社会
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社会 2009年04月23日 15時00分
経済偉人伝 早川徳次(シャープ創業者)(35)
明治45(1912)年は7月30日に明治天皇が崩御し大正元年に改まっていた。11月が来れば徳次は19歳になる。本所松井町(現・千歳2丁目付近)に一戸建てを借りた。間口1間半、奥行2間(1間は約180センチ)の土間に6畳間が1部屋の小さな家だ。竹町の坂田の店から2キロばかり南に下ったあたり、やはり隅田川が近い。独立の日は、徳次が芳松の所に井上さんに手を引かれてやって来たのと同じ9月15日に決めていた。 独立資金は巻島に借りた40円と、芳松が「これだけは」と返してくれた5円、それにわずかな貯金を合わせて50円足らず。現代にしても15万円ほどだ。白米10キロが2円弱だった時代だが、この内訳は徳次のメモで知ることができる。 家賃1カ月分3円30銭、敷金6円、畳4枚4円80銭、古障子4枚4円、布団3円50銭、ビール箱2つ10銭、茶わん・小鉢類1円50銭、米7升2合1円、みそ・しょうゆ50銭、雑費20銭で合計24円90銭、残りは店の材料・設備費で、50円はほとんどなくなった。6畳間だったが、畳は4畳分だけ敷いて2畳分は板のままで我慢した。ビール箱は1つは戸棚の代用、もう1つは机や食卓として使った。徳次は仕事道具や身の周りの品は大八車を借りて自分で引いて運んだ。借賃は1日4銭。徳次は半日分2銭を払って借りた。畳や障子を自分で用意しているところに時代を感じる。 土間が作業場に当てられた。徳次は坂田の店にいたころから考えていた工夫を作業場に実行した。まず小道具などをひと目で位置がわかり、使い良い順番に並べた。そして作業も早く楽に正確にできるように研究した。すべて能率を上げるためである。これは徳次が生涯を通じて事業上のモットーとするところで、後のコンベア・システムも、根本はここにあった。 大正2(1913)年、独立して初めての正月もほとんど休むことなく働いた。1月3日には、いつものように朝4時半に起き、暗いうちから灯の下で作業を開始。一日の経費は朝食前までに稼ぎだすというのが徳次の方針だ。
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社会 2009年04月23日 15時00分
永田町血風録 現実味を帯びてきた7月解散
さあ、首相・麻生太郎の堅い口が“解散”をにおわせ、7月解散が現実味を帯びてきた。総事業費57兆円の追加経済対策、その裏付けとなる平成21年度補正予算成立後の解散に向けて大きく舵(かじ)を切り始めた。 民主党の国対委員長・山岡賢次が自民党の国対委員長・大島理森に「話し合いによる解散」を打診したが、大島はそれを拒否した。 山岡と大島が会談した際、山岡は衆院の早期解散と引き換えに、平成21年度補正予算案などの成立に協力する、という取り引きを持ちかけた。山岡は、大島との合意が成立した場合には、麻生と民主党の代表・小沢一郎による党首会談の内容についてまで持ちかけたが、それでも合意には至らなかった。 13日昼、政府・与党連絡会議で麻生は「今後とも法案にせよ、政府・与党と野党の違いを明確にしていきたい。どちらがより国民のことを考えているか、それを早く明らかにしたい」と衆院の解散・総選挙を示唆した。 「麻生はね、補正予算を表面に掲げ、4月末に電撃解散を考えていた。それというのも民主党・小沢の西松建設の件があり、党内は混乱している、と踏んでいた。それに北朝鮮のあのミサイル発射問題やソマリア沖の海賊船対策の件で野党内の歩調が合っていないことを照らし合わせ、4月に行った方が…と考えて、4月解散をそれとなくにおわせたのは事実である」(政治ジャーナリスト) 小沢も「連休明けには衆院選の可能性が高い」と一気に選挙モードに突入した。小沢は記者会見で「今月末に提出される補正予算の審議が終われば、いつでも衆院選に入れるようにしておいてほしい」と党内を引き締めた。 なにしろ麻生はこのところじわりじわりと支持率が回復していることにすごく気を良くしている。「7月のサミットに出席するのは誰あろう、それは麻生だ」と、自民党内や政府の主だったところにこう言い切っているのも、選挙のタイミングはこの時期だ、といった考えからだ。 麻生も選挙については「オレが決める」とずっと言い張っている。しかし、それもタイミングからして、この時期がベターだからだ。 それにしても、麻生とはなかなか機を見て敏な男である。定額給付金もやがて全国民に渡る。国民は、やはり国からカネをもらうことにすごく弱い。「それと選挙は別だ」とはいうが、それでは誰が国民にこうしたカネをくれるのか。 「麻生はよくやっているよ。これまでの自民党の首相で小泉純一郎以外は、これといったことをやっていない」といわれているが、小泉は“改革”の名のもとに少々、荒っぽく国を揺さぶっただけ。 「国民のためになるかどうか別にして、衆院解散のチャンスは今」と、与党もすっかり選挙モードだ。(文中敬称略)
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社会 2009年04月22日 15時00分
麻生首相が怯える名古屋弁の男
麻生太郎首相(68)はいつ解散総選挙に踏み切るのか? 政権支持率の上昇を背景に「5月解散」説が残る中、首相が2009年度補正予算案の早期成立を優先させたことで、永田町では7月12日の東京都議選以降に先送りされたとの観測が広がっている。裏事情として囁かれるのは、来たる26日に投開票される名古屋市長選の影響。民主党推薦の前衆院議員河村たかし氏(60)が圧勝した場合に風向きが変わることを警戒し、様子見モードに突入したとの見方が浮上している。昨秋、懲りたはずの“解散機見逃し”を繰り返しかねないという。 「西松建設巨額献金事件をめぐる敵失で政権支持率が上昇した今こそが絶好の解散機でしょう。しかしながら麻生首相は一向に動く気配がなく、再びチャンスを逸する可能性が高まっています。昨秋、ぐずぐずと解散を遅らせるうちに手の打ちようがなくなったことを忘れたのでしょうか。あきれるほど学習能力がありません」(永田町関係者) 最近の首相動静をめぐる報道では弾けるような笑顔が目立つ。漢字誤読を連発し、難しい顔ばかりが新聞紙面を飾ったころとは別人のようなにこやかさだ。なにしろ一時期は支持率一ケタ台目前だったのに、いまや20%台まで盛り返した。西松建設事件で公設秘書が逮捕・起訴されて以降、シブい表情になった民主党の小沢一郎代表(66)とは対照的で、だれの目にも笑いが止まらない様子が見てとれる。 それならば、さっさと解散すればいいのに…というのはどうやら素人考えらしい。 全国紙の政治部記者は「首相はまだまだ支持率は上昇すると様子見しているフシがある。もうひとつ、26日の名古屋市長選で民主党推薦の河村たかし氏の優勢が伝えられていることが引っかかっているようだ」と指摘する。 なぜ、それほどまでに一地方都市の首長選挙を気にかけるのか。 西松建設事件を受けた千葉、秋田両県知事選で民主党系候補は惨敗。そもそもの選挙情勢が民主党系候補に不利だったこともあるが、事件が足を引っ張ったことは否めない。小沢氏や民主党幹部は求心力回復のため、名古屋市長選で抜群の知名度を誇る河村氏勝利に望みをつないでいる。むしろ、追い詰められているのは民主党であり、首相が気にするのは過剰反応といっていい。 その背景を解説するのは、前出の全国紙政治部記者。 「衆院議員を5期務めた河村氏は、バラエティー色の強いテレビ討論番組などでおなじみ。独特の名古屋弁で好き勝手なことを言うからテレビ的に見栄えがいい。実は河村氏は筋金入りのアンチ自民党で、その政治活動は一貫して自民の逆を行っている。麻生首相は、河村氏が名古屋弁で政権批判を交えた勝利宣言をすることを恐れている。名古屋弁の首相批判はインパクト絶大だ」 一流ホテルのバー通い批判や漢字誤読騒動があってから、首相は報道に端を発する世論形成に敏感になっているとされる。ヘタに解散を急ぎ、名古屋市長選で風向きが変わってしまえばアウト。仕切り直すわけにもいかないため、極端に警戒しているというのだ。 さらに、首相にとって名古屋は“鬼門”にもあたる。昨年9月、自民党総裁選候補としてJR名古屋駅前でマイクを握り、愛知県安城、岡崎市などで死者3人を出したゲリラ豪雨について「安城や岡崎だったからいいけど、名古屋で同じことが起きたらこの辺全部洪水よ」とやった。激怒した両市は麻生氏あてに抗議文を送り、謝罪文を書くハメになったという苦い思い出がある。 前出の永田町関係者は「理由はどうであれ、首相はまだまだ解散したくないんでしょう。むしろ先送りする理由を探している感すらあります」と話す。国民はまだまだ振り回されそうである。
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社会 2009年04月22日 15時00分
模倣大国の上海“パクリ”モーターショー大盛況
世界中の自動車メーカーが参加して20日に華々しく開幕した「上海モーターショー」で、外国産車の“パクリ”とみられる中国メーカー製乗用車がずらりと展示され、関係者をあ然とさせている。これまでにも偽物ばかりの遊園地をはじめ、キャラクターグッズや携帯ゲーム機などをパクリまくって批判を浴びてきた模倣大国が、ビジネスチャンスに“お家芸”を炸裂させた。 ここまでくると、あきれる…を通り越して感嘆するほかない。 上海発の共同通信によると、同モーターショーでは、マツダや英ロールスロイスのデザインを模倣したとみられる中国メーカーの乗用車が複数展示されている。写真をご覧になれば分かるように、瓜二つといっていい仕上がり。急成長する中国市場に世界的な関心が高まり、多数の外国記者が会場で取材する中、同国の知的財産権保護の意識の希薄さがあらためて浮き彫りになった。 マツダ車と似たデザインの新型車を発表したのは中国の海馬汽車。このメーカーは2年前の前回のモーターショーでも、マツダ3(日本名アクセラ)そっくりの乗用車を展示したが、今回はマツダ2(同デミオ)そっくりの「M2」を発表した。同一メーカーを徹底的にパクることに何のためらいもなかったのか。現地中国のマツダ担当者は、「フロントのランプがそっくりだ」と語った。 ロールスロイスをまねたとみられる車を展示したのは、中国大手の吉利汽車。中国紙によると、100万元(約1400万円)前後で2年内に売り出すという。会場にいたロールスロイスの担当者は「ひどいコピーだ。こんな模倣は世界でも見たことがない」と苦笑い。中国市場には興味があるものの、“パクリOK”がまかり通る風潮にはうんざりしているようだ。 ほかにも、トヨタのミニバンやドイツBMWの「ミニ」を模倣したとみられる乗用車も。世界の主要社がそろう中、堂々と“パクリ新車”を発表する神経は並大抵のものではない。 中国では、ディズニーキャラやドラえもんに似せたパクリキャラのいた遊園地が批判を浴び、廃園に追い込まれている。最近では、ソニーの携帯ゲーム機PSPに外見だけ似た「POP」の存在が明らかになった。パクリ文化は相当根深い。
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社会 2009年04月22日 15時00分
経済偉人伝 早川徳次(シャープ創業者)(34)
長兄・彦太郎と上の姉・静子に会ったのは、はるかに後日、徳次が独立してだいぶたってからのことだ。年齢も離れていたし、2人とも当時の徳次にとっては境遇が違いすぎて会いに行きづらかった。彦太郎は当時の長者番付にも出ていた日本橋の塗物町綿糸問屋白石に養子に入り白石姓を名乗っていた。静子の夫は大倉組の建築技師で大倉喜八郎の信望を得ていた。しかし、再会を果たしてからは、子・孫の代になっても親しく行き来する仲になった。 徳次には、大量発注を受けた徳尾錠製造をどうやって期日までにこなすかが大きな問題だった。新型のプレス機械を入れなければ期日の納品は不可能と思われた。ところが購入資金が徳次にはない。 芳松は今の店の経営状態ではとても金を貸す余裕などないことは、徳次にはよくわかっていた。言い出して心配をかけることも避けたかったので当面は黙っていることにした。悩んだ末、巻島に相談することを思いついた。巻島は徳次の独立の話に賛成して、独立資金に必要な金額を尋ねると、自分が出してもいいと言ってくれた。 巻島は、徳次が芳松のために自分の貯金から5円を都合したことを芳松から聞いて知り、徳次の人柄を高く評価していたし、水道自在器で徳次の仕事に対しては絶大な信頼を寄せてもいた。その独立の役に立てることを、巻島はむしろ喜んだ。 こうして40円を独立資金として巻島から借りることが決まった。徳次は芳松に独立の了解を得なくてはならない。小僧として奉公に入ってから10年にわたる長い年月を同じ家に住み、同じ釜の飯を食べ、苦楽を共にしてきたのだ。徳次は芳松夫妻には肉親同様の情愛を感じていた。この情をはぐくんでくれたのも芳松なのだ。とても言い出し難かった。しかし意を決して話を切り出した。 芳松は「そうか…。いよいよお別れか…」と言うと徳次をじっと眺めた。徳次は両手をつき、あらためて世話になった礼を述べた。
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社会 2009年04月21日 15時00分
経済偉人伝 早川徳次(シャープ創業者)(33)
従兄・洋次郎に会えた徳次は、すでに父母が亡くなっていることを知らされ、また姉・登鯉子と兄・政治の存在を知る。 登鯉子と政治は腹違いの姉・静子に育てられた。兄・彦太郎が2人の学費を出し、慶応商業学校を出ていた。 洋次郎はすぐその場から、同じ日本橋に勤める姉の登鯉子に電話をかけてくれた。そして翌日、あらためて登鯉子の住む小石川の小林家を訪ねた。夫・小林を若くして亡くした登鯉子は日本橋本町の三越百貨店に勤めていた。 三越呉服店は明治37(1904)年に“デパートメント・ストア宣言”をして日本初の百貨店になった。明治39年に欧米を視察した経営陣は、イギリス・ロンドンのハロッズ百貨店を目標にした。店内に食堂が開設したのは明治40(1907)年だ。登鯉子はここで食堂監督という仕事をしていた。 デパートガール、電話交換手、タイピスト、バスの車掌などが女性の憧れの職業とされるようになったのは大正の終わりごろのこと。登鯉子はまさに時代の最先端を行く女性だった。なにしろ百貨店がまだ庶民にとっては遠い存在だった。洋次郎は登鯉子の月給が150円だと教えてくれた。徳次の10倍だ。 登鯉子は東京・小石川の文学士に嫁いで男の子と女の子がいた。23歳の時に寡婦になったため、気の毒に思った知人が三越を世話してくれたということだった。突然現れた弟に登鯉子は驚いたが、別れた時には小学校へ通う年齢だった彼女は、もちろん、徳次をよく覚えていた。 引き続き兄の政治にも会った。政治は学校を卒業すると彦太郎の店にしばらくいて、それからやはり早川政吉の姉が嫁いだ猪俣吉平が経営する四谷塩町の二葉屋自転車株式会社に勤めた。二葉屋自転車はオートバイの輸入や自転車の製造も行う大きな会社だった。 政治と徳次はすぐに意気投合し、以後、ずっと助け合う仲になった。
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社会 2009年04月21日 15時00分
永田町血風録 オバマ発言を利用し各党は世界への発言機会を増やすべき
千葉、秋田両県知事選で民主党が代表として担いだ小沢一郎の手法による地方選が、ともに惨敗してしまった。これで民主党内には「小沢に代表を退いてもらいたい」という声が今まで以上に大きな渦となっている。しかも北朝鮮対策にもう一つ踏ん切りがつかない民主党も合わせて問題になっている。 北朝鮮によるミサイルの発射で、日本の防衛のお粗末さが世界に広まった。ミサイルを追尾して撃ち落とすことを自衛隊は“実戦配備”して追撃する手配をした。ところが、北朝鮮のミサイルへの“情熱”はすさまじく、自衛隊の予測した以上に精巧に仕上がっていた。そのため、日本の防衛システムのお粗末さが露呈し、それが世界中に伝わってしまったのだ。 その北朝鮮への「強い制裁」を政府が下そうとしたところ、「もっと慎重にすべきだ」と、国民感情を逆なでするようなコメントを社民党代表・福島瑞穂と日本共産党委員長・志位和夫は異口同音に発言した。そこで「あの両党は、いったい何を考えているのか」といった声が両党幹部には伝わっている。 米国大統領オバマは、核兵器廃絶を訴えた演説で、米国が「核兵器を使用した唯一の核保有国」として、その廃絶に向けて行動する「道義的責任」を負うとの認識を表明した。この発言は「戦争の早期終結を理由に広島、長崎への原爆投下を正当化してきた戦後の歴代米国大統領による初の被爆地訪問」などへの第一歩となるだろう。 オバマの「道義的責任」発言について、日本政府はどちらかというと静観の立場である。首相・麻生太郎は、同盟国であるが、米国に対してもっと強い口調で核兵器廃絶もさることながら、海外へ派兵して戦争を行っている「平和のため」というあやふやな口実はやめ、「全面的に戦争はやめるべき」とはっきりもの申すべきである。 「こびへつらっている日本の政治家たち。国内のカネと政治の問題になると目くじらを立てて相手政党をやり込める。確かに間もなく行われるであろう総選挙のための見てくれはいいし、そのための得点稼ぎに最も適している事柄である」 と、こうした意見はあるが、どうも選挙目当ての票稼ぎの言動にしか思えてならない。 今、このオバマの発言をうまく利用して、政治家はもっと積極的にあらゆることに発言するべきだ。とくに社民党、日本共産党の両党は党勢拡大のチャンスなのに…。実際のところ両党は口をつぐんで表に声を出さないのが現実である。 その点、麻生はことあるごとに外国へ飛び、しきりにアピールしている。民主党の幹事長・鳩山由紀夫や国対委員長・山岡賢次のようにライバル政党の幹部の発言に、すぐその言葉の端々にイチャモンをつけているようでは、もう一つ心が狭い。そんな気がするが…。 オバマのこの発言をうまく使って、もっと世界に向けて発言してほしいものの、日本の各政党は…。今回の北朝鮮のミサイル発射に伴う日本の防衛省のお粗末な兵器について、もっと国会で問題にしてほしいものだ。国民はそう思っているはず…。(文中敬称略)
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社会 2009年04月20日 15時00分
経済偉人伝 早川徳次(シャープ創業者)(32)
従兄・洋次郎の話では、徳次の父・政吉は2度結婚して2度とも妻に死に別れた後は、再婚せずに長男・彦太郎と長女・静子の1男1女を男手一つで育てた。政吉が40歳を過ぎたころ、彦太郎は母方の里の家を継ぐために、静子は建設技師との縁談のために、それぞれ早川家を離れ、政吉は正真正銘のひとり身になった。そこへ実家に戻った花との再婚話が持ち上がる。 「最初、叔父さんは断ったらしい。だけど、藤谷家では叔父さんの人柄もわかっているから、ぜひ頼むというわけで再婚の運びとなった。そして2人は3人の子供にも恵まれた。登鯉子さん、政治さん、そして徳次さん、お前さんだよ」 徳次は自分がなぜ、養子に出されたのか、ずっと聞きたかったことを洋次郎に尋ねてみた。 「日清戦役が始まったころから叔母さんは兵隊用のシャツ製造を始めた。陸軍省からの注文だから断れないし、戦時中なので眠る時間もないほど忙しかった。あまりの忙しさに、もともと体が丈夫ではなかった叔母さんは胸をやられて倒れた。叔父さんも感染して寝込んでしまったんだ」 花が発病する前から、家の忙しさと花の病弱との理由から末っ子の徳次を当分の間、里子として預けることになった。ミシン掛けの仕事をしていた熊八の妻は気心が知れていたし、熊八との間に子供がいなかったので熊八夫妻が里親に選ばれた。育てている間に熊八夫婦はだんだん徳次がかわいくなってきて、あらためて正式に養子にもらい受けたいと申し出た。 花はずっと床についたままで、いつ回復するかもわからない。ミシンの仕事も終戦の影響と花の長患いのために思わしくない時期だったので、政吉と花は承諾することにした。熊八夫婦が徳次をかわいがっていることもわかっていたからだ。 「実の子のように立派に育てますから、そちらは生みの親であることを絶対に秘密にしてください」「将来生みの親と言って出たりしないから、どうかかわいがって育ててください」こんな話合いがなされ、徳次は早川家から出野の籍に移された。
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社会 2009年04月18日 15時00分
石原知事がIOC評価委にグルメ都市TOKYOを猛烈アピール
2016年夏季五輪の立候補都市をチェックするため来日している国際オリンピック委員会(IOC)評価委員会は17日、競技会場予定地など約30カ所を視察し、プレゼンターの石原慎太郎都知事(76)が用意した“競馬場ランチ”を堪能した。気になるランチメニューは、石原氏が通う代官山のイタリア料理店「リストランテASO」が提供したことが本紙の取材で判明。同店は「ミシュランガイド東京2009」の2つ星レストランで、世界が認めるグルメ都市TOKYOを評価委員の舌に猛烈アピールした。 東京のアピールポイントは、平和、環境、コンパクト五輪など他の候補都市とかぶるところも多い。そこで特色を発揮するため、世界に誇るグルメ都市を堪能してもらう作戦に出たようだ。自転車競技やホッケーの会場となる大井競馬場の貴賓室で“究極のランチ”は振る舞われた。 招致委によると、ムータワキル委員長ら評価委員13人は2グループに分かれ、丸1日かけて全34会場のうち約30会場を回った。視察終了後、トークショー形式で記者会見した石原氏は、この日のハイライトを「たくさんありますけどランチですね(笑)」と冗談めかしつつもきっぱり。評価委員の胃袋を満足させた自信をのぞかせた。 「ミシュラン(ガイド)も星をつけた非常に非常に日本的な西洋料理。トリッキーな食べ方も教えました」と石原氏。 同席した河野一郎事務総長も「我々はきょうの視察の結果を喜んでいるし、彼ら(評価委員)にとってもハッピーだったと思う。石原知事の言うように、そりゃもうランチは素晴らしかったですよ」と同調した。関係者によると、ランチは2グループとも同じメニューが用意された。 出版関係者によると、「リストランテASO」は、随所に日本スタイルを取り入れたおしゃれなイタリアンレストラン。石原氏の言う「トリッキーな食べ方」の一品が何なのかは不明だが、パリや国内で修業した阿曽達治シェフの独創的な料理がランチコースならば4000円程度から楽しめるという。 ミシュランガイド東京は2008年に初上陸し、ちょっとしたグルメブームを巻き起こした。最新の2009年版は昨年11月下旬に発売され、最高ランクの3つ星には9店がランクイン。1つ星から3つ星まで総計173店ランクインは、食の都パリをしのぐ世界最多を記録した。 ミシュランの2つ星は「遠回りしてでも訪れる価値がある料理」とされる。ライバル都市のシカゴ、リオデジャネイロ、マドリードを向こうに日本式イタリアンで勝負をかけるあたりは石原氏らしい。きょう18日には、評価委員が調査中に一度だけ開催できる公式夕食会が麻生太郎首相主催で開かれ、再びグルメ都市をアピールする絶好の機会となる。 視察は19日まで。果たしてグルメが東京五輪招致の決め手となるか。全日程終了後に開かれる評価委員会の19日の会見で、“星いくつ”もらえるか注目が集まる。(高)
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社会 2009年04月18日 15時00分
IOC評価委員会の評価を前に海外メディアらの下馬評は?
IOC評価委員会による現地視察とは別行動で17日、海外メディアを含む報道陣向けにプレスバスが運行された。在日外国人特派員の他にスペイン、イギリス、アメリカなどから来日した外国人記者らが、オリンピックスタジアム予定地、選手村予定地、東京ビッグサイトなど7会場を回った。 外国人記者らは東京の技術力の高さや治安の良さを挙げる一方で、海外では“ウサギ小屋”と揶揄される日本の室内の狭さは不満らしく、「今朝はよく眠れなかった」と笑った。グローバル目線で東京を視察した外国人記者らは、現時点でどの候補地を有利とみているのか。 スペインのEFEスペイン通信社東京支局のイザベル・コンデ記者は招致委員会がアピールする「8キロの中に97%の施設が入っている」という東京のコンパクトさを高評価。「マドリードはもっと会場間の距離が遠い。東京みたいにクローズにならないと厳しい。私は東京が勝つと思う」と語った。 一方で、視察コースが東京湾のベイエリアが中心だったのが原因か。お台場など日本人にとっては再開発ですっかり最先端の街となったベイエリアが、海外メディアには空き地ばかりの未開の地と見えたらしく、アメリカのエド・フラー記者は「ここは東京の郊外だ。シカゴの方がもっとクローズだ」と語った。 本紙が複数の海外メディアの評価を集計した結果、下馬評ではトップはシカゴ。東京は2番手だった。 そんなあと一歩の東京の応援に、2000年のシドニー五輪女子マラソン金メダリストのQちゃんこと高橋尚子さん(36=写真)がついに一役買うことになった。国立霞ヶ丘競技場で評価委員らを出迎えた後、Qちゃんは報道陣を前に「評価委員の方々の笑顔と周りをしっかり見てくださったしぐさから大丈夫だと期待したい」と手ごたえを感じていた。 同日付で石原知事からオリンピック・パラリンピック招致応援ランナーの委嘱を受けたQチャンは、「5月ごろに国立競技場からニュースタジアム(予定地)間の直線距離約10キロをみなさんとジョギングしてアピール」したいと意気込んだ。(関 淳一)