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経済偉人伝 早川徳次(シャープ創業者)(33)

 従兄・洋次郎に会えた徳次は、すでに父母が亡くなっていることを知らされ、また姉・登鯉子と兄・政治の存在を知る。

 登鯉子と政治は腹違いの姉・静子に育てられた。兄・彦太郎が2人の学費を出し、慶応商業学校を出ていた。
 洋次郎はすぐその場から、同じ日本橋に勤める姉の登鯉子に電話をかけてくれた。そして翌日、あらためて登鯉子の住む小石川の小林家を訪ねた。夫・小林を若くして亡くした登鯉子は日本橋本町の三越百貨店に勤めていた。
 三越呉服店は明治37(1904)年に“デパートメント・ストア宣言”をして日本初の百貨店になった。明治39年に欧米を視察した経営陣は、イギリス・ロンドンのハロッズ百貨店を目標にした。店内に食堂が開設したのは明治40(1907)年だ。登鯉子はここで食堂監督という仕事をしていた。

 デパートガール、電話交換手、タイピスト、バスの車掌などが女性の憧れの職業とされるようになったのは大正の終わりごろのこと。登鯉子はまさに時代の最先端を行く女性だった。なにしろ百貨店がまだ庶民にとっては遠い存在だった。洋次郎は登鯉子の月給が150円だと教えてくれた。徳次の10倍だ。
 登鯉子は東京・小石川の文学士に嫁いで男の子と女の子がいた。23歳の時に寡婦になったため、気の毒に思った知人が三越を世話してくれたということだった。突然現れた弟に登鯉子は驚いたが、別れた時には小学校へ通う年齢だった彼女は、もちろん、徳次をよく覚えていた。
 引き続き兄の政治にも会った。政治は学校を卒業すると彦太郎の店にしばらくいて、それからやはり早川政吉の姉が嫁いだ猪俣吉平が経営する四谷塩町の二葉屋自転車株式会社に勤めた。二葉屋自転車はオートバイの輸入や自転車の製造も行う大きな会社だった。
 政治と徳次はすぐに意気投合し、以後、ずっと助け合う仲になった。

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