ルックスも含めて好対照な両者の対戦を白熱させたのは、生き残りを懸けた越中の執念だった。
IWGPジュニアヘビー級王座の初代チャンピオンは誰か?
これが即座に分かる人はなかなかのプロレス通だ。答えは越中詩郎。1986年2月6日、同王座決定リーグ戦においてザ・コブラをジャーマン・スープレックスで下し、これを獲得している。
さらに越中は、'88年に始まる『トップ・オブ・ザ・スーパージュニア』(現在も毎年開催されている『ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア』の前身)の初代優勝者でもある。
高校卒業後、いったんは就職しながらプロレスラーの夢を諦めきれず、見習い期間を経て全日に入団した越中。後輩にあたる三澤光晴との対戦は、早くから“前座の黄金カード”としてコアなファンから注目されていた。
'84年にはその三澤と共に海外修行のためメキシコへ渡ったが、そこで両者それぞれに転機が訪れる。三澤が2代目タイガーマスクになるため日本に戻された一方で、越中には何のお呼びもかからなかったのだ。
1人で異国に残されて、「俺は必要とされていないのか」と不安にさいなまれる越中。そこに声をかけたのが、全日と興行戦争の最中にあった新日だった。
UWFや維新軍の大量離脱に見舞われた当時の新日だが、その中でも悲惨だったのがジュニア勢。初代タイガーマスクの後継とされたザ・コブラは一向に人気が上がらず、ライバルとされたダイナマイト・キッドやデイビーボーイ・スミス、小林邦昭らは相次いで全日に移籍。あまりの人員不足のため、コミカルファイトで前座の顔に定着していた荒川真(ドン荒川)まで、タイトル戦線に駆り出したほどだった。
「正直なところ新日は越中がどんな選手かもはっきりとは把握しておらず、“元全日の肩書で多少なりとも話題になれば”という程度の考えでした」(団体関係者)
最初のIWGPジュニア王座戴冠も、いわば箔付けの意味だけのこと。わずか3カ月後には、同年から新日のリングに復帰していたUWF勢のホープ・高田伸彦に、あっさりとパイルドライバーで3カウントを奪われ、王座を明け渡すことになる。本来ならばここで使い捨てにされても不思議はなかったが、越中にとって幸いだったのがやはり選手層の薄さであった。
王者・高田は初防衛戦で越中を退けると、次のコブラの挑戦も両者リングアウトで防衛。その試合後にコブラはあっさりマスクを脱いで、素顔のジョージ高野としてヘビー級に転身してしまう。そうなるとほかの新日正規軍のジュニア勢は、デビュー3年目の新人だった山田恵一(のちの獣神サンダー・ライガー)ぐらいしかいない。
それで越中に再度のチャンスが巡ってきたわけだが、とはいえこれは単なる員数合わせではなく、先のリターンマッチの内容を評価されてのことだった。
「越中vs高田の最初の2戦はいずれもテレビ中継なし。それだけファンからの期待は薄かった」(プロレスライター)
ストロングスタイルの新日とショーマンスタイルの全日、この思想は当時の新日ファンの間に深く浸透していた。
「全日ナンバー3との触れ込みのタイガー戸口ですら、新日で大した活躍ができなかったのだから、前座の越中なんてすぐ消えるに決まっているという、強烈な先入観があったのです」(同)
一方の高田はUWF所属だが、もとは新日の選手。UWFの強さやテクニックを信奉するファンは多く、形式的に新日正規軍扱いされている越中よりも、むしろ高田こそがストロングスタイルの正統後継者と見られていた。
これは高田自身も同様で、当初は越中のことを「技も気迫もない選手」と見下しており、年齢で4歳、プロレス歴で1年先輩にあたる越中を「エッチュー」と蔑称することに一切ためらいはなかったと、のちに語っている。
だが越中は、そんな周囲からの低評価を執念で覆していった。
実況の古舘伊知郎が“わがままな膝小僧”と称した高田の蹴りを受けまくり、最初は一発でダウンを喫していたものが、数発受けても耐えるようになり、ついには蹴りをくらった直後に反撃するまでになる。
最初は見た目のコミカルさから失笑の対象だったヒップアタックも、使い続けるうちに精度を増し、必殺技と認知されるに至った。そんな越中を応援する声は日増しに大きくなり、ついに主役の一角にまで上り詰めたのだった。
生まれながらの天才や怪物ばかりがスターではない。蹴りまくられる一方で“人間サンドバッグ”とさげすまれた越中が、ジュニア版名勝負数え歌の一端を担うまでに成長を遂げる、そんな物語もまたプロレスの醍醐味なのである。