スポーツ
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スポーツ 2015年08月06日 13時00分
夏の甲子園100周年 高校野球トリビア
1915年に全国高等学校野球選手権大会、いわゆる夏の甲子園が始まって今年で100周年。今年の同大会もこれまで以上の盛り上がりを見せることであろう。そこで、これまでの100年間の歴史を振り返るトリビアをご紹介。■甲子園の土を持ち帰った第一号は? 出場校が主に敗退時に甲子園の土を持って帰る習慣についてだが、その始まりには諸説ある。昭和23年、小倉中等学校(現・小倉高/福岡県)のエース、福嶋一雄氏が準々決勝で敗れた後、ひと握りの土をポケットに入れた。それが第一号だとされるが、それに意義を唱える“大御所”がいる。 昭和12年夏の決勝戦を戦った後、熊本工業高校の川上哲治元巨人軍監督(故人)が袋に入れて持ち帰ったそうだ。川上哲治記念球場、熊本工にはそれらしき品物は残されていないが、後年、故人は「母校のマウンドに撒いた」と話していた。 また、甲子園の土は島根県のグラウンドにも存在している。甲子園球場は定期的に土の入れ替え作業が行われており、のちに衆議院議員も務める岩國哲人氏が出雲市長だったころ、『出雲ドーム』が着工された。大阪府出身の氏は、その着工中に甲子園球場の土を入れ替えがあることを知り、使い古された土をそのまま譲り受けたのだ。島根県庁にも確認したが、出雲ドームのマウンドは甲子園の土で造られているという。■「整列、礼」は高校野球が発案した儀式 明治44年8月、東京朝日新聞は「野球とその害毒」なる連載を22回掲載した。その中にこのような一文がある。 〈〜省略〜野球商売人になるということは、学生としては目的の変換で学会の敗亡者である。父兄の意に添わぬものである〉 裏を返せば、当時の学生たちが、それだ野球に熱中していた証とも言える。また、中沢良夫高野連二代目会長と佐伯達夫同三代目会長は、昭和40年、高校野球の発展に長年尽くした功績が認められ、朝日賞に選ばれた。そのとき、中沢会長は第一回大会を振り返って、こう話している。 「〜省略〜あのころ、野球は“毬投げ”と蔑まれ、一般には不良がやるものと考えられていた。そこで私は、そんなに悪いものなら、批判した朝日新聞が先頭に立ってやり方を直し、野球を教育の場にしたら良いだろうと…」 夏の甲子園大会の前身、全国中等学校野球大会は教育行事として始まった。見る者にも“教育であること”を伝えるため、野球を発祥したアメリカにもない試合前の「整列、礼」を取り入れられた。それが今日も続いているのである。■何故、高校野球は戦後直後の昭和21年に復活できたのか? 昭和21年2月25日、朝日新聞大阪本社会議室で、現在の高野連の前身となる全国中等学校野球連盟を設立する総会が開かれた。その後、次のような社告が打たれた。 〈朝日新聞社主催全国中等学校野球大会は、昭和十七年第二十七回大会予選半ばで中止されたまま今日に至りましたが、全国各地から寄せられる同大会復活への力強き要望にこたえて、社会情勢の許す限り、今夏を期し復活開催することに決定しました。明朗健全たる国家の建設は、スポーツによってつちかわれるフェアプレーの精神、すなわちスポーツマンシップに…〉 昭和23年、学制改革により、中等学校は『高等学校』に改編された。それを受け、全国中等学校野球連盟は全国高等学校野球連盟(高野連)と改称され、今日に至っている。 昭和24年、全国高等学校体育連盟(高体連)が結成される。文部省(当時)は高野連も高体連に加えようとしたが、高野連は日本学生野球協会への加盟を選択した。同協会はGHQ教育部のJ・W・ノーヴィル少佐などが支援した。GHQは戦後の民主主義を繁栄させるため、独自の道を歩んできたのである。 高校野球とは近代日本の文化でもあるようだ。(スポーツライター・美山和也)
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スポーツ 2015年08月05日 16時00分
トップの座を巡る熾烈な攻防 プロ野球“セ弱”で監督総入れ替え! 仁義なきベンチ裏マル秘レポート(3)
今季で契約切れとなる監督がもう一人いる。広島・緒方孝市監督(46)だ。 現役引退と同時にコーチに就任し、満を持して登場した幹部候補生だが、「1年1年が勝負」との思いから、単年契約を自ら希望したという。 「今年くらい優勝を意識してシーズンに臨んだ年はありませんよ。1億円強の年俸を提示して獲得したグスマン、さらにエルドレッドの故障が長引くと見るやいなや、いきなりシアーホルツを獲得。黒田帰還もあり、これで負けるようなら、緒方監督も無傷ではいられない」(前出・ベテラン記者) 昨季活躍した若手野手が他球団に研究されたのが、開幕ダッシュ失敗の原因とされているが、後半戦には“救いの要素”も。 「先発投手が豊富で、夏場以降は広島が有利でしょう」(前出・飯山氏) クライマックスシリーズ進出が監督続投の最低条件だが、それを果たせても、広島は自らの首を絞めることになるかもしれない。 今オフ、WBCに次ぐ世界大会『プレミア12』が開催される。侍ジャパンの人選はこれからだが、NPB内部には「広島勢を多く」との声も出ているからだ。 「侍ジャパンの課題は人気です。テレビ視聴率が2ケタいくかいかないかで、観客数も芳しくない。その理由は若手中心の選出だからです。侍ジャパンは球界全体の新たな収入源であり、人気を上げるためにも、広島のレギュラー陣は不可欠」(前出・球界関係者) 標的は黒田博樹だ。黒田の性格を考えると、「球界全体のため、日本のため」と、腕がちぎれても全力投球するだろう。丸佳浩、菊池涼介、捕手の會澤翼も選出された場合、彼らは“ボロ雑巾”のように使われる。 広島は、CSに滑り込んでも地獄が待っているわけだ。 奇妙な空気がベンチに漂っているのは中日だ。 去る7月9日の阪神戦、谷繁元信兼任監督(44)と森繁和ヘッドコーチ(60)の間に行き違いが生じた。同点の11回表、谷繁が一塁に出るなり、森ヘッドの指示で控え捕手の桂依央利がベンチを飛び出し、谷繁のもとに走った。 「代走、桂」と思いきや、谷繁は「あっち行け」のポーズを見せたのである。 谷繁がグラウンドに出ているときは、森ヘッドが司令塔。それが両者の申し合わせのはずだが、谷繁はその裏の守り以降も、まだ自分が捕手としてマスクを被る気でいたのかもしれない。 谷繁はその回の攻撃が終わるなりバッテリーごと交代。追い返された桂が、その後、球団史上初の“後逸”でサヨナラ負けしたのだ。 「マスクを被らせるのなら、俊足の桂を代走から出した方が良かった」(担当記者) このギクシャクした空気は、8月に一軍昇格が予定され、同月11日に50歳を迎える山本昌の登板にも影響しかねない。 「50歳での公式戦登板はメジャーにも前例がなく、米メディアも注目しています。ただ、今の中日の状態では“世界記録”を消化試合で行うことになる。それでは山本を昇格させにくいという声がある反面、谷繁兼任監督と森ヘッドの仲を繕うことができるのは山本昌しかいないという意見もあるのです」(同) 一方、館山昌平が復帰したヤクルトの存在も不気味だ。安定感抜群のオンドルセク、ロマン、バーネットの外国人リリーバーに繋げればベンチは勝利を確信できるから、来季も安泰なのは真中満監督(44)だけだ。 とはいえ、勝率5割に満たないチームが日本シリーズに出れば、セは歴史的汚点を残す。セ6球団監督の首筋に流れるのは冷や汗か、それとも…。
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スポーツ 2015年08月05日 13時00分
甲子園100周年 知られざる「白球史」と「暗黒史」(4)
過去100年の間には、次世代に語り継ぐべきではない暗黒史も多くあった。 世相が原因で「大会中止」となったのは、大正7年、第4回大会。7月25日から地方大会が行われ、14代表(当時)が決まっていたにもかかわらず無念の決定だった。原因は「米騒動」。全国的な規模に拡大していた暴動には、甲子園も敵わなかった。 見事に優勝を果たし、地元・愛知に深紅の優勝旗を持ち帰った中京商(現・中京大中京)だったが、校長室に飾られていた優勝旗が突如紛失したのは昭和29年第36回大会後。40〜50人の刑事が動員され周囲の山狩りまで行われたが発見には至らず。しかし、捜索開始から85日目に付近の中学校の床下で発見。全国の高校野球ファンもホッと胸をなでおろした。だが、紛失の経緯など詳細はいまだに分かっていない。 石川・星稜高校の4番打者、松井秀喜の5打席敬遠事件が起こったのは、平成4年、第74回大会。「教育」を建前とする高校野球での「勝利至上主義」に対し、全国で議論が巻き起こった。 平成17年の第87回大会では、夏の甲子園出場を決めていた明徳義塾(高知)で上級生による1年生部員への暴力行為と集団喫煙が発覚し、出場を辞退した。代わりに、高知大会準優勝の高知高校が出場したが、準備不足が響いてか初戦(2回戦)で敗退した。 今年も何かが起きるのか…。目の離せない大会は間もなく開幕を迎える。
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スポーツ 2015年08月05日 12時00分
【甦るリング】第18回 反体制でスーパースターになった“夏男”蝶野正洋
時代背景の変化もあろうが、“反体制”の立場で、スーパースターになったプロレスラーは、そうそういない。その意味で、蝶野正洋(51)は稀有なケースだろう。 蝶野は高校時代、サッカーに熱中していたが、その一方でかなりの“ワル”だったといわれている。1984年4月、新日本プロレスに入門。武藤敬司、橋本真也(故人)と同期生に当たる。同期の武藤、橋本が柔道経験者であったのに対し、蝶野は格闘技の経験がなく、線も細かったため、練習生当時は目立つ存在ではなかった。同年10月5日、同期・武藤との一戦でデビュー(武藤もデビュー戦)。武藤は柔道の実力者で、運動神経やルックスも良かったことから、早くから期待されていた。旧UWFやジャパン・プロレスの設立に伴う大量離脱で、スター選手がごっそり抜けてしまったため、武藤はスター候補として、早々に米国武者修行に旅立ち、蝶野、橋本は、その後塵を拝することになる。 87年3月、若手の登竜門である「ヤングライオン杯」決勝戦で、橋本を破り優勝。海外修行の切符をつかみ、ドイツを経て、北米大陸に渡り、米国、カナダでファイト。中南米のプエルトリコにも遠征した。ドイツ遠征時には、現夫人のマルティナさんと知り合っている。88年7月に一時帰国し、武藤、橋本と「闘魂三銃士」を結成して、売り出されることになり、89年10月に本格的に凱旋帰国を果たした。ただ、正直いって、個性の強い武藤、橋本に対し、蝶野は地味なオーソドックスなスタイルであったため、人気の点では2人に劣っていた。 その立場を変えたのは、91年8月に初開催された“夏の祭典”「G1クライマックス」だった。最終戦の両国国技館大会で、蝶野はBブロック同点首位の橋本を破って決勝に進出すると、大方の予想を覆し、Aブロック首位の武藤を下して優勝を飾った。これを機に、蝶野は新日本のトップスターとして、ファンに認識されるようになる。また、第1回「G1」は三銃士が上位を独占し、長州力、藤波辰爾は予選リーグで脱落し、本格的な三銃士時代の幕開けとなった。 翌92年の第2回「G1」はトーナメントで開催され、蝶野は決勝でリック・ルードを破り、2連覇を成し遂げるとともに、NWA世界ヘビー級王座を奪取した。これにより、蝶野は“夏男”と称されるようになる。蝶野は第3回(93年=トーナメント)こそ、準決勝で敗退したが、第4回(94年=リーグ戦)では、決勝戦でパワー・ウォリアー(佐々木健介)を破って、「G1」V3を達成。その後、長いブランクがあったが、蝶野は02、05年の「G1」も制し、通算5度優勝。今年で「G1」は区切りの25回目を迎えたが、長い歴史のなかで、V5は他の追随を許さず。まさに、“ミスターG1”といえる。 94年夏、ヒールとしてファイトするようになると、95年には天山広吉、ヒロ斎藤と狼群団を結成し、本隊に対抗。96年には米WCWに遠征すると、帰国後、nWoジャパンを結成し、一大ムーブメントを巻き起こし、新日マットを席捲した。それほど悪いことをするわけではなかったが、ヒールの立場で、体制に噛みつく姿が、「かっこいい」として、ファンの共感を呼んだのだ。後にTEAM2000として活動するが、反体制の立場でスーパースターとなった蝶野は、日本プロレス史では異例なケースといえよう。 「G1」を5度制した蝶野だが、IWGPヘビー級王座には縁がなかった。98年8月、実に8度目の挑戦で、藤波を下して同王座に初戴冠したが、首の負傷のため、1度も防衛戦を行うことなく王座返上している。古傷である首の治療のためもあり、10年1月をもって、新日本を退団し、フリーとなった。ただ、フリー転向後は、IGFのエグゼクティブプロデューサーや、全日本プロレスのアドバイザーを務めたが、プレイヤーとしては表立った活動はしておらず、むしろタレント活動がメーンとなっている。 選手生活のかたわら、99年12月に夫人とともに、アパレルブランド・アリストトリストを設立し、東京都渋谷区では直営店を経営している。年齢的には、まだ51歳。老け込むには早い。プロレスラーにとっては、爆弾ともいえる首に故障を抱えているとはいえ、もう一花咲かせてほしい選手だ。(ミカエル・コバタ=毎週水曜日に掲載)
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スポーツ 2015年08月04日 16時00分
トップの座を巡る熾烈な攻防 プロ野球“セ弱”で監督総入れ替え! 仁義なきベンチ裏マル秘レポート(2)
阪神・和田豊監督(52)も契約は今季までだが、続投の声は今のところ聞こえてこない。 それどころか、先の本社の株主総会では「岡田彰布氏を呼び戻せ」との株主から過激な発言も聞かれた。 「株主総会でのタイガース批判は恒例行事になりかけています(笑)。今年、南信男球団社長が総会に出なかったのは、その影響だと噂されている」(在阪記者) 監督問題のキーマンは、その南社長かもしれない。阪神の親会社は『阪急阪神ホールディングス』であり、近年、旧阪急出身者が勢力を拡大している。 そのため南社長は本社取締役の肩書を失った。さらに「タイガース大敗」となった場合、“優勝経験のない球団社長”という有り難くないレッテルも貼られて平役員に格下げとなる。 V経験を持つ岡田氏の帰還が囁かれるのは、こうした流れによるものだ。 「南社長の肝煎りで迎えられた中村勝広GMは『掛布は千葉県の後輩、岡田は早大の後輩』と言ってかわいがってきた。GMとしての手腕はイマイチでも、面倒見が良く、後輩連中から慕われていますからね」(同) もし、岡田氏が帰還すれば、先輩・中村GMは残留だろう。その流れに乗って、南社長も続投となる。 球団創設80周年のメモリアルイヤーということで、フロントは采配批判を極力抑えているが、本社勢力の図式から見て、和田監督の続投は考えにくい。 「この関係に割って入ろうとしているのが星野仙一氏です。昨オフ、星野氏が、楽天の佐藤義則と鈴木康友両コーチを、阪神、巨人、ソフトバンクに売り込んだように、阪神との関係も切れていない」(球界関係者) 次期監督問題に関与し、球界における発言力を強めたいのか−−。水面下での駆け引きは当分続きそうだ。 一方、続投要請を受けた中畑監督。表向きは返事を保留しているが、続投は確定的だという。 「問題は来季から先。来季オフ、DeNAは大きな転機を迎えそうだからです」(前出・球界関係者) DeNAは、南場智子オーナー(53)の出身地である新潟県への本拠地移転を視野に入れているのだ。 「日本海側に拠点を構えるプロ野球チームはない。南場女史は、個人向けの遺伝子解析サービス会社や、無人のロボットタクシー会社を共同で立ち上げるなど、経済界では“先手速攻のヤリ手”として有名ですから、新たなチャレンジとしても可能性が高い」(同) 横浜スタジアムとの契約は来年までとされ、「移転には中畑監督の人気も必要」と考えているのかもしれない。 「以前、南場オーナーのご家族が入院したとき、中畑監督は手書きの手紙を出したそうです。そういう中畑監督の気配りにも感動したようだ」(スポーツ紙記者) また、この混戦セ・リーグを抜け出す可能性が最も高いのはDeNAとの見方もある。 「5月24日の対阪神戦、9回のマウンドに送ったクローザーの山崎康晃が、先頭打者の頭部にぶつけて危険球退場に。両軍入り乱れた後に試合が再開されましたが、中畑監督は田中健二朗、国吉佑樹を投入し、総力戦で勝利。クローザー降板のピンチを“総力戦”という美談に変えてしまった。巨人・澤村、阪神・呉昇桓が不調でも救援は送らない。強いチームのやることではないが、総力戦のDeNA野球は混戦向き」(スポーツライター・飯山満氏) 中畑監督の3年間は、6位、5位、5位。万年Bクラスの球団が優勝に絡むとなれば、オーナーが「新潟まで付いてきてくれ」と懇願するのも当然か…。
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スポーツ 2015年08月04日 13時00分
甲子園100周年 知られざる「白球史」と「暗黒史」(3)
甲子園出場を果たせば、町おこしにもなる。だが潤沢な経営資金を持たない公立校は、そういった“軍資金”の捻出にも苦労させられてきた。 常連、初出場の各校が頭を悩ませていたのが『応援団の遠征費』で、出場校は移動バス、食事、グッズなどの費用を用意しなければならない。 応援団員、ブラスバンド部、チアガール、ベンチ入りから漏れた野球部員、引率職員はもちろんだが、これにOBや父母会が加わると、約1000人が応援のために移動する計算になる。 関東圏の高校によれば、移動バスはチャーターで20台を確保し、「往復ともに車中泊としても、高速代を含めて1台当たり約30万円」とのこと。仮に2回戦まで進んだとして、「30万円×20台×2試合=1200万円」の計算だ。さらに食事代、帽子、メガホン、横断幕、「アルプススタンド席の入場料300円×1000人×2試合=60万円」が加わり、さらに春なら防寒用のウインドブレーカー、夏の大会ならお揃いのTシャツを人数分制作しなければならない。 また、寄付をしてくれた地元関係者、OB、父母へのお礼としてキーホルダー、タオルなどの記念グッズも学校が制作しなければならず、これらの経費が800万円強。2回戦まで戦うとして、合計2000万円が消える計算だが、出場校の出費はこれだけではない。 野球部員が使う練習用具のほか、打撃マシン、ブラスバンド部が手荷物として運べない大型の楽器などの運搬費も計算しなければならない。また、雨天順延となったときも想定し、予備宿泊費も計算に入れておく。 しかも、大半の高校は甲子園本番に備え、ユニフォームを新調する。バッグ、グラウンドジャンバー、汗だしのウインドブレーカーなども同時注文するため、野球部員「1人当たり約10万円」の出費となる。 平成11年のデータだが、同年センバツ大会に出場した千葉県柏陵高校は「2回戦進出を想定し、総予算7800万円」の予算を組んだ。また、前年夏の甲子園に初出場を果たし、センバツ大会3回戦まで進んだ埼玉県滑川高校は9200万円以上の出費だった。 「関東圏の高校が決勝戦まで進めば、1億円強の出費は当たり前」(学校職員) こうした“多額の甲子園費用”は学校予算だけでは当然賄えず、学校OB、地元企業、父母会の寄付のほか、学校職員が地元自治体に頭を下げ、補助予算を組んでもらって対応する。 平成11年、千葉県柏市は200万円を、水戸商の茨城県水戸市は500万円を出したとも言われている。 地元企業、商店街は一連の不況で「財布のヒモが固い」という。宗教法人系の学校、伝統校は「寄付金が集まりやすい」とされるが、出場校の大半は寄付金を自治体や地元関係者に頼っている。この寄付金集めの際、高校は“地元”を強く意識させられる。野球留学生の多い高校は寄付を頼みにくいだろうが、高校野球は愛されているから、応援してもらえるのである。 100回目の夏、球児たちはどんな戦いを繰り広げてくれるだろうか。
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スポーツ 2015年08月03日 16時00分
100周年 2015年夏の甲子園 「高校野球にマネージャーは必要か?」
甲子園に限らず、地方大会でも女子マネージャーがベンチに入り、スコアブックを付けている。高校野球ではすでに当たり前の光景だが、甲子園で女子生徒の記録員(マネージャー)のベンチ入りが正式に認められたのは、1996年夏の大会からだった。まだ20年が経過していないのである。改めて調べ直してみたところ、地方大会では96年以前から女子マネージャーのベンチ入りは認められていた。「高野連は頭が固いんだなあ〜」と思ったら、そうではなかった。 「記録員」という、貴重な人数枠を別の目的で使いたいと思っていた現場指導者も少なくなかったのだ。 故障で選手生活を全う出来なかった部員、人望もあり、後輩の面倒見も良い三年生、レギュラー争いに敗れたが、誰もが一目を置く努力家…。そんな部員を記録員としてベンチに入れてやり、甲子園を体感させてやりたい。女子マネージャーのベンチ入りが審議されたとき、そんな反対意見を言う出席者も少なくなかったそうだ。 有名・強豪校に限らず、野球部の女子マネージャーは「働き者」だ。試合中はスコアブックを付け、過去の記録を整理するなど監督の補佐も務めている。また、野球用品の手入れ、ユニフォームの洗濯、部室やグラウンドの清掃、合宿での食事など野球部員の世話もする。「スコアブックをつけられるようになれば、ベンチに入ることができる」との希望が、全国の女子マネージャーに浸透し、彼女たちが“雑用係以上のこと”をやるようになったという。言い換えれば、女子マネージャーの甲子園でのベンチ入りが認められたことがきっかけとなったようだ。 平成26年センバツ大会に出場した32校のうち、女子マネージャーがいたのは、ちょうど半分の16校だった。 女子マネージャーを置かない理由はさまざまである。監督の方針、スポーツ部と一般クラスの授業カリキュラムの違い、遠征などでプライバシーに配慮しきれない現実的な問題によるものだという。 ひと昔前、補欠部員が監督室に呼ばれ、「明日からマネージャーになれ」と非情宣告される光景も見られた。宣告を受けた部員は精神的にモヤモヤした思いがあっても、それを隠して仲間のために尽くしていた。一方で、宣告を受け入れられず、退部を選択した部員もいた。こうした残酷な通達を受けた部員たちが報われる場所として残されていたのが、「記録員」の枠だった。 しかし、時代の変化とともに「野球がダメだったら、別の可能性、選択を探したい」とする考え方も浸透してきた。どちらが良いという話ではないが、最初から女子マネージャーがいれば、残酷な通告もしないで済む。現在の高校野球は勝利至上主義ではない。高校野球を通じて何を学ぶかが最大のテーマとされている。女子マネージャーが認められたのは、こうした時代の変化に応じての結果だろう。(スポーツライター・美山和也)
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スポーツ 2015年08月03日 16時00分
トップの座を巡る熾烈な攻防 プロ野球“セ弱”で監督総入れ替え! 仁義なきベンチ裏マル秘レポート(1)
前半戦を折り返し、セ・リーグは7月22日時点での『6球団の観客動員数』を発表した。 伸び率トップはDeNAで、リーグ全体でも前年比6.6%増だったのに対し、唯一、巨人だけが観客数を減らしてしまった。「4万人強」の1試合平均は12球団トップだが、わずかながら“お客が減った”事実は、原辰徳監督(57)の今後にも大きな影響を与えそうだ。 上半期の観客動員数が発表される1週間前、原監督はペナントレースの中間報告で読売新聞・東京本社を訪れた。迎えたのは渡辺恒雄主筆と白石興二郎オーナーだった。 「巨人の優勝とは、日本シリーズでの勝利を指します。勝率5割ラインをウロウロする現状が続けば、新監督招聘となる。それより深刻なのが、観客動員数が落ちていることなのです」(ベテラン記者) 巨人は観客数ダウンの分析を内々に行ったという。 「安定した人気を保っているのは広島だが、巨人のライバルは阪神、中日であり、広島戦はあまり盛り上がらない」(球界関係者) そこで着目されたのが、チームOBのDeNA・中畑清監督(61)である。 「中畑監督と巨人スタッフは今も仲が良く、試合前もグラウンド上で談話している」(担当記者) 中畑監督はいち早く、来季の続投が内定している。その中畑監督と原監督は、かつて巨人の4番を争った仲。経営陣は改めて両者のライバル関係を煽り、対DeNA戦の観客数を上げていこうと目論んでいるという。 着眼点は良いが、それなら今季で任期満了のはずの原監督も続投なのだろうか? 「本命(松井秀喜氏)が良い返事をしない以上、続投の可能性が高い」(同) しかし、対DeNAと同じ根拠で、こんな話も聞こえてくるのだ。 「中畑監督の“24番”を継承した高橋由伸がいます。川相昌弘ヘッドコーチが全面的に支える体制なら、兼任監督でもイケるのではないか、と」(前出・ベテラン記者) 白石オーナーは、前半戦の報告を原監督から受けた後、記者団に原監督の去就について聞かれ、「シーズンが終わってから」と答えた。しかし、それでは間に合わない。 球界の慣例では夏場に候補者を絞り、アタリをつけておく。白石オーナーの言葉通りなら、外部招聘は時間的に無理なのだ。 原監督の続投か高橋由の昇格−−いずれも内部で人事が済むが、果たして…。
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スポーツ 2015年08月03日 13時00分
甲子園100周年 知られざる「白球史」と「暗黒史」(2)
また、甲子園の歴史を変えた出来事のなかで、もっとも衝撃的だったのは、金属バットの導入だろう。 高校野球で『金属製バット』が解禁されたのは、昭和49年の第56回大会。同年8月6日付の毎日新聞に『金属バット賛否』と題したコラムによれば、「出場34校を平均すると、ほぼ2人に1人が“金属打者”」と記されている。 原辰徳・現巨人監督の東海大相模(神奈川県)だけは全員が金属バットを使っていた。それは木製バットに比べ、芯が広く、耐久性も高いため。芯を外せば折れてしまい、かつ雨に濡れれば湿気で使い物にならなくなる木製バットの弱点を全て解消させた。やがて、反発力が高い金属バットは、守り勝つ高校野球の姿をパワーで打ち負かすスタイルへと変貌させる。 その攻撃野球への転換点ともいえる東海大相模は、同大会の3回戦(対盈進/広島県)で16安打13得点と圧勝した。興味深いのは、前年第55回大会決勝戦と試合内容があまりにも対照的だったこと。昭和48年夏のその大会で広島商(広島県)は犠打、エンドラン、スチールなどの小技を巧みに絡めて勝ち上がっていき、決勝戦はスリーバントスクイズでサヨナラ勝ちした。 広島商の迫田穆成監督(現広島・如水館高校監督)は「1点を必死に守るタイプ」だったが、昭和57年、第64回大会で池田高校(徳島県)のやまびこ打線と決勝戦を争う。結局、水野雄仁(元巨人)らに18安打の猛攻を浴びて大敗した後、迫田監督はこう語っている。 「細かい野球ならいくらでも対応できるが、『ホームラン行け』の指示で本当に長打を打ってくるチームには対応のしようがない。金属バットだからこそ…」 池田高校が攻撃野球の象徴だとすれば、スクイズで頂点を極めた迫田監督が相手だったのは、単なる偶然だろうか。 高校野球に関する著書を多く持つスポーツジャーナリスト・手束仁氏が「100年の歴史」をこう回顧する 「近年を振り返っただけでも、特待生問題、タイブレーク制導入の是非、プロアマ問題など、さまざまな変更がありました。変わるから歴史であって、変わったからこそ高校野球の今日がある。日本人の気質に高校野球が、野球という競技が合っていたんだと思います。野球が文化として発展したのは、メディアの力も大きいでしょう。夏の大会は朝日新聞社、春は毎日新聞社。メディアの発展とともに高校野球も成長したんだと思います」 「日本人の気質に合ったもの」として語るならば、高校野球が教育であったことも再認識すべきだろう。 試合の前後、両チームがホームベースを挟んで『整列、礼』をする。この儀式は小・中学校、大学、社会人はもちろん、今や草野球でも当たり前のように行われているが、高校野球が発案提唱したものなのだ。 明治後半から大正時代にかけ、野球競技を批判的に捉える国民も多く、明治44年8月、東京朝日新聞は「野球とその害毒」なる連載を22回掲載した。 「(省略)野球商売人になるということは、学生としては目的の変換で学会の敗亡者である」 今日の高野連となる重鎮たちが「批判する朝日新聞が先頭に立ってやり方を直し、野球を教育の場にしたら」と提案し、野球の本場・アメリカにもない『整列、礼』を取り入れた。それが、今日も続いているのである。
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スポーツ 2015年08月02日 16時00分
王貞治育ての親が語る早実・清宮プロへの3つの不安
「ホームラン(13本)といっても、いい投手からではないからね。これからだね。真価を問われるのは」 “和製ベーブ・ルース”清宮幸太郎(早実1年)の注目度は高まるばかりだ。冒頭の言葉は、全国高校野球選手権大会・西東京大会で初戦(対東大和南)を観戦していた元早実監督・宮井勝成氏(89)の分析。宮井氏は王貞治投手を擁しセンバツ甲子園(1957年)で初優勝に導いた名将だ。 清宮がとてつもない潜在能力を秘めているのは疑うところはない。実際に西東京大会でも高打率を残し活躍したが、清宮は3つの不安材料ものぞかせた。 7月18日の東大和南戦では、選球眼の良さを見せ2つの四球に内野安打1。しかし、1安打はタイミングを外されボテボテ。打球は完全に詰まっていた。 「試合前のキャッチボール、スローイング、トスバッティングのどれもぎこちない。父親はラグビー・ヤマハ発動機の清宮克幸監督。自宅地下室には、息子のためにティーバッティングや素振りのできる部屋を設置。小学生時代からの猛練習のせいか、清宮は腰痛を抱え、右肩にも違和感があるようだ」(スポーツ紙記者) 前出の宮井氏は、清宮と早実時代の王貞治氏との比較をこう指摘した。 「柔軟性は清宮の方が上だが、体の頑健さは王とは比べものにならないほど弱い。右手首から二の腕の使い方、内角のさばき方も王の方が上手かった」 さらに、清宮の盲点は守備だ。左右の速い打球に体がついていけないのだ。それはプロ野球球団のスカウトらも「守備が課題」と同じ評価だった。もっとも、清宮本人も「しっかりと守備をしないといけないです」と猛省しているが。 (1)肩の違和感、(2)二の腕の使い方・内角のさばき方、(3)守備力の欠点は練習や試合で克服できる面もある。 清宮にはまだ2年ある。怪物の進化に期待したい。(スポーツジャーナリスト・吉見健明)
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スポーツ
GPWAであのタッグチームが復活?
2007年03月08日 15時00分
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スポーツ
三沢に負のスパイラル
2007年03月07日 15時00分
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スポーツ
新日本プチシルマ争奪戦勃発
2007年03月07日 15時00分
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スポーツ
大日本 関本が破天荒トレ
2007年03月07日 15時00分
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スポーツ
K-1 シュルト初防衛戦に サップ浮上
2007年03月05日 15時00分
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スポーツ
K-1新遺恨 魔裟斗vsTBS
2007年02月27日 15時00分
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スポーツ
棚橋時代到来
2007年02月19日 15時00分
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スポーツ
アングル 永田 新日制圧へ IWGPヘビー級タッグ王者中西、大森組への挑戦急浮上
2007年02月19日 15時00分
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スポーツ
ポスト魔裟斗ヘ アンディ・オロゴン 帰化計画
2007年02月06日 15時00分
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スポーツ
輪島氏 自爆テロ
2007年01月24日 15時00分
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スポーツ
ハッスル消滅!? 小川H軍休止宣言
2006年12月27日 15時00分
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スポーツ
大みそかボビー弟と対戦 金子賢 前田道場入り
2006年12月14日 15時00分
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スポーツ
珍指令 KID 秒殺禁止
2006年12月12日 15時00分
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スポーツ
生還小橋に捧ぐ 三沢 GHC奪還
2006年12月11日 15時00分
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スポーツ
猪木 緊急提言 想定外プロレスをやれ!
2006年12月05日 15時00分
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スポーツ
1・4東京D「レッスルキングダム」 新日本 全日本“乗っ取り”へ秘策 長州3冠戦出撃
2006年11月16日 15時00分
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スポーツ
復活1・4東京D大会へ秘策 新日本最終兵器サイモン猪木 IWGP挑戦!?
2006年11月07日 15時00分
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来春ビッグマッチ パンクラス芸能人最強決定戦 坂口憲二 今田耕司 押尾学
2006年10月31日 15時00分
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大みそか参戦ほぼ決定 芸能人対決 金子賢vs押尾学
2006年10月10日 15時00分