スポーツ
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スポーツ 2015年08月02日 13時00分
甲子園100周年 知られざる「白球史」と「暗黒史」(1)
100回目の夏。『第一回中等学校優勝野球大会』の名で産声を挙げた夏の甲子園大会が、今年、節目を迎えた。大正4年に始まったこのイベントが、なぜこんなにも日本人に愛されてきたのか。夏の甲子園とは、郷愁の文化でもある。 その郷里を思い出す大会は、政治を動かしたこともあった。 昭和33年、夏の甲子園大会は節目の40回を迎え、その記念大会として、当時、アメリカ領だった沖縄県を加え、大会史上初となる全都道府県の代表校を揃えた。その沖縄県代表校の座を勝ち取った首里高校は一回戦で敗れ、他校の球児同様、甲子園の土を持ち帰った。しかし、彼らを待っていたのは辛い現実だった。 那覇港に到着した彼らは、甲子園の土を捨てるよう、指示される。アメリカの法律では外国の土は持ち込めず、植物検疫法に抵触した。甲子園の土も『外国の土』と見なされ没収。首里校ナインが涙ながらに甲子園の土を捨てる姿は大きな反響を呼んだが、この話には続きがあった。 日本航空の客室乗務員、近藤充子さんが甲子園の小石を同校に届けた。小石はグラウンド整備中に取り除かれたもので、約40個あった。客室乗務員という職業上、「植物検疫法に土は抵触するが、石は対象外となる」盲点を知っていたのだ。 同大会に出場した他校有志も、甲子園の土で作った皿を贈っている。首里高ナインの涙は、『沖縄返還運動』をさらに高め、昭和47年5月の返還へと繋がっていく。 沖縄県勢が初めて全国の頂点に立ったのは、平成11年(沖縄尚学)。首里高校が出場してから41年目の春だった。夏の甲子園を制したのは平成22年の第92回大会である(興南高校)。 また、『甲子園の土を持って帰る儀式』だが、その始まりには諸説ある。昭和23年、小倉中等学校(現・小倉高/福岡県)のエース、福嶋一雄氏が準々決勝で敗れた後、ひと握りの土をポケットに入れた。それが第1号だという。 昭和12年夏の第23回大会。決勝戦を戦った後、熊本工業高校の川上哲治・元巨人軍監督が袋に入れたとも伝えられている。川上哲治記念球場、熊本工にはそれらしき品物は残されていないが…。 甲子園の土は島根県にもある。甲子園球場では定期的に土の入れ替え作業が行われている。のちに衆議院議員も務める岩國哲人氏が出雲市長だったころ、『出雲ドーム』が着工された。大阪府出身の同氏は、その着工中に甲子園球場の土の入れ換えがあることを知り、そのまま譲り受けたのだ。島根県庁にも確認したが、出雲ドームのマウンドは甲子園の土で造られたそうだ。 近年、甲子園のような天然芝と土の野球場は少なくなった。同球場は阪神園芸の優秀なスタッフによって整備されてきた。その職人芸のグラウンド整備について、甲子園常連校の一つ、横浜高校元野球部長・小倉清一郎氏は、 「春と夏で外野の芝の固さが微妙に違う」 と語ったことがある。 違って、当然なのである。センバツ後、阪神タイガースは甲子園でペナントレースを戦う。それに揃えて芝を手入れするのだが、阪神園芸のスタッフは、内外野ともに「イレギュラーをさせないこと」に努めてきた。いまだイレギュラーで球児に怪我を負わせたことは一度もなく、彼らはそこにポリシーを持っている。 5回裏が終了した時点での水撒きにしても、適度な乾きを残す“微妙な加減”があるという。
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スポーツ 2015年08月02日 11時00分
「余命数カ月」の情報も… 角界上層部がひた隠す 北の湖理事長“重病説”(2)
これが事実だとすると、これまでのように親方や力士たちの先頭に立って采配は振るえないだろう。 「北の湖理事長の任期は来年の1月まで。当面は八角事業部長が代行、あるいは補佐してしのぐことになりそうだが、問題はその後だ。体調面さえクリアできれば、もう1期(2年)、北の湖時代が続くとみられていたが、今の状態ではとてもそんな余力はなさそう。今期限りで辞任し、次の理事長にバトンタッチする可能性が高い」(前出の担当記者) 後任としては、現在、有力な候補が2人いる。理事長代行を務めている八角親方と、企画担当部長などの要職にあるナンバー3の貴乃花親方だ。 「どちらも次期理事長に意欲は十分。両者の微妙な思惑が交錯しているだけに、協会上層部が北の湖理事長の病状をひた隠しにしているのかもしれません」(同) 一方、本来ならこの理事長選に割って入ってもおかしくない九重親方も、初日から全休した。こちらも「内臓疾患で約3週間の入院が必要」というだけで、詳しい病名や入院先などは一切、公にされていない。 この突然の休場に驚いた協会関係者は多かった。というのも、先場所後の5月31日、太刀持ちに白鵬、露払いに日馬富士の両横綱を従え、60歳には見えない筋肉隆々とした体で堂々と『還暦土俵入り』を披露。「(定年まで)あと5年。残された在籍期間をしっかりがんばっていきたい」と語ったばかりだったからだ。 しかも、千代大龍や千代鳳といった弟子たちすら、病名はおろか入院した事実を知らず、「新聞を見てビックリした」と話しているほどなのである。このことから、北の湖理事長同様、九重親方の入院も相当に深刻な事態だと察せられる。 「九重親方は自分の体に絶対の自信を持ち、酒も毎晩のようにあおっていました。それもかなり強い洋酒を…。もしかしたら胃や肝臓などが悲鳴を上げているのかもしれません」(一門関係者) とはいえ、次のように揶揄する協会関係者もいる。 「還暦土俵入りで集まった招待客は約1200人。会費は1人3万円で、ご祝儀も含めると、九重親方のフトコロには相当な金額が転げ込んできたはず。必要経費を差し引いても、内臓が冷えてしまうようなことはないはずだけど…」 昭和を代表する大横綱2人の相次ぐ病欠が、波紋を呼んでいることは確かだ。
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スポーツ 2015年08月02日 10時00分
小塚桃子ゴルフ連載(43) 第八部・ 「千葉でのラウンドについて」
みなさん、こんにちは。いよいよ、本格的な猛暑到来ですね。熱中症にはくれぐれも気をつけて下さいね。さてさて、私がよく行くゴルフ場は千葉が多いです。 千葉のゴルフ場は、とても平らなコースが多く、練習場と変わらず穏やかに打つことができます。私は比較的、平らなコースが好きなので、千葉ばかりに集中してしまいます。一方、練習場は平らでスムーズに打つことができても、いざ、アップダウンが激しいコースに出てしまうと、どうやって打っていいのか分からなくなり、叩いてしまいます。 スコアがまとまらないと「飛ばしたい!飛ばしたい!」となるので、スイングもおかしくなり、結果的に力む原因にもなり、悪循環に陥ります。ですので、最近調子が悪いな…と感じたときやスイング改善のときなどは、平らなコースでラウンドすることをオススメします。逆に、「最近スコアがイイ!!」という際には、結構トリッキーでアップダウンのあるコースに挑戦します。 私の場合、一度行ってみて少しスコアが良かったら、2.3回はアップダウンのあるコースに行きます。 アップダウンのあるコースでラウンドしてから、平らなコースに出るととても簡単に思えて、スコアも前回よりグンッと伸びます。調子によって、平らで簡単なコース、難しいコースなどを組み合わせながらラウンドしてみては如何でしょうか。 アップダウンのあるコースに出る際には、事前に前下がりのライの場合、ボールがどっちに行くんだっけなぁ…等々をしっかり頭に入れてからラウンドするとスイングに集中できることから、気持ちに余裕が生まれ、落ち着いてプレーすることができます。 私はいつもレディースティーからプレーするのですが、気持ちに余裕がある際には、今日は平らな簡単なコースだから「練習も兼ねてのラウンド」と決めて、レギュラーティーからプレーします。余裕があって、ゆるりとラウンドする場合は、1つ後ろから打つのもオススメです。 ライの詳しい事は、以前にもご紹介していますので、そちらをご覧いただければと思います。小塚桃子オフィシャルブログ「季節はずれのももリンダ」 http://ameblo.jp/koduka-momoko/
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スポーツ 2015年08月01日 18時38分
USA発 新聞、テレビではわからないMLB「侍メジャーリーガーの逆襲」 移籍話が急浮上した裏では何が起きているのか? 7月のトレード期限前に“ヤンキース岩隈”が誕生!?
大リーグでは7月末のトレード期限を前に、様々な憶測が飛び交っている。日本人選手で名前が出ているのが岩隈久志だ。 7月末トレードは地区優勝の圏内にいるチームが脱落したチームから即戦力になる選手を獲得し、見返りに将来有望なマイナーのホープを放出する形で行われる。動く可能性が高いのは(1)契約最終年、(2)計算できる、(3)ベテランという3つの条件を備えた選手だ。 岩隈は現在34歳でベテランの域に入っており、マリナーズとの契約は今季まで。しかも、故障がなければ3.00前後の防御率を期待できるので、3つの条件すべてに当てはまる。そのうえ実力はエース級なのに年俸は700万ドル(8億4000万円)なので金銭的な負担が多くないのも魅力だ。 岩隈獲得に動く可能性を取りざたされているのはヤンキースだ。 ヤ軍は7月23日現在ア・リーグ東地区の首位だが、同地区は団子レースの様相を呈しており、同率4位のオリオールズまで6ゲーム差しかない。ヤ軍の一番の弱点は先発ローテーションで、エースの田中将大と2番手のピネダはある程度計算が立つが、3番手のサバシアは防御率5点台、4番手のイボルディも4点台後半で安定感を欠き、5番手のノバもトミージョン手術から復帰したばかりで多くを期待できない。そのため終盤の優勝争いと、ポストシーズンを勝ち抜くには7月末のトレードで計算できる先発投手を一人補強する必要があるのだ。 ヤ軍が一番欲しいのは昨年まで在籍した黒田博樹のようにQS(6回以上を自責点3以内)をたくさん稼いでくれる投手だ。今季のヤ軍は不良資産化していたアレックス・ロドリゲスとタシェアラが復活し得点力が大幅にアップした。そのため先発投手が7回まで2、3点に抑えてくれれば、8回と9回はメジャー最強の逃げ切りコンビとなったベタンセスとAミラーに任せられるので、高い確率で勝利をゲットできる。 岩隈は黒田同様、沈む軌道の速球とスプリッターを多投するグラウンドボール・ピッチャーなので、一発の出やすいヤンキースタジアム向きの投手でもある。 岩隈はメジャーで最もコントロールのいい投手の一人と評価されている。毎年夏に『ベースボール・アメリカ』誌が行うアンケートでも岩隈はア・リーグの『ベスト・コントロール』部門の2位に2年連続でランクされている。 マリナーズにはメジャー屈指の右腕フェリックス・ヘルナンデスがいるため目立つ存在ではないが、記者たちからはエース級と認識され、一昨年のサイヤング賞投票では3位に入った。 他球団の評価も高く、レッドソックスは昨年オフ、岩隈なら十分エースとして機能すると見て、中心打者の一人セスペデスとの交換トレードを画策したがマ軍が拒否し実現していない。 この時点で岩隈は4年6000万ドル(72億円)〜5年7000万ドル(84億円)と評価されていた。しかし、今季は開幕から別人のように制球が悪く、3試合連続で4失点以上した後、広背筋(肩から背中の方に伸びる筋肉)を傷めていることが制球難の原因と判明しDL入りした。一度良くなりかけてから、再度悪化し復帰まで2カ月以上かかったため評価は大きく下がったが、復帰2戦目から本来の制球力が復活したため、現在は2年3000万ドル(36億円)〜3年4000万ドル(48億円)レベルの契約をゲットできるまで評価が戻っている。 ヤンキースは2012年の7月末トレードでイチローを獲得し、大いに活用している。それ以外にもヤ軍とマリナーズはここ数年、いくつかトレードを成立させており、7月末までにヤ軍からトレードの申し入れが来る可能性は十分ある。 だが、トレードが成立する確率は10%程度だろう。 マ軍は7月22日現在、43勝51敗でア・リーグ西地区の4位。地区優勝はおろか、プレーオフ進出をかけて1試合戦うワイルドカードを獲得できる望みもなくなっている。そのため7月中には再建モードに入り、7月末トレードで高額年俸のベテランや、伸び悩む中堅どころを2、3人放出する可能性が高い。しかしローテーション入りしている若手が伸び悩んでいるので、あと1、2年は岩隈を先発2番手で使いたいところだ。 それに加え、マ軍は昨年亡くなった任天堂の山内溥元会長が実質的なオーナーだった。山内氏の米国での利益代表だったハワード・リンカーン氏(米国任天堂元会長)が現在も球団社長の地位にある。そのためチームに日本人選手を置いておきたいという意志が強い。 一方、ヤ軍側にも岩隈獲得に見合った交換要員を用意できないというチーム事情がある。ヤ軍はここ数年、目先の戦力補強のためマイナーのホープを次々に放出してしまいマイナーに2、3年後に主力選手に成長しそうな逸材が見当たらない。日本のメジャーファンとしては楽天時代のように岩隈と田中が米国きっての名門ヤンキースの両エースとしてチームを牽引するのを見たいところだが、7月末に実現する可能性は低い。スポーツジャーナリスト・友成那智ともなり・なち 今はなきPLAYBOY日本版のスポーツ担当として、日本で活躍する元大リーガーらと交流。アメリカ野球に造詣が深く、現在は各媒体に大リーグ関連の記事を寄稿。'04年から毎年執筆している「完全メジャーリーグ選手名鑑」(廣済堂出版)は日本人大リーガーにも愛読者が多い。
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スポーツ 2015年08月01日 18時37分
駆け込みトレード期限終了間際 日本人選手は戦力になれず?
7月31日。この日はMLBの各球団フロントが目の回るような忙しさに見舞われる日だ。 メジャーリーグの慣例では、優勝戦線から脱落したチームはシーズン中でも早々に来季に向けた戦力編成に入る。下位チームは高額年俸のベテラン、今季限りで複数年契約が切れる慰留不可能と判断された主力選手などを放出し、交換要員として有望な若手選手を獲得する。対照的に、優勝圏内にいるチームはピンポイントで弱点を補強し、終盤戦を少しでも優位に戦おうとする。そんなシーズン途中のトレードが可能な期限が7月31日までであり、この時期に移籍する選手はペナントレースの行方を左右すると言っても過言ではないのだ。 「ドジャース、ブルージェイズ、ナショナルズなどのスカウトが、岩隈久志の登板を見ていました。岩隈のいるマリナーズはワイルドカード争いでも7ゲーム差の10位や11位というところ。岩隈が駆け込みトレードの標的にされる可能性もありましたが、具体的なアクションはありませんでした。今回、日本人メジャーリーガーはトレード市場からは完全に蚊帳の外状態です」(現地特派記者) 2011年に上原浩治(40)がこの時期のトレードを経験している。オリオールズからレンジャーズへ移籍し、レ軍のポストシーズン進出に貢献した。今季も駆け込みトレードの標的は主に投手のため、上原や田澤純一の動向にも注目が集まると思われた。だが、レッドソックスは苦戦が続いているものの、プレーオフ進出を諦めていない。上原と田澤を手放さないとの見方が支配的で、唯一の可能性が伝えられていた岩隈も前述の通りである。しかも、岩隈に関しては、 「マリナーズのジャック・ズレンシックGMは慎重すぎる性格なので、他球団はトレードを申し込みにくいと見ています」(同) そんな慎重すぎるGMの性格を物語るエピソードがある。現マリナーズは外野守備に難があり、一番打者を任せられる選手も欠いていた。そこへ、6月28日付けシアトル・タイムズ紙が〈短い期間に限定し、イチローを呼び戻すべきだ〉という記事を出したのだ。たしかに、イチローがヤンキースに移籍した12年7月以降、マリナーズは一番打者を固定できていない。さらに同紙は、イチローを呼び戻すべきか否かという緊急読者アンケートを行い、68.59%がYESの回答だったとも掲載している。慎重なGMを動かすため、「地元ファンも臨んでいる」とトレードを訴えたわけだが、実現には至らなかった。 「ズレンシックGMはパワー重視の打線に舵を切ったため、指名打者タイプばかりの打線になってしまいました。当然ながら守備難や失策による失点が増えています。しかし、ここでイチローを呼び戻せば、自身の判断が間違っていたことを認めたことになる。ズレンシックGMのメンツが邪魔をしたという面もあったようです」(米国人ライター) マーリンズもイチローを残留させる方向ではあるが、「交換要員次第ではどうにでもなった」(同)という。ひょっとしたら、岩隈を放出しないのも、「ローテーション投手喪失後の若手起用」の度胸がなかったからではなかろうか。 この時期のトレード市場に日本人メジャーリーガーの名前が出ないということは、同時にポストシーズンに誰も進めない可能性が高まっているということになる。
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スポーツ 2015年08月01日 18時28分
「余命数カ月」の情報も… 角界上層部がひた隠す 北の湖理事長“重病説”(1)
大相撲名古屋場所は、横綱白鵬の史上最多35回目の優勝で幕を閉じた。 このところの相撲人気はとどまることを知らず、今年に入ってずっと満員御礼の垂れ幕が下がりっぱなし。4場所連続で“15日間オール満員”を記録し、千賀ノ浦・名古屋場所担当部長(元関脇舛田山)は、「ここで記録を途絶えさせるわけにはいかないと思っていた。最高の結果を出せてホッとしている」と満面の笑みを浮かべていた。 名古屋場所の15日間連続大入りは、若貴フィーバーで盛り上がっていた平成10年以来、実に17年ぶりのこと。幕内の取組にかかる懸賞の数も計1509本と場所最多を記録するなど、人気沸騰を物語る現象も相次いだ。つい3年前には、八百長問題の影響から48億円もの巨額の赤字を出し、協会首脳が青い顔をしていたのがウソのような人気ぶりなのである。 しかし、そんなわが世の春を謳歌する輪の中に、昭和の大相撲界を彩った大横綱、北の湖理事長(62)と九重親方(元横綱千代の富士=60)の姿はなかった。 いずれも病気入院していたのだが、北の湖理事長には“重病説”も流れ、活況の裏で大相撲界は怪しく揺れ動いている。 「体調を崩した北の湖理事長は7日目に緊急帰京し、都内の病院に入院しました。当初は病名も発表されず、千秋楽までには再び名古屋に戻って表彰式に出席するということだったのですが、結局はナンバー2の八角事業部長(元横綱北勝海)が代行しました。『両側水腎症』という病名が公表されたのは入院から4日後。千秋楽翌日の横綱審議委員会の欠席もギリギリまでアナウンスされず、この慌ただしさにも事態の深刻さが表れています」(担当記者) 両側水腎症というのは、尿が体外に排出されず、腎臓にたまる病気で、北の湖理事長はただちに尿管を広げる手術を受けたという。理事長に近い関係者が次のように明かす。 「理事長は3年前に直腸がんになり、内視鏡による除去手術を受けています。また一昨年末にも大腸ポリープを切除する手術を受け、腸閉塞を併発して去年の初場所を途中まで休みました。さらに、これは伏せられていますが、去年の秋には膀胱がんも見つかったそうです。体質的に“がん持ち”で、どんどん広がり、病状は深刻化する一方。今回の入院も、一連の病気に関連があるのではないかと心配しています」 一部では、「がんは肝臓や肺などに転移している」とのウワサもあるという。“怪童”と呼ばれ、史上最年少で横綱に駆け上がった北の湖理事長だけに、いまだ体力は一般人とは比べものにならないが、「余命数カ月」という情報まで駆け巡っているというのだ。
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スポーツ 2015年08月01日 11時45分
100周年 2015年夏の甲子園 「プロ野球経験者の指導は高校野球を変えるか?」
『学生野球資格に関する協議会』で、学生野球資格回復の条件緩和が検討されたのは、平成25年1月17日だった。それまでプロ野球経験者が高校球児を教える場合、教員免許の取得と2年以上の在職実績が必要とされていた。セカンドキャリアに学生球児の指導者を選んだ元プロ野球選手は、まず教員免許を取得するのに苦労していた。高校卒でプロ入りした元選手は大学に入り直す。大学卒の元選手も母校に編入・再入学して教職課程を取得する。大学卒の編入組は『学生2年+教務実績2年』で4年、高卒組は6年の遠回りとなる。それが手続きを加えても数日程度の座学で、指導者資格が取れるのだから、元プロ野球選手たちは喜んだ。 しかし、こうも考えられなくはないだろうか。研修、座学を受講した程度で高校球児を正しく導くことができるのか、と…。 先頃、横浜高校監督・渡辺元智氏が神奈川県大会決勝戦で指導者人生の幕を閉じた。渡辺氏は春夏甲子園通算51勝を上げた名将だが、歴代3位となるその勝ち星の内訳が興味深い。氏は1967年秋に横浜高校監督に就任しているが、70年代、80年代、90年代、2000年代のそれそれで日本一になっている。 渡辺氏は横浜高校から神奈川大学に進んだが、肩を故障して選手を断念。大学も辞めてしまったが、コーチの打診があり、横浜高校に戻った。しかし、同氏は76年に大学に入り直している(夜間)。73年センバツですでに日本一を経験したのに、である。教員を兼ねたのは「グラウンドだけでは、生徒たちの気持ちを把握しきれない」と思ったからだという。 「他校の年長監督に経験談を聞き、練習方法で自分なりにアレンジし、野球以外の識者とも積極的に話をしていました。野球に生かせるものがあればとの思いからでしょう」(関東圏私立高校指導者) 横浜高校OBに聞いても、『監督・渡辺像』は世代によって違う。40、50代のOBは「怖かった」と話すが、30代や20代後半は「よく話し掛けてくれた」と言い、30代の一部は「寡黙なイメージ」とも語っていた。年代ごとに日本一を経験しているが、世代や生徒たちの性格に合わせ、教え方を変えていたのではないだろうか。そのために、先輩指導者や識者の話を積極的に聞いていたのかもしれない。 野球技術は元プロ野球選手の方が優れているが、高校野球の指導はそれだけでは成り立たない。研修、座学を受けただけで、人間形成や生活指導に携われるのだろうか。高校野球の監督とは着任してからが「始まり」であって、過去の栄光や経歴は通用しない世界とも言えそうだ。(スポーツライター・美山和也)○昭和59年 日本学生野球協会は高校教諭の在職が10年を越えれば(実習教員、臨時講師を除く)で元プロのアマ資格復帰の申請を認め、さらに日本高野連の審査を経たうえで高校野球の指導ができる規定を作った。○平成6年 教諭在職を5年以上に改正。○平成9年 教諭在職を2年以上に改正。○平成23年 高校教諭だけでなく、臨時講師の在職期間もカウントできることになった。○平成24年 高校教諭、同臨時講師だけでなく、特別支援学校や中学校の教諭、臨時講師の在職期間もカウントできるようになった。○平成25年 教員在職2年間の条件をなくす緩和案が出される。
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スポーツ 2015年07月31日 14時00分
USA発 新聞、テレビではわからないMLB「侍メジャーリーガーの逆襲」 速球の威力では日本人投手No.1、上原の後継者へ… 田澤純一が克服すべきブルージェイズ恐怖症
日本のプロ野球ではセ・リーグが史上まれに見る団子レースになっているが、米大リーグでも人気球団ひしめくア・リーグ東地区が、首位ヤンキースから最下位レッドソックスまで6ゲーム差しかない大混戦になっている。 レッドソックスは開幕前、優勝候補と目されていたが、オフに補強した先発投手が揃って不調。自慢の強力打線も長距離砲のオーティズとナポリがスランプ。守備でも大事な場面でエラーが頻発といった悪材料が重なり、シーズン前半は苦戦を強いられた。それでも、まだ優勝の望みがある5つの負け越しで前半戦を終えることができたのは、8回を田澤純一、9回は上原浩治という黄金リレーがしっかり機能したからだ。 それに伴い田澤の見事な働きにスポットライトを当てた記事も散見されるようになった。人気スポーツサイトの『SOSH』は「見過ごされている男・田澤純一」という見出しの記事を掲載し「田澤は優れたセットアッパーからトップレベルのセットアッパーに成長した」と賞賛した。 他の日本人大リーガーと比較して田澤が特に秀でているのは「速球の威力」だ。 米国のアナリスト集団の中には、被打率、ストライク率、奪三振率などいくつかのキーデータを組み合わせて各投手の持ち球のレベルを評価しているところがある。その代表格である『ファングラフス』のピッチバリュー(球種評価)を見ると(表参照)、日本時代は、「日本球界1のストレート」と見なされていた田中将大やダルビッシュの速球は、平均よりかなり低い点が付いている。この2人ほど低くはないが、空振りを取れることで知られた和田毅の速球もマイナス2.6という「中の下」レベルの点数だ。 そんな中でただ1人、プラス5.4という高い評価を受けているのが田澤だ。 田澤の速球は大半がフォーシームの速球(通常の速球、日本でいうストレート)で、強烈なバックスピンがかかっているため全盛時の江川卓のようにホップする軌道を描く。ピッチングの基本線はこれを高目に、スプリッター(フォークボール)を低目に投げ分けて打者を空振りかフライアウトに仕留めるパターンだが、今季はスプリッターの制球が悪いこともあり、速球主体のパワーピッチングで凡フライに仕留めることが多くなった。これで効率よく凡フライに仕留め、決め球はスプリッターではなくフォーシームになった感がある。 日本人大リーガーでは一番と評価されるようになった田澤の快速球は、'09年のレッドソックス入団時にはなかったものだ。レ軍1年目である'09年、田澤の速球の平均スピードは144.4キロだったが、'10年3月にトミージョン手術を受けた結果、復帰後に球速がアップし、術後2年目の'12年こそ平均球速は144.4キロだったが、'13年には150.4キロにアップして、日本人投手きっての速球派に成長した。 これまで渡米後トミージョン手術を経験した日本人投手は6人いるが、結果がこれほど大きなプラスになったのは田澤だけだ。 田澤のもう一つの長所は「酷使に耐えるラバーアーム」という点だ。 ラバーアームは「ゴムの腕」という意味で、どんなに酷使しても使い減りも故障もしない投手をさす。日本人投手はここ数年、ヒジや肩の故障で長期欠場するケースが多くなっており、米国では壊れやすい投手の代名詞になっている。そんな中で田澤は昨年チーム最多の71試合に登板。今季もここまでチーム最多の39試合に登板しており、最終的に70試合以上登板するのは確実な情勢だ。 田澤のこうしたタフさは、日本人投手にも酷使に耐える男がいることを知らしめる結果になっており、彼のラバーアームぶりはもっと評価されてもいいように思う。 田澤に期待されているのは上原浩治の跡を継いでレッドソックスのクローザーになることだ。上原は来期まで契約があり、アクシデントがなければ'17年から後任を任されることになるが、上原は来季41歳。来季の途中で故障し、そのまま田澤にバトンタッチとなる可能性もある。 だが、それまでに克服しておくべき課題が一つ。「ブルージェイズ恐怖症」だ。 ブ軍は同地区のライバルで打線にホームランバッターを並べて相手を打ち負かす攻撃野球のチームだ。フライボール・ピッチャーの田澤は、このチームとやると外野フライがホームランになってしまうため以前から苦手にしていて、'13年以降、打たれた17本塁打のうち9本はブ軍相手に打たれたものだ。 それを知っているためレ軍のファレル監督は、ブ軍戦では逃げ切りパターンになっても8回に田澤を起用しないケースが見られるようになった。 クローザーになれば、ブ軍だけはパスというわけにはいかなくなる。今後は、点差が開いた場面などで志願して登板し、苦手意識をなくしておく必要がある。スポーツジャーナリスト・友成那智ともなり・なち 今はなきPLAYBOY日本版のスポーツ担当として、日本で活躍する元大リーガーらと交流。アメリカ野球に造詣が深く、現在は各媒体に大リーグ関連の記事を寄稿。'04年から毎年執筆している「完全メジャーリーグ選手名鑑」(廣済堂出版)は日本人大リーガーにも愛読者が多い。
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スポーツ 2015年07月31日 12時10分
100周年 2015年夏の甲子園 「高校野球の転機は金属バット導入」(後編)
1974年第56回夏の甲子園大会で、金属バットが解禁された。解禁年を大会全体で見てみると、同年の大会総本塁打数は11。木製バットのみだった前年は10本である。たった1本の違いしかないのに、なぜ、この年が「高校野球=攻撃、大量得点」のイメージを定着させたのだろうか。 私見だが、金属バット解禁の前年第55回大会決勝戦と試合内容があまりにも対照的だったからかもしれない。 73年夏の大会を征したのは、広島商(広島県)だった。迫田穆成監督(現広島県如水館高校監督)の率いる広島商といえば、「犠打、エンドラン、スチール」などの小技を巧みに絡めて勝ち上がっていくスタイルだった。地方大会では相手校のスクイズを警戒し、外野手1人を呼び、「内野5人体制」で備えたこともあるという。 勝ち上がっていけば、好投手とぶつかる。お互い、点が取れない。だから、1点を必死に守る攻防になる。73年、広島商が夏の甲子園大会決勝戦を、スリーバントスクイズでサヨナラ勝ちしている。 それに対し、金属バットの反発力の高さを存分に発揮したのは、池田高校(徳島県)である。打って、打って、打ちまくる豪快なスタイル。82年夏、池田高校は全国の頂点に立つが、その決勝戦の相手が広島商だったのは、単なる偶然だろうか。 同年、広島商も金属バットを使っていたが、池田に18安打の猛攻を浴び、2対12で敗れている。広島商の高度、かつ緻密な野球スタイルを築き上げた迫田監督は、このとき、同校の指導から一線を退いていたが、後のインタビューなどで、 「細かい野球ならいくらでも対応できるが、『ホームラン行け』の指示で本当に長打を打ってくるチームには対応のしようがない。金属バットだからこそできる野球」 と回顧している。 高校野球では3点差でリードしていても、決して“安全圏”ではない。金属バットのせいばかりではないが、高校野球は下位打線でも一発が出る。プロ野球はもちろんだが、大学、社会人の野球は木製バットを使っている。金属バット独特の「カキーン」という打撃音も悪くないが、1点を必死に守る攻防を見てみたいと思う。(スポーツライター・美山和也)
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スポーツ 2015年07月30日 17時00分
俺たちの熱狂バトルTheヒストリー〈藤田和之vsミルコ・クロコップ〉
2001年8月19日、『K-1アンディ・メモリアル2001』での藤田和之vsミルコ・クロコップ。およそ全ての格闘技ファンが、藤田の勝利を疑っていなかった−−。 猪木軍vsK-1軍の大将戦として組まれたこのカード。藤田はこの頃、新日本プロレスを主戦場としていたが、前年PRIDEグランプリでは“霊長類ヒト科最強”マーク・ケアーを下すなど、日本の総合格闘技におけるヘビー級のトップと目されていた。 片やミルコは総合初挑戦。この試合に向けてアメリカで総合用の特訓を積んだとはいうが、付け焼刃の感は拭えない。 選手の格で見ても、このころのミルコはK-1においてピーター・アーツ、ジェロム・レ・バンナらトップ勢に次ぐ2番手グループの扱いであった。 つまりミルコは、今後繰り広げられるであろう抗争の序章として猪木軍に捧げられた“生け贄”であり、藤田vsアーツや藤田vsバンナの前哨戦…これが偽らざる周囲の評価であった。 「さらに言えば、当時の総合格闘技においては日本なら桜庭和志、UFC(アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)でもティト・オーティズなどのレスリング出身選手がトップを張っていた。グレイシー柔術の神話も根強く残っていて“寝技有利、立ち技不利”が定説だったのです」(格闘技ライター) そのためK-1など立ち技の経験しかないミルコが、まさかレスリングベースの藤田に勝つなどとは、プロレスファンでなくとも想像していなかったのだ。 そうした予想の通り、ゴングが鳴ると藤田は特に警戒する様子もなく、何度かタイミングを計ったところでミルコの脚にタックルを決める。サイドポジションを取られたミルコはなすすべもない。 このまま勝負は決するかと思われたところで、レフェリーのストップがかかる。 「寝技から逃れようとしたミルコが、ロープをつかむ反則でも犯したのだろうと思ったのですが…」(スポーツ紙記者) 立ち上がった藤田の額からはマットに滴るほどの大出血。タックルが決まる直前に放たれたミルコのヒザ蹴りによるものだった。 結果、ドクターストップでミルコに凱歌が上がる。藤田は納得のいかない様子で抗議を続けるが、裁定が覆ることはなかった。 「完全に藤田の勝勢だっただけに“K-1にハメられた”というプロレスファンもいました。互いの身体が血で染まるような試合はテレビ向きではないという判断もあったかもしれない。だけど後に映像で確認すると、狙い済ましたヒザ蹴りがものすごい勢いで額を直撃している。あれを間近に見て、さらにおびただしい出血となれば、レフェリーがストップをかけたのも仕方がない」(同・記者) それでも、この試合に対する大方の見解は「アクシデントさえなければ藤田の勝ち」であった。 確かにあのまま試合が続いたならば、藤田がミルコを決めて勝つ可能性も高い確率であっただろう。しかし、それは“頭蓋骨の厚さが常人の2倍”ともいわれる藤田の頑丈さがあってのこと。普通の選手ならばヒザ一撃で失神KOとなっても不思議はなかった。 それを「ミルコに総合の技術なし」「くみしやすし」と判断したことが、プロレス界に悲劇を招くことになる。 「脚へのタックルに対し、ミルコは狙ってヒザを合わせてきたわけで、そうなると安易に飛び込むことはできない。ならば、まずパンチやキックでミルコの態勢を崩す必要があるけれど、立ち技はミルコの得意分野であり、普段本格的な打撃練習をしていないプロレスラーの手に負えるものじゃない。タックルもできない、立ち技でも勝てないとなれば、実はプロレスラー側には攻め手がないのです」(格闘誌記者) ところが、次にミルコと戦った高田延彦は、試合中に足を骨折したため終始グラウンド状態で引き分け。「寝転ぶ高田に何もできないミルコはやはり総合適正なし」と勘違いを増幅させることになった。 そうして迎えた大みそか。永田裕志はミルコのハイキックの前に一撃KOの敗北を喫する。 以後、プロレスは冬の時代を迎え、一方のミルコは総合格闘家としての才能を開花させていった。
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