徳次には、大量発注を受けた徳尾錠製造をどうやって期日までにこなすかが大きな問題だった。新型のプレス機械を入れなければ期日の納品は不可能と思われた。ところが購入資金が徳次にはない。
芳松は今の店の経営状態ではとても金を貸す余裕などないことは、徳次にはよくわかっていた。言い出して心配をかけることも避けたかったので当面は黙っていることにした。悩んだ末、巻島に相談することを思いついた。巻島は徳次の独立の話に賛成して、独立資金に必要な金額を尋ねると、自分が出してもいいと言ってくれた。
巻島は、徳次が芳松のために自分の貯金から5円を都合したことを芳松から聞いて知り、徳次の人柄を高く評価していたし、水道自在器で徳次の仕事に対しては絶大な信頼を寄せてもいた。その独立の役に立てることを、巻島はむしろ喜んだ。
こうして40円を独立資金として巻島から借りることが決まった。徳次は芳松に独立の了解を得なくてはならない。小僧として奉公に入ってから10年にわたる長い年月を同じ家に住み、同じ釜の飯を食べ、苦楽を共にしてきたのだ。徳次は芳松夫妻には肉親同様の情愛を感じていた。この情をはぐくんでくれたのも芳松なのだ。とても言い出し難かった。しかし意を決して話を切り出した。
芳松は「そうか…。いよいよお別れか…」と言うと徳次をじっと眺めた。徳次は両手をつき、あらためて世話になった礼を述べた。