたのではないだろうか。棚橋も「オカダはチャンピオンの試合をしている」とコメント。オカダは、次の挑戦者は3月に行われる「NEW JAPAN CUP 2017」(NJC)の優勝者と前置きしつつ、「ひと通り(の選手と)やったので」という理由から、闘いたい選手としてタイガーマスクWの名をあげ、ノンタイトルでのドリームマッチ実現を提唱した。 しかし、みのるとの抗争を「終結」させたいオカダに対して、インタビューブースに“立って”現れたみのるは…。 「オカダ・カズチカ、これで終わったと思うな。今日は、すべての始まりの日だ。お前たちの、お前たちの最後は、もうすぐだ。今日はすべての始まりだ。フハハハハ」 と、抗争の「始まり」を宣言。札幌大会以降の鈴木軍とCHAOSのタッグ対決も連勝を重ねている。特にみのるは引き続きオカダの右足に狙いを定め、苦痛を味合わせることで存在感をアピールしている。オカダと最短で再戦を行うには、NJCに参加し優勝するのがベストだが、NJCではCHAOS以外の選手と対戦する可能性も秘めているだけに、そこでIWGPヘビー級王座以外の「宝探し」に発展することもあり得るだろう。 今年の6月で49歳を迎えるみのるだが、層が厚く若い選手が台頭している新日本マットにおいても存在感は増すばかり。みのるの2年振りの復活は、かつて抗争を繰り広げた永田裕志ら、同世代の選手にも刺激を与えるはずで、さらなる活性化につながる。 今年、旗揚げ45周年を迎える新日本プロレス。“外敵”でありながらも“昭和の新日本プロレス”を知る男、鈴木みのるの一挙手一投足から目が離せない。(どら増田)写真:広瀬ゼンイチ【新日Times Vol.55】
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スポーツ 2017年02月10日 16時00分
プロレス解体新書 ROUND38 〈ジュニア版名勝負数え歌〉 生き残りを懸けた越中の執念
全日本プロレスを飛び出して新日本プロレスに流れ着いた越中詩郎と、新日からUWFの流れで純粋培養された高田伸彦(現・高田延彦)。 ルックスも含めて好対照な両者の対戦を白熱させたのは、生き残りを懸けた越中の執念だった。 IWGPジュニアヘビー級王座の初代チャンピオンは誰か? これが即座に分かる人はなかなかのプロレス通だ。答えは越中詩郎。1986年2月6日、同王座決定リーグ戦においてザ・コブラをジャーマン・スープレックスで下し、これを獲得している。 さらに越中は、'88年に始まる『トップ・オブ・ザ・スーパージュニア』(現在も毎年開催されている『ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア』の前身)の初代優勝者でもある。 高校卒業後、いったんは就職しながらプロレスラーの夢を諦めきれず、見習い期間を経て全日に入団した越中。後輩にあたる三澤光晴との対戦は、早くから“前座の黄金カード”としてコアなファンから注目されていた。 '84年にはその三澤と共に海外修行のためメキシコへ渡ったが、そこで両者それぞれに転機が訪れる。三澤が2代目タイガーマスクになるため日本に戻された一方で、越中には何のお呼びもかからなかったのだ。 1人で異国に残されて、「俺は必要とされていないのか」と不安にさいなまれる越中。そこに声をかけたのが、全日と興行戦争の最中にあった新日だった。 UWFや維新軍の大量離脱に見舞われた当時の新日だが、その中でも悲惨だったのがジュニア勢。初代タイガーマスクの後継とされたザ・コブラは一向に人気が上がらず、ライバルとされたダイナマイト・キッドやデイビーボーイ・スミス、小林邦昭らは相次いで全日に移籍。あまりの人員不足のため、コミカルファイトで前座の顔に定着していた荒川真(ドン荒川)まで、タイトル戦線に駆り出したほどだった。 「正直なところ新日は越中がどんな選手かもはっきりとは把握しておらず、“元全日の肩書で多少なりとも話題になれば”という程度の考えでした」(団体関係者) 最初のIWGPジュニア王座戴冠も、いわば箔付けの意味だけのこと。わずか3カ月後には、同年から新日のリングに復帰していたUWF勢のホープ・高田伸彦に、あっさりとパイルドライバーで3カウントを奪われ、王座を明け渡すことになる。本来ならばここで使い捨てにされても不思議はなかったが、越中にとって幸いだったのがやはり選手層の薄さであった。 王者・高田は初防衛戦で越中を退けると、次のコブラの挑戦も両者リングアウトで防衛。その試合後にコブラはあっさりマスクを脱いで、素顔のジョージ高野としてヘビー級に転身してしまう。そうなるとほかの新日正規軍のジュニア勢は、デビュー3年目の新人だった山田恵一(のちの獣神サンダー・ライガー)ぐらいしかいない。 それで越中に再度のチャンスが巡ってきたわけだが、とはいえこれは単なる員数合わせではなく、先のリターンマッチの内容を評価されてのことだった。 「越中vs高田の最初の2戦はいずれもテレビ中継なし。それだけファンからの期待は薄かった」(プロレスライター) ストロングスタイルの新日とショーマンスタイルの全日、この思想は当時の新日ファンの間に深く浸透していた。 「全日ナンバー3との触れ込みのタイガー戸口ですら、新日で大した活躍ができなかったのだから、前座の越中なんてすぐ消えるに決まっているという、強烈な先入観があったのです」(同) 一方の高田はUWF所属だが、もとは新日の選手。UWFの強さやテクニックを信奉するファンは多く、形式的に新日正規軍扱いされている越中よりも、むしろ高田こそがストロングスタイルの正統後継者と見られていた。 これは高田自身も同様で、当初は越中のことを「技も気迫もない選手」と見下しており、年齢で4歳、プロレス歴で1年先輩にあたる越中を「エッチュー」と蔑称することに一切ためらいはなかったと、のちに語っている。 だが越中は、そんな周囲からの低評価を執念で覆していった。 実況の古舘伊知郎が“わがままな膝小僧”と称した高田の蹴りを受けまくり、最初は一発でダウンを喫していたものが、数発受けても耐えるようになり、ついには蹴りをくらった直後に反撃するまでになる。 最初は見た目のコミカルさから失笑の対象だったヒップアタックも、使い続けるうちに精度を増し、必殺技と認知されるに至った。そんな越中を応援する声は日増しに大きくなり、ついに主役の一角にまで上り詰めたのだった。 生まれながらの天才や怪物ばかりがスターではない。蹴りまくられる一方で“人間サンドバッグ”とさげすまれた越中が、ジュニア版名勝負数え歌の一端を担うまでに成長を遂げる、そんな物語もまたプロレスの醍醐味なのである。
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スポーツ 2017年02月05日 16時00分
プロレス解体新書 ROUND37 〈究極の外国人頂上対決〉 東京ドームが揺れた喧嘩マッチ
アンドレ・ザ・ジャイアントvsスタン・ハンセンと並び、外国人対決の最高峰と称されるのが“皇帝戦士”ビッグバン・ベイダーと“不沈艦”スタン・ハンセンの一戦である。 片や新日本プロレス、片や全日本プロレスで、共に外国人トップを張っていた両雄。互いのプライドと団体の看板を懸けた“絶対に負けられない闘い”が東京ドームを揺るがせた。 昨年12月、ビッグバン・ベイダーが「医者から余命2年を宣告された」と、米国のテレビ番組内で告白した。うっ血性心不全との診断で、これは心臓から血液を送り出す働きが低下して、むくみや息苦しさなどが生じるもの。病状が進行すると、肺水腫による呼吸困難などの危険があるという。 今後はヨガによるダイエットで症状の改善を目指すとされ、減量で延命がかなうのならば、ぜひともそう願いたいものである。 1987年12月、ベイダーの日本初登場は、観客の暴動騒ぎというマイナスイメージから始まった。試合に至るまでのドタバタや3分ほどでの決着というしょっぱい試合内容も、すべては対戦相手のアントニオ猪木とアングルをつくった団体側の責任であり、ベイダーに一切の非はなかったが、当初の“たけしプロレス軍団の刺客”という、うさんくさい触れ込みのせいでファンからは色眼鏡で見られていた。 それでも常連外国人として定着すると、徐々にそのポジションを高めていく。 「身長190センチ、体重170キロの巨体から繰り出すド迫力のパワーファイトと、時にムーンサルトプレスも繰り出すほどの軽快な身のこなし。そうした身体能力の高さに加えて、甲冑からスモークを噴き上げるパフォーマンスも秀逸でした。さらに団体の意向を理解した上で、しっかり自分に与えられた役割を果たすだけの“プロレス頭”のよさまで備わっているのだから、人気が出たのも当然です」(プロレスライター) 日米でトップを張りながら、プロレスの隠語でいう“セル(技を派手に受けるなど対戦相手を引き立てて見せ場を作ること)”もいとわない。 「有名なところでは'96年、東京ドームでの猪木戦が挙げられます。ベイダーの投げっぱなしジャーマンで意識の飛んだ猪木に対し『ガンバッテーガンバッテー』と檄を飛ばしながらベイダーハンマーの連打で試合をつなぐと、最後は背中に当たった延髄斬りで一回転してのフォール負け。引退を間近に控えた猪木に対する、ベイダーの心遣いがうかがえた試合でした」(同) 全般的な能力の高さがあったからこそ、新日本に始まりUWFインターナショナル、全日本、ノア、さらには米国でもWCWにWWFとさまざまな団体を渡り歩き、いずれも頂点に君臨することとなった。 「引く手あまたの中、契約違反まがいのことも何度かあったようですが、それでも団体側が使いたくなる価値が高い選手だったわけです」(スポーツ紙記者) 晩年にはハッスルなどのエンタメ系や、一般には誰も知らないような“どインディー団体”にも精力的に参戦した。 そんな幅広いキャリアを誇るベイダーが、自ら『男と男の闘いだった』とベストバウトに挙げるのが、'90年2月10日、新日本の東京ドーム大会『'90スーパーファイトIN闘強導夢』におけるスタン・ハンセン戦である。“ベルリンの壁崩壊”とも称された全日本勢の参戦や、大相撲から転向した北尾光司のデビュー、橋本真也の「時は来た!」発言など…話題山盛りだった同大会の中にあっても、ベイダーとハンセンによる外国人頂上決戦はひときわ熱い闘いとなった。 ベイダーの持つIWGP王座に、ハンセンが挑戦する形で組まれたこの試合。すでにベテランの域にあったハンセンだが、挑戦者らしくゴング前から猛然と突っかかっていく。これにベイダーも応じると、試合序盤から激しい肉弾戦が繰り広げられた。 ベイダーハンマーがラリアット気味にヒットすると、お株を奪われたハンセンは目の色を変えてパンチ、エルボーを乱れ打ち。そんなハンセンをグラウンドに捕らえたベイダーだが、そこで異変が起こる。 やにわに立ち上がったベイダーはコーナーにもたれかかると、かぶっていたマスクを脱ぎ捨てたのだ。その右目はドス黒く腫れ上がり、ほとんどふさがった状態。マスクを脱いだのは視界を確保するための緊急措置だった。 会場内のオーロラビジョンにベイダーの姿が大映しされると、そのただならぬ様子を察した観衆からどよめきが起こった。だが、そんなアクシデントさえも2人は意に介することなく、さらに試合は激しさを増していく。 驚愕に値するドロップキックまで披露して、むしろいつも以上の動きを見せるベイダーに対し、ハンセンもついに“伝家の宝刀”ウエスタン・ラリアットを抜くが、これは勢いを欠いて倒すまでに至らない。 闘いの場をリングの外に移しても、互いのプライドと団体の看板を懸けた殴り合いは収まることなく、ついに両者リングアウトの裁定が下された。 完全決着ならずとも観客に不満の声はなく、それどころか逆に大歓声が送られたのであった。なお、この試合の評判は本場の米国にまで届き、のちになってWCWのリングで両者の対戦が再現されている。
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スポーツ 2017年02月05日 12時00分
IWGPジュニア王者高橋ヒロム、最初の旅のお相手は“ライバル”ドラゴン・リー
「(質問は)終わりですか? 終わりなら帰りますよ。早く休みたいんで。これだけ記者の人がいるのに、寂しいですね。もっと強くなった、質問してください」 1.4東京ドーム大会で、チャンピオンKUSHIDAの厳しい攻めを耐えしのぎ、悲願のIWGPジュニア王座を獲得した高橋ヒロム。試合後、インタビュースペースに現れると、ベルトへの思いを一方的にまくし立て、集まった報道陣から質問が出ないと見るや、冒頭のコメントを残し控室に引きあげた。 大会前には、KUSHIDAを圧倒するとかなり強気な発言が出ていたが、約3年半に渡り新日ジュニアの中心選手として、内部だけではなく他団体(ジュニア)のトップ相手でも、底知れぬ強さを誇示してきたKUSHIDAの壁は、ヒロムが想像したよりも高く厚かったのかもしれない。 この会見でヒロムは「俺はこのIWGPジュニアのベルトと一緒にこれから旅をしていく」と話していたが、「IWGPヘビー級王者にも負けないIWGPジュニア王者になりたいから、その自信がつくまでは帰らない」と昨年の1月に語っていたヒロムの実力は、どこまで本当なのか。これからはじまる旅(防衛ロード)で、真価が問われることになる。 そして早速敵が現れた。 ドームでの戴冠に喜んだのも束の間、翌5日の後楽園ホール大会に、メキシコCMLLのドラゴン・リーが乱入したのである。リーは試合を終えたヒロムを急襲し、ブレーンバスターボムでKOすると、ヒロムが持っていたIWGPジュニア王座のベルトを掲げて、挑戦をアピールした。 「俺はナンバー1になりたいんだ。去年、ファンタスティカマニアで、ヴィールスと闘っていた時に、カマイタチが突然やってきた。だから、今回は、俺が日本にやってきたんだ。カマイタチとは、日本でもメキシコでも、ROHでも闘ってる。今日は、カマイタチのタイトルに挑戦するためだけに、俺は日本に来た。明日もうメキシコに帰る」 インタビュースペースでリーは、とても興奮した口調で改めて挑戦表明をした。リーは新日本プロレスとCMLLの合同興行「ファンタスティカマニア」シリーズでのタイトル戦を望んでいたようだが、新日本はビッグマッチである、2.11エディオンアリーナ大阪大会での対戦を発表。「ファンタスティカマニア」では幾度か前哨戦を行っている。 この2人はヒロムがCMLLに、カマイタチというマスクマンで参戦してから因縁が勃発。2015年3月には、敗者覆面剥ぎマッチを行いカマイタチが敗れたため、カマイタチの正体がヒロム(リングネームはカマイタチのまま)であることが明らかになってしまった。その後も抗争を繰り広げた2人だが、リーも話しているように、昨年1月23日の後楽園ホール大会にカマイタチが乱入。リーを急襲すると、リーが保持するCMLL世界スーパーライト級王座に挑戦表明。翌24日の後楽園大会でリーへの挑戦が急遽決定した。その試合で2人はファンの心を掴む試合をやってみせたのは、記憶に新しいところ。その試合はカマイタチが勝利を収め、王座を奪取している。今回のタイトル戦は、2人の立場を入れ替えるかたちで行われるのが面白い。 ヒロムが「オマエ(リー)は、俺のこと、もっと! もっと!! もっと!!! もっと!!!! もっと!!!!! もっとー!!!!!! 楽しませてくれる相手」と言えば、リーも「俺とアイツの試合は、どこへ行っても、必ず満足してもらえるような試合になる」と語るなど、お互いを認め合っているのは間違いない。海外遠征時代に抗争を繰り広げていた選手と、帰国後もライバル関係を継続し、IWGPジュニア王座というジュニア最高峰のベルトを懸けて試合ができるというのは、これから旅をはじめるヒロムにとって、大きな財産ではないだろうか。恐らくこれからも、ヒロムの前にはリーが節々に現れるはず。まだまだ伸びしろがあるだけに、成長とともに試合も進化していくだろう。 2.11大阪大会はまたもや事前完売をしている。メキシコやアメリカのファンを唸らせた黄金カードは、目の肥えたなにわのファンも唸らせるのは間違いない。(どら増田)写真:ジョー・オアンコ【新日Times Vol.54】
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スポーツ 2017年01月30日 16時00分
プロレス解体新書 ROUND36 〈猪木vsモンスターマン〉 異種格闘技戦での屈指の名勝負
1977年8月2日、日本武道館で行われたアントニオ猪木vsザ・モンスターマンの一戦は、異種格闘技戦でも屈指の名勝負と言われる。 緊張感みなぎる好勝負を制した猪木は、これにより“世紀の凡戦”と揶揄されたモハメド・アリ戦の雪辱を果たすこととなった。 そもそも、アントニオ猪木による『格闘技世界一決定戦』とは何か? 「異種格闘技戦として他の試合とひとくくりにされることもあるが、当初は猪木がモハメド・アリ戦を目標として始めたもの。世界的なステータスをもつボクシングに対抗して、プロレスの地位向上を図ったわけで、その志はやはり比類すべきものがない」(スポーツ紙記者) もちろん猪木にしても、ライバルであるジャイアント馬場への対抗心や、功名心などがあってのことには違いなかろうが、その結果として現役のボクシング世界ヘビー級王者を自らの舞台に引きずり出した。そんな偉業は空前絶後である。 では、アリ戦以外の試合についてはどうだったか。 ウィリエム・ルスカとの対戦に始まり、海外の試合を含めると20戦余り(引退間近、ファイナルカウントダウン名義のジェラルド・ゴルドー、ウイリー・ウィリアムス、ドン・フライらとの試合は含まず)。 その中には“プロレス界の代表を決める”との名目で行われたアンドレ・ザ・ジャイアント戦や、小錦の兄というだけの素人だったアノアロ・アティサノエ戦など、異種格闘技と呼ぶにはふさわしくないものもあったが、時系列的には大きく二つに分けられる。 一つは'76年12月のアクラム・ペールワン戦までで、アリ戦の前哨戦として行われたルスカ戦や、アリ戦後に「俺とも闘え」と挑戦を受けることになったペールワン戦など、いずれもアリ戦から派生した一連の闘いである。 しかし、これ以降の試合についてはやや趣が異なってくる。途中からWWF格闘技世界ヘビー級のベルトが懸けられるなど、興行色の強いものとなっていったのだ。 「異種格闘技戦ではテレビ朝日の中継が、特番の『水曜スペシャル』枠となり、通常の中継とは別に放映権料が出た。アリ戦で負った莫大な借金返済に苦しむ猪木と新日本プロレスにとっては、実にありがたいものでした。また、テレ朝にしてもアリ戦では、調印式に生中継、同日録画中継と特番が3本、それぞれが高視聴率を稼いだことから、猪木の格闘技戦はドル箱番組との認識だったようです」(新日関係者) 同時期の『水曜スペシャル』といえば、川口浩探検隊シリーズが大看板。 「数字さえ取れるなら内容なんて構わない…と言っては何ですが、世間から“世紀の凡戦”と酷評されたアリ戦も、視聴率を稼いだという結果をテレ朝側は重視したのでしょう」(同) そうして“新装開店”となった異種格闘技戦で、緒戦の相手はザ・モンスターマンことエベレット・エディ。全米プロ空手世界ヘビー級王者なる触れ込みで猪木への挑戦に名乗りを上げると、'77年8月2日、3分10ラウンドの特別ルールにより、日本武道館での対戦が実現した。 筋肉質で引き締まった褐色の巨体は、未知の強豪としての風格たっぷり。長い脚を自在に操りながら、目いっぱい伸ばすようにして放つ蹴りは、のちに猪木が「これまでに見たことのない動き」と、うなったほどだった。 ハイキックにニールキック、さらには延髄斬りとモンスターマンの多彩な蹴り技に、猪木は翻弄されながらもカニ挟みなどで反撃の機会をうかがい、第3ラウンドには反則のエルボーまでも繰り出していった。アリ戦とは打って変わった倒し倒されの両者の攻防に、観衆もヒートアップする。 決着は第5ラウンド。両者もつれたところで猪木が強引にモンスターマンの体を抱え上げ、パワーボム風に頭から落とし、とどめのギロチンドロップでKO勝利を収めた。この試合は猪木の異種格闘技戦の中でも、屈指の名勝負と言われることが多い。 「ただ、モンスターマンの蹴りは腰が入っておらず、相手に当てるだけのテコンドーのようなタイプ。膝も伸びきっていたし、どれだけ威力があったかは疑問です。とはいえ技自体の見栄えはよく、当時のプロレスにおける蹴りといえば、ドロップキックかストンピングぐらい。ハイキック自体が珍しかったので、異種格闘技という意味では大成功でしょう」(格闘技記者) もっともこんな声もある。 「モンスターマン戦が好勝負となったのは、猪木が受けに回ったことで緊張感が生まれたから。逆に言えば、これ以降の“でくの坊”呼ばわりされた選手たちも、むしろその責任は、積極的に相手を光らせようとしなかった猪木にあったのでは?」(前出・新日関係者) 自身の体調悪化もあったろうし、集金目的の試合にモチベーションを保てなかったのかもしれない。最初のうちはやる気を見せながら、そのうち飽きてしまうというのは、猪木ならばいかにもありそうな話である。
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