社会
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社会 2009年04月09日 15時00分
経済偉人伝 早川徳次(シャープ創業者)(27)
それからの徳次は前にも増して仕事に精が出た。夕飯の後もひとりで仕事場に戻り、何やら作業をすることが多くなった。しかし世間も“坂田”も相変わらずの不景気だった。 明治43(1910)年4月15日、1年間のお礼奉公が終わった。以後、仕事はすべて能率に応じた出来高払いになる。坂田の店から仕事を受け取り、仕上げて納める“下請け”だ。もっとも、相変わらず芳松夫妻と一緒に親子のように暮らしていた。 器用で仕事が手早い上、仕上がりがきれいだった。ほかの職人仲間が月12円くらい稼ぐところ、徳次は月15円を下らなかった。その中から食費として5円をおかみさんに納めていた。 自前でそろえることになっている仕事道具や材料のほかに、自分の工夫や考案に使う大小のプレスの購入に稼ぎの残りを充てた。機械の導入は徳次が丁稚のころから思っていたことだった。芳松は、仕事は腕で勝負するという昔かたぎの職人だったから、新時代の機械には目もくれなかった。しかし徳次は“これからは、いい機械を他人よりも先に使わないと成功しない”と考えていた。 そこで少しでも金がたまると次々に機械を買い入れた。周囲はまだ腕を競い合う明治の終わりごろのことで、機械に目をつけている職人などほとんどいなかった。職人仲間が陰で自分のことを「機械狂い」と言っていることも徳次は知っていたが、陰口をいちいち気にしていたのでは何もできない、と考えていた。そして、この機械導入という先行投資が後の徳次の事業に大きく寄与するのだ。 ほかの職人より1カ月の納品収入は多かった。しかし主な仕事だった洋傘の付属品作製は主として10月から4月までの冬場の仕事だったので、平均すると収入はそれほど多くはなかった。その上、義母は相変わらずやって来る。 月に2度、3度と無心に来ることもあり、黙って聞いてばかりはいられなかった。すると人相のよくない男を差し向けて、店の前の通りから徳次に向って怒鳴ったり嫌がらせを言わせたりすることさえあった。
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社会 2009年04月09日 15時00分
永田町血風録 兄弟タッグ再結成で鳩山時代が来るか
鳩山由紀夫と邦夫の兄弟は性格が全く違っている。これは河野一郎と謙三(ともに故人)の2人もそうだった。 「鳩山兄弟は岸信介と佐藤栄作が総理の座を射止めたのとかなり似ている。岸と佐藤は吉田茂に対して距離を置きながら、保守合同によって同じ自民党に属し、それぞれ派閥を形成して長くその実力を保持していた。鳩山兄弟はどうか。異なる政党で対立してはいるが、永田町での兄弟の評価はそろって高まっている」(政界アナリスト) 兄の由紀夫は民主党幹事長だが、あの気難しい小沢一郎を立てて、とにもかくにも党をまとめている。テレビ討論でもソツがなく、民主党が一時、自民党を支持率で上回ったのは由紀夫の功績大であった。 次の選挙では民主党が勝てるといわれている。小沢が総理に指名されるだろうが、長く続くとは思えない。 「小沢は勝つまで党首で頑張るだろうが、首相の座はほどなく誰かに譲るはず。その筆頭候補は、由紀夫ではないか」(前出・政界アナリスト) 岡田克也を推す声もあるが、現在の民主党内で小沢の次に首相に近いの由紀夫であり、ポスト小沢の1番手といえようか。 由紀夫は鳩山家という華麗なる家系の出身。曽祖父は衆院議長をした鳩山和夫(東大法学部教授)であり、祖父は吉田茂と対決して首相になった一郎。父は大蔵次官から参院議員になり外務大臣を務めた威一郎である。 その血筋を受け継いで、まず政治家になったのは、由紀夫の2歳年下の邦夫である。邦夫は東大法学部を出て田中角栄の秘書を務め、昭和51(1976)年に代議士になって以来、文相などを歴任している。 平成5(93)年には自民党を離党、兄の由紀夫とともに民主党結成に加わった。その後、東京都知事選に立候補して落選。自民党に復党した。 「与野党に分かれて活躍していても、兄弟であることには変わりはない。今秋には政変が起きるはずで、その時、2人が以前のように一緒にタッグを組むようなことになれば、鳩山時代が来るのではないか」(前出・政界アナリスト) 鳩山家の家訓は、“友愛”である。兄弟が張り合うことがプラスに働く場合もあるが、双方が頂点を目指すとよい結果を生まないことがある。 相撲の若貴がその例といえる。いまのところは政界の若貴状態に近いが賢明な兄弟だけに、おそらく悲劇の結末にはならないだろう。 “友愛”を、その言葉通り実行すれば、政界の若手がついてくるのは間違いない。そして政界再編の時、兄弟がイニシアチブを取れば救世主となるのではないか。(文中敬称略)
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社会 2009年04月08日 15時00分
北朝鮮ミサイル再発射Xデー
「人工衛星」と言い張り長距離弾道ミサイルを発射した北朝鮮が、再び発射実験を強行する可能性が心配されている。それが人工衛星である限り、2、3度繰り返されてもおかしくないからだ。日本領域での被害報告はなかったが、そもそも北朝鮮は必要があれば何度でも打ち上げる考えを示している。再発射のXデーはいつか? 北朝鮮は5日のミサイル発射からわずか数時間後、軌道に乗った衛星が発信する金正日総書記を称える歌をキャッチしたとして「実験成功」とした。総務省や米国なども周波数を合わせて連日受信を試みているが、8日朝現在までに確認できず、実験失敗だったと結論付けている。 北朝鮮事情に詳しい関係者は「何をもって成功とするかは実験の狙いにもよるだろう。しかし北朝鮮は約1カ月半前、実験を繰り返すともとれる声明を発表しており、再発射の可能性がゼロとはいえない」と指摘する。 事実、朝鮮宇宙空間技術委員会のスポークスマンは2月24日、次のような談話を発表している。 「われわれは1998年に光明星1号(※テポドン1号とみられる)を打ち上げ、宇宙軌道へ進入させる大きな成果を挙げた。その後10年間、国の宇宙科学技術をさらに高い水準に引き上げるため、闘争を力強く推し進め、衛星発射分野で飛躍的な発展を成し遂げた。国家宇宙開発展望計画に基づき、一段階で今後数年のうちに国の経済発展に必須の通信、資源探査、気象予報などのための実用衛星を打ち上げ、その運営を正常化することを予見している」 同委は“北朝鮮の科学技術省”ともいうべき科学技術部門の最高機関に当たる。独特の言い回しのため分かりにくいが、前出の関係者はこの談話について「分かりやすく言えば、数年以内に経済発展に寄与する科学技術を確立するということ。北朝鮮は、気象予報技術の遅れから農作物が洪水に見舞われて大打撃を受けるなど実害を被ってきた。これを短期間で打破するためとの大義名分で“人工衛星打ち上げ”を繰り返すという先手を打っている」と読み解く。 北朝鮮は「強盛大国」をスローガンに、2010年までに軍備増強や経済復興を成し遂げることを最大目標としている。中でも喫緊の課題は経済復興とされる。同国の貿易事情を取材したジャーナリストによれば、現在の外貨獲得の主力は鉱物資源輸出。ところが、どうも展望が悪いという。 「おもに鉱物を中国に売っているんですが、取引価格が下がっていて思うような外貨を得られていません。そうした北朝鮮の国内事情から、今回の発射実験を“ミサイル・ビジネス”のデモンストレーションとみる向きもあります」(同ジャーナリスト) 韓国軍関係者によると、米韓情報当局は今回発射された「テポドン2」の3段式改造型は舞水端里の発射施設から約3000〜4000キロの太平洋上に落下したと推定。2段目と3段目の切り離しに失敗したもようで、成功すればもっと射程は伸びたとみられる。 それでも98年のテポドン1号の射程は約1600キロだったから約10年で飛距離は倍増。イランやパキスタン、シリアなどの中東諸国に技術を売り込むことで80年代には年間5〜10億ドル単位を稼いだ実績もある。今回の発射がデモンストレーションとしては失敗だった場合、ミサイルビジネスで外貨を獲得するためにはさらなる実験が必要になってくるだろう。 そうなると、いつごろ再発射のXデーが訪れる可能性があるのか。前出の北朝鮮事情に詳しい関係者は「まずは9日に開かれる最高人民会議第12期第1回会議で後継者の発表があるかどうか。ミサイル発射はこの新体制への“祝砲”か、もしくは後継者決定のそれかとみられていた。決定がずれ込むようならば、後継者問題の決着がついたときが再発射のXデーになるだろう」と話す。 いずれにせよ、いちいち頭上にミサイルを打ち上げられてはたまったものではない。
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社会 2009年04月08日 15時00分
舞鶴・高1少女殺害事件 京都府警「ノーコメント」連発の怪
京都府舞鶴市の高1少女殺害事件は7日、京都府警が無職中勝美容疑者(60)を逮捕したことで大きく動いた。有力な物証がなく“迷宮入り”も囁かれた難事件。中容疑者は「真実はひとつ」と関与を否認し、同府警は「ノーコメント」を連発した。なぜ逮捕に踏み切ったのか? 京都府警ノーコメント連発の怪を追う。 事件から11カ月。突然の逮捕劇に周辺住民は驚きを隠せないでいる。殺害された府立高校1年の小杉美穂さん=当時(15)=は引っ込み思案でおとなしいタイプとされ、「アイドルの話題で盛り上がる普通の女の子」(同級生女子)だった。 一方の中容疑者は、地元では有名なトラブルメーカー。「棒を持って怒鳴り散らしたり、布団をバシバシたたいていた。うるさくするとすぐ怒鳴りこむ」(同じ団地の住民)と“アブないおっさん”扱いされていた。 2人をつなぐような接点は見当たらず、犯行の全貌はいまだ謎に包まれている。舞鶴署捜査本部は防犯カメラの映像に加え、現場近くで新たな証言を得たとするが、決め手とは言いがたい。公開されている映像は不鮮明で、小杉さんとみられる女性が帽子をかぶって自転車を押す男と一緒に歩いているのかな? とようやく分かる程度。しかも最初にカメラが2人の姿を捉えた地点から遺体発見現場までは徒歩でたっぷり1時間以上かかる。 慎重な小杉さんが、評判の悪い中年男と歩くにはあまりに長い距離といっていい。現場周辺には街灯がないため暗く、深夜はほとんど人通りがなくなる。素直に付いていくような状況になかったのである。 さらに道路から遺体が発見された対岸へ向かうには、足場の悪い道なき道を行き、幅約10メートルの川を渡らなければならない。無理やり連れていったとすれば、相当な体力が必要。捜査本部によると、専門家の鑑定で防犯カメラに映っていた男の身体的特徴は中容疑者と「同一と考えて矛盾しない」との結果を得たというが、映像の証拠能力には疑問が残り、犯行の足取りなども不明のままである。 ところが京都府警幹部の7日の記者会見は「ノーコメント」のオンパレード。報道陣約30人が詰めかける中、矢継ぎ早に飛ぶ質問を「ノーコメント」ではねのけた。どんな証拠があるのか? 容疑者を特定した経緯は? 本当に証拠が固まったと信じていいのか? 3月に就任したばかりの西裕捜査一課長は「やるべき捜査を尽くしている」と言葉少なだった。 逮捕前、報道陣に「真実はひとつ。神様だけが知っている」と話していた中容疑者は、容疑を否認しているという。 さらに、府道沿いの複数の防犯カメラに映っていた小杉さんとみられる女性は、通常ならば徒歩で数分の道のりを約20分かかっていたことも新たに判明。ますますナゾが深まってきた。
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社会 2009年04月08日 15時00分
経済偉人伝 早川徳次(シャープ創業者)(26)
徳次は、自分が出野家の本当の子供だろうかと、まだ長屋にいたころから疑っていた。義母はいつも徳次を空腹のまま放っておいた。マッチ箱張りの時でも、冬の夜など糊(のり)付けをする手先がかじかんですっかり感覚がなくなっても、火のそばに寄って温まれとは言ってもらえなかった。 弟妹と違ってなぜ、自分だけがこんな仕打ちをされるのだろうと、疑問に思っていたのだ。 盲目の井上せいの意味ありげな言葉や幼いころの夢のような美しい婦人の記憶。そんなものを頼りに長い年月、実の父母の存在を信じ、捜し求めていた。また、実際、長じるに従って自分が出野家の実子ではなく、生家が早川という姓であることを何となく伝え聞いていたのだ。 そんなわけで、途中まで日記に目を通すうちに、この日記を書いたのが自分の実の母親に違いないと、すっかり決め込んでいた。特に日記の中にそのことを証明する記述があったわけではなかったが、勘と希望で、そう決めてしまった。 “やっぱり本当のおっかさんがいる!”。うれしさのあまり、腹の痛みはとっくに忘れていた。顔が火照(ほて)り、体が震えてきた。日記の中に書かれている鉄砲町浅田洋次郎という名前を、その辺にあった紙に書きつけた。実家を探す手がかりになると思ったからだ。 徳次は日記から、自分の生家は早川家、実母の名は花で非常に達筆、姉がいて鉄砲町の浅田洋次郎に嫁いでいる…そのような情報を得た。 長屋を飛び出した後、どうやって中ノ郷竹町に帰ったのか、よく覚えていない。今までに味わったことのない幸福感が体の中に溢(あふ)れ、力強さを覚えた。けれども、すぐに浅田家を訪ね、早川家を、実の父母を捜しはしなかった。まだ駆け出しの職人で、人の家に厄介(やっかい)になっているということに引け目を感じた。 初めて肉親と会うには自分があまりにみすぼらしいと思ったのだ。“一人前の職人になったら…”と会いたい気持ちを堪(こら)えた。
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社会 2009年04月07日 15時00分
森田知事“元気モリモリ”初登庁も空回りぎみ
この男は何故ここまで熱いのか? 千葉県知事選で当選した森田健作新知事(59)が6日午前10時、マニフェスト通り“元気モリモリ”で千葉県庁に初登庁した。堂本暁子前知事(76)との事務引き継ぎ式に、初公務、就任式とやる気満々。ただあまりの熱血ぶりに周囲がついていけない場面も…。新知事の人一倍熱い情熱は、新しい千葉にとって吉とでるか凶とでるか。 県庁舎に黒塗りの公用車が到着すると、出迎えた約2000人の職員から拍手と歓声が上がった。森田氏は「県民のみなさん、4年間どうか幸せになりますように」との思いを込めて庁舎に一礼し、得意のガッツポーズ。支持者からは「モリタコール」が沸き起こった。 緊張した表情で知事の椅子に座った森田氏は、「いや、意外と硬いなぁと思って」と苦笑い。「ここにいつもいるようじゃ、しようがねぇだろう!」と早く公務に取り掛かりたくてウズウズしている様子だった。 数日前、中曽根康弘元首相(90)を訪ねた森田知事は「君は直球で行き過ぎるところがあるから気をつけろよ」とクギを刺されたという。その不安は的中した。午後に行われた就任式では幹部職員約250人を前に激しくゲキを飛ばしまくる。 「知事になった以上、この千葉を日本一にしようと思っている。『お手並み拝見だ』という人(職員)は要らない。ここにいても意味ない。おぅ森田、やってやろうじゃないか! と熱くなる、オレはそういう人たちとやりたいんですよ!!」 壇上で熱く吠える森田氏に職員はタジタジ。リアクションの取りようもなく、会場は水を打ったように静まり返った。火の玉のごとく熱い森田知事と県職員の間には明らかな温度差が感じられた。 知事のイケイケぶりは記者団の前でも止まらない。就任後初の記者会見では「まずは予算が掛からない物産や観光地のPRから始めていこうと思います」と宮崎県の東国原英夫知事(51)を見習う考えを示した。その一方で、県が抱える2兆6000億円もの借金を「オレが作ったわけじゃないんですけどね」と一蹴り。さらに「全部なんて返せるわけないんです」とのブッチャケ発言まで飛び出す始末。あわや問題発言一歩手前だった。 堂本前知事から「モリタ流で大いに暴れてください」との言葉をもらった森田知事。その熱血手腕の真価が問われるのはこれからだ。
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社会 2009年04月07日 15時00分
経済偉人伝 早川徳次(シャープ創業者)(25)
徳次はもともと工夫や考案が大好きで、得意でもあった。内職のマッチ箱貼りをやらされていた8歳くらいの時には、糊(のり)付けに使う台を改良している。木の台を使っていたのだが、これは糊がくっついて作業がしにくく、拭き取りも不完全にしかできなかった。 それでいろいろ考えてみた末、真鍮(しんちゅう)を近所の職人から少し貰って、木の台に貼り付けてみた。作業スペースを金属にしたことで、糊の拭き取りがとても楽になり、効率が上がった。これが徳次の生涯で最初の考案だった。 年季奉公が終わった翌年、明治43(1909)年2月のことだった。この日、納品に行った帰りに急に腹が痛み出した。しばらく道端にしゃがみ込んで痛みの治まるのを待ったが、治まるどころか増してきて、しゃがんでいるのも辛くなった。 養家からすぐ近くの所だったので、少し休もうと思い、東大工町の長屋に向かった。脂汗をかきながら腹を押さえてどうにか辿(たど)り着くと、家には誰もいなかった。 しばらくごろんと横になっていたが、そのまま寝込んでしまうわけにはいかない。痛みはなかなか治まらないので、何か薬でもないだろうかと、たった一つだけ家の中で家具といえる茶箪笥(ちゃだんす)の引き出しを開けてみた。 開けてみては空しく閉める繰り返しの、いくつめかの引き出しの中に和紙を綴(と)じた横12センチ、縦6センチくらいの小さな細長い帳面があるのが目についた。 何気なく取り上げて見ると表紙には“月落鳥啼 花控”と見事な達筆で書かれている。 こんなものが家にあったのかと、不審に思いながらパラパラとめくる。冒頭には明治十九年とある。細い毛筆の文字で書かれたそれは日記のようだった。中の文字も表紙と同じ達筆だ。なお読み進むと“早川”の名前が散見された。徳次はこの日記に理由のない確信を得ていた。 “これは実のおっかさんの日記だ!”。
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社会 2009年04月07日 15時00分
永田町血風録 “小沢不要論”を渡部最高顧問が一蹴
無所属の新人5氏が争った千葉県知事選は、3月29日に投開票され脱政党を旗頭にした森田健作が初当選した。 森田は自民党県議の約半数の支援を受けたものの「政党のためでなく県民のための政治」を掲げ、圧倒的な票数で当選した。しかし、その後、自民党の政党支部「自民党東京都衆院選挙区第2支部」の代表を現在も務め、この支部が受けた企業献金の一部を森田の政治資金管理団体に寄付していたことがわかった。 民主党の鳩山由紀夫幹事長はこの選挙結果を受けて、「千葉県知事選と小沢一郎代表の進退は無関係」と言い、石井一副代表も「選挙結果は謙虚に受け止めるが、小沢の進退を結びつけるのはこじつけだ」と語っていた。 この千葉県知事選では、民主党は社民党、国民新党、新党日本とともに吉田平候補を推した。前回の知事選で森田を破った堂本暁子のように「勝てる」と信じていたのか誰ひとり、吉田の支持を訴えなかった。 「堂本は吉田の応援を頼んだのに、何もしてくれなかったことにショックを受けていた。“黒い霧”に包まれている中央政界より、地方は元気があって真っ白なのがいい。森田は利口だよ」と、ある永田町関係者の言葉は説得力がある。 真っ白とはいえない民主党。小沢が代表をしているうちは、これからの選挙はままならないのではないか。 だからなのだろう。民主党の小宮山洋子は「小沢さんが辞めてくれないと、来たる選挙は苦しい」と辞任するように詰め寄った。しかし、最高顧問の渡部恒三は「みんなで小沢を支えていかなければいけない」と一蹴した。 「なんとなく、みんながワッと集まって集団を作っただけなのが民主党。小沢を支持したわけではない」と言う国会議員も多い。 千葉県知事選で吉田サイドが「小沢と一枚岩でいこう」と申し入れても、「別に小沢でなくてもいいし、小沢のために選挙をする必要もない」と冷めた議員も多かったと言う。 そして、自民党だが一枚岩であろうはずがない。「政治とカネ」で不祥事が起きているし、首相の麻生太郎もまとめ切れていない。 高速道路の通行料金1000円で国民も多少は自民党に宗旨替えしたようだが、選挙で過半数を取れる保証はない。 「民主党があの体たらくだから、仕方なしに自民党」といった保守層はいる。北朝鮮がミサイル(?)を打ち上げたために、国民が一丸となる可能性もなくはない。 共産党や社民党はいつまでも錦の御旗のように憲法を守れ、と言っているようでは、世の中から取り残されてしまう。 世の中の動きに敏感でなければ務まらないのが政治家。しかし、それ以上に国民は敏感であることも忘れてはいけない。(文中敬称略)
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社会 2009年04月06日 15時00分
経済偉人伝 早川徳次(シャープ創業者)(24)
「お前の心持実に実に感心致し候。金五円正に預り候也」。芳松は妙な文句の証文を書いて徳次に渡した。徳次はこの証文を芳松との懐かしい思い出としてずっと持っていた。 明治42(1908)年4月15日、7年7カ月の年季奉公が明けた。その朝、徳次の食膳には尾頭付きの魚がつけられてあり、盃も添えられた。芳松が改まった口調で年季が明けたことを告げ、長い間の奉公を労(ねぎら)う挨拶をした。そして、きちんと仕立てた縞物の木綿羽織を徳次の前に置いてくれた。 当時は、羽織を着て初めて一人前の職人と認められた。徳次は16歳(数えで17歳)の若さで晴れて一人前の職人になった。これは当時としても極めて早いほうだった。 店の景気は相変わらずあまりよくなく、兄弟子2人もすでに店からいなくなっていた。徳次と芳松夫妻はますます親しくなり、お互いの信頼はさらに深まっていた。 これから1年間のお礼奉公には、毎月5円の月給が支払われることになっていた。2人は懸命に働いた。徳次は時には夜店も出し、夜学にも通った。少しでも収入を増やしたいと思ったが給金の額は決まっている。そこで別に方法はないかと考え、店の休みを利用していろいろな工夫を凝らした。 職人になってから最初に考案したのは印籠(いんろう)だ。印籠とは薬などを入れて腰に下げるもので、水戸黄門を思い出すかもしれない。明治の終わり頃はまだ時代劇の中の話ではなく、日常で使われていた。徳次は使い屑の地金を利用して印籠に工夫を施してみた。従来の印籠は内部に仕切りがなかったので、いくつかの仕切りを作り、何通りかの使用を可能にしたのだ。 そして知人に1個2銭で売った。評判がよくて8銭の収入になった。僅(わず)かな収入増だったが、自分の考案が商品になって売れた喜びは大きかった。同時に、頭を使い、技術を用いて工夫すれば必ず物は売れるという自信にもつながった。
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社会 2009年04月04日 15時00分
石原知事 松村邦洋を叱る
東京都の石原慎太郎知事(76)は3日の定例会見で、先月22日の東京マラソンのレース中に一時心肺停止となって都内の病院に救急搬送され、この日、無事退院した旧知のお笑いタレント松村邦洋さん(41)について「あんなデブはマラソンには出ないほうがいいんだ」とキツい一発をかました。 知事は「ぼく言ったんだ松村に。『おまえ無理だ』と。そうしたら、去年完走できなかったから減量して15キロぐらい痩せたらしいんだけど、15キロも減量することそのものに無理がある」とバッサリ。テレビ番組などで共演する仲とあって、容赦ない言葉を浴びせた。 安心した反動か、説教は止まらず、「あれだけ太った人でほかに走った人はいないんじゃないか。芸人さんは上からの命令があるとツラいことをしなくちゃいかんのかもしれないけども、あの体では自分で考えたほうがよかったと思うよ。人騒がせだよアイツ」と叱り飛ばした。 それでも退院の知らせには、「松ちゃん、本当に危なかったねえ。助かってホッとしましたけども」と胸をなで下ろしていた。 当の松村さんは同日都内で会見し、「これをきっかけにデブタレントは卒業したい。芸能界の寿命より自分の寿命が恋しくなった」と笑いを取った。大会では約15キロ付近で倒れ、AED(自動体外式除細動器)で蘇生。13日間の入院生活で103.4キロあった体重は99.7キロと夢の2けた台に突入したという。「夢の中でゴールしていた」といい、さらに体を絞ることができればマラソンを続けるという。それにしても、旧知の仲とはいえ、公然とデブ呼ばわりするのはいかがなものか。(高)